熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ポール・コリアー著「民主主義がアフリカを殺す」(2)

2010年02月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最底辺の10億人の国々は、制約のない競争選挙の所為で国内協力は挫折して、指導者に主権があるために国外協力も頓挫し、政治的暴力からアカウンタビリティのある正当な民主主義へと着実に移行すろどころかまるで程遠く、彼らはどん詰まりに向かって進んできた。
  最貧のアフリカ諸国では、民主主義によって、深刻な危機が、益々増幅されてきていると言う悲しい現実を、ポール・コリアーは、この本で、克明に報告しているのだが、しかし、その民主主義以前の段階で、内戦や反乱状態から抜け出せない国が、アフリカには多い。

   コリアーは、内乱や反乱について、その動機よりも、反乱が実現可能かどうか、実現可能な場所なら反乱は起こると言う実現可能性仮説を検証している。
   反乱の実現可能性の違いを端的に説明し易いと考えた五項目に分けて、二箇所の架空の地域の紛争リスクをシミュレーションしたのである。
   その結果、山岳地帯、若い男性の割合が多い、どちらの地域も人口50万としたが、一方は単一国に対して10万人ずつ5カ国に分裂している、天然資源輸出に依存、フランスの安全保障の傘下にある、と言った特徴を持った地域では、そうではない地域よりも、99倍も反乱リスクは高かったと言う。

   それに加えて、内戦や反乱が恐ろしいのは、テロリズムを助長していることで、アルカイダが訓練キャンプをアフガニスタンに置いたのも、国際的に承認された政府がなく都合が良かったからで、同様のことは、長い間全く無政府状態に放置されてきたソマリアにも起こっており、更に、イエーメンにも飛び火するなど先進国のみならず世界中を恐怖に陥れている。
   反乱勢力に対して効果的に対抗できる能力がその国家になければ、反乱勢力を支える武器や資金の大半はその国外から来るのであるから、外部から、それを阻止して武力衝突自体の発生を困難にする以外に方法はないのである。

   この解決のために、コリアーは、最小限の国際介入が、最底辺の10億人の国の大部にある政治的暴力が持つ強大な力を、危険な力ではなく善良な力として解き放つ可能性があると考えている。
   最小限に抑えたとしても、国際介入の正当性は確保すべきであるが、国家の存続に不可欠で国家の発展に必須である最も重要な二つの公共財、アカウンタビリティと安全保障は、外部から国際社会が供給すべきだと説く。
   国際社会によるこのような公共財の提供は積極的にやるべきで、このような最低限の国際介入が功を奏して、最底辺の10億人の国々が嵌っている罠を解き放てば、国内供給に置き換え得ると言うのである。 

   この二つの公共財を国際社会が提供しなければならない理由は、国内的な供給が不可能だからである。
   これらの典型的な最底辺の10億人の国々は、公共財の提供に必要な集団行動を達成するためには、あまりにも民族的にパッチワーク状に分裂し過ぎており、さらに、国そのものが小さ過ぎるために、公共財が多くの周辺諸国に外部波及して内部化できない。

   したがって、国家が分裂して小規模なアフリカの場合には、各国の次元では公共財を供給できないので、国家主権を侵害しない範囲での相互協力によるのが最も効果的で、この次元でこそ、国際社会がアカウンタビリティと安全保障の供給を引き受けるべきだと言う。
   コリアーは、域内協力におけるアカウンタビリティについて、アフリカ相互審査機構(APRM)での各国政府が任意に他国政府の評価を受ける相互監視メカニズムについて触れているが、しかし、ムガベのジンバブエを筆頭に現状のように独裁者が国家を蹂躙するような民主主義から程遠い国が存在するような現在のアフリカで、チェック&バランスを働かせて、その国の政治経済社会情勢を透明化して監視するシステムの構築など簡単に出来るのであろうか。

   もう一つ興味深いののは、旧帝国が画策した国境は民族を分断していることが多いため、七つ程度の大きな国に束ねて、現在以上に国内の多様性を拡大せずに国家の規模を拡大する方が、現状よりずっと安全になると言うコリアーの考え方である。
    現在のアフリカは、主権がなさ過ぎるのではなく、多く持ち過ぎで、国家主権と言う概念に対する過剰な尊重姿勢が問題なのだとする姿勢は、ネオコロニアリズムとも呼ばれる所以でもあるのだろうが、しかし、国連などの国際機関の肝いりで、有能なアフリカの指導者による汎アフリカニズムを育成し強力にバックアップすることは、有効であるばかりではなく必須であろうと思われる。

   コリアーの素晴らしいところは、この本を、先進国の知識人に向けて書いているばかりではなく、私がその為政者であればと言う視点から、現にアフリカを支配しているリーダーたちに向かって進むべき道を説いていることで、アマゾンのアメリカ判のブックレビューでもアフリカの読者のコメントが掲載されていて興味深い。
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二月大歌舞伎・・・勘三郎と玉三郎の「籠釣瓶花街酔醒」

2010年02月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎・映画
   歌舞伎座のさよなら公演も、愈々大詰め、今月は、十七代目中村勘三郎の二十三回忌追善公演で、勘三郎が大車輪の大活躍である。
   私が、一番期待していたのは、中村屋父子に、玉三郎と松嶋屋3兄弟とが、正に、白熱の共演を演じた「籠釣瓶花街酔醒」である。
   最初に見た籠釣瓶は、やはり、勘三郎と玉三郎の舞台であったが、その後、吉右衛門や幸四郎と福助の舞台で、夫々に、意欲的で素晴らしい芝居を楽しませて貰っている。

   私は、何故か、この芝居は、仮名手本忠臣蔵の大星や勧進帳の弁慶を演じる役者ではなく、水も滴るいい女も演じられる両刀使いの役者の方が、ぴったりと来る舞台だと思っていて、勘三郎に大いに期待しているのである。
   幕府のお膝元である吉原は、京都の島原とも、近松の世界である大坂の花街とも違って、勃興する新しい時代の息吹を感じさせるような色々な人種の蠢く独特な異空間を作っていたようで、地場産業である絹商売で富を蓄積した田舎ものの主人公佐野次郎左衛門(勘三郎)さえもが、絶世の美女八ッ橋(玉三郎)を身請けする寸前までに羽ばたける世界があったことに興味を持ったのである。

   その前に、この歌舞伎の「籠釣瓶」の序幕・吉原中之町見初めの場より大詰・立花屋二階の場までの話だが、次郎左衛門が、江戸の土産話にと立ち寄った吉原で、花魁道中の八ッ橋に出会って一目惚れして吉原に通い詰め、身請け寸前まで行きながら、間夫繁山栄之丞(仁左衛門)に別れ話で迫られた八ッ橋に、満座の前で、愛想尽かしを宣告されて恥を掻き、4ヵ月後、再び吉原を訪れて、再会した八ッ橋を、名刀籠釣瓶で一刀の元に切り殺すと言う筋書きである。
   言うならば、定職もなしに八ッ橋の仕送りでのうのうと生きているヤクザなひもである栄之丞を間夫にして憂さを晴らしながら、自分の美しさ故に溺れ込んだ次郎左衛門からの身請けの話が目前に迫っているにも拘らず、行き当たりばったりに生きて来た八ッ橋の悲劇と言えば悲劇だが、天国から地獄へ奈落の底に突き落とされた、恋一筋に一途に突っ走った次郎左衛門の生き様が哀れである。

   それに、もう一人の悪人で八ッ橋を廓への身元保証人になった親判・釣鐘権八(権十郎)が、立花屋への金の無心が出来なくなって金蔓を失い、腹いせに、間夫の栄之丞を焚き付けて困らせようと企んだのがアザとなって、口車に乗せられた軽薄な栄之丞を激昂させて、八ッ橋に、俺が大切だと言う証拠に次郎左衛門を振れと迫るのだが、元より、金でしか接点のない八ッ橋のことだから、次郎左衛門には興味がない。
   八ッ橋に、間夫が居ると知りながら、金払いの良い上客の次郎左衛門に、後先も考えずに、身請け話を進めて、それを取り持つ立花屋おきつ(秀太郎)もおきつで、とにかく、金と色に目が眩んだ人間ばかりが目立つ吉原物語である。

   さて、何故、勘三郎がこの次郎左衛門に適役かと言うこと。
   満座の前で、八ッ橋に振られた時の次郎左衛門の肺腑を抉るような心境だが、吉右衛門は、「ふられたこと自体よりも、恥を掻かされたということの方が大きいと思う」と言っているのだが、それもそうではあろうが、私は、色に溺れて官能の渦に巻き込まれて八ッ橋にのめり込んでしまって奈落の底に突き落とされた男の悲哀を濃厚に滲ませて苦渋を切々とかき口説く勘三郎の方が、本当の姿に近いと思うし、「花魁、そりゃあんまりそでなかろうぜ」の台詞から、皆が去って、下男治六(貫太郎)と取り残された後の舞台まで、次郎左衛門の八ッ橋への妄執を諦め切れない哀切極まりない心境がよく現れていると思う。
   次郎左衛門は、痩せても枯れてもれっきとした絹商人で、銭勘定は元より分かっていた筈。恥や外聞に随分泣かされてきたと思うし、生まれつきのあばた顔に屈辱の限りを味わって来た筈なのだが、吉原有数の絶世の美女八ッ橋との、一世一代の恋で降って湧いたような幸せをどんなに賛美したことか、この幸せの絶頂を断ち切る苦悩がまず先である。
   その悲哀が、心を締め上げて、人間として耐えがたき屈辱に心が蝕まれて行き、じりじりと追い詰められて行く心の襞を、勘三郎は、哀願にも似た悲しい表情から、徐々に顔を歪ませ引きつらせながら屈辱に耐えている苦悶を、実にリアルに演じている。
   胡弓の哀切極まりない旋律が、勘三郎次郎左衛門の肺腑を抉るが如くである。

