熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ヘンリー・キッシンジャー著「国際秩序」(3)

2016年08月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ヨーロッパで確立された最初の世界秩序であるウエストファリア・システムは、価値観として中立であり、どの国でもそのルールを利用でき、他国の国内問題に干渉せず、国境を侵さず、国の国権を尊重し、國際法の遵守を促すものであった。
   しかし、流血に疲れ果てた国々が設計したため、力を配分し、温存する方法は重視したが、方向性と言う意識は提供しておらず、正統性をどう生み出すかと言う問題の答えを出していなかった。

   第二次世界大戦後の数十年は、アメリカが、国際リーダーシップを発揮して、国際秩序の探求に新しい広がりを見せ、世界共同体と言う意識が高まりつつあった。
   自由と代議制体で築かれたアメリカは、自由と民主主義を広めることと自国の隆盛と同一視し、それらの思想には世界に根付いたことのない正義と長続きする能力があると信じた。
   民主主義の拡大が、国際秩序のための重要目標であり、自由市場経済システムが、個人の地位を高め社会を富ませ、従来の敵対関係を経済協力関係に置き換え得ると考えた。
   当時の冷戦は、共産主義者の一時的な異常行動で、ソ連は遅かれ早かれ、国家のコミュニティに復帰する筈で、新しい世界秩序は、地球上のすべての地域を包含する。
   そう考えて、アメリカは、何世代にもわたる世界秩序の構築に努力し、この進化に大きく貢献してきたと、キッシンジャーは述べている。

   ところが、この秩序は、ウエストファリア・システムと同じように問題に直面する。
   地政学の世界では、欧米諸国によって確立され、普遍的であると宣言された秩序が、何の合意もないので、民主主義、人権、国際法の概念を、敵対する勢力が様々に解釈し、相手を攻撃するスローガンとして頻繁に利用するなど、転機を迎えた。
   内部崩壊する地域秩序、宗派同士の激しい殺し合い、テロリズム、処理と言う状況なしの戦争・・・民主主義と自由市場を広めれば自動的に公正で平和で、排他的ではない世界が創られると言う、冷戦後の楽観的な思い込みが暗礁に乗り上げたのである。

   キッシンジャーは、国際秩序は、いつか、結合力を脅かす、二つの傾向、すなわち、正統性の定義の見直しか、力の均衡の大きさの変動に直面すると言う。
   最初の例は、イスラム勃興、フランス革命、共産主義とファシズム、現在の中東の脆弱な国家構造に対するイスラム主義者が行った攻撃。
   次は、ソ連の崩壊、20世紀のドイツの台頭、中国の台頭。
   この二つの局面の秩序・・・力と正統性・・・を均衡させることが偉大な政治家の神髄だと言う。
 
   この不均衡が大きくなるにつれて、21世紀の世界秩序の構造は、三つの重要な局面で欠陥があることを露呈した。
   第一は、国家。
   ヨーロッパは、EUに国家としての特質を与えておらず、中東の一部では、宗派や民族に細かく分離互いに抗争、崩壊国家の存在、等々。
   第二は、世界の政治・経済構造の互いの対立。
   政治構造は相変わらず国民国家が基本だが、経済グローバリゼーションは国境を無視。国の対外政策は、国境地帯を重視。等々国際秩序はパラドックスに直面。
   第三は、大国が相談にのり協力する仕組みがない。
   国連安保理、NATO,EU,G7,G20、APEC 等々不十分。

   キッシンジャーは、国際システムの再建は、私たちの時代の政治家が力量を問われる最大の難問だと言う。
   失敗の代償は、国家同士の大規模な戦争ではなく、独自の国内構造や経済形態で結びついた勢力圏―――例えば、過激なイスラムに対するウエストファリアのモデルというように―――への発展になるだろう。現代の世界秩序の探求には、様々な地域「内」に秩序の概念を確立する統一のとれた戦略が求められると言うのである。

   キッシンジャーは、
   個人の尊厳と参加方式の統治を認め、合意されたルールに従った国際的に強調する国家秩序に、望みをつなぐことが出来るとして、21世紀の世界秩序の進化において責任ある役割を果たすために、アメリカは、数々の疑問に答える覚悟が必要だ。と言う。
   万国共通の原理を賛美するには、他の地域の歴史や文化と言う現実への認識が伴わなければならないし、現代の歴史で、人間自由の探求をきっぱりと表明し、人道的な価値観の擁護に欠かすことが出来ない地政学的勢力として―――方向性に意識を保って行かなければならない。と言っている。

   しっかりしたアメリカが、時代の数々の難問に取り組み、極めて重要な哲学的・政治的役割を担って行くだろうが、世界秩序は一国が単独で行動しても達成できない。本物の世界秩序を打ち立てるには、それを構成する国々が、自らの価値観を維持しつつ、グローバルで、構造的で、司法的な第二の文化―――一つの国もしくは地域の思想を超越する秩序の概念―――を身につける必要がある。として、
   キッシンジャーは、アメリカが主体となって、現時点では、今の状態に即したウエストファリア・システムの現代化を図るべきだと提言している。
   
   私が、この本を読んでいて感じたのは、キッシンジャーは、アメリカの世界における別格の役割を、肯定していることで、この思いを託して、
   戦後の12代の大統領が、いずれも、紛争の解決とすべての国々の平等のために、アメリカが無私の探求の旅に乗り出すのは、自明の理だとしていた。そこでは、世界平和と万民の調和が、成功の至高の基準になる筈だった。二大政党の大統領総てが、アメリカの原理を全世界に適用することが出ると宣言してきた。なかでももっとの感銘をあたえた発言は、ジョン・F・ケネディ大統領の・・・と書いている。
   
   私が、大学で学び始めた経済学では、日本だったからかもしれないが、アメリカのMNCが、中南米で搾取している実態などを暴いた米帝国主義の動向が脚光を浴びていたが、しかし、その後、フィラデルフィアに留学した頃には、まだ、キッシンジャーの言う明るくて大らかなアメリカの民主主義のオーラが、確かに、アメリカには残っていた。
   ウオーターゲート事件で、ニクソン政権の末期であったが、あの事件さえなければ、中国と国交を開いたニクソンであったから、もっとこの路線を踏襲して偉業を成し遂げていたであうと思っている。

   この本は、現代の戦争と平和の歴史を克明に分析した国際秩序論とも言うべきで、アメリカの覇権や力の凋落と言ったことには直接触れずに、前述したように、正統性や力の均衡、国家やシステムの変革など多極化したグローバル構造の視点から説き起こしていて、現代世界史として、読んでも非常に面白い。

   しかし、ピケティに触発されたためではなかろうが、現在のアメリカは、深刻な経済格差の拡大によって国家を二分するような状態となり、ティーパーティの台頭だけかと思ったら、トランプやサンダース現象など、アメリカの民主主義のみならず、政治経済社会を根底から揺すぶるような動きが見え始めている。
   アメリカが揺れ始めると、どうにか持っている現在の国際秩序まで危うくなってしまう。

   追記ながら、グーグルのエリック・シュミット会長から聞いたと言って、第9章「テクノロジー、釣り合い、人道的良心」で、インターネットについて、かなり、詳しく書いているのが興味深い。
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GDPで表示する経済成長は本物か

2016年08月24日 | 政治・経済・社会
   GDPで、経済を表示することには、多々問題がある。
   サミュエルソンがエコノミクスで、主婦の貢献が加味されていないと指摘していたし、アルビン・トフラーの生産消費者の働きなども問題外で脱漏しているし、実際の経済活動においても、正確な数字からは程とおい。
   また、公害産業と言った外部不経済や違法産業の様な好ましくない経済活動が計上されるなど、人間生活にとってマイナスの面もあり、経済成長そのものが、本質的な意味を含めて、人類にとって本当に幸せなことかどかは微妙なところかも知れない。
   これを勘案してか、「国民全体の幸福度」を示す“尺度”として、「国民総幸福量」ないし「国民総幸福感」と言う概念もあり、
   日本でも幸福度指標を考える動きがあるとか。

   私が、ここで考えようとしているのは、是とは違って、GDPでは表示できない科学技術の進歩による財やサービスのことでる。
   単純な話、失われた20年と言われて、バブルの崩壊以降、日本のGDPは、名目500兆円前後を推移して、一向に経済成長していない。
   しかし、日本人の生活、そして、日本の国民生活は、かなりよくなっており、東京などの都市景観を見ても見違えるように立派になっている。
   首都圏のJR一つにしても、随分便利なったし、場合によっては、公共サービスの質も向上している。

