生きてることが当たり前じゃない。
早田ひな選手の帰国後の会見から、特攻隊の歴史が脚光を浴びている。
昨晩のNHKスペシャルも特攻隊員の話。
新聞メディアも、隊員を讃え、各行政区域毎に割当もされ、否という希望も書けない状況で次々と戦地に駆り出され、負け戦の交渉有利の為に、丸で麻薬のようにして敢行された蛮行作戦だったと解説がされた。
英雄扱いの為には、教員が激励し、行政が碑を建て、勇ましい歌詞の歌を作り、住民が弔問をアイドルに群がるように行う。
国が狂ってしまったら、歯止めが効かなくなり、相手も戦闘員でない民間人の生活を狙った空襲や原爆、上陸殺戮作戦までにエスカレートしていく。
敗戦は嫌戦の意識に強く訴え、国家が持つ戦争交渉権の行使の抑止に強く繋がっていく。
なのに、現実の世界は、戦争が止まない。
身近ではないが、近辺では常にきな臭い。地球規模では常にそこかしこである。
武器は使わなければ、貯まっていく。資本主義のゴーイング・コンサーンは、武器製造会社に永続性を帯びさせ、人類が過激に打撃しあう容量を増やし合っていく。
第三次世界大戦が非現実であっても、テロという形との関わりが多様化を極めて、国家間で疑心暗鬼を生み出し、飛び火してしまえば、どこかに不可逆的な末路への行進が止まらない感じも漂う。
国家は守られる前提で維持が叶う。
海洋という、大きな堀とも思える周縁を守れる規模の軍隊はどうあるべきなんだろう。
反撃能力をお互いに隠し持っている状態まで来ないと、平和維持が私には難しく思える。
国防にばかりお金をかけるべきではないのかもしれないが、当たり前を手繰り寄せる努力の形に明確なものがないと、戦争を止めない国家が出現した時に余りにも無策に思えてしまう。
平和が当たり前なものかを考えさせられる、お盆の8月15日を越えた今日此の頃です。
早田ひな選手、どうもありがとう