   このことは、この後の立花屋二階の八ッ橋を、籠釣瓶で一刀の元に切り捨てるシーンにも表れていて、幸四郎や吉右衛門のように豪快で男性的な(?)太刀裁きとは一寸ニュアンスの違った感じで、八ッ橋をいまだに忘れ切れずに、恋の復讐にと、この世の別れの杯をすすめるあたりから徐々にテンションが上がって行く凄みなども、勘三郎の次郎左衛門には、どこか、人間の弱さ悲しさが滲み出ているようで、妖剣籠釣瓶故の惨劇ではなく田舎の豪商の悲しいサガが、最後の茫然自失ながら、籠釣瓶の切れ味に不気味な笑みで頷く表情に良く表れているような気がするのである。

   玉三郎は、何と言っても、東西一の立女形の匂うような豪華で絢爛豪華な花魁姿を鑑賞できることで、江戸時代の錦絵の華やかな美しさを彷彿とさせてくれて感激である。
   この八ッ橋は、次郎左衛門を嫌っては居なかったであろうが、美貌を良いことにして、不埒な風来坊栄之丞をひもにして囲いながら、どうせ売り物買い物ですからを地で行く生き方で次郎左衛門に接していたのであるから、栄之丞に唆されて次郎左衛門を振れと言われると、二階座敷に入ると一気に態度を変えて嫌いだと切り出して、周りから諭されると反発して煙管を投げ捨て、挙句の果てには、栄之丞を間夫だと公言して座を蹴って発つ。
   唯一、門口で、「つくづく嫌になりんした」と、次郎左衛門への縁切りにかけて、浮き草のような遊女の悲しい境遇を吐露しながら、次郎左衛門を門口でちらりと見やりながら、人間らしさを覗かせる。
   このあたりの玉三郎の実に優しい仕草が、八ッ橋も、同じ人生の被害者であることを悟らせてほろりとさせる。

   さて、栄之丞の仁左衛門の匂うような悪たれ無頼漢風色男、貫禄と品を備えた我當の立花屋長兵衛、引手茶屋・立花屋の女将おきつの秀太郎の関西歌舞伎の雄である松嶋屋の共演は特筆もので、関西風花街の雰囲気なのかどうかは分からないが、非常に、この舞台の質と奥行きを深くしており、流石のさよなら公演である。
   朴訥で純朴そのものの治六の貫太郎と花魁七越の七之助兄弟の好サポート、それに、悪辣極まりない釣鐘権八の彌十郎、縁切り場での次郎左衛門に対する優しさ情の深い仕草の冴えた魁春の九重など、脇役の層の厚さも素晴らしい。

(追記)口絵写真は、歌舞伎座二階展示の写真をコピー。
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鎌倉鶴岡八幡宮のぼたん庭園

2010年02月05日 | 花鳥風月に想う・日本の旅紀行
   節分の日の朝、鶴岡八幡宮に向かった。
   先日の朝まで、雪が降っていたようだったが、街の中の雪は殆ど消えていて、雪の鎌倉の風情を味わうことが出来なかった。
   やはり、寒い所為であろうか、小町通も人が少なく、八幡宮の参道もいつもより参拝客が少ないのだが、参道の片隅には、節分豆まきのための受付テントが設けられていて、白衣に赤い袴姿の巫女さんやブルーの袴の人たちが、準備のために舞殿手前の参道で忙しく立ち働いている。
   救世軍のような真っ赤な外套を纏った井手達の若い警備員たちが、舞殿手前に張られたロープの周りに整列し始めた。
   流鏑馬通りの左右の通りには、豆まきに参集した参拝客が沢山集まって列を成して待機している。
   巫女さんに、豆まきに誰が来るのかと聞いたら、有名人は誰も来ないが、年男が豆をまくのだと言った。
   もとより、私の興味外のことなので、引き返して、源氏池畔のぼたん庭園に向かった。

   ぼたん園参道入り口には、鎌倉鶴岡八幡宮と言うワッペンを貼った真新しい酒樽が置かれ、真っ赤な豪華なぼたんが植えられていて、客を迎える。
   石畳の奥に、赤い毛氈を敷いた床机と赤い傘が置かれた入り口がある。
   僅かな距離なのだが、このあたりは、八幡宮の参道の雑踏とは、打って変わったように静かで、小鳥の泣き声が良く聞こえる。
   明月院の紫陽花や、桜やもみじの季節にはわんさと詰め掛ける観光客も、何故か、ぼたんには殆ど興味がないのか、訪なう人もまばらで、全く人影のないぼたん園の広角写真の撮影も簡単に出来る。
   
   ところで、時々、二人連れにシャッターを押してくれと頼まれる。
   大概は、簡単なデジカメなので、シャッターを押すだけで済むのだが、如何せん、大概のコンパクトカメラは広角主体なので、手前の人物が大きく写って、背景のぼたんなどが小さく写ってしまい折角の花の写りが台無しになってしまう。
   私など、カメラ暦が長いので結構慣れている筈なので、上手く操作しようと試みるのだが、とにかく、やたらとカメラが多すぎて扱い方が違っているので、前で、ポーズを取られるとどぎまぎしてしまう。
   せめてものと思って、所や方角を変えて数枚写させて貰っているのだが、これも、フィルムカメラと違って消せば済むデジカメだから出来ることである。

   私は、昔、関西にいた時には、奈良の長谷寺や石光寺などのぼたんを見に行ったのだが、非常にオープンな広い空間に咲いていたので、のびのびとした雰囲気であった。
   ところが、この八幡宮は、寺社の庭園のぼたん園と言った感じなので、石組みの合間や涸れた風情のある大木の根元であったり、簡素な築地塀の片隅であったり、どちらかと言えば、池や林間の風景を借景に取り入れたところに植わっているので、大分、ぼたんの印象が違ってくる。
   特に、このぼたん園には、中国から贈られてきた奇岩である太湖石を据えた湖石の庭のぼたんの風情は、ぼたんのふるさとを感じさせてくれるようで面白い。
   季節が違っていたのか、私が蘇州の素晴らしい庭園を訪れた時には、ぼたんを見る機会がなかったのだが、案外、庭園の中で一際映える点景を占めていたのではないかと言う気がしている。

   八幡宮に聞くと、花の見ごろは、今月の中旬始め頃までと言うことだが、少し盛りを過ぎたかと思うけれど、しかし、一番美しい頃でもあるような気がする。
   ここのぼたん園の説明では、100品種1000株と言うのだが、感じとしては、豪華な感じはするが、上野の東照宮の方が、花にバリエーションがあるのではないかと思っている。
   段差のある岩組みの奥のぼたんの風情や、生垣越しに見え隠れする源氏池をバックにした華やかなぼたんなど、中々面白いが、雪除け藁被りも良いが、ここの、長い足の真っ白な番傘の下のぼたんも味があって良い。

   ところで、私の庭の春ぼたんの芽も大分しっかりしてきた。
   昨秋、3本ほど庭植えを追加したが、どんな花が咲くか楽しみである。
   ところで、私の良く通ったキューガーデンでは、ぼたんの花を見たと言う記憶がなく、芍薬ばかりの写真を撮っていたような気がする。
   私のロンドンで住んでいた家の庭にも芍薬が植わっていたのだが、イギリスでは、ぼたんよりも芍薬だったのであろうか、とふと変なことを思い出した。
   
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上野の森の東照宮の冬ぼたん

2010年02月04日 | 花鳥風月に想う・日本の旅紀行
   残雪の残る上野東照宮のぼたん苑に出かけた。
   上野の森のソメイヨシノのつぼみは固いが、何本かある寒桜が花を開いていて、めじろが、花を啄ばんでいる。
   桜並木を動物園入り口手前の参道に入ると、道の両側には、葵のご紋の下に上野東照宮冬ぼたんの文字と、その下に雪除けの藁がこいをしたピンクのぼたんを描いた幟がびっしりと並んでいて、コンクリート製の無粋な大鳥居の横には、同じく冬ぼたんと大書して派手な雪除けかぶりのぼたんの放列を描いた大きな立看板が客を迎える。
   しかし、参道を少し入ると、清楚なかわら屋根の門構えのぼたん苑入り口には、木枠の箱庭に小さな葉牡丹を並べて、雪よけわらをかぶった一株のピンクのぼたんが植えられていて、一気に雰囲気が変わる。
   かなりの観光客や団体が、東照宮本殿の方へ向かうのだが、ぼたん苑に入るのはわずか。「こんなもん見るのに金払わなあかんのか。やめとこ。」と素通りする大阪のおっさんのグループ。派手な呼び込みの幡や場違いに派手な立看板の意味が分かった。

   入り口を入ると、良く手入れされたぼたん畑が櫛状に並んでいて、何度も折り返しながら、東照宮正面門の手前の出口まで続いている。
   黄色いぼたんは僅か、大輪の白花も比較的少なく、花の大半は、ピンクから赤系統で、八重一重、大輪中輪小輪とかなりのバリエーションがあるのだが、全部で約40種のぼたんが植えられていると言う。
   今年は、ピンクの小さな魚を連ねたようなかわいいタイツリソウの花を見かけなかった。

   このぼたん苑での楽しみは、苑内に植えられている色々な花が伴奏して春の訪れを感じさせる雰囲気を盛り上げてくれることである。
   ぼたんの足元には、福寿草が綺麗な黄色い花を咲かせ、小輪の葉牡丹やアッツザクラ、水仙などが彩りを添えている。
   特に美しいのはやや紅の勝った紅梅で、まだ小木ながら咲き始めた寒桜とともに、陽だまりに居ると一気に春の暖かさを感じさせてくれる。
   蝋梅、マンサク、ミツマタ、それに、何種類かの椿、夫々、それ程大きくない小木なので、ぼたんの華やかさを立てていて、その奥ゆかしさ(?)が良い。

   日陰のぼたんの足元には、まだ、二日前の残雪が残っていて、黒々とした土とのコントラストが眩しい。
   2日の朝には、開門前から、アマチュア・カメラマンが詰め掛けて、雪を被った雪除けわら囲いの冬ぼたんを撮ろうと大変な賑わいだったと言う。
   残念ながら、その頃には、雪除けの上の雪は解け去っていて、地面の雪だけだったと、甘酒屋のおねえさんが言っていた。