   この現象のために、日本を訪れる多くの外国人が、失われた20年で経済が悪化した筈の日本が、あまりにも豊かで綺麗な状態であることに、びっくりするのである。

   「半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増する」とするムーアの法則 【 Moore’s law 】によるICT革命による政治経済社会の進歩はまさに革命的で、この第三次産業革命に追う要素が多いのだが、とにかく、GDP表示の国民所得成長がゼロ、すなわち、経済成長がゼロであっても、我々の国民生活は、どんどん、良くなってきている。

   カメラについて考えてみる。
   付加価値の驚くべき追加について考えれば、コストパーフォーマンスの上昇は目を見張るものがある。
   学生時代に、普通のレンジファインダー・カメラを2万円くらいで買った記憶があるのだが、当時の一眼レフの高級カメラなら、今の初級や中級の一眼レフなどの価格と変わらなかったのではないかと思う。
   パソコンの周辺機器に成り下がったと言われながらも、デジタル化によって様変わりして、まるで、高級兵器のように、目を見張るような複雑な機能を備えて、精密化高度化した今日のカメラを考えれば、信じられないほどの進歩である。
   しかし、GDPへの計上は、昔も今も同じ数字であり、経済成長への貢献度は変わらない。

   尤も、本のように、価格も質も、殆ど変わらないものもある。
   もう、半世紀ほど前のこと、学生時代に、シュンペーターの「経済発展の理論」の5巻目が買えなくて覚えているのだが、確か1500円であった。
   今なら、5000円くらいかも知れないが、殆ど、価格は変っていない。
   勿論、本の質などについては、それ程問題にするほどのことはなく、むしろ、昔の方が箱入りでしっかりしていた。

   いずれにしろ、発展途上国などでは、状況が異なるであろうが、日本の国を考えた場合には、GDP表示の経済成長はゼロであっても、財やサービスの質や量は、どんどん、あるいは、少しずつ増加して、国民生活は豊かになりつつある。(今回は、経済格差の拡大やその経済へのダメッジなどについては、ふれないこととしたい。)
   人口が減少しているので、一人当たり国民所得は微増するので、更に増幅される。

   日本人が、経済感覚に秀でており、創造性豊かでイノベーションに意欲的である以上、この傾向は進むであろう。
   しかし、問題は、GDPのみならず、経済社会の多くの指標が、名目の価格表示でなされていることである。

   最も心配になるのは、国家債務の状態で、財務省の「債務残高の国際比較(対GDP比)」を見ても、ダントツの高さである。
   この債務を返済するために、統制令やインフレなどを除けば、経済成長か税率アップしか考えられないのであろうが、何より望まれるのは、国民に負担の行かない経済成長を促すことであろう。
   しかし、熟成して活力を失い人口が減少する日本経済には、経済成長は極めて荷が重く、精々、プライマリーバランスをゼロにするくらいが関の山であろうから、多くを期待できない。
   それに、前述したように、GDPがアップしなくても、生活は、それなりに少しずつ良くなっていると言う感覚が、国民にあれば、成長成長と言わなくても、これ以上悪くならなければ良いと言う感覚が働く。
   民主党が、なりもの入りで政権を取りながら3・11の不運はあったにしても、何一つ手を打てずに失政を重ねて国民に失望を与えて信頼を失墜した以上、良くも悪くも、今のままの方が良い、安倍自民党の方が安心だと言うのが国民の思いであろうから、与野党逆転などと言うのは、当分、あり得ないように思われる。

   科学技術や経済社会の進歩によって、財やサービスの質が向上して、実質的な生活水準が上がっても、名目GDPアップを伴う経済成長でなけれな、国家債務を解消できないと言うこのジレンマ。

   問題の日本の異常な国家債務の問題だが、何回も引用させて貰っているが、
   カーメン・M・ラインハート&ケネス・S・ロゴフが「国家は破綻する」で、
   「バブルとその崩壊、銀行危機、通貨危機、インフレを経由して、対外債務・対内債務のデフォルトに至って金融危機が引き起こされると言う800年の金融の歴史が、「債務が膨れ上がった国は、悲劇に向かっている」と言う厳粛なる事実を立証している。
   現在の日本の国家債務についてだが、「債務の許容限界」と言うところで、先進国であっても、債務の定義にもよるが日本のように170%近くに達していれば、問題が多いと考えられる(日本の外貨準備は極めて潤沢だが、その点を考慮するにしても、純債務がGDP比94%というのはやはりひどく高い)P.61と述べている。
  この本を、そのまま素直に読めば、日本の異常な国家債務の悪化が、日本を危機的な状態に追い込みつつあることは、自明のことである。

   3年前に、P・クルーグマンが、ニューヨークタイムズのコラムで「財政フィーバーは終わった」で、
   「国家は破綻する」で展開されていたカーメン・M・ラインハート&ケネス・S・ロゴフの理論、政府債務がGDPの90%を超えると成長に深刻なマイナス効果をなすなどと言った説を手始めに、手ひどく糾弾しているのだが、私自身は、クルーグマン説に疑問を呈したが、大方の経済学者は、ラインハートとロゴス説を取っているようである。

   経済成長とは、一体何なのか。
   
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梅若 猶彦著~「能楽への招待」

2016年08月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   能狂言鑑賞のために、能楽堂へ通い始めて、ほぼ4年、結構、舞台を観ている筈なのだが、いまだに、私には、別世界の古典芸能である。
   初期に、岩波講座「能・狂言」を買って多少勉強し、世阿弥や能や狂言の解説書や狂言師たちの著者を読んできたつもりなのだが、まだ、舞台を鑑賞していて、しっくりとはいかない。
   年季の所為もあるかも知れないが、歌舞伎文楽のように行かないのである。
   一番の障害は、どうしても、能の舞台を観ていても、ストーリーを追うと言うか、その曲のテーマなり物語を分かろうとする気持ちが強い所為ではないかと思っている。
   ただ、多少助かっているのは、学生時代から、「平家物語」や「源氏物語」など古典を愛読し、能や狂言の故郷である京や奈良などの名所旧跡・古社寺などを歴史散歩したことかも知れない。

   余談ながら、何度か観劇しているが、あの屋根のない青天井のロンドンのグローブ座では、カンカン照りの舞台で、漆黒の闇に登場するハムレットと父王の対面シーンを観る、まさに、シェイクスピアを聴くということで、能だけの世界ではないのである。
   
   アマゾンの能楽をインターネットで叩いて、この本を見付けて、入門書のつもりで読んだのだが、結構、難しい。
   本の帯に、”研ぎ澄まされた内面がつくる「妙」の空間へようこそ!”と銘打ってあることからも、普通の本ではない。
   先日も、住大夫の本について、勝手ながら私見を綴ったが、正直なところ、住大夫の語る命の叫びの様な芸の深淵を、実感できるところまで行けなかったことも、鑑賞者として申し訳ないと反省しきりである。
   演者の、長い大変な修行と修練を経て、血の滲むような切磋琢磨の結果生み出された芸能だと思うと、能の場合には、一層、その落差が激しくなる。

   まず、能の深淵さは、「翁」の型付にでてくる
   躰ハソル心 両眼ヲフサグ
   翁は白式尉の面をつけており微動だにしないが、このメタファーを体現した舞。

   興味深いのは、平家物語と同じ「語り」の芸術でありながら、能では、語っている本人が、「死者」であることという不条理、
   「実盛」では、打ち落された自分の首を自分で洗うと言う矛盾。
 
   著者は、「型」への信仰心に似た偏重に警告を発していて、型と内面性の関係を整理することが、あの深い世阿弥の芸術論に近づく道ではないかと思います。と言っている。

   第1章の能の空間や、第3章の能楽の歴史などは、分かるとして、最終章の無への探求になると、分かったようで分からないモドカシサ。
   世阿弥の言いたかったことは、「妙」は表現者の内的な原理であるのに対して、「幽玄」は、・・・あくまで鑑賞される側に重点がおかれているものであり、「妙」のように二つの場(表現者の原理と鑑賞者の印象)にまたがって機能する観念ではないと言うこと。
   能楽者の身体の内面性の深い部分を触発させ、「幽玄」や「妙」をつくりだすことのできる内部の原因は、「無心」や「妙」や「安位」です。と言う。

   ところで、田中貴子教授が、「中世幻妖」で、世阿弥の口伝書が発見されたのは明治であって、観世寿夫が、「能と私」で、「観世流の能役者ならだれでもその(世阿弥の)著書を読んでいるだろうと思われがちですが、実は、江戸時代以降の能楽では全く誰も読んだこともなければ話題にさえ上がらなかったし、書物自体も散佚してしまっていたのです。(伝書が発見されても)能役者の方は依然無関心でした。」と書いていると紹介して、「世阿弥知らぬ能楽師」を指摘している。
   「幽玄」や「妙」や「無心」が、どのような形で表現されていたのか分からないが、興味深い指摘である。

