Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Dec 2, 2012)

2012-12-02 | 演奏会・リサイタル
毎年三度行われるメト・オケ・コンサート。
今シーズンはなぜだか第一弾と第二弾の間がとても短くて、10/14の演奏会に引き続き早くも二度目の演奏会がやって来ました。

10/14の変則・反則プログラムから一転して、今回はメト・オケ・コンサートの黄金の3法則、すなわち、

① 現代音楽を発掘・広くオーディエンスに紹介する(aka レヴァインの趣味全開の)作品
② ソリストを招いてのコラボ
③ 比較的メジャーなシンフォニー・オケのレパートリー

が徹底されたプログラムになりました。

まず、一曲目は①の法則に基づき、ソフィア・グバイドゥーリナによるヴァイオリン協奏曲”今この時の中で”。
アンネ=ゾフィー・ムターのために書かれ、2007年に彼女のソロにラトル指揮ベルリン・フィルの演奏で世界初演された作品で、
カーネギー・ホールで演奏されるのは今日がはじめて。
今日の公演のプレイビルによると、グバイドゥーリナはソ連崩壊後にハンブルクに移住、
ロシア人とタタール人の血を半分ずつ受け継ぐ女性作曲家で、
ソ連時代のロシアで政府のセンサーシップに抵抗し、耳障りの良いだけのシンプルな音楽を拒む一方、複雑さを備えた新規性にこだわり、
ウェーベルンらの音楽にインスピレーションを受け、そこからやがて17~18世紀のドイツ、特にバッハのそれに大きく感化され、
その音楽は非常に複雑で、数学・哲学・神学への愛を音楽的シンボリズムを通して描いたものであり、
フィボナッチ数列、ルーカス数、そして、”バッハ・シークエンス”
(彼女が発見したというバッハの音楽の数学的パターン)を自らの作品の音楽構成に組み込んでいる、、

、、らしいんですが、開演前にこれを読んでいるうち、つい”怪しーい!”と心の中で叫んでしまいました。
なんでかわからないのですが、オーラソーマとかにのめりこんでいるニューエイジ系の人を前にした時と似た感覚に襲われて。
バッハ・シークエンス、、、

さらに”今この時の中で”の作品解説に目を移すと、作品のサブテキスト”ソフィア”は、
作曲家自身およびムターの両方の名前とかぶっているだけでなく、
東方正教会の教えに見られる、神の智慧を言語化・人物化する概念のことを指し、
この作品でのヴァイオリン・ソロは智慧の声であり、オケにはそれに対抗する悪(ダークネス)の声の役割が与えられているそうです。

ああ、彼女が耳障りの良いだけのシンプルな音楽を嫌うのと同様に、
私はまさにこういう現代音楽の理屈っぽくて講釈たらたらなところが苦手なんですけれども、、、
演奏の最後まで起きていられるかしら、、?

で、演奏について。
まず、神の声役を務めたメト・オケのコンマス、デイヴィッド・チャンさんの手によるヴァイオリンのヴィルトゥオーシティを讃えたいと思います。
作曲家が耳障りの良いだけのシンプルな音楽に反抗するあって、実に耳障りの悪い複雑な旋律のソロで、
神の声と言っても、全く温かさや慈愛を感じるものではなく、
残りのオケのメンバーだけでなく、オーディエンスまでもが厳しく叱られている気がしてくるような、攻撃的なメロディーなんですが、
低音から高音に急激に上昇するところなども実に正確なピッチと的確なボリューム・コントロールで対処しているし、
次々と繰り出される技に、オケのメンバーもオーディエンスも惚れ惚れとして聴いている、、という状態でした。

しかし、まあ、この作品のしつこく長いことは一体どうでしょう?!
余程オケのメンバーが悪の限りを尽くしているのか、何度神が言い聞かせてもその度に彼らの力が甦り(=オケの演奏が再燃する)、
それはもう叩いても叩いてもなかなか死なない虫を思わせる作品なのです。
いい加減に終わってくれ~!!と何度心の中で思ったことか。

プレイビルにも”lengthy and serious"と書かれていて、曲のプロフィールに”長い”(=長ったらしい)と書かれるなんてよっぽど、、と思うのですが、
しかし、この作品の演奏時間は約33分で、これって別に特段長いわけでもないです。
実際、この後に続くベートーベンの『皇帝』の演奏は約35分、『火の鳥』は約28分ですから、、。
だから、実際の演奏時間の長さが問題なのではなく、心理的に”長ったらしい”と思わせる何かがこの作品にはあるということで、
それは私は作曲家が哲学とか数学にこだわり過ぎている結果だろうと思っています。

しかし、こういう正確性・精巧さを求められる作品でのルイージは悪くない。
また、チャンさんと相当綿密にリハーサルを重ねたのだろう、と思わせる、息の合った演奏ぶりで、
作品としては全く魅力がないけれど、演奏にはそれなりの魅力がありました。

オーディエンスとしてはこの一曲目でかなり疲弊させられたので、
インターミッションをはさんでベートーベンのピアノ協奏曲『皇帝』(法則②)が始まった時には、
安堵の空気がカーネギー・ホールのオーディトリアムに広がる様子が目に見えるような気がしたほどです。