   このぼたん苑の真ん中あたりに歌を詠むコーナーがあって、用意されている短冊に思い思いの一句を詠んでボードに貼り付けている。
   今年は、来るのが遅かったのでかなりの数の短冊が所狭しと貼り付けられている。
   私も、575と言うルールしか知らないのだが、野次馬根性を出して一句、
   残り雪 微笑むぼたんの 影かなし

   殆どのぼたんが、雪除けわらを被っているので、雪国の少女のような風情で、それなりに雰囲気があって面白いのだが、春ぼたんのように逆光に透けて見えるほんのりと色香の漂う大人の女のような優雅さはない。
   時折、強い陽の光を浴びて雪除けの藁を通り抜けた光が、ピンクのぼたんの鮮やかさを浮かび上がらせる瞬間の美しさは格別だが、この時、小型デジカメしか持って居なかったので、その微妙な感触は撮れなかった。

   ぼたん苑の出口近くには、広い空間があって、茶店があり、私は、何時も、床机に座って、甘酒を頂くことにしている。
   左手には東照宮の建物、右手には五重塔が見えて、目の前には、綺麗なぼたん畑が広がっている。(東照宮は改装中で門以外は大きな看板で、今は無粋。)
   もう一度入り口に引き返しながらぼたん畑を巡ることにしているのだが、不思議なことに、反対側からもう一度見ると同じ筈のぼたんの雰囲気が変わっていて、新しい発見をすることがある。
   それに、時間差の微妙な変化も楽しめて一石二鳥でもある。
   押さえ気味のスピーカーから流れる琴の音が、やわらかな陽のひかりに照り映えるぼたんの華やかさに伴奏して、さわやかな異空間を醸し出している。
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ポール・コリアー著「民主主義がアフリカを殺す」(1)

2010年02月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   非常に扇情的な題名の本だが、サブタイトルは、「最底辺の10億人の国で起きている真実」。原題は、「Wars, Guns, and Votes Democracy in Dnangerous Places」。
   コリアーの先の著書「最底辺の10億人 The Bottom Billion」で、四つの罠、すなわち、紛争の罠、天然資源の罠、劣悪な隣国に囲まれた内陸国の罠、そして、小国における悪いガバナンス(立法、司法、行政に及ぶ広義の統治)の罠などに陥って貧困と治安悪化などの呪縛から抜け出せない最底辺の10億人を現実を活写して、我々先進国の人間は何をなすべきかを提言した。
   この本は、更に、最底辺の10億の人々の恐るべき現実を掘り下げて、我々先進国の人間に取っては平和と発展のための拠り所である筈の民主主義が、これらの国や人々にとっては、平和どころか危険性を高めている、すなわち、暗殺、暴動、政治ストライキ、ゲリラ活動から内戦まで、民主制が政治的暴力を促進している現実を突きつけて、この暴挙に対峙して如何に平和を実現すべきかを問うている。
   現実にも、国連やアメリカは、紛争や危険地域では、積極的に選挙の実施を推進しているが、イラクやアフガニスタン、もっと典型的なウガンダの選挙の現実を見れば、如何に民主主義の傘を来た治安悪化と暴力追認の茶番劇の場となっているかが良く分かる。

   コリアー論を進める前に、興味深い指摘は、所得レベルが中程度の国では、逆に、民主主義が一様に政治的暴力を抑制することを発見したとして、その閾値の所得水準は、一人当たり年間2700ドル、一日7ドルで、これを手がかりに、所得が上がると安全度を増すと言う民主制の右あがりのラインと、逆に所得が下がる独裁政権下の右下がりの二本のラインが描けると言う。
   これを、現在最も成長を続けている中国に当て嵌めると、最近3000ドル超まで急上昇したので、このまま進んで行って、民主化を遂げない限り年を追うごとに、その目覚しい経済成長が政治的暴力の傾向を高めると言えようと言うのだが、どうであろうか。
   
   コリアーは、民主主義の最底辺国において果たす役割を、銃―火に油を注ぐ武装、戦争―破壊の政治経済学、クーデター―誘導装置なきミサイル、の3点に焦点を絞って追求し、その暴力と破壊の凄まじさを描いているが、その後の、アフリカのシンガポールとも言われて発展街道を驀進していたコートジボアールが、一気に破綻国家へ転落して言った様子の描写なども、問題の深刻さを伝えていて、息を呑む。

   私が興味を持ったのは、経済に関する経済学者コリアーの見解で、低開発国であればあるほど、そのリスクは高く、それはあらゆる考え得る限りの誤った解釈を排除した後でさえ変わらなかったと言うことである。
   貧困は極めて危険であること、所得水準の低さだけではなく、成長速度も関係あり、低所得の国同士の場合、国民一人当たりの成長が早いほど、成長が停滞もしくは減退している国よりも、武力衝突のリスクは著しく低い。
   当然ではないかと言うことだろうが、膨大な資料からの分析であり、これは希望が持てる、経済開発が平和を推進すると言う確固たる信念の表明でもあろう。
   北朝鮮の経済的苦境の促進は、決して、人類にとって、公共財の平和安全のためにも、益なき選択だと言うことでもある。

   内戦について、暴力衝突はその動機となりそうな問題に対処するだけでは防げず、唯一、武力衝突事態の発生を困難にすることでしか阻止できない、反乱が容易かコンなんかは基本的につまるところ、反乱勢力に武器と資金の入手方法があるかどうかで、反乱勢力に対する効果的に対抗できる能力がその国家にあるかどうかである。
   この発展から逆戻りの武力闘争を如何に根絶するか、何十年も無法状態無政府状態に放置してきたソマリアの現状が、如実に物語っているのかも知れない。(次に続く)
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伊丹敬之著「イノベーションを興す」(2)・・・オープン・イノベーション

2010年01月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   創造的破壊に関する伊丹教授論に対する意見に加えて、私が疑問に思うのは、オープンイノベーションに対する時代に逆行したようなネガティブな見解である。

   伊丹教授は、同書の第12章の「アメリカ型イノベーションの幻想」の冒頭部分で、
   オープンイノベーションは、「話がうま過ぎる懸念がある・・・仮に活発化したとして、その結果として生まれる産業秩序を推論して見ると、それがどの程度社会全体にとって望ましいかは案外考えもので、行き着く先は、イノベーションの萌芽の減少あるいは枯渇になりかねない。」と述べている。
   オープンイノベーションは、多くの企業が自分の得手の技術やビジネスを持ち寄る分業の集積でイノベーションを興そうとするので、分業の分野ごとへのアンバンドリングを推し進め、個々の分業の市場のコモディティ化につながり、その分野での新しい技術開発投資や種を萌芽に育てようとする努力へのインセンティブが減少する。と言うことのようである。

   オープンイノベーションについては、これまで、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」を皮切りに、顧客を巻き込んでの価値創造へのコラボレーションを説いたプラハラード他の「価値共創の未来」や、マスコラボレーションによる開発・生産の世紀の到来を告げたタブスコット他の「ウィキノミクス」などで展開されてきたグローバルベースでのオープンなビジネス環境の拡大深化が、ウルトラ・スーパー級のダイナミックな破壊力を発揮してイノベーションを生み出し、如何に多くの価値を創造し、人類社会を豊かにしてきたかを、このブログでも語って来たので、蛇足は避けたい。
   しかし、名だたるグローバル企業が、オープンビジネス環境の中で、グローバル共創に鎬を削って激烈な競争時代を生き抜こうとしているのか、その地響きのような足音が聞こえないようでは、何をか況やである。
   付言すれば、多くの日本企業が、この世界の潮流であるグローバル市場から新技術を吸収するオープンイノベーションに踏み込めずに、いまだに自前主義やグループ主義に固守している故に、国際競争場裏で、遅れを取っていると言えないであろうか。

   ウィキノミクスによると、オープンイノベーションを積極的に進めているP&Gでは、新製品の内、社外調達は35%で、新製品構想の45%が社外のアイディアを元に生まれており、「コネクト&ディベロップ」戦略によって、イノベーション関連の製品コストや設計、マーケティングなどが改善されたのみならず、研究開発費の生産性が60%向上し、イノベーションの成功率が倍以上となり、更に、そのコストは逆に下がって、売り上げに占める研究開発比率は、4.8%から3.4%に低下した。二年間の新製品の内、社外が関与したのは100品目を超えており、オープンイノベーション経営の効果は抜群だと言うのである。 

   更に、ウィキノミクスには、IBMのパルミサーノの説く「国ごとのタコつぼを壊し、世界の知識や資源や能力を利用し、国や企業内の境界を越えて人材を活用して、シームレスなグローバルコラボレーションよる地球規模のビジネス・エコシステム構築」への動きを主軸として、果敢なオープンイノベーションによって、ボーイングの787の開発やファブレスのBMWの新世代自動車開発などのケースを紹介しているが、世界の多くの名門企業が、オープンイノベーション戦略を積極的に遂行しており、伊丹教授の危惧しているような技術開発の後退やインセンティブの縮小など起こり得ず、市場規模の拡大とビジネスチャンスの増大によっても、益々、イノベーションにドライブがかかっているのが現状である。
   第一、分業への近視眼的局所集中やコモディティ化現象などは、経営の拙さ故であって、オープンイノベーションとは次元の違う話である。