   住大夫も、後輩に床本を読め、すべてそこに書いてある、と指導していたし、初代玉男が、床本を徹底的に読み通していたと強調していたのだが、芸の道は厳しいと言うことであろうか。
  
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鉄道の旅の思い出数々あれど(海外 その4)

2016年08月21日 | 生活随想・趣味
   この口絵写真は、ヴェニスのサンタ・ルチア駅。
   普通は、飛行機でヴェニスに入るのだが、少なくとも、2回は、キャサリン・ヘップバーンのように、長い鉄橋を渡って鉄路で、この駅に着いた。
   最初は、40年以上も前の初めてのヨーロッパ旅でもあり、案内所も混雑していたので、危険だとは思ったが、ホテルは、サンマルコ近くであることだけ確認して、旅館の客引きに従った。
   ローマの時もそうでだったが、多少のトラブルはあっても、十分な情報もなければ、どうにか対応できるのである。

   その後のヨーロッパ旅は、ミシュランの赤本と緑本の旅行案内を克明に調べて、鉄道の旅はクック社の時刻表を参考にして、事前にホテルの予約をして出発した。
   インターネットが使えるようになってからは、ミシュランは手放せなかったが、鉄道などは、詳細な時刻表が表示されるし、インターネットで予約できるので、これを使って、殆どの旅程と予約を確定して出発した。
   勿論、オペラのチケットなども、アメリカやヨーロッパは勿論、チャコやロシアでも、すべてインターネットで取得してきたが、問題が起きたことはなかった。

   さて、サンタルチア駅も、殆どどこもそうだが、ホームのあるところは至って殺風景で、大きな工場のようで味気ない。
   下記は、最近のフィレンツェの駅構内の写真だが、何処の駅も、映画の「終着駅」や「旅情」や「哀愁」のようなムードもなければ、騒がしいだけだが、駅によっては、立派なショッピングやレストランコーナーがあったりして、楽しめるところもある。
   

   このヴェニス駅から、特急でミラノに向かった時には、大体、空席があるのでたかをくくって出たのが悪くて満員で、列車を移動しても空席がなく困った。
   この時、車掌が使用しているボックスが、車両の途中にあってそれが開いていた。
   検札に回っているので、殆ど席にいないのだが、当然のこととして客席にするわけに行かない。
   抵抗したのだが、頼み込んで、2席だけ保留して、4席あけてくれた。
   ところが、横にいたアメリカ人夫婦が、当然の権利だと思って、ついてきてコンパートメントに入って来たので、娘を廊下に残した。
   イタリアだから、色々ある。

   もう一つ困ったのは、ベローナに行く時、禁煙席の予約をミスって、立派な車両だったが、移動できずに煙草の煙と匂いに困ったことがある。
   喫煙者の気持ちは分からないのだが、自分たちでも、煙のもうもうしたところで喫煙するのは不味いのであろう、客が、禁煙車の荷物などの接続室で煙草を吸っていたので、モラル違反だろうと言ったら、すごすご喫煙室へ帰って行った。

   仕事でも、結構、ヨーロッパでは、鉄道を使った。
   ドイツやスイスなどでは、鉄道の方が便利な時がある。
   それに、アウトバーンを走ってみたが、ドイツでの都市間のビジネス移動は、ベンツやアウディで飛ばした方が便利である。
   ドイツで思い出深いのは、デュッセルドルフからフランクフルトまで、ルフトハンザの鉄道便を使って移動したことである。
   普通の飛行機の時刻表に載っている正規の便で、乗るのが飛行機か鉄道かの違いで、機内食のサービスなども飛行機と全く変わらない。
   途中、車窓から、ライン川やドイツの美しい風景が展開して、楽しいひと時を過ごすことが出来た。

   もう一つ、ドイツでの列車での思いでは、ベルリンの壁が崩壊した直後に、東ドイツの市場調査に行った時に、東ベルリンからライプチッヒまで、鉄道で移動した。
   記憶は定かではないのだが、とにかく、戦時中の厳つい古色蒼然とした列車で、何となく、封印列車に乗るような感じで、無性に不安だったのを覚えている。
   ライプチッヒもドレスデンも、素晴らしい都市であった筈だが、戦後の爪痕は酷くて、半世紀近く経っていたのに、見る影もなかった。

   フランスでの鉄道旅は、パリからブラッセルを経てアムステルダムまでの旅である。
   その時は、オランダに駐在していたので、少し時間があり、1時間で行けるKLMを避けて、ゆっくりと鉄道旅で田舎を見ようと思ったのである。
   確かTEEで、立派な食堂車がついていたので、そこで、昼食をとることにした。
   当然、フランス料理だが、ミシュランのレストランを歩いていた頃でもあったので、上等のワインを注文して、結構時間があったので、車窓の景色を楽しみながら、アムステルダムに帰った。
   このアムステルダム駅だが、東京駅のモデルになったとかで絵葉書では奇麗なのだが、プラットフォームやコンコースなどは、絵にはならない。

   北欧は、ノルウェーのオスロからベルゲンまで、鉄道に乗った。
   予定の変更をオスロ駅で行ったのだが、ノルウェー語が大半で、窓口が良く分からず、チケットを確保するのに苦労した。
   今でこそ、殆どの国がEUなので、かなり、移動が楽になったが、言葉だけは、まだまだ旅の障壁で、ドイツ語とポルトガル語を少し程度の知識ではだめで、英語一本で押し通したので、結構、あっちこっちで誤解やトラブルがあった。
   家族旅行では、当然、交渉するのは私一人で、娘が大学生になってからは助手をしてくれた。

   ヨーロッパの鉄道は、広軌の所為もあるのだろうが、日本のJRの列車のようにスマートな感じはなく、とにかく、厳つくて大きな感じで圧倒される雰囲気である。
   途中、険しい山間部を猛烈な勢いで走っているので、デッキ近くに出て外を見たら、凄い迫力であった。
   列車の旅でよいのは、列車を下りて駅を出れば、すぐに、街の中であることである。

   スペインでは、飛行機便をキャンセルして、田舎の景色を見たくて、コルドバからマドリードまで、特急に乗った。
   日本の新幹線とは全く遜色なく、綺麗な列車であったが、とにかく、スペインの田舎は、森あり林あり、焼け焦げたような荒野あり、砂漠あり、葡萄畑あり、実に変化に富んでいて絵のように美しいのである。

   イギリスに5年間もいながら、イギリスの鉄道は、それ程でもなく、ロンドンから友人がいたギルフォードを何度か往復した。
   それに、シェイクスピア戯曲を聴きに、シェイクスピアの故郷ストラート・アポン・エイヴォンへも何度も通ったので、車が多かったが、列車も使った。
   美しいイングランドの田園風景が楽しませてくれる。
   これも、何回か往復したのは、ケント大学に留学していた次女を訪ねて、ロンドンからカンタベリーの鉄道旅である。
   残念だったのは、ユーロトンネル工事の途中フォークストン駅建設工事の視察に入ったのだが、ユーロトンネルを越えてパリへ行ったことはない。
   一度、スコットランドへの旅で、ロンドンからニューキャッスルまで、夜行の車載用寝台車を予約したのだが、オランダでの商談が長引いてロンドンに帰れず、結局翌日、車を飛ばした。

   面白いのは、欧米各地で乗ったメトロや市電などの思い出だが、これで、一応、鉄道旅の思い出を〆たいと思う。
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竹本住大夫著「七世竹本住大夫」

2016年08月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   住大夫を、初めて聴いたのは、もう、25年ほど前のロンドンでのジャパンフェスティバルでの「曽根崎心中」であったと思っている。
   その後、帰国してから文楽に通っており、先の「七世竹本住大夫引退公演」も、大坂・東京ともに鑑賞させて貰っているので、随分多くの浄瑠璃を楽しませてもらったことになる。

   それに、住大夫の著作や関連本は、殆ど持っており読んでいるので、大概の逸話など住大夫の興味深い話は知っているつもりだが、最新と言うことで、この本を読んでみた。
   履歴書も含めて、他の本は、どちらかと言えば、住大夫の芸論や文楽に関する話題が主体を占めているのだが、この本は、住大夫の生い立ちや幼少年時代、学校生活や兵役での苦労等々から始めて、人間竹本住大夫の人生を、日本社会の激動と変遷をバックにして、克明に聞き書きしていて、その中から、住大夫の文楽に対する芸論や思い入れを浮き彫りにして、その激しくも雄々しい生きざまを活写しているので、非常に面白い。
  