ピアノはイェフィム・ブロンフマン。
彼の演奏を聴くのは2008年の3月のゲルギエフ指揮ウィーン・フィルとの共演以来です。
その時もなんかピアニストにしてはすごくでかい(横に)人だな、というイメージがあって、
弾いている時の姿勢もどこか少しだらしなく、まるで悪党がたまるバーか何かの雇われピアニストって感じで、
次にブロンフマンがフォルテで音を鳴らした瞬間銃声が鳴り、
暗殺されたギャングが床に血まみれで倒れる、、みたいな妙な妄想が湧いて来たのを思い出します。
だけど、その2008年の時の演奏は豪快でありながら軽妙で、見かけによらずすばしっこいところのあるおっさんだな、、と思った記憶も。

今日舞台に登場して来た彼はなんか更に一層太った感じで、
左右に体を揺らしながら足をひきずるようにして舞台にあらわれる様子は、はっきり言ってエレガンスの欠片もなく、
こんなに体中から場末のバーのピアニストみたいな雰囲気を醸しだしている人、クラシック音楽のソリストでは珍しいわあ、と思います。
ピアニストが演奏会の舞台に現れる時、それもカーネギー・ホールで演奏するともなれば、
ちょっと緊張の面持ちで、ピアノを弾くまでの動きも洗練されて美しい人が多いのですけれど、
”あいよ、今宵もちょいと弾かせてもらいまっせ。”と一気にカーネギー・ホールが場末のバーに変身~。
ある意味すごい個性だと思います。

今日の演奏はウィーン・フィルとの時とはまた雰囲気がかなり違っていて、”あれ?この人はこんな演奏する人だったかな。”と思いました。
というか、今日の方がバーのピアニスト的彼の個性とは一致しているのかもしれませんが。
ピアノの最初の音がいつ入ったのかわからないソフトな音で、その次の音あたりからやっとふわーっと立ち上って来る感じで、
”あんた、いつの間に忍び寄って来てたの?!”と、ストーカーばりの導入部にびっくりです。
その後に続く部分も、すごく軽妙なタッチで、この曲で私の聴いたことがある他のピアニストの演奏・録音はもうちょっと骨格ががっちりしていて、
アクセントを付けたい音もはっきりそれと感じられるものが多いのですけれど、
ブロンフマンの演奏はむしろそういった演奏をするのを拒んでいるかのように、限りなくさらさらと流れていく皇帝で、
本当に最後の最後まで、ここは力強く演奏したい!とか、ここはこのような表情をつけたい、というような意図・意思が感じられず、
今日は見た目のまんま、徹頭徹尾バーのピアニスト的!!
次の楽章の前には、ピアノの上に置いたウィスキー・オン・ザ・ロックのグラスからちびりとやるんじゃないか、、と新しい妄想がもたげて来ます。

もちろん彼は実際にはバーのピアニストではなく、カーネギー・ホールの舞台に立つピアニストであるからして、
同じぽろろん、、と軽妙に弾いているといっても、その達者なことは議論の余地なし、で、
テクニックはセキュアだし、こんな人がそこらのバーにいたらば大変なことです。
こういった淡白な演奏を好きな人もいるかもしれませんが、私には彼があまりに易々、軽々、ぽろろん、、と弾くので、
第一楽章と第三楽章で、作品から立ち上がるべき、オーディエンスに伝わるべき何かが欠けているように思われました。
後、第一楽章の一番最初の音がほとんど聴こえなかったのはそこだけ彼の解釈によるものかな?と思っていたのですが、
その後もずっと、一まとまりのフレーズの一番最初の音が軽くて、
日常の会話でいうと、各文の最初の言葉のはじめの子音がほとんど聴こえなくて母音から入る癖のある人の喋り方のようで、
途中から気になってたまりませんでした。

彼の滑らかな音作りが一番上手くはまっていたのは第二楽章だったと思います。
彼の紡ぎ出す粒の揃った高音は美しく、軽やかな演奏のせいで、べたべたしたり感傷的に過ぎないのがかえって好印象で、
この楽章での彼の演奏は私は好きでした。

第三楽章ではペダルの使用の仕方のせいか、それに対する指のタッチが柔らかすぎるからなのか、
もうちょっと音の粒が立っていてもいいのにな、と思うところで、私にはあまりに”もやーん”とした音になり過ぎているように感じる箇所があり、
ちょっと残念に感じるところもありました。
ここも第一楽章と共通して、あまりにさらさら、、と軽々と流れ過ぎる傾向にあって、個人的にはもうちょっとパンチのある演奏の方が好みです。
また終盤にかけての盛り上がりも結構あっさりして感じました。

まあ、でもこういう制服を着崩した時のそのセンスを楽しむというか、必死なのがあまり表に出ないような演奏が受けるのかな、、
オーディエンスからのブロンフマンへの喝采は大きかったです。

