萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

花神(上)

2011-01-20 06:00:19 | プチ萌え
今、数ある本の中から、とても気になって気になって仕方がなくなってしまった、花神という小説を読んでいます。

司馬遼太郎作 主人公は大村益次郎 別名 村田蔵六 という町医を目指して緒方洪庵の適々斎塾に入門し、蘭学にとても深い造詣を抱き、父に請われて故郷に戻り医者になるが、この後、その蘭語力から推挙されて宇和島藩でいきなり蒸気船を作れと召し抱えられる。。。すごい運命です。

今造船を終えて、兵学書の翻訳やらをやって、江戸に行き、これから軍才に目覚めていくところをあたりを読んでいます。

元来が士分ではないため、世の中の攘夷騒ぎとかと少し距離があり、また蘭学に邁進する力はやはり学者のようです。適塾の合理性というものを改めて知りました。

今思うと大学で所属したゼミってこの感じに似ている部分があり、『そうか、先生はこれをやろうとしたのだろう』と思い至ることがあります。

適塾では、蘭語の通読と質問を練り、次の者がこれに答えていくということを行い、成績の優秀なものから宿舎の畳のいい場所を占めていくのだそうです。なので、試験の前日などは行灯の火が消えない、全員徹夜での猛勉強をするのだそうです。
試験は塾頭と塾監という副長が執り仕切り、洪庵はある程度の教養のあるものだけに私見を述べていくのだそうです。私見ですよ私見、これを理解できるまでに至るには相当の努力が必要なのだということです。

最後の部分はまるで現在の大学院のようですね。


でもですね、司馬遼太郎先生の描写のどこが素晴しいかというと人間を評する、その文章力です。

前半はどうしても蘭学、蘭医の話題が中心で「医者というものは?」的なお話が多いのです。

そこで、司馬先生は、大槻俊斎を初めとした蘭医の大家に共通する素質を、勘がするどいものと断じて云うのです。(それは漢方医も同じ)

まるで占い師のように、お見立てが抜群な医者が医業として才覚があるのだと。

大槻俊斎に眼をみてもらいに村田蔵六が訪れると、「夜に行灯をつけて本を読んでますな」といい、「蘭学ですね」と確認を取るという場面があります。凄いです、それ。
こういう能力がいい医者には共通しているというのです。

あぁ確かに自分でも思い当たる節があります。
『あぁ、あの先生はそうだなぁ(そうだったなぁ)』と思い当たる先生が浮かびます。
この直感は凄く大切です。初動に信頼があるととても自分にとってラッキーです。

これがいい加減だと、患者は振り回されてしまいます。


この本との出会いは、武士の家計簿で猪山成之を官軍の兵站に採用したのは、大村益次郎だと読んだことによります。
先にそのことを読んで知っているので、村田蔵六(後の大村益次郎)が、旅の途中につけている日記はほとんどが入出金だと読んだり、藩の経理にも明るい(でもそれを実現することはなかった)とか、加賀藩の人物と親交があったりという部分を読むと、『おぉぉそこ!そこ!そこ!繋がってる!』と思うことが多くあるのです。

また、私の好きな漫画に手塚治虫の「陽だまりの樹」があります。幕末、黒船と盛り上がる蘭学、それを旋回させる日本人の危機意識と挑戦、幕末はそういう熱を帯びているので、好きなんです。・・・・まだまだ読み物が沢山あることを再認識しました。

久々の読中感想文でした(笑)
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