   住大夫の文楽への傾倒は、おやっさんが人間国宝にもなった大夫であり文楽の世界に近接していたということもあろうが、この本の帯に書いてあるように、
   ”文楽、歌舞伎から映画、宝塚、高校野球にプロ野球、昭和初期のモダン都市文化の精髄を浴びて育った少年時代”の影響も強いであろうと思う。
   何でもよいから役者になりたかったと言っており、「お前の頭に合うかつらはないで」と言われたと述懐しているが、勉強もせずに、映画館や芝居小屋に入りびたり、大学時代、戦争中に、学校をサボって浜寺の海水浴に行って、喫茶店でだべりながら、野球の練習に行こうかとしたところ刑事に尋問されたと言っている。勉強は、何にも分かりまへんねん、と言っているのだが、役者や映画俳優、野球選手や宝塚のスターなどの名前や逸話を克明に覚えていて、舌を巻く。

   戦後、食わず食わずの貧窮時代に、公演日数が足らないのが辛くて、先輩のところの稽古場へ行って声を出させてくださいと、何とか稽古して一寸でも身につけようとして、気を紛らわせた。やっぱり貧乏してこなあきまへんな。と言う。
   芸の厳しさで興味深いと思ったのは、大隅大夫が、住大夫に、犬猿の仲の父の住大夫に、「茨木屋」の床本に朱を入れて貰ってくれと頼んだら、父住大夫は一晩かかって朱を入れて渡し、大隅大夫は、その本で舞台を務めたと言う。

   初代吉田玉男のことについて語っているのが興味深い。
   あの人とやったら安心して浄瑠璃語れまんねん。私は人形見てませんで。人形見てんでも寸法合うんですよ。あの人はまた、浄瑠璃の本をよく読んでましたわ。浄瑠璃の本を読んで、文章を理解して、それで人形を遣うてますさかいにね。速いとか遅いとか、そんなこと言うたことおまへんな。
   あの人とは、何も考えんと語れましたな。と言う。
   人形を見んでも、何となく雰囲気がこっちに伝わってくる。息でんな。そういう応える人形遣いは今いまへんな。紋十郎師匠と玉男はんでしまいでんな。人形のほうから迫ってくるのは、まあ、簑助君だけでんな。とも言う。
   もう一つ興味深い芸論は、
   紋十郎師匠が、人形で出来ない振りをするのが役者、人間ではできない振りをするのが人形と言っていたが、この頃、人形遣いはみな、人形と自分の体がぎゅっとひっついてますわ、もう勘十郎君一人でんな。

   動物が嫌いだと言う住大夫、「国性爺合戦」の虎も、「傾城反魂香」の虎も恐ろしいと言うから、勿論、阪神タイガースも嫌い。
   こともあろうに、兵隊で馬の世話の担当になった。こんな国が戦争したら、負けるのが当たり前でっせ。
   上官から、銃と馬は大事にして、「お前らは赤紙で来るねん。」人間はもう、2銭か、そんな切手で来ると言うて哀れでした。と言う泣き笑いの馬物語も面白い。
   

   東京の歌舞伎に出演すると、この時は役者は踊るだけで台詞は言わない。文楽が出演すると歌舞伎も活気が出て、お客さんも喜んでくれて、給料が倍になって良い。
   しかし、歌舞伎は要領が分かったら後は楽なのだが、文楽の舞台に戻ると、怖くなる。文楽は、勉強するとこ、修羅場でんな。文楽は、毎日が勉強ですさかい、毎日違うんで緊張します。と語っている。

   この本には、初代吉右衛門たちとの歌舞伎との交流、東京と大阪の客の対応の違いや、花柳界との交流やそれを通じての贔屓筋との展開、等々、文楽や芸論以外にも、興味津々の話題満載で、とにかく、昭和史を駆け抜けてきた偉大な芸術家の人生が描かれていて並みの小説よりもはるかに楽しませてくれる。
   
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ヘンリー・キッシンジャー著「国際秩序」(2)日本

2016年08月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   キッシンジャーは、本書第5章「アジアの多様性」の中で、日本とインドについて書いている。
   この本を読んでいて感じるのは、巷にあるようなカレントトピックス風の解説書等ではなく、国際関係論や国際外交史と言った純然たるテキストであり、読み応え十分である。

   日本について、10ページほどの記述だが、日本人は神の子孫だとする公の思想や、中国文化との接触などから語り始めて、島国であることによる大幅な自由裁量に恵まれた特殊性などから国際問題に入っており、時系列的に、日本歴史を追っているのだが、比較的、好意的な日本論である。

   豊臣秀吉の大民国征服を意図した朝鮮遠征や江戸時代の鎖国と外国排斥、ぺリー来訪による劇的な変遷、明治維新の成功と近代化によって、短期間に、ウエストファリア世界秩序の一員として躍り出た経緯などを書いていて面白い。

   先の大戦による大災厄を、ペリーに対応したと同じやり方で順応して、たぐいまれなる国の文化を基盤とする不屈の国民精神で、回復力を維持したが、これを発揮して、2011年の3.11の大地震、津波、原子力発電所事故をも乗り切っている。としている。

   興味深いのは、戦後日本の進化は、冷戦の争いから戦略の方向性から切り離して、経済発展の改革プログラムに集中するために、それを払いのけたと指摘していることである。
   日本は、法的には、先進民主主義にの陣営に身を置きながら、その時代のイデオロギー闘争に加わることを拒んだ、この巧みな戦略で、明治維新後に匹敵する猛烈な経済成長を成し遂げたと言うのである。
   巧みな戦略と言うよりも、巨大なアメリカの傘下にある政治経済社会体制を敷いていたので、イデオロギーの入り込む余地などなかったであろうし、経済成長に脇目を振っている余裕などなかったのであろう。

   最近については、アジアの力の均衡の劇的な変化に対応して、安倍首相のもとで強力な国家指導体制が戻り、日本政府が評価に基づいて行動する許容度が変り、日本は、脅威を「抑止し」、必要とあれば「打破する」能力を強化する。憲法によって戦争を禁じられることのない軍隊を保有し、積極的な同盟政策を行える「普通の国」になりたいと言う案某を口にするようになった。と指摘している。
   日米安保条約が締結されている同盟国の日本の対応の変化であるから、アメリカとしては、大歓迎なのであろう。

   最後に、キッシンジャーは、日本の歴史上の転換点として、中韓の隆盛などアジア情勢の変化を勘案しても、国際秩序における役割を、もっと幅広いものに定義しなおす必要に言及して、
   アメリカとの同盟の効用と実績を吟味し、幅広い相互利益に役立てるためにも、日本は、次の三つの選択肢の観点から、役割を分析するであろう。
   ①アメリカとの同盟に重点を置き続ける。
   ②中国の勃興に適応する。
   ③ますます国家主義的になる外交政策に依存する。
   三つの内のどれが支配的になるのか、それとも三つを勘案した選択になるのかは、アメリカの公式な確約とは無縁に、グローバルな力の均衡を日本がどう計算し、基調をなす潮流をどう読み取るのかにかかっている。と言う。

   キッシンジャーの指摘する三つの選択肢がそれだけなのかは、問題だが、諸般の事情を勘案すれば、日本は、平和憲法を維持する以上は、独立独歩では、国家体制を維持できないであろう(?)から、①のアメリカとの同盟の維持は必須であろう。
   しかしながら、政治的にも経済的にも、隣国の中国や巨大なアジアとの友好的な外交通商関係の維持は、極めて大切なので、中国との関係をどうすのか、②に対する配慮見当も大切であると考えられる。
   ③については、平和日本を70年以上も堅持してきた以上、多少は、国家主義的な動きが力を増そうとも、大局には問題はなかろうと思っている。

   キッシンジャーは、「普通の国」の「普通」の定義がアジアの秩序の維持に関わってくる筈だと言っているのだが、いずれにしろ、日本にとっては、アメリカとどう付き合うかが、今後とも、最も重要なポイントであることは、変りがないと思っている。
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ヘンリー・キッシンジャー著「国際秩序」(1)中国

2016年08月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   キッシンジャーは、近代的な国際秩序と国際法の基盤となったのは、1648年に締結された三十年戦争講和のウェストファリア条約だとして、これによって形成された、複数の文明や地域に渡るヨーロッパの国家間の國際秩序の形成から、本書を説き起こしている。
   それ以降、大きな戦争など大異変が起こる度毎に、新しい「秩序」が確立されてきたのだが、国際社会の変化によって、「秩序」の考え方も変わってきているものの、本当にグローバルな「世界秩序」は、いまだかって存在したことがない。と言う。
  これまでの国際秩序は、アメリカ、ヨーロッパ、ソ連など限られた国々によって作られたものであるために、その後台頭した中国をはじめ、ブラジルやインド、中東の産油国などと言った新興国を排除したものであり、これらの新興国やアフリカ諸国、或いは、ISなど新しい影響力のあるプレイヤーを無視しては、国際秩序の構築は不可能になってきている。。
   このグローバル化した激動激しい国際環境において、どのように、均衡ある「国際秩序」を打ち立てるのか、キッシンジャーが提言する。

   アメリカアマゾンのコメントは、
   Kissinger now reveals his analysis of the ultimate challenge for the twenty-first century: how to build a shared international order in a world of divergent historical perspectives, violent conflict, proliferating technology, and ideological extremism.