ピアノのソロより、バックのオケの演奏の方がさりげないながらもかっちりとしたアクセントを感じる演奏で、なかなか良かったのではないかと思います。
チャンさんはもう神の声の準備で手一杯(あんな作品なら、それは無理もない、、。)だったと思われ、
『皇帝』と『火の鳥』はもう一人のコンマス、エネットさんのリードによるものだったのですが、
(そうそう、エネットさんはこんなこともありましたが、現在では再びメトに戻ってきてコンマスの任をつとめておられます。)
このニ作品とも音楽が自由に放逸に流れていて、良く考えてみるとヴァイオリン・ソロがフューチャーされる作品では
チャンさんが活躍することの方が多いですが(『タイース』の瞑想曲のソロもチャンさんでしたね、そういえば、、。)
後半の二作品はエネットさんのコンマスとしての力量を十分感じられる演奏になっていたと思います。

最後は法則③にのっとっての『火の鳥』組曲。
今回は1945年版の演奏で、この版が一番バレエ全曲版からの抜粋を多く含んでいる版なんだそうです。
Wikipediaによると、

”指揮者によってはこの版を非常に好むが、全曲版や1919年版組曲に比べると、演奏機会が多いとは言えない。
その原因の一つは、ストラヴィンスキーが後年大きく変えた作風が如実に反映されている版となっていることにある。
顕著な特徴の1つが、「終曲の賛歌」の最後 Maestoso の部分に見られる。
全管弦楽が終曲の主題を繰り返す箇所で、全曲版・1919年版組曲では4分音符の動きで朗々と旋律を奏でているところだが、
この1945年版では、「8分音符(または16分音符2つ)+8分休符」という、とぎれとぎれのドライな響きで旋律が奏でられる。
組曲全体の後味を大きく変える相違点であり、この版の評価を分ける1つの要因になっていると思われる。
なお、前記の理由により、この1945年版を用いながらも、「終曲の賛歌」のみ1919年版の「終曲」に差し替えて演奏する指揮者もいる(演奏者独自の判断により)。”

そうだったのか、、、全曲・1919年版にもあまり通じていないうえに、エンディングにこんな違いがあったとは、、。
というわけで、終曲の部分がどうだったか、もはや全くもって思い出せません、、、もっと予習をきちんとしておくんだった。すみません。

今回の演奏、最後の最後の直前まで、これはすごく良い演奏になるのでは、、?と思ったのですが、、
序奏の部分では、まるで舞台の上にかかっていた靄が段々はけてその奥にカスチェィの魔法の庭園が現れてくるような
ロシアのバレエの物語の多くに独特の、幻想的な雰囲気が感じられたし、
終曲の冒頭のホルンも、どこから音が立ち上がって来たのかと思う位に入りが綺麗で、
フレーズの全てに魔法のような美しい力と幻想的な響きが宿ってました。
NYタイムズの評では木管や弦を褒めて、全然このホルンのソロ(演奏したのは首席のジョセフ・アンダラーさん)についての言及がなかったんですが、
一体何を聴いてるんだ?と思います。
終演後にルイージが真っ先に讃えた奏者は彼だったし、一度のみならず、二度も指名されての称賛でした。
本当にそれに値する素晴らしいソロだったと思います。
とはいえ、確かに木管や弦の演奏も表情が豊かで素晴らしかったですし、
中盤から終曲のホルンのソロまでの感じでこのまま行けば、、と大きく期待が高まってました。
なのに! 終曲ではあと一センチでそんな爆発状態に届く!という高度での飛行が延々続いたかと思うと、
ついにそのまま最後の音まで辿りついてしまったではありませんか!

あれ??ですよ、、まったく、、。

これが最近のルイージのオペラ全幕の指揮で私がしばしば体験する現象そのもの。いけそうでいけない。
レヴァインが元気だった頃は、途中が多少荒れようとも、いつも最後にねじ伏せてオーディエンスに興奮を起こすということが出来ていたのです。
ルイージはその過程ではむしろレヴァインよりも凝ったことをしていたり、緻密なことをしていたり、
それがちゃんと成功してすごく面白いものを聴かせていることが多々あるのに、
なぜかオペラ全幕のクライマックスとかこういった作品のエンディングで、はばたき舞い上がりきれずに終わってしまうことがままあるように思います。
なぜなんでしょうね、、、。

レヴァインといえば、今シーズンのメト・オケ・コンサートの第三弾(来年の5/19)でいよいよ復帰だそうです。
本当に戻って来れるのか、私はまだ懐疑的な部分もあるのですが、
レヴァインが実際に指揮台に現れたなら、それはオーディエンスにとってもかなりエモーショナルな瞬間になることでしょう。
5月までぜひ順調にリハビリをすすめて頂きたいな、と思います。


The MET Orchestra
Fabio Luisi, Conductor

SOFIA GUBAIDULINA In tempus praesens
David Chan, Violin

LUDWIG VAN BEETHOVEN Piano Concerto No. 5 in E-flat Major, Op. 73, "Emperor"
Yefim Bronfman, Piano

IGOR STRAVINSKY The Firebird Suite (1945 version)

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Left Front
OFF/OFF/OFF

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ デイヴィッド・チャン イェフィム・ブロンフマン
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra David Chan Yefim Bronfman ***