   オープンイノベーションについては、ヘンリー・チェスブロウ教授著「オープンビジネスモデル」が、非常に参考になり興味深い。
   チェスブロウもクリステンセンも、既に、企業経営者がオープンイノベーション環境に置かれていると言う認識で論旨が展開されており、価値の創出、そして、創出された価値の一部の収穫の両方において、グローバルベースで、社外のはるかに多くの多様なアイディアを取り込み、価値を創出する「イノベーション活動の分割」と言う視点から、イノベーションの新しい組織モデルの構築を論じており、技術開発の自前主義を破壊する知財競争時代のイノベーションを語っている。
   あるグループが斬新なアイディアを考案した時、自分たち自身で商用化するのではなく、他社と提携し、あるいは、他社にアイディアを売却し、その他社がアイディアを商用化すると言うシステムで、その分割の機会を追求するために、企業は自社のビジネスモデルをオープン化する必要があると言う捕らえ方の進化発展である。 
   インターネットなどのIT技術の進化によって、グローバルベースでの無尽蔵な知識情報の調達活用の絶大な効用は勿論のこと、経済的にも、テクノロジー開発のコスト上昇、および、製品寿命の短縮など、これまでのクローズド・イノベーションに基づく研究技術開発には、既に限界が見えて来たのである。                                                    
   
   もう一つ伊丹教授の見解でしっくりしないのは、実験の国アメリカ、育成の国日本、と言う理論を展開して、アメリカは、移民の国であり、英語が世界共通言語であり、ドルが基軸通貨であるので、シリコンバレーモデルが生まれて、世界中の組織の蓄積を利用できるのだが、日本はそうではないし、日本語の壁と軍事の壁があって、その壁があるのに、それを軽視して向こうの夢だけを語るのは幻想にすぎないとする考え方である。

   日本企業にとって、シリコンバレーモデルは、幻想であろうか。
   世界中のあっちこっちで、色々なシリコンバレーモデルが生まれており、グローバルビジネス環境は、日進月歩で激動を続けている。
   日本企業の置かれた経済環境、歴史や伝統、強み弱みなどを十分に直視することは大切だが、「コークの味は国ごとに違うべき」だとしても、グローバルベースに乗らなければ生きて行けないような大潮流には、絶対、逆らっては駄目で、日本企業にとっては、オープンビジネスおよびオープンイノベーション戦略の遂行は、その最たるmustであることを、肝に銘じなければならないと思っている。
   

   
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本離れと言うけれど〜私の場合

2010年01月30日 | 生活随想・趣味
   先日、日経に、年々、書籍と雑誌の売り上げが、どんどん下落しており、雑誌などは、値上がり傾向だと言う記事が載っていた。
   日本のみならず、文明国家では同じ傾向が続いているようで、やはり、楽しみにしろ知識情報の習得にしろ人々の読書で得ていた機能が、IT革命や文明社会の多様性の増大などによって、他に肩代わりされて行ったからではあろうが、人々の本離れは、ある意味では、一つの文明の大きな転換を告げている。
   本来、書籍は、知の集積であり、知の宝庫であるとともに、文化文明の象徴であった筈なのだが、その地位を明け渡してしまったと言うことであろうか。

   難しい話はともかく、私にとっては、読書とは、知識情報の収集と、その対決を通じて楽しみを味わっていると言うことのような気がする。
   読みたい本を探してその本と対峙しながら、知らなかったことや見えなかったことを発見し、新しい知の集積、難しく言えば、真善美へのアプローチとその発見、そして、その深化を感じながら、楽しみを味わっていると言うことであろうと思っている。

   尤も、このような知的な楽しみは、読書でなくても、いくらでも他の手段があるであろうが、しかし、素晴らしい本に、たった一人で、真剣勝負で対峙して、至福の境地を味わいながら、深い喜びを感じるような経験が可能なのは、読書を置いて他にはないと思っている。
   勿論、私が読む本の総てが、そのような本ばかりではなく、硬軟取り混ぜて、緩急自在に本を選びながら読書を楽しんでいるのだが、人生も、後それ程長くないとも思っているので、出来るだけ、無駄で無意味な本は読まないようには心掛けている。

   私自身の性分もあるのであろうが、暇があれば書店に出かけているので、本を読むことが、すなわち、私の人生の一部であるから、私には読書離れ現象などはないし、本のない生活など一日たりとも考えられない。

   この頃、本を読む時には、シャープペンシルと付箋・ポストイットを必ず携行していて、重要だと思った箇所には、鉛筆で傍線を引き、更に重要だと思うところには、付箋を貼る。
   更に、その内容の軽重によって、付箋の色を変えたり、ページの上や横や斜めなどの位置を変えて付箋を貼って行く。
   後で必要になると、この傍線部や付箋の付いたページを追っかければ良いと言う寸法である。
   当然、このようにして読む本は、専門書や学術書であって、小説や音楽美術など芸術書などには、傍線も付箋もない。
   そして、読み終えれば、最後の昔印税印が張られていたページに、その日付と旅先などの地名を書き込んでいる。

   昔は、アメリカでの留学時代に、マーカーを使っていたので、黄色の蛍光ペンなどで、重要箇所をマークしていたが、完全に本を壊してしまうので、大分前に、資料のマーク以外は止めている。
   尤も、今のように鉛筆で傍線を引き、付箋を貼れば、殆ど本を毀損しているようなものだが、消しゴムで消して付箋を取れば、少しは、現状復帰出来るという本への思いやりは残しているつもりである。
   
   これは、一人の読書人としての提言だが、学術書や専門書など知的水準の高い本には、必ず、索引を付けて欲しい。
   欧米の本には、必ず着いているのだが、日本の本は、索引の重要性を認知しない出版社が多くて、コスト削減のためなのか、素晴らしい専門書にさえ索引がない場合が多くて、著しく、その本の価値を貶めている。
   それだけ、文化文明度が低いと言うことであろうか。

   ところで、本の値段だが、最近、経済や経営学書の価格が、少し上がってきたような気がする。
   普通の単行本は、1800円くらいが平均であったが、最近では、少し、ページ数が増えたり、ベストセラーにはなりそうにないような専門書は、2400〜2500円が一般的となり、3000円、4000円と言った本も少なくなくなってきた。

   しかし、私の学生時代から考えても、専門書の価格アップは、精々、3〜4倍であり、他の物価の上昇よりは低いと思う。
   手元にある昭和37年4月28日発行のシュンペーターの「資本主義・社会主義・民主主義」が、46判298ページで、480円である。
   思いだすのは、もう、40年以上も前になるのだが、シュンペーターの「経済発展の理論」の第5巻が、1500円していたのを、買えなかったことである。
   京大の学費が、確か、年9000円くらいであったから、専門書はやはり高く、古本も、今のように、二束三文ではなかったのである。
   そんな時代であったから、蔵書は貴重であったし、蔵書する楽しみもあった。
   本離れなど、考えられなかった時代があったと言うことである。
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激安商品を生む逆イノベーション

2010年01月29日 | イノベーションと経営
   ニューズウイーク最新号のSCOPEのコラム「低価格」で、インドのタタ自動車の20万円の大衆車ナノやエイサーのネットブックを取り上げて、今や、イノベーションは、貧しい国の企業がイノベーションを行い、製品をアメリカに持ち込む「逆イノベーション」の時代になったと言うビジュー・ゴビンダルジャンの説を紹介している。
   この考え方は、既に、C・K・プラハラードが、「ネクスト・マーケット」で、貧困層を顧客に変える50億人市場を創設する次世代ビジネス戦略として克明に論じていて、このブログでも、何度か取り上げている。

   これらの製品は、新興国市場向けに作られているために驚くほど安く、節約志向の先進国の消費者にも魅力的に映り、43ドルの浄水器、70ドルの携帯冷蔵庫など新しいものが生まれていて、貧しい国だけではなく、世界中の国々にとって、逆イノベーションは、未来の原動力になると、ゴビンダルジャンは述べている。

   プラハラードの紹介で、真っ先に印象に残っているのは、ジャイプル・フットの義足で、20項目以上にわたっての比較でも、8000ドルもするアメリカ製の義足と同等かそれ以上の機能を備えた製品であるにも拘らず、たったの30ドルで、泥道の悪路を走ろうと、土間に座って作業をしようと、びくともしないと言うのである。
   これを慈善団体BMVSSが製作しているので、患者には無償で提供されていると言うのだから泣かせる。

   もう一つは、アビランド・アイ・ケア・システムの年間20万件以上の白内障手術を手がけると言うシステムで、患者の特定から手術、カウンセリングに至るまでの全工程を新しいプロセスを導入して実施し、白内障の治療に革命を齎している。
   ここの医師と看護師のチームの生産性は、米国と比べてもかなり高く、同じ手術を米国で受けると2600〜3000ドルするのだが、ここでは、50〜100ドルで済む。
   人工の眼内レンズをも製作していて、米国では200ドルするのを、ここでは5ドルで、輸出もしている。
   今では、研究、製作、教育訓練、遠隔医療も手がけており、手術の実務を研修したくて、ハーバード大の学生など、アメリカからも医学生や医師などが、わんさと詰め掛けているのだと言う。

   このような生産やビジネス・システムの構築以外にも、プラハラードは、近著「イノベーションの新時代」で、インドで快進撃を続けている銀行ICICIの金融・バンキング分野での次から次へと繰り出す斬新なイノベーションについても、紹介しており、インドにおける「逆イノベーション」の実態を語りながら、The New Age of Innovationの企業戦略を展開していて、興味が尽きない。
   
   この逆イノベーションは、言わば、クリステンセンの「ローエンド・イノベーション」の国境を越えた変形の一種だと考えられるが、アメリカ市場へ進出して、最底辺の市場を開拓しながらローエンド・イノベーションを追及して今日の大を築いた筈のトヨタが、欠陥商品のオンパレードで窮地に立っているのも、何かの皮肉であろうか。
   ゲマワット教授の「コークの味は国ごとに違うべきか」で展開されている国によって違いのある、フリードマンのフラット化した世界の向こうを張った差別化異質化市場を逆手にとって、その差異の中から生まれた底辺の逆イノベーションが、グローバル市場に攻め入る逆展開の現実は、非常に興味深いと言うべきであろう。