   昨日、ヴォーゲルの鄧小平論に触れたので、まず、キッシンジャーの中国論について、本書の第6章「アジアに秩序の向けてーー対決か協調か」で展開している見解について考えてみたい。
   キッシンジャーの書物については、「外交」は積読で、「中国」も読んでいないので、この章だけで云々するのは危険だが、考え方は変わっていないのであろう。

   紀元前221年の秦の始皇帝の統一以来、中国が世界秩序の中心だとする「中華進貢制度」が、中国外交の基本をなしていて、中国皇帝は全宇宙に及ぶ人格、人間と神の間の要であると言う思想が、列強の蹂躙を受けて瀕死の状態であった清朝末期まで続いていた。と言う見解が興味深い。
   したがって、更に興味深い指摘は、
   21世紀に中国が卓越した地位に「昇った」ことは、決して目新しくはなく、歴史上の図式を再現したに過ぎない。きわだったちがいは、中国が古代文明の継承者と、ウエストファリア・モデルに則った現代の大国の両方になって復帰したことだ。中国は「天下のすべて」と言う伝承とテクノクラート中心の近代化を組み合わせ、すさまじい激動の21世紀に、その二つの中間で統合されたものを国として探求している。としていることである。
   これまで、このブログで何度も、中国の夢は、「大唐帝国」への回帰であると論じてきたが、キッシンジャーは、中国は、ほぼ、その実現に成功し更に先へと進みつつあると言う。

   更に、いかなる基準に照らしても、中国ははるか彼方まで影響力がおよんでいた世紀に認識されていたのと同じ地位を取り戻したと言える。問題は、現代の世界秩序の探求に今後どう関わっていくのか、ことにアメリカとの関係においてそれがどうなるのかということだ。として、
   米中いずれも、世界秩序に欠くことのできない柱だが、自分たちを繋ぎとめている国際システムに、矛盾する姿勢をこれまでに続けてきており、両陣営の主だった戦略家たちは、類型的な姿勢や歴史の実例を論拠として、二つの社会の紛争は避けられないと予測している。と述べている。

   キッシンジャーは、米中の安定的な秩序の構築には、米中のパートナーシップ関係を維持することだと言う。
   ブッシュとオバマ両大統領と、胡錦濤と習近平国家主席の二代に亘って、建設的な成果をはっきりと示すことに両国の共通の利害関係があり、力の均衡を維持し、太平洋地域に存在する軍事的脅威を軽減するため、太平洋における戦略的パートナーであることを認めている。
   米中両国の指導者たちが、軍事専門誌や宣言で、相手を敵国と見做しながら、政治・経済問題では、パートナーシップを目標にしていると公言している。アメリカは日本の同盟国であり、中国のパートナーだと明言しているのだが、これは、ビスマルクが、オーストリーと同盟を、ロシアとも同盟を結んだ三帝同盟と似ており、この三帝同盟の解消が、一連の対決を引き起こして第一次世界大戦を引き起こした。として、
   アジアにおいては、現代の力の均衡戦略とともに、パートナーシップ外交が重要だと説いている。

   秩序は常に、自制、力、正統性の微妙な釣り合いを必要とする。均衡を軍事的な定義のみに頼れば対決に陥り、パートナーシップの心理的手法にのみ頼ると覇権の恐怖が高まる。アジアの秩序には、力の均衡とパートナーシップの概念を組み合わせることが必須で、均衡が崩れれば、大惨事となる。と言うのである。
   ナイ教授やルトワックなど学者は、アメリカの軍事パワーは、中国が及びもつかない程強力だと言っているのだが、それでは、アメリカは、心理的要素の強いパートナーシップ戦略やソフトパワーで、どのように中国に対処するのか、経済力で限界を感じ始めているアメリカは、世界の警察としての地位から降りて、逡巡している。
   クリントンも、日本がアメリカの同盟国だと強調し始めているのだが、結局、アメリカの対中戦略の要は、日本なのであろうか。

   中国は、ロシアのプーチンのように、有言実行でドラスティックに戦略を進めるのではく、目的に向かって、徐々に布石を打って漸進、既成事実を積み重ねて、アメリカの勢力を排除して後方に追いやり、アジアにおける制海権を拡大しようと、国際法を無視してでも、国威発揚を推し進めようとしている。
   中国の中華思想は、本来、君子の教えの筈、しかし、今の中国の振る舞いには、大人の風格が微塵もない、悲劇と言うほかはなかろう。

   バイデン米副大統領が、ドナルド・トランプが日本の核保有を認める発言をしたことを巡り、「日本は我々が書いた憲法で核保有国になれないことを彼は理解していない。学校で習わなかったのか」と批判したと言う事実を考えてみても、国際秩序の確立維持など、それも、キッシンジャーの意図するa shared international order など、至難の業と言うべきではなかろうか。
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エズラ・F・ヴォーゲル&橋爪大三郎「鄧小平」

2016年08月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ヴォーゲルの大著「鄧小平」を読む手間を省いて、どのような鄧小平論を展開しているのか、そのエッセンスを知りたくて、この本を読んだ。
   結果的には、それ程、斬新な情報はなかったが、多少興味を感じた諸点について、ヴォーゲルの考えについて、論じてみたいと思う。

   私自身、毛沢東路線では、中国の台頭と近代化はあり得ないと思っていたので、中国が、前世紀末から、破竹の勢いで、成長発展街道を驀進し始めた秘密は、須らく、鄧小平の「改革開放」にあったと思っているので、何が、鄧小平にそうさせたのか、そのドライブ要因を知りたいと思ったのである。

   冒頭、ヴォーゲルは、改革開放が始まる当初、鄧小平がこんなに良くやるとは思わなかったとして、
   外国については、ロシアについて準備なしに講演できるなど、ベトナムについても、アメリカ、フランスについても、詳しく知っているし、合理的に説明できる。アメリカの指導部や民主党、共和党とも良い関係で、外国人と、うまくつきあえる。彼の考え方、政治のやり方は、すごく面白いし、、鄧小平の作った新しい道がどういう動きをしているのか、研究すれば、現代中国を理解出来るのではないかと考えた、と、著作の動機を語っている。

   鄧小平の特質の一つは、長期的な視野、長期的な歴史の流れを、良く分かっていることだと言う。
   キャリアが長く、1920年代に、フランスに留学して、長く苦しい生活を送り、その後ロシアに行って、革命にも参加して、12年間軍隊で過ごし、地方で過ごした後、北京に出て、毛沢東や周恩来と親しくなり、国の全体の考え方を、よく勉強する機会があった。
   失脚して江西で過ごした時には、ものを考える暇がたっぷりあって、指導者として返り咲いた時には、歴史の流れとか、長期的な中国の発展戦略とかを、非常に深く掴んでいた。と述べている。

   毛沢東との関係だが、鄧小平の台頭を心配した毛沢東が、文化大革命を支持するよう求めたのだが拒否して、自ら失脚する道を選ぶなど、何度か失脚する紆余曲折があったようだが、毛沢東は、鄧小平の価値を認めていて、党籍はく奪だけはしなかったので、復活して、トップに上り詰め得たのだと言う。

   1974年4月に、国連資源総会に中国代表団の団長として出席した時に、ニューヨークの威容とアメリカの経済力の凄さに驚嘆し、そして、1978年日本にやって来て、新日鉄や松下電器などを訪問して、その威容と日本経済の先進性と途轍もない底力に感銘を受けて、改革開放を触発されたのは当然の帰結であった。

   鄧小平は、アメリカ人華僑のノーベル賞学者との交流で、知識人階級を尊重し、教育と人材育成重視を教えられ、共産党の指導者たちに、革命以前に外国人が指導した大学などで教育を受けた知識教養のある人々や、香港の華僑などから知識情報を得て勉強するように仕向けたと言う。
   この革命前と言う指摘だが、最初に、古色蒼然とはしていたが、外灘の威容を見た時には、戦前の上海が、如何に、巨大な東洋一の先進的な大都市であったか、感嘆を覚えた。文革で抹殺されていた中国の知的遺産の価値を、鄧小平は認めて蘇らせようとしたと言うことであろう。
   
