はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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故あって、この間の大学入試センター試験の問題を比較的じっくり眺める機会をもった。その「国語」科目の最初の(現国の)問題を読み、設問を見たときに、私は、打ちひしがれるというか、腹立たしいというか、やりきれないというか、、どうにも心穏やかではいられなかった。

問題は公表されており、ネットからも入手・閲覧できる。⇒河合塾の大学入試センター試験速報サイトにあるPDFファイルなど
文章読解が息抜きになる方は、是非、第1問-問2を見ていただきたい。出典は栗原彬:「かんけりの政治学」。原典自体は(必ずしも私の好みではないが)比較的素直に興味をもって読める文章である。

問題は、問2の設問だ。そのまま引用しよう。

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問2
傍線部A「たしかに『複数オニ』や『陣オニ』はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といったていどのことではない」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の(1)〜(5)のうちから一つ選べ。

(1)「複数オニ」や「陣オニ」は、子どもたちがいくつもの役割を相互に演じ遊ぶ点で、従来の隠れん坊の枠をこえた、人生の行程が凝縮して経験される苛酷な身体ゲームになってしまっているということ。

(2)「複数オニ」や「陣オニ」は、オニに捕まった者も助かる契機が与えられている点で、従来の隠れん坊にはなかった、擬似的な死の世界から蘇生する象徴的意味を内包してしまっているということ。

(3)「複数オニ」や「陣オニ」は、オニも隠れた者も仲間のもとに戻ることが想定されていない点で、従来の隠れん坊の本質であった、社会から離脱し復帰する要素を完全に欠いてしまっているということ。

(4)「複数オニ」や「陣オニ」は、子どもたちの自由を制限するさまざまなルールが付加されている点で、従来の隠れん坊とは異質な、管理社会のコスモロジーに主導された遊びに変質してしまっているということ。

(5)「複数オニ」や「陣オニ」は、隠れた者も途中でオニに転じることになっている点で、従来の隠れん坊の本義であった、相互の役割を守りつつ競い合う精神からは逸脱してしまっているということ。

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私は、あらゆる文章は、(それがたとえ設問文であろうと)書き手が伝えんとすることの本質をとらえるように神経を巡らせて読むよう心がけている。その際重要となるのは、枝葉末節的な誤りに目を奪われず(時には誤りを補ってでも)言語的な論理構造と思考の流れを汲み取ることだと信じている。この姿勢で、問2の設問の選択肢を読んだ、、結果、頭がくらくらした。

誤りの選択肢の文章を考案している人とはいったいどんな人なのか。本当に国語の教育のことを考えている人なのか、、心底疑問に思う。

この国語の問題の点数を稼ごうと思ったら、上述のような私の方針で選択肢を読んではならない。選択肢の真意を読み取ろうとするのは絶対の禁止事項で、選択肢中の部分部分の事項のあら捜しをして、細かい間違いが見つかればそれを排除する、、これを繰り返せば正解が残る。これが最良の方針だろう。

そのような事項の誤りを捜す訓練は、本来の国語力の養成とはかけ離れたことである。むしろ国語力を阻害する訓練といった方がよいくらいだ。(本気でそのような能力を問いたいならば、なまじ文学的な出典を用いずに、法律の条文でも出して、矛盾点を見つけさせるような試験でもすればいいのだ.)

マークシート選択方式は、特に国語の試験には、絶対に相応しくない。強く感じるに至った出来事だった。

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ちなみに、上の問題の正しい選択肢は3番だ。鬼ごっこのルールの誤りなどを捜し出す方式をとれば、確かにこの答えに達する。しかし私は、こんな正解に価値があるとは思わない。
(なお、解答に関する解説は塾や予備校サイトなどから数多く出ているので、気になる方は検索されたい.)

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〔追記〕
問2に対して、記述で答えてよいならば、私ならば例えば次のように書く。(文章は下手だが、選択肢よりはよほどまともだと思う.)

旧来の『隠れん坊』の本質は、安堵できる仲間のもとへ復帰するプロセスにあって、言わば共同体社会的な遊びであるのに対して、『複数オニ』や『陣オニ』の本質は、裏切りや自分だけが助かるスリルを味わうことを目的とする、競争社会的なゲームに変容してしまっているということ。

---追記の蛇足---
選択肢を読む際、不自然な文章にさんざん頭を使わされたあげく、最後に見えてくるのが、「なるべく紛らわしくて、かつ重複正解にはならない選択文をつくろう!」という出題者の思考活動なのだ。だから私は気分が悪くなった。

最後に以下、本設問において正解となる選択肢の文章を再掲し、これに対する文句を書いて止めにする。

『「複数オニ」や「陣オニ」は、オニも隠れた者も仲間のもとに戻ることが想定されていない』

-子供の遊びを大人が勝手に解釈して(メシの種としての)著作に利用している-出典の文章はこのような性格のものだ。だから、遊び方の説明について「想定されていない」などと、誰から見ても分かりきっているかのような表現を使うこと自体が不適切だ。原文の筆者は、子供が何をもって遊びの要素と感じているかについて、『連帯社会的』→『利己・競争社会的』のような変質があると(自分勝手に)嗅ぎとって、これを自分の専門と絡めて著述の題材にしているだけのことである。現代風のオニごっこをするときには、仲間のもとへもどる要素が無く、孤独に帰することが想定されている、、そんなことは筆者も思っていないのではないか。

『社会から離脱し復帰する要素を完全に欠いてしまっている.』

これこそまさに勝手な大人の解釈であり、客観的にそのような要素があるかどうか判定できるという性格のものではない。そのような事柄の記述に際して「完全に欠いてしまっている」などという強く断定的な述語をもって来るのは、異常な国語感覚である。”過度に断定的な表現の選択肢は正答でないと思え!”という受験テクニックを意識して、それに反するようにわざと断定的な表現を用いた、、と思えば分からなくもないが、、


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