   袋小路に入り込んで、グローバル・スタンダード、デファクト・スタンダードを生み出せず、苦しんでおりながら、相変わらず、先進国市場ばかりを向いて、しかし、オリジナリティに欠ける後追いの持続的イノベーションを続けている日本。
   掛け声だけは、新興市場への事業拡大を歌っている日本企業だが、次世代市場戦略は、当然、成長を続ける高圧経済の新興市場であり、BOP市場に向かうべき筈なのに、経営感覚は、クオリティに五月蝿い国内や欧米等先進国の顧客志向。
   そうであればあるほど、逆イノベーションの趨勢を見誤ると大変だと言う認識は、常に持っておくべきだろうと思っている。

   尤も、ハイ・クオリティ志向で、徹底して高級市場を追求して行くと言う経営戦略が選択肢として当然あり、日本が目指すべきビジネス・モデルの重要な柱であるべきだが、クリエイティビティと高度な感性の求められるもっともっと厳しい世界であり、未踏のブルー・オーシャン市場の開拓である筈なので、更なる挑戦が求められる。
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カワセミを追うアマチュア・カメラマン

2010年01月27日 | 花鳥風月に想う・日本の旅紀行
   久しぶりに、愛犬リオとの散歩道でもあった近所の川に、カメラを持って出かけたら、何人ものアマチュア・カメラマンに出会った。
   勿論、被写体はカワセミだが、急に、カワセミ・ファンが増えたような気がした。
   この印旛沼近辺の川や池、田んぼの用水路などにも、そして、佐倉城址の堀にもカワセミが飛んでいるようで、あっちこっちを回って、カワセミを追っかけているのだと言う。
   
   私などは、近所だから、天気がよくて気持ちのよい日に、ひょっこり出かけて行けば済むのだが、結構遠方から自動車で来ている人も居て、何時も会っているのか、お互いに知り合いのような雰囲気である。
   カワセミに名前を付けていて、太郎が川下に飛んで行ったとか、今日は、花子が居ないとか、情報交換をしているのだから、年季が入っている。

   大体、定年をむかえてフリーになった人が多いようで、毎日のように来てカワセミの写真を撮っているセミプロ級の人も居て、この人たちは、カワセミが水に飛び込んで魚をとる姿や、飛び去る瞬間のホバリングと言った動的な写真を狙っている。
   自慢のショットをプリントしていて見せてくれるのだが、流石に上手で、決定的な瞬間のよい写真を撮っている。
   カメラを手持ちのままオートフーカスで連写する人も居るようだが、本格的になると、三脚ないし一脚を立ててカメラを構えて、露出など撮影条件を事前に設定して置きピンで連続シャッターを切るようである。

   この川は、印旛沼に流れ込んでいるようだが、犬の散歩道で、私など、以前は、犬仲間と知り合いで挨拶を交わしていたのだが、結構、最近では、老年の夫婦連れや年配の女性の散歩姿を見かけることも多くなった。
   周りが田んぼのオープンスペースで、冬には、川面には、あっちこっちに鴨がいて、水辺から白鷺が飛び立ち、空には鷹が舞っていると言った長閑な雰囲気で、第一、自動車が通らないのが良い。

   ところで、私のカワセミ写真だが、カワセミがススキや潅木などの小枝に止まっているところを見つけて、手持ちカメラを向けてオートフォーカスでシャッターを切ると言った極めてずぼらな手法で撮っているので良い写真が撮れる筈がない。
   他のカメラマンが居れば、カメラを構えているので、そこに行けば間違いなくカワセミが居るので楽だが、一人の時には、川岸を歩きながら、ブルーの点を探したり、時には、急に飛び立ったり、川面を滑るように飛んで行くので、その後を追っかけて止まったところへ行って撮ると言う寸法である。
   元々、散歩のつもりで出て来ているので、居なかったら居なかったで、執着せずに帰ってしまうのだが、熱心なカワセミ・ファンのアマチュア・カメラマンの薀蓄話を聞くのも面白いので、しばらく、同行しながら話し込むこともある。

   問題は、やはり、カワセミまでの距離で、上手くいけば5メートル近くまで寄れることがあるが、大概、対岸だと10メートルくらいの距離になって、ピントが甘かったり手ぶれだと写真にならない。
   いくら手ぶれ補正のデジカメだと言っても、私には、300ミリ(実質450ミリ)の望遠レンズが精一杯で、それ以上だと手持ち撮影は無理である。
   この口絵写真のメスのカワセミは、暗い川面をバックにしており、時には、日照りの小枝に止まったり、とにかく、露出条件は色々なので、私などカメラ任せのオート撮影だが、止まっているから良いものの、動きのあるカワセミを撮る為には、シャッター速度などこまめに調整する必要があるのであろう。

   昔、サンパウロに居た頃、森林公園などに出かけて、良く、ハチドリの写真を撮った。
   まだ、デジカメなどなかった頃で、Nikon F2に135ミリの中望遠レンズで撮っていたのだが、今なら、このデジカメ一眼レフで、素晴らしい写真が撮れるのにと思うと、一寸、残念な気がしている。
   何のことはない、ハチドリは、ホバリングしながら、一点に静止したまま、蜜を吸うので、カワセミのように苦労しなくても、誰でも、決定的瞬間の写真を撮れる筈なのである。
   尤も、下手で駄目な写真であっても、自分が撮った写真だから愛着が湧くのであって、性懲りもなくシャッターを切り続けるのも、いつか良いショットを狙えるかも知れないと思っているからであろうか。
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ポール・スタロビン著「アメリカ帝国の衰亡」(2)・・・世界政府の実現?

2010年01月26日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   スタロビンは、アメリカ後の世界を展望したシナリオで、最も実現する可能性の高いのは、「世界政府」の実現ではないだろうかと言う。
   歴史を振り返って見れば、そのようなプロセスを辿って誕生した国家や文明が存在していた、それは、アメリカ合衆国でありEUである。
   アメリカは、一世紀の間、イギリスから独立して共和国になるまでにも、アメリカとしてのアイデンティティを維持していたし、EUに統合されたヨーロッパ諸国でも、すでにフランスやドイツと言うよりヨーロッパとしてのアイデンティティが高まっていたと言うのである。

   グローバル化が進んで、全世界のあらゆる地域、あらゆる人々が共有すると言う意味の普遍的な「世界文明」が生まれれば、いずれ「世界政府」を生み出す可能性が高くなるのだが、カギとなるのは、「世界の一員」だと言うアイデンティティを持つ人々や組織が、いつ「臨界点」を超えるかである。
   ダンテが、「饗宴」の中で、もし世界に絶対君主が一人しかいなければ、戦争も戦争の原因もなくなり、世界は平和に保たれると言ったとか、
   50年代のアメリカを、「近代的で効率的な社会発展の手本」と考えていたタルコット・パーソンズの「構造機能主義」を引いて、「社会機構は、欲求不満を解消するために、自ら社会に適応し、進化する。その結果、効率よく合理的に諸問題を解決できるようになる」として、その後、EUが生まれたので、あながち夢物語ではないと言う。

   スタビロンは、世界文明と世界政府を実現するための道のりとして、三つのモデルを指摘する。
   第一は、「商業の道」。多国籍企業の経営者や法律家、エコノミストなど「世界経済主義者」たちが、既に、世界を一つの大きな「市場」と看做して、ビジネスの効率化を図るため、共通の運営ルールつくりを目指している。
   第二は、「人権の道」。国籍を超えた社会活動グループなどが、国民国家体制に基づく現在の法律システムを、世界的な法律システムに変えようとしている。
   第三は、「地球の健康を目指す道」。「地球温暖化」など世界共通の環境問題に関して、世界の活動家や政府が集まって知恵を出し合い協力し行動を起こしている。

   最初の「商業の道」が一番現実的で、国際会議の重要性、世界貿易のグローバル化、WTOなどの国際機関組織の活動、国際テロ対策などへの世界中の法執行機関の協力体制などを考えれば、国際ビジネスや経済活動の現場では、法律も既に複雑で巨大な国際システムの中に編み込まれつつあり、後戻りが利かなくなっている。
   
   グローバル経済体制を上手く機能させるためには、スタビロンが指摘するように、普遍的な法体系の確立が必須であろう。
   特に、現在の資本主義下において、多くのグローバル企業が、既に世界を一つの市場として活動している現状に鑑み、世界的な統一商法典の実現は、不可欠である。
   それに、国際会計基準は、かなり進展を見ているのだが、ソロスが指摘する世界経済の秩序を守る「保安官」制度の確立や、メルケル首相の提言するグローバル・ベースでの「規制システムの標準化」など、解決すべき課題は、山積している。
                                     
   第二の「人権の道」は、これまで一番不完全だと言われていた「倫理面」での法体系の確立をどう進めるかであろうか。
   1948年に国連で「世界人権宣言」が採択されたが、確実に遂行する具体的な仕組みがなかったので、現実には、アムネスティなどのNGOの活動が先行している。
   しかし、画期的な進展は、2002年オランダのハーグに、「国際刑事裁判所(ICC)」が設置されたことで、アメリカは調印していないが、もし調印すれば、アルカイダの容疑者に対する水責めの拷問に対して疑惑の責任者を裁きたいとなれば、ブッシュやチェイニーも穏やかでは居られなくなる。
   最早、世界の人々は、アメリカを「世界の警察官」とは認めていない。グローバル・ベースで、正義を求める強い要求が、世界政府の法体系への道・「超国家的な司法システム」の確立に向かって動き始めているのである。

   (第三の「地球の健康を目指す道」については、私自身、地球温暖化ガスの充満で、既に、チッピング・ポイントに近づきつつあり、宇宙船地球号の運命が風前のともし火だと言う認識なので、この道での世界政府の樹立などと言った悠長な気持ちになれないので、コメントは省略する。)

   面白いのは、自由主義の「世界政府」を生み出す源泉は、アメリカではなく、ヨーロッパだと言うスタロビンの指摘である。
   ヨーロッパ諸国は、以前から、地球温暖化問題や人権運動にも積極的に取り組み、従来の国民国家の枠を超えようと大きな試みに挑戦しEU統合を実現した。それに、アメリカのようにメルティング・ポットとして同化した「新しい人種」を生み出したのではなく、民族的、言語的多様性を残してそのまま包含して「多文化社会」を実現している。