   1972年のニクソンの訪中以降のアメリカの協力援助などもあって、資本主義経済との接触も徐々に加速して行き、1992年以降の社会主義市場経済への移行によって、奇跡的な経済成長が加速して経済大国へ道を驀進したのであろう。
   中国の主張する国土の一部に、香港と台湾と言う民主主義で自由経済のしっかりとした国が隣接していて、多くの華僑が全世界で活躍していると言う大変な中華オリジンの貢献も大きい。

   一つ興味深いのは、一枚看板のような筈だった毛沢東思想は、イデオロギーかと論じて、中国では、イデオロギーはどうでも良かった、原則としてそれらしいことを口にするが、宣伝のためとか若い幹部への教育には必要だが、実際の政策は中身が大切で、あまり関係なかった。と言う指摘である。
   文革時には、中国全土が、赤い毛語録を掲げる若者で溢れかえっていたのだが、あれは、何だったのか。
   鄧小平も、毛沢東の革命的なやり方(階級闘争路線)は、間違いだと思って、毛沢東死後、秩序ある経済発展の路線を決めるなど、自分の考えをおもてに出すようになったと言う。

   ところで、問題の天安門事件であるが、鄧小平は、軍隊を使って学生運動を圧殺して収束させた。
   丁度、その頃同時に、ベルリンの壁が崩壊し、その後、ソ連も崩壊して、東欧の共産主義社会の終焉を迎えたのだが、中国だけは持ちこたえて現体制を維持して今日に至っている。

   ヴォーゲルは、天安門事件関連で、鄧小平は、3つの間違いを犯したと言う。
   88年の価格統制の撤廃と直後の停止。
   李鵬に人民日報に学生に対する警告を書かせて、火に油を注いだ。
   部隊に、天安門まで出動を命じたが、準備不十分、不首尾で撤退。
   なのだが、軽く考えていたのであろう、事態を悪化させただけであったのだが、当時、世界中に渦巻いていた民主化への大潮流を見誤っていたのであろう。

   もう一つ、ヴォーゲルが指摘するのは、鄧小平は、政治を安定させるために、「人を少し殺してもいい」と指令して、強さを誇示して鎮圧したこと。
   民主主義国家ではあり得ないことではあるが、鄧小平は、全国の秩序を守るためには人を犠牲にしなければならないと考えて、そのロジックで、学生たちが犠牲になった。
   結局、北京政府は、15万人の軍隊を動員して、学生たちを天安門から追い出して、流血の事件を起こして終息させた。
   世界中はショックを受けて、制裁を持って抗議した。

   ヴォーゲルは、中国が民主化できなかったのは、国が大きくて、国民が、民主化して統制が取れなくなることを恐れたことと、指導者たちが、かなりうまくかじ取りして経済成長を進めてきたからだと言う。
   しかし、あの天安門事件の時のように、完全に弾圧して根こそぎ民主化のタネを刈り取って、その後の恐怖政治を続けるようなことをせずに、もっと、民主的なソフトランディングで事件を解決しておればどうなっていたか。
   ほぼ、30年近く経っての今日の中国の共産党一党支配の政治経済社会を考えれば、大変なチャンスを反故にして、民主化への歩みを凍結してしまったようにしか思えない。
   中国のために良かったのかどうかは、分からないが、その意味では、鄧小平の決断に疑問を持っている。
   
   社会主義市場経済と言うか、国家資本主義と言うシステムが、経済成長と社会の発展を推進する母体であったとしても、ヴォーゲルは、中国の最大の問題は、腐敗だと指摘する。
   習近平は、腐敗撲滅運動に熱心だが、中国の政治経済社会に腐敗構造そのものがビルトインされている以上、上も下もその呪縛から避け得ない現状から、どうして抜け出ようとするのか。
   先にも、エドワード・ルトワックが、「中国4.0」で、習近平が、反腐敗撲滅運動を推進することによって、中国共産党を窮地に追い込み、中国共産党を破壊しているのであって、暗殺の不安さえあると指摘したことを紹介したが、ヴォーゲルもその点に触れている。

   プラグマティズムで「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言った鄧小平が、どう言うか興味のあるところだが、この腐敗撲滅運動によって、少しでも、中国の民主化が進むのなら、と思っている。
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鉄道の旅の思い出数々あれど(海外 その3)

2016年08月15日 | 生活随想・趣味
   ヨーロッパに初めて行ったのは、1973年12月。
   元旦を、ウィーンで迎えた。
   米国留学中、フィラデルフィアから、フランス留学生のチャーターしたクリスマス休暇便の格安空き席を確保してパリに飛び、ユーレイルパスを使っての2週間の旅で、それまでの貯金を全部はたいての貧乏旅行であった。

   今のユーレイル グローバルパス に近いパスだと思うのだが、21日間、ヨーロッパの国内の鉄道1等を自由に乗り降りできるパスで、2週間、これで、ヨーロッパを周遊した。
   妻と4歳の長女の3人連れで、フィラデルフィアでは予定が立たなかったので、パリに到着してから、ホテルから旅程の一切をぶっつけ本番で決めることにして、とりあえず、パリに飛んだ。
   英語の資料をかき集めても、40年前では、観光案内やガイドブックなど十分になく、初めての本格的な海外旅行を、自分一人の才覚で決行しようとするのだから、無謀だったが、若かったからできたのであろう。
   どう言うルートだったか、はっきりと記憶がないのだが、パリからスタートして、フランス、スイス、オーストリア、イタリア、ドイツ、オランダを回ったような気がする。
   (整理した写真アルバムだけでも200冊ほどあって、その写真を追えば分かるのだが、今回の移転で納戸と倉庫に山積みとなっていて、正確な紀行文でもないので、貧しい記憶だけで文章を進めたい。)

   この旅は、私自身で、事前に、見たいところ行きたいところなど、観光ルートを決めておいて、クック社や手に入る時刻表をチェックして、あらかたの旅程スケジュールを決めてスタートした。
   列車は、その都度、事前に予約を入れておくのだが、ホテルは、到着した時点で、駅のインフォメーションセンターや観光案内所などで決めた。
   当時は、EUではなかったので、列車も、国境越えではパスポート・チェックがあり、通貨の交換もその都度必要であったし、勿論、言葉も違う。
   イタリアなどで、客引きが寄ってきて困ったけれど、多少のトラブルくらいで、この旅行は無事に終わって、帰りの飛行機の窓から、フィラデルフィアの夜景を見下ろした時には、無性に嬉しかったのを覚えている。
   ヨーロッパに赴任してからは、夏季休暇とクリスマス休暇には、旅を続けたし、その後も何度かヨーロッパを訪れているのだが、最初のこの旅行で自主旅行の良さが分かって、旅行会社やエージェントを通さずに、自身で思い通りのスケジュールを組んで、その後の旅の手配は、一切、私自身で手作りでやることにした。

   最初の旅は、40年以上も前の旅であり、殆ど記憶から消えてしまったのだが、ローマだったかフィレンツェだったか、始発のローカル列車だったと思うのだが、大幅に遅れて、プラットフォームも変わってしまって、大慌てしたのを覚えている。
   駅の放送がイタリア語なので殆ど理解できなくて、駅のサインボードもコロコロ変わり、本来のプラットフォームで待っていても、一向に列車がくる気配がない。
   目的の列車のアナウンスらしきものに気付いたけれど、イタリア語なので分からなかったのだが、ホームの端にいた尼さんグループが走り出してホームを移動したので、とにかく、ケースを引っ張って娘を抱えて後を追った。
   幸い、目的の列車だと分かったのだが、発車寸前なので、急いで飛び乗った。
   一番後ろの車両だったので、予約席はずっと前方である。
   どうして移動すれば良いのか、分からなかったのだが、とにかく、日本方式に、車内を移動しようと思って、少しずつ歩き始めたのだが、列車が長くて、途中に貨車風の列車があって、開けっ広げの戸口から放り出されないように、必死になって前に進んだのだけは鮮明に覚えている。

   もう一つ、記憶にあるのは、ジュネーブからウィーンに向かったのだが、美しくて綺麗なスイスの国境を越えて、オーストリアに入った途端、一気に車窓から見える風景が貧しくなってしまって、経済力の差を見せつけられた思いがしたことで、憧れのオーストリアであっただけにショックであった。
   ミラノからイタリア国境を越えてパリに向かう車窓から見るアルプスや、フランスの豊かな田園地帯の美しさなど、いくらか印象に残っているのだが、その後、20年ほど経ってから、再び眺め見る風景だと思う筈もなかった。