   もう一つ、東洋の文明も大きく貢献するとして、「物質的な欲望」を抑制して精神的な価値に重きを置く仏教などの東洋の宗教が、「地球温暖化」や「化石燃料の枯渇」と言った問題が深刻化すれば存在感を増す。肉体と精神を別のものだと考えがちな欧米型の医療の限界も見え始めており、益々多くの欧米人が、東洋の崇高な知恵に目を向けるであろうと指摘している。

   さて、私自身の考えだが、アメリカの弱体化に伴って、世界権力構造が多極化して行くものの、当分の間は、国連や各種の国際機関や組織などの国際交流の場を舞台にして、G5程度の数の中核国を中心に、G20が取り巻き、多くの協議と試練を経ながら、世界政府を志向した法体系などグローバル・システムが、形成されて行くことになるような気がしている。

   世界政府の思想は、私が、宝塚中学の図書館で見つけた単行本「世界連邦○○○・・・」に触発されて、大学生頃まで、興味を持って勉強してきたテーマで、私の青春のメロディでもあった。
   これまでの長い人生で、世界中を飛び回って経験してきた思い出を噛締めながら、改めて、あの時、真剣に平和とは何かを考えていたことを思い出す。
   ほかに、宝塚中学時代で、もう一つ忘れられない思い出があるのだが、六甲連山の片隅に、鉄兜のような綺麗な形をしていた甲山の姿を眺めながら、武庫川の急流に思いを馳せていたあの頃が、無性に懐かしい。
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バタフライ効果反転の予言と菅谷事件

2010年01月24日 | 政治・経済・社会
   「イーリアス」に登場するヘレノスは、過去を正確に予言した後ろ向きの預言者であったと、「ブラック・スワン」のタレブが、面白い話をしていて、未来を見通すよりも、歴史をリバース・エンジニアリングすることの方が、如何に難しいかを説いている。
   解ける角氷の例をあげて、一つは、床の上に置いた角氷が解けた後の水溜りの様子の予測で、もう一つは、床の上の水溜りの水がどこから来たかの推測で、その違いを論じている。
   前者の前向きの過程の予測は、かなり正確に可能であるが、後者の水溜りから元の角氷の形を予測する後ろ向きの過程は、無限の可能性があり、ましてや、その水の元が角氷ではなかったとすると、推測など殆ど不可能に近い。

   もう一つ例に挙げているのは、ロレンツの「バタフライ効果」である。
   インドで蝶が羽ばたくと数年後にノース・カロライナでハリケーンが起こると言うあれだが、逆に、ハリケーンは何故起こったかの推測の方は、それを引き起こす要因は無数にあり、ハリケーンから蝶へ辿り着く過程は、蝶からハリケーンへ辿り着く過程よりもずっと複雑で推測困難である。
   このバタフライ効果は、複雑なシステムでは、非常に特殊な条件下で、ランダム性がなくても小さな原因で大きな結果となることを示しており、日本の「風が吹けば桶屋が儲かる」と合い通じる考え方であろうが、先の二つの予言の違い、その意味合いは、極めて大きい。

   歴史の仕事に伴う不確実性やランダム性は、現実的には、不完全情報のことで、不知、すなわち知らないことに過ぎないのだが、このために、世界は不透明でぼやけて見えて、騙されてしまうのだとタレブは言う。
   懐疑主義的経験論者の歴史家の世代の到来を待つべきだと言うのだが、難しい話はさておいて、真実は一つであっても、繰り返しの利かない歴史のリバース・エンジニアリングは、焼いた卵を元の卵に戻せないのと同じ仕組みで、非常に難しいので、おいそれと、手を出すべきではないと言うことであろう。

   これを読んでいて、冤罪に問われて、17年半も人生を棒に振った菅谷利和さんの足利事件を思い出した。
   ラーメンを美味そうに啜りながら、幸せを噛締めている菅谷さんの実直そうな笑顔を、TVで見て堪らなくなってしまったが、
   今から考えてみれば、唯一つの証拠、検察は、不完全なDNA鑑定の結果を根拠にして、菅谷さんを罪に落とし込んで行ったとしか思えず、真犯人を野放しにして、事件の解決を反故にしてしまった。
   菅谷さんの願いにも拘らず、事件を担当した森川大司検事が、「当時の全証拠を検討した結果、犯人に間違いないと判断し、起訴した」と言って謝らなかったと言う。
   タレブの本など、読まないのであろうと思うが、これを是とする社会なら、日本の明日は暗い筈である。
      
   アガサ・クリスティやシャーロック・ホームズの世界なら、読んで楽しめば済む話だが、人を裁くことの恐ろしさを感じると、身の毛がよだつ思いである。
   今、小沢献金偽装(?)事件でも、検察捜査の動向が注視されているのだが、このケースの推移はともかく、警察国家的な傾向が目立つような社会にだけは、戻って欲しくないと思う。
   世界の警察を自認して、我が物顔に君臨していたアメリカも、経済力の陰りとともに、後退し始めている。
   
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デフレーションと100円ショップ

2010年01月23日 | 生活随想・趣味
   日本経済も、再び、デフレ局面に入ったとかで、二番底が警戒され始めている。
   しかし、私が学生だった頃は、インフレと不況が同時進行するスタグフレーションを勉強していた。実際にも、1970年代以降、アメリカ経済もこれに悩まされて、現在、再び表舞台に登場したボルカー元連銀総裁が、果敢にインフレとの戦いに明け暮れていたのだが、そのインフレ退治の後、本格的なデフレ不況に突入したのは、日本である。

   100円ショップを愛用している近所の子供に 、物価が上がるインフレが良くて、ものの値段が下がって安くなるデフレが何故悪いのか、おかしいではないかと聞かれた。
   インフレも、戦後のように、ハイパー・インフレになれば悪いことや、日本が経験したデフレ・スパイラルの恐ろしさなどを、易しく説明したのだが、しかし、物価が下がることは、決して忌むべき悪いことばかりではない筈である、と言う気になったのである。
   
   私は、アメリカ留学時代から、一昨年のニューヨーク旅まで、何度もアメリカを訪れているのだが、為替レートの問題もあるが、アメリカの消費者物価が特別上がったと言う感じは殆どしていない。これは、自由市場経済が徹底しているアメリカ特有の現象で、輸入可能なものやサービスの相当部分が海外調達で占められている所為ではないかと思った。
   アメリカは、自由経済下でのマーケット原理が働いており、世界各地から最も安いものを調達する経済である。それに、ウォルマートを筆頭に各種の商業流通革命が進行して価格競争が激化し、全産業に及ぶIT革命による生産性の向上がこれに呼応し、更に、グローバリゼーションの進展で中国やインドなどの価格破壊が追い討ちをかけてきたのであるから、物価がおいそれと上がるような状態にはなかった。
   このような経済構造の大変化によって生じる物価の安定ないし下落は、貨幣的な現象でもないし、実需不足によって発生するものでもなく、むしろ、経済の効率化と生産性の向上の結果であって、経済にとっては、好循環であった筈だと言うことである。
   尤も、アメリカでも、この変革や価格下落に対応出来なかった産業や企業、労働者などは、要素価格の平準化定理が働いて、破壊的な被害を被り、格差拡大など、深刻な構造問題を惹起していることも事実である。

   ところで、日本の現在のデフレ問題を、どう考えるかと言うことであるが、アメリカと同じような現象が起こっており、世界経済のグローバル化に対応できなくて、経済不況の煽りをモロに受けて、中国など新興国経済の攻撃を、受けて立てなかった日本経済の脆弱性にあるのではないかと言うことである。

   私は、時々、100円ショップに出かける。買うのは、シャープペンシルの芯とかポストイット様の付箋、それに、ガーデニング用のプラ鉢などなのだが、簡単な文房具などは、三菱やとんぼと言った日本製でないと買わないのだが、しかし、よく見ると、プラ鉢もそうだが、商品の大半は、made in Chinaである。
   ウォルマートの商品の過半は中国製で、何兆円分を、2基の人工衛星管理で調達していると言うことだが、中国製品の日本での価格破壊も、随分、以前から、100円ショップで展開されている。
   人件費などが安くて、恐らく、日本の5分の1や10分の1のコストで生産可能であろうから、日本のメーカーが容易に対抗出来るわけはなく、ショップから見れば、シュンペーターの「原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得」であるから、れっきとしたイノベーションである。

   このように、グローバル市場からの挑戦を受けた価格破壊に対しては、その上を行くイノベーションなどによって生産性の向上を実現してコスト競争力を高めるとか、ものやサービスに更なる付加価値をつけてブルー・オーシャンを狙うとか、とにかく、有効な対抗手段を見出さない限り勝ち目がない。
   すなわち、一人勝ちの快進撃を続けているユニクロのような絶えないイノベーション戦略を追求して、「ユニクロ効果」を実現持続する以外に道はない。
   平たく言えば、価格競争力からだけ考えても、デフレによる物価下落率以上の生産性の向上がなければ、その企業は、市場からの競争力を失い、人件費の削減とかコストを切り詰める以外に生きる道はなくなる。
   このような閉塞状態が、日本経済全般に広がり、更に、需給ギャップが異常に拡大し、実需が35兆円以上も不足しているのであるから、日本経済は、正に、危機的な状態に陥ってしまっている。

   もう一度、最初の「物価が下がることは良いこと」だと言う問題に戻るが、個別のメーカーにとっては、需要の落ち込みがなくて、デフレ率以上の生産性の向上を実現出来るのであれば問題はなく、更に、コスト削減や差別化が出来て売り上げ増が可能であれば、デフレ下でも好循環は可能であろう。
   この状態を、その国の経済全体で実現出来るのなら、(尤も、物価下落を見越した買い控えなどイレギュラーな事態がないと言う前提だが)、デフレも悪くはないのかも知れないが、しかし、現実には、日本では、個別企業のみならず、経済全体が、強烈な価格破壊に対応できず、更に、デフレスパイラルの進行で、益々、需給ギャップが拡大して行く現状であり、悪化の一途を辿るとしか言いようがない。

   100円ショップで、事務用ハサミを買った。
   燕市のエコー金属発売のシリコンコーティング加工のスマートなステンレスのハサミで、105円では考えられないような立派なハサミなのだが、made in Chinaである。
   このことが、日本の製造業、特に、雑貨に近い消費財メーカーの苦境を如実に示しており、グローバル経済下での要素価格平準化定理の猛威の恐ろしさを実感せざるを得ない。
   政府の中小企業対策や雇用維持政策などのややピント外れの経済政策が、どこまで効果を発揮するのか、本当は、日本人全体が総力を結集して、経済構造を抜本的に改革しない限り、付け刃に過ぎないのにと思いながら、暗い気持ちになっている。

   もう一つの価格破壊、ブックオフで、一冊、105円で買った本。
   伊藤元重著「入門 経済学 第2版」 日本評論者 3000円+税
   デビッド・S・ポトラックほか著「クリック&モルタル」 SE 2000円+税
   夫々、初版は8〜9年前の出版だが、完全な新本で、前者は、簡単な資料、後者は、ミスっていた好著。

   100円ショップも、ブックオフも、ビジネスモデルの変革による価格破壊の旗手だが、バブルを知らない経済不況下で生まれ育った若者たちで賑わっている。
   豊かになった筈の日本のもう一つの現実である。
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東京の交響楽団の定期会員雑感

2010年01月22日 | 生活随想・趣味
   昨夜、上野文化会館での東京都交響楽団の定期演奏会に行ってきた。
   井上道義指揮による「日本管弦楽の名曲とその源流シリーズ」で、前半は野田暉行のコラール交響曲とピアノ協奏曲で、後半は、ブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」とベルクの「ルル組曲」で、私には馴染みのないプログラムだったが、観客の入りは良かった。
   面白いのは、ブリテンの「鎮魂交響曲」で、1940年の「紀元2600年奉祝会」のために日本政府が委嘱した作品だったのだが、キリストの典礼による内容が天皇に対する不敬とされ、作曲料7000円は支払われたものの、演奏されずにつき返されたと言う。
   当時、ヒットラーがチェコに進出しポーランドに侵攻するなど欧州が風雲急を告げていた最中に、それも、後に戦争レクイエムを作曲するようなブリテンに奉祝音楽を依頼するなど常識では考えられないのだが、作曲された作品が、先の世界大戦の多くの悲惨な死を悼み「両親の思い出に」重ねて楽想されたレクイエムとは、日本の将来を見越した凄いアイロニーだとしか思えない。

   しかし、この曲だが、太鼓連打に始まり、白石美雪さんの解説によると、「著しい緊迫感と悲痛な情感、行進の不穏な歩み、洗い清められたような透明な楽想が楽章ごとに対比をなし、思いの深さに圧倒される」良い作品である。
   私は、昔、ロイヤル・オペラで、「ピーター・グライムズ」を見てからブリテンを敬遠し、その後、ベルクの「ルル」や「ウォツェック」なども見たことがないのだが、昨夜の演奏会で、一寸、認識を改めなければならないと思った。 

   さて、東京に、確か8団体くらいの交響楽団があるようだが、それぞれ、年に8〜9回の定期演奏会をメインにしたシリーズを組んで会員を募り、活動を行っているようである。
   ようであるというのは、私自身、2〜3のオーケストラしか知らないので何とも言えないからである。
   今、現在、新日本フィルと都響の定期会員だが、新日本フィルは、小澤征爾のコンサートを聴くために入ったので、もう15年以上続いているが、数年前から小澤のプログラムがなくなってしまっているで、継続をどうしょうかと思っている。

   私が、最初に定期会員になったのは、NHK交響楽団で数年続いたのだが、その後、海外に出てしまった。
   今でも、N響を聴きたいとは思っているが、千葉からでは、とにかく、会場が遠いのが難である。

   海外では、チケットの取得が難しいので、真っ先にチケット・ボックスに出かけて、定期会員チケットを手配したのが、フィラデルフィア管弦楽団であった。
   その後、ヨーロッパに移ったので、アムステルダムで、ロイヤル・コンセルトヘヴォーの定期会員権を取得した。この時は、現代音楽主体のシリーズも含めて、3シリーズ手配したのだが、結構、忙しくて、出張に出たりして行けなくなることが多くて、それほど回数が多いとも思わなかった。
   ところで、この2交響楽団については、定期会員権を、子供から孫へと継承する会員が多くて、その上に、会場が比較的こじんまりしていたこともあって、殆ど、市場には出ないために、大変取得が困難であったので、良いプログラムだからチケットを手配しようと思っても出来ないケースが多かった。
   当時の感覚では、かなり安かった所為もあり、とにかく、前もってチケットを抑えておくに如くはなかった。

   ところが、ロンドンに移った時には、ロンドン交響楽団の定期会員になったのだが、更改を忘れていると、催促の電話が架かって来たくらいだし、バービカンセンターの会場も広かったので、チケットの手配には、それ程苦労はなかった。
   定期ではなかったが、フィルハーモニア管弦楽団やロイヤル・フィルなどにも出かけていたし、それに、ロイヤル・オペラはバレーと交互ながら、そして、イングリッシュ・ナショナル・オペラも毎日公演しているし、世界中から来る名だたるオーケストラが、毎夜の如く演奏会を繰り広げているので、結構出かけたけれども、特別な場合を除いては、それ程、チャンスをミスることはなかった。
   ウィーン・フィルやベルリン・フィルなどのチケットも、それ程、高い値段ではなく、比較的容易に取れたし、ロイヤル・オペラも、同じように、家内と定期会員に入っていたので、オペラやバレーも、それなりに楽しめた。

   日本の定期会員の場合にも、30%くらいは安いので、1〜2回ミスっても、損にはならないのだが、ロンドンでは、日本の感覚よりも安かったし、それよりも、魅力的な公演をミスる方が心配だったので、定期会員券の魅力は、それなりにあったような感じがする。
   尤も、パバロッティやドミンゴなどは、別枠で、この方は、結構取得困難か、または、高いかで、それなりの苦労はあった。
   日本の場合には、そのようなケースは、まず、殆どないので、定期会員の場合の魅力は、お馴染みのオーケストラのチケットが、比較的安く手に入って、労せずして同じ席で、気楽にコンサートを楽しめると言うことであろうか。

   この新日本フィルと都響の定期公演のコンサートには、やはり、クラシック音楽ファンが主体なので、おかしな所で拍手したりするようなことはまったくなく、非常に、観客マナーの良い演奏会だと思っている。
   ところが、新日本フィルの場合には、毎回、同じ人が隣や近くの席に座っていてお馴染みと言う感じだが、都響の場合には、会場の広さもあるのだろうが、私の席の隣もそうだが、かなりの人が入れ替わっており、私のように、何時も同じ席に座っているファンは比較的少ないような感じがしている。

   ところで、会場で、同オーケストラや、当日のゲスト指揮者やソリストなどのCDやDVDが売られているのだが、買っているファンが、結構多い。
   私など、もう少し若くて、海外に居た時には、会場でCDや本を買って、サインを貰ったりしていたのだが、この頃は、歳の所為か、DVDは別だが、殆ど、新しいCDを買わなくなってしまった。
   新日本フィルは、ロビーで、CD以外に、結構色々な面白いグッズを売っている。文化会館の売店は、特に、都響グッズと言うようなものは扱っていないようだが、外国のオペラハウスなどには、立派な売店があって、色々趣向を凝らしたキャラクター商品やグッズを売っていて、客で賑わっているし、結構楽しいのである。
   日本の楽団経営も、何か、ファンを惹きつけるような斬新なアイディアを出せないものだろうかと思ったりしている。
   
   
   
   
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ナシーム・ニコラス・タレブ著「ブラック・スワン」・・・経済予測など当たる筈がない?

2010年01月21日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「ありえない」なんてありえない! 不確実性とリスクの本質を説いたと言う「まぐれ」の著者タレブのこの「ブラック・スワン」は、非常に面白い。
   全編示唆に富んだ素晴らしい本なので、さすがに、ベストセラーだが、今回は、経済学者の予測が何故当たらないのか、日ごろ疑問に思っていたことを、鮮やかに論破しているので、この点について、コメントしてみたい。

   この記述は、予測のスキャンダルと銘打った章で論じている。
   まず、生まれつき人間は、外れ値、つまり黒い白鳥を過小評価する性質が備わっていて、知識に対する自惚れがあるので、これによって、まれな事象は、見込み違いに大きく左右され、普通は深刻に過小評価されているが、時々深刻に過大評価される。と言う。
   黒い白鳥と言うのは、世界中の人々が、全て白鳥は白いと信じていたのだが、オーストラリアに黒い白鳥がいるのが分かって、その定説常識が覆されたのをタレブが象徴的に使って、
   以下の三つの特徴を備えた事象を指すとして、如何に、我々人間の思考、推測や予測に影を落としているかを説いていて興味深い。
   すなわち、異常であること。とても大きな衝撃があること。異常であるにも拘わらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当に説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまう。

   タレブは、オナシスが仕事をするのに使った道具は、必要な情報を全部それに書いたノートだけで、仕事机もオフイスもなかったとして、「まぐれ」の効果とともに、「日々の仕事の細かなことを知っても無駄だし、実際毒になる」と言う命題は、学術的調査実験でも実証されているとして、情報は知識の妨げになると言うのである。
   推測も予測も同じだが、仕事で予測をする人は、その方面での勉強や教育や経験でのうぬぼれが過ぎているので、そうでない人より、いっそう前述の精神の障害が酷いので、その予測が当たらない。経験上の現実について得る情報が詳しくなればなるほど、目にするノイズも多くなり、それを情報だと勘違いして物語を作り上げて、追認のバイアスと判断への固守が災いして、そのアイデアを捨て切れずに、予測を誤る確率が高いと言うことらしい。