   もう一つの鉄道の旅の失敗は、21世紀に入ってからのイタリア旅の思い出で、アッシジからシエーナへ移動した時に、これも、乗り継ぎ列車が異常に遅れて、次の列車を待ってでは間に合わなくなるので、案内所で聞いて、ローカルバスで次の乗換駅に行くことにした。
   ヒマワリが咲き乱れ、のぞかな葡萄畑を眺めながら、緩やかに起伏するイタリアの田舎のバス旅も悪くはないのだが、とにかく、のんびりした田舎のおんぼろバスのことであるから、何時着くかこの方が心配になって後悔したが後の祭りであった。
   駅に着くと、丁度列車が走り込んできたので、とにかく、乗ろうと発車寸前の列車を止めて乗り込んだ。
   しかし、この列車が反対方向の列車で、仕方なく、対向する列車が来なかったので、次の駅で待とうと下りたのだが、全く廃墟のような無人駅で、駅横には、放置された工場跡があるだけで、駅前には何もなければ誰もいない。
   一人だけ、鄙にも稀れな可愛い女の子が降りたのだが、お母さんが迎えに来ていて、去って行くと、静まり返ってしまった。
   地図も何もなく、何処にいるのかさえも分からない状態で、イタリアの廃墟の様な田舎駅には時刻表もある筈がなく、いつ来るのか分からない列車を待つ不安。
   2時間近くも待ったらやっと反対方向からローカル列車が来たので、ほっとして乗って、随分遅れてシエーナに着いた。
   
   この日は、シエーナのパリオ(Palio di Siena)の当日であった。
   シエーナの中心部にあるカンポ広場の石畳に砂を捲いて作った300メートルの円周馬場を3周約1000mを、地区代表の裸ウマに乗った騎手が競馬で覇を競うのである。
   会場は、チケットを持っておれば別だが、立錐の余地もない人人人で入れず、古色蒼然とした古都の雑踏を散策して、パーリオの模様は、ホテルのテレビを見ていた。
   翌日、夢の跡の広場に出て、優勝した地区の凱旋パレードを眺めながら、歴史遺産の中にタイムスリップした。
   この時の旅は、ローマからスタートして、アッシジ、シエーナ、ピサ、フィレンツェ、ベローナ、ミラノ、ヴェニスと回った。
   勿論、私の手作りの旅であるから、ベローナの野外劇場やミラノスカラ座のオペラから、美術館・博物館、世界遺産の見学など文化鑑賞三昧の旅であった。
   ローマからヴェニスまで、すべて、イタリアのユーレイルパスを使ったので、イタリア内は、すべて、鉄道旅。
   飛行機と違って、ゆっくりと車窓を流れる美しいイタリアの田園風景を眺める楽しさはまた、格別であった。
   それに、この時も、映画「旅情」のキャサリン・ヘップバーンと同じルートで、列車で鉄橋を越えてヴェニス駅に入った。
   また、この時は、前とは違って、大運河を経由してサンマルコに向かわずに、反対側から港を経て、外洋の方から右手にヴェニスの街並みを眺めながら、ドゥカーレ宮殿にアプローチしたのだが、意外なヴェニスの一面を感じて感動した。

   もう一つ、今度は、列車が遅れたのではなかったが、昼前にホテルについて、ホテルで中食を取ってから、ポンペイに行こうと思ったのだが、日本なら5分で出てくる筈が、スパゲティの出てくるのが無茶苦茶遅くなって、ナポリ駅から四苦八苦して列車に乗って着いたが、既に閉館した後であった。
   ポンペイ遺跡に入れたのは、その後、随分経ってから再訪問した時で、理由は異なるのだが、フォロ・ロマーノへ入ったのは、やっと3回目で、とにかく、イタリアでは、観光には満満足なのだが、トラブルだらけで、苦い思い出が多い。

   ヨーロッパでは、結構、あっちこっち鉄道で旅をしたのだが、その後、イタリアでの鉄道旅だけは止めにした。

   ヨーロッパの風景を楽しむローカル列車の旅も捨てがたいが、ヨーロッパ國際特急TEE (Trans Europ Express)の素晴らしさは、やはり、ヨーロッパでの鉄道旅の醍醐味であろうし、アルプスの登山電車も楽しい。
   ヨーロッパの鉄道旅の思い出は、いくらでもあるので、後は、次稿に回したい。
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鉄道の旅の思い出数々あれど(海外 その2)

2016年08月14日 | 生活随想・趣味
   アメリカの鉄道の旅で、書き忘れたのは、アラスカ鉄道の思い出である。
   東京からの出張だったが、州政府との交渉が長引いて、土日を挟んだので、マッキンレーの麓の民宿で一泊することにした。
   アンカレージを出た豪快な感じの巨大な列車が、雪に覆われた真っ白な荒野を走って行く光景は、映画のシーンのように別世界の景観であった。
   ずっと、以前に、アメリカの南部で、踏切に遭遇して、巨大な機関車が、恐らく何百両の貨車を連結しているのであろうと思われるほど、通過するのに何十分も待たされた経験があるのだが、アメリカの鉄道の規模は、とてもなく巨大で、スマートだけれど華奢な日本のJRの比ではない。
   
   このアラスカ鉄道の時は、陽のある時間に荒野を北上したので、春か秋だったと思うのだが、車窓の外は、雪を被った延々と針葉樹林が続いていて、時々その背後に雪山が見え隠れしていたのだが、一度だけ、遠くに、カリブーの姿を見た。
   民宿で、そのカリブーの塩漬けを頂いたのだが、特別な味でもなかった。
   この民宿は、山小屋風の大きなログハウスで、朝、犬ぞりを体験させてくれた。4頭の大きな犬が橇を引いて訓練されたコースを走るのだが、橇の後に立ってバーを握っているので、勢いよく一気に走ると、しっかり掴んでいないと振り落とされるくらいであった。

   先日、ワシントンから、フィラデルフィアとニューヨークを経てボストンへ走っているアムトラックについて書いたが、ここで、一寸、アメリカの鉄道駅について、書いておきたい。
   場所にもよるのだが、非常に巨大で、特に、ワシントンの駅は、国家的な記念セレモニーなどでも使用されるほどで、宮殿のような佇まいの巨大なホールを備えて、一部は、かなり設備の整ったショップやレストランなどアミューズメント的な要素を持ったコンプレックスになっていて、非常に興味深い。
   パリのオルセー駅が美術館になっているように、ヨーロッパの駅も、昔は宮殿のように立派だったのであろうが、あっちいこっち歩いているが、私の知る限り、今のヨーロッパのターミナル駅は、巨大であっても機能が優先されて、それ程美しいと思える駅は少ない。
   外観では、東京駅によく似ているアムステルダム駅のように絵になる駅もあるが、プラットフォームのある内部は、どこも巨大な工場の中のような雰囲気であって、洋画などに出てくる雑踏の方が目に付く。

   口絵写真は、ワシントン駅のアムトラック特急便のホームであるが、別に変わったところはない。
   別のアングルからと、駅の発券機の写真を載せておく。
   発券機は、日本のものとは様変わりで、慣れれば簡単だが、最初は戸惑った。
   
   

   駅舎は、正面は大きなボックス型の白亜の建物だが、流石ワシントンで、駅前の広場の雑踏やビジネス街やショッピング施設もなく、何もない殺風景。
   内部の一角は、セレモニーホールであろうか、広い空間である。
   そのはずれから、待合空間やレストランが張り出して、ショッピング施設につながっている。
   
   
   
   
   
   レポートするつもりで写真を撮った訳でもなく、通りすがりにスナップを撮ったのを、ピックアップしているので、何の脈絡もないのだが、ショッピングやレストラン空間の数ショットを載せておきたい。
   高い巨大なドーム状の空間を、改装したものであることが、天井を見れば分かって面白い。
   デジカメになってからは、パソコンに写真が取り込んであるので、楽に記事に収載出来るが、それ以前の膨大な写真は、アルバムとネガなので、デジタル化しなければならない。若い時から、カメラを携えて世界を歩いて来たので、面白くて懐かしい写真も多いと思うのだが、何となく、その機会はなさそうな気がしている。
   
   
   
   
   
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鉄道の旅の思い出数々あれど(海外 その1)

2016年08月13日 | 生活随想・趣味
   海外での生活は、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパと14年で、そのほか、海外関係の仕事で随分海外に出ていたので、かなり、鉄道に乗って移動する機会があった。

   一番最初は、フィラデルフィアへ留学した時に、ホスト・ファミリーを訪ねて、ローカル線で田舎に向かった時で、確か、大きなpenn 30th駅からローカル線で田舎へ出た時で、とにかく、至れり尽くせりの日本の駅のように表示板があるわけではなく、時刻表示があっても、まともにまともなホームから、まともな時間に出る保証はないので、随分苦労して、厳つい大きな列車に乗り込んだのだが、車内アナウンスもなく、駅には音もなく止まって音もなく発車するので、どこで下りて良いのか神経をとがらせて、駅の表示を確認しながら着いたのを覚えている。