   情報が増えても予測の精度は高まらないのに、自信だけは目に見えて増幅して行くのだが、専門家には、情報が毒だと分からなくて、多ければ多いほど良いと言う信念があり、この情報の毒性が検出される。
   面白いのは、仕事を二つに分けて、専門家が何か役割を果たせる仕事と、果たせるとの証拠が見られない仕事があり、後者の専門家が専門家でないケースとして、経済学者、金融予想屋、ファイナンスの教授、政治学者、リスクの専門家等々経済金融に関わる専門家を列挙していることである。

   タレブは、さらに辛辣で、モルガン×××などと言った著名データ提供会社の、7桁の年収を稼ぐスーツを着た「著名エコノミスト」たちが、数字を計算したり予測を作ったりする研究員を後ろに従えて、スター扱いで、子々孫々までも記録が残るのに、馬鹿だから、自分の予想を公然と発表する。愚かにも、金融機関や研究所などが、翌年を占った「20××年の見通し」などと言うタイトルの小冊子を作るのだが、調べもせずにそんな予測に乗る一般人は、連中に輪を掛けて馬鹿かも知れないと言う。
   日経新聞社を筆頭に、年末年始に掛けて、嬉々として、この方面の特集記事を新聞雑誌などメディアや各種機関などが、巷にばら撒くのだが、タレブから言うと、害毒以外の何ものでもないと言うことなのであろう。

   ところで、エコノミストの予測に、それを相殺しようとする政府の経済政策などのフィードバック効果が働くために外れるのだと言う論点に対して、タレブは、それが原因ではなく、世界は複雑過ぎて彼らの学問では歯が立たないからだと言う。
   エコノミストは、予想が外れると、地震や革命の所為にして、自分たちがやっているのは、測量学でも気象学でも政治学でもないと言うのだが、自分たちの学問が、そういう分野と切り離せないのを認めて、そういう分野を取り込もうと絶対にしない。経済学は、学問の中でも、一番孤立した分野で、仲間内以外から一番引用されない分野でもあり、今、俗物が一番闊歩している学問と言えば、多分経済学だとまで言うのである。
   これとの関連で面白い指摘は、オタク効果の威力で、モデルに乗らないものを無視し、自分の知っていることばかりに焦点を当てるリスクで、自分は、モデルの内側からしかものを見ないので、不測の事態を惹起する計画や予測に織り込まれなかった予期せぬ要素、すなわち、使っているモデルの外側にある要素を無視することの弊害である。

   もうひとつ、アンカリングと言う何かアンカーとなる数字があると、不確実性に感じる不安を抑えるために、予測が、その数字に引っ張られることで、何時も感じる「日経景気討論会」の「専門家」の景気予測数字が、その時点での数字に影響されて、プラスマイナス殆ど差のない予測数値に収束していて大概外れることを考えれば、この説が当たっており、更に、これまでのタレブ論が正鵠を得ていることが良く分かる。

   長期予測で、2000年から翌年にかけて、金利がたった一度、6%から1%下がるのを予測できなかっただけで、その予測が完全に無効となったが、重要なのは、どれくらいの割合で正しいことがあったかではなく、累積の誤差率がどれだけ大きいかだと言う。
   この累積誤差率は、予期せぬ大きな出来事や大きなチャンスに大きく左右される。
   どの分野の予想屋もそんな出来事を当てられないし、他人とかけ離れることを恐れるのでそんな予測をするのも嫌がるのだが、事件と言うのは、起こってみれば殆ど常に突拍子もないものなのである。
   結局、経済予測が当たらないのは、予測の外にある最も重要な要因である筈の黒い白鳥を正確に把握出来ないような予測であるから、当たらなくても、当然だと言うことであろうか。

   タレブは、TVを見たりや新聞を読んでは駄目で、本を沢山読めと言う。
   小沢がどうだ、鳩山がどうだと言ったTVや新聞雑誌の報道漬けで、連日連夜毒されておれば、日本人の頭がおかしくならないのがおかしいということであろうか。
   自民党の嬉々としたハッスルぶりが出色だが、これまで自分たちがやってきたことを暴露するだけで攻撃材料になるのだから当然だと思うのだが、使命感とモラルの低下は覆い隠すべくもなく、やはり、政治は二流。坂の上の雲を目指して頑張っていたあの頃の高邁な日本魂が何処へ消えてしまったのか、NHKも、坂本龍馬だけでは駒不足で、年末と言わずに、「坂の上の雲」の第二部を、繰上げ放映して、今の政治が、如何にお粗末極まりないかを浮き彫りにすべきではなかろうかと思っている。
   
   
   
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今日のアメリカのスプートニクは中国の台頭・・・トーマス・フリードマン

2010年01月19日 | 政治・経済・社会
   ニューヨーク・タイムズのコラムで、トーマス・フリードマンは、いまだに、オバマ大統領が、国際テロリスト対策に弱腰だと非難しているチェイニー前副大統領などに対して「いい加減にしろ」と言わんばかりに、アメリカの中東からの撤退を強烈な調子で提言して、
   今日のアメリカが、真剣になって直面すべきは、21世紀のスプートニク打ち上げにも匹敵する中国の台頭に向かって邁進することで、50年前に、ロシアのスプートニクをアメリカに対する最大の挑戦と受け止め、全米一丸となって、教育やインフラや科学を再構築すべく国家的な努力に結集した、あの思いを蘇らせることだと熱っぽく論じている。

   まず、中東問題へのコメントだが、
   アフガニスタンから撤退し、アルカイダ問題はパキスタンに解決させ、イスラエルとパレスチナの平和問題は両国で解決させ、輸入石油から脱却するために1000億ドルの国防予算を削減し、オサマ・ビン・ラディンへの報奨金を価値並みに減らせと説く。
   尤も、フリードマンは、単なる撤退を説いているのではなく、テロとの戦いのために現地の人々やリーダーを助けるべく方針転換するべきだが、彼らが、自分たち自身で主体となって、自分たちの国の未来を切り開くために、狂乱状態と戦って解決すると言う確固たる意思がなければ駄目で、それが出来なければ、隔壁として、高い壁を築いた方がましだと言うのである。
   
   ワシントンポストのブルース・ホフマンのエッセイを引用して、
   50年前に、フルシチェフがアメリカを葬ってやると言ったように、アルカイダが、グローバル金融危機の最中に、経済戦争を仕掛けて、破産させてやると言っているが、彼らならやるであろうとコメントしている。
   中東におけるアメリカの存在、石油依存、果てしない海外援助が、かの地の政情悪化を招き、当事者たちの責任と説明責任を回避させ、悪ければ、全てアメリカの責任だと言われる元になっている。
   当地の多数の穏健派に、自分たちの敵は自分たちで打ち倒すことを任すべきで、イランやイラクで、彼らの勢力が強くなり自分たちで戦い始めているのに期待していると言う。

   このコラムは、台北からの発信で、大華僑中国圏(Greater China Region)に来ると、いつも、香港や台湾や中国のリーダーたちが、アルカイダの爆破騒ぎでアジェンダを掻き回されているわが大統領よりも、自国の発展のためにどうすれば良いか、もっともっと多くの自分たちの時間を傾注して努力しているのが羨ましく感じると言う。
   
   かっては何十年間も、お互いにミサイルの銃口を向け合いながら対峙し、風雲急を告げていた台湾海峡だが、この2年間に、急速に中国と台湾の国際関係が良くなり、経済協力、直行便の開通、留学生交換などが実現した。
   台湾は、石油もなければ天然資源もない。2300万人の人が岩山にしがみ付き、必死になって働いて世界第4位の外貨保有国になった。彼らは、自分たち自身を啓発して、企業家精神を発露させ、自分たちの努力と責任で、今日を築き上げたのだと言う。

   中東の再生復活、そして、更なる発展のためには、人々が、この台湾のような自助努力による成長戦略を見習って、自分たち自身の問題として国家建設に邁進する以外にないと言うことだろうが、あまりにも長い間、その道を、アメリカ自身が妨げて来たのではないかと言うのが、フリードマンの問題意識でもあるのであろう。
   ブッシュなどは、中東の民主化のためと言う御旗を掲げていたが、目的の大半は、石油の確保であり、イスラエルの支援であったのであろうから、元々、方向が違っていた。
   そのアメリカが、経済力が疲弊してしまって、ない袖が振れなくなって、例えば、旧ソ連圏に楔を打とうと、グルジアやウクライナなどに茶々を入れたのだが、息が続かず、世界戦略も、少しずつ暗礁に乗り上げつつある。

   このコラムのタイトルは、「What's Our Sputonik ?」。
   ジョンズ・ホプキンスのマイケル・マンデルバウムの言葉を引用する。
   「スプートニクへの挑戦によって、アメリカは、教育の質を向上させ、より生産性を高め、技術的にも向上し、より独創的ななった。科学や教育に対する投資が、インターネットを開発し、より多くの学生に数学を学ばせ、国民を国家建設に邁進させることとなった。
   スプートニクは、我々を鼓舞して、未来へのハイウエイを構築させた。
   しかし、テロとの戦いは、何処へも橋を架けることを促さない。」
   早くしないと間に合わない。カネも、時間もない。

   アメリカの落日を感じて、悲壮だが、分かりきっていることでも、大きな車は回りが遅い。
   それよりも、経済不況のどん底で、国民が苦境に喘いでいるのに、そして、もっともっと大切で、日本の将来のために重要な緊急事があるにも拘らず、そっちのけで、日本の政治は、偽装献金問題ばかりで、空転。
   経済一流、政治は二流と言われていたのだが、何を思ったのか、その二流政治家たちが、急に、生きりだして、政治主導だと言い出して、日本の方向を変えようとした。結局、とどのつまりは、二流は二流。
   悲しいのは、あなたの同盟国も同じですよ、と言うことであろうか。
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