   ビジネス・スクールの生活にも慣れてくると、趣味が頭を擡げ始めて、この2年間に、メトロポリタン・オペラやニューヨーク・フィル、ブロードウェイのミュージカルを鑑賞したくて、何回も、ニューヨークへ往復したのだが、この方は、幹線でアムトラックが走っているので、それ程苦労はしなかった。
   丁度、マジソン・スクエアの真下のペン・セントラル駅に着くので、正に、雑踏するニューヨークの心臓部で、ここから、メトロに乗って、リンカーンセンターやブロードウェイに出るのである。
   困ったのは、会社留学の貧乏学生であったから、特別な列車に乗れるわけがなく、学割の利いた鈍行に乗らなければならなかったので、オペラが跳ねてフィラデルフィアに着くのは、深夜の2時3時で、全く人通りのなくなった寂しい夜道を2キロほど歩いて寮まで帰らなければならなかったことである。
   当時、ニューヨークもフィラデルフィアも治安が最悪で、何かがあれば、大変だったのであるが、若かったから馬鹿をしたのかも知れない。

   帰るまでに、このアムトラックで、ワシントンとボストンだけは見ておきたいと思って往復したのだが、産声を上げてたった200年の偉大なアメリカの歴史の秘密を垣間見て感激しきりであった。
   フィラデルフィのインデペンデンス・ホールには、何度も訪れたのだが、非常に質素な木造の建物で、目の前数メートルのところに、独立宣言を起草したわが母校ペンシルベニア大学の創立者ベンジャミン・フランクリンやジョージ・ワシントンたちが、侃々諤々の議論を展開していたのかと思うと、感慨一入であった。

   このアムトラックだが、第1次石油ショックで、アメリカでも石油危機が勃発して、全ガソリンスタンドが1回に1ドル分しかガソリンを売らなかったので、起死回生して不死鳥のように蘇ったのである。
   METで何を見たのか記憶はないが、フィラデルフィアで、マリア・カラスとジュゼッペ・ステファノ、レナータ・テバルディとフランコ・コレルリのジョイント・リサイタルやフィッシャー・ディスカウの冬の旅などを聴いたのだが、その頃のことである。

   その後、一度、このアムトラックで、フィラデルフィアへ行ったことがあり、最近では、もう大分経つが、2008年にフィラデルフィアやボストンを訪れた時の模様は、このブログの「ニューヨーク紀行」に残している。
   この口絵写真は、その時のボストン駅のアムトラックの特急車両である。
   日本の特別車両の様子は知らないが、欧米の列車は、日本ののぞみのグリーン車のように味気なり車両や座席ではなく、もっと個人性を重視した雰囲気のある客車となっていて、高級感があって良い。

   この留学時代に、パリからの留学生がチャーターしたPan Am便の空き席が格安で提供されたので、これも格安のユーレイルパスを買って、ヨーロッパを鉄道旅行をした。
   貧乏旅行であったが、初めてのヨーロッパの2週間であったので、素晴らしい経験であった。
   その後、何度もヨーロッパを訪れて、ヨーロッパに長く住んで居たので、その時の鉄道の旅の思い出は、次稿に譲りたい。

   さて、留学から帰って、すぐに赴任したのは、ブラジルである。
   しかし、ブラジルでは、飛行機と車の生活で、鉄道に乗る機会はなかった。
   在住当時に、サンパウロの地下鉄が開通したので、何度か利用したことがある。
   車両が1両ずつ分離されていて車両間の移動が出来なかったこととか、駅の広告がなかったことくらいの印象は残っているが、治安にも問題があったので、殆ど利用しなかった。
   サントスから奥地へ、多くの日本移民が送り込まれたと言う鉄道を、見る機会を失して、一寸残念に思っている。

   もう一つ、印象深い鉄道旅は、香港から中国に入った1979年の旅である。
   鄧小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で、対外開放政策の実施が決まって、固かった中国の門戸が開いたのである。
  シンガポールの有力者の導きで、北京政府へ、開発プロジェクトの打診に出かけたのである。

   当時北京政府は、ホテルのキャパシティが限られていたので、ホテルの部屋に空室が出ると、入国ビザを発行していたので、随分待ったが、びくびくしながら無事入国して、北京飯店に滞在して、交渉した。
   政府には適当な事務所がないのか、役人たちは、ホテルの我々の部屋に来てくれたのだが、ビジネス体制など整っていないしシステムも全く違うので、中々埒が明かず、次にいつ来てくれるのか、全く分からず待機の毎日であった。
   合間を見て、折角来たのであるから、紫禁城や天台や頤和園を訪れたが、勿論、万里の長城などには行けなかった。

   ところで、香港の駅から、封印列車のような列車に乗って、中国の国境を越えて中国大陸に入った。
   40年近くも前のことなので、中国の深圳に着いたのか、他の都市に着いたのか記憶にないのだが、そこから、飛行機に乗り換えて北京に向かった。
   列車は、日本の車両と殆ど同じの4人掛けのボックス席で、途中、車内サービス嬢が回ってきて、初めて中国茶を飲む機会を得た。
   大きなマグカップの茶葉に熱湯をさして、頃合いを見て、茶葉を避けて飲むのだが、味は悪くなかったが、飲み辛かったのを覚えている。

   列車は、のろのろだったが、印象深かったのは、車窓に流れる美しい農村風景であった。
   文革の影響があったのかどうかは分からなかったが、丁寧に手入れの行き届いた田畑や働く人々の姿が、一幅の絵のように展開されていて、感激しながら眺めていたのを思い出す。

   ところが、終着駅に到着すると、駅の外には、びっしりと質素な身なりの中国人が、客の到着を待っていた。
   香港からの乗客は、香港人か香港在住の親戚なのであろうか、沢山の電化製品などの荷物を持ち込んでいたので、これを待っていたのであろう。
   先を急いで空港に向かったので、彼らの涙の再会姿を見ることはできなかった。

   とにかく、当時の中国は、実に貧しく、戦争直後の日本の姿そっくりで、その現状が、毛沢東の共産党政権でも、30年経った当時、何も解決されていなかったのを知って、驚きであった。
   それに比すれば、ICT革命とグローバリズムの潮流に恵まれたとしても、鄧小平の改革開放政策が効を奏して、この30年の成長発展ぶりは、正に、逆な驚異である。
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鉄道の旅の思い出数々あれど(国内)

2016年08月12日 | 生活随想・趣味
   NHKで、寅さん特集が放映されていて、「寅さん・鉄道ふれあい旅」で、倍賞千恵子と前田吟が、寅さんのゆかりの土地を回り、名場面や舞台となった懐かしい日本の故郷を映していた。
   実に、懐かしい。

   私は、アムステルダムにいて、ホテル・オークラと日本への往復で、寅さん映画を見て一気に、寅さんファンとなった。
   その後、帰国の都度、ビデオやレーザーディスク、DVDを買ったり、ダビングしたり、録画したり、その後も続けて、48作全部を鑑賞した。
   私の娘2人など、夫々、ヨーロッパで教育を受けたのだが、日本との重要な接点は、日本からの沢山の本と、寅さん映画であったと言っても良いと思っている。
   寅さん映画を紡ぎ出した山田洋次監督、渥美清の名演と、マドンナや日本を代表する名優たちの醸し出す素晴らしい映画は、まさに、日本そのものであった。

   このブログでも、何度も書いているので、今回は、寅さんを離れて、私自身の列車の思い出を書いてみたいと思っている。
   私の最初の鉄道の旅は、中学の修学旅行で、宝塚から東京往復であった。
   その次は、学生時代に、周遊券とユースホステルを使っての九州と北海道の周遊旅であった。
   フッとすれ違った女子学生との甘酸っぱい出会いなど、剃刀を触れれば鮮血がほとばしるような青春の思い出が残っているのもあの頃。もう少し、前かも知れない。
   大学生の頃は、そのほかにも、松山や東京の友を訪ねたり、ゼミの合宿で信州に行ったり、とにかく、学割が利いて国鉄は安かったので、少しアルバイトをすれば、動けたので、長旅が出来た。
   殆ど、記憶に残っていないが、その後何十年か経って訪れた北海道の稚内など地方の素晴らしい都市が、見る影もなくさびれてしまっていて、今昔の感を覚えた。

   会社に入ってからは、個人的な旅行などは別にして、東京と大阪との往復が大半で、地方へ行っても、地区の大都市ばかりで、殆ど新幹線か飛行機が主で、鉄道で長旅をすることはなくなってしまった。
   その後、海外での生活が長くなって、鉄道旅は、その方の思い出の方が多くなった。
   海外から帰ってからの50代から60代にかけては、仕事の関係上、大都市ばかりではなく、沖縄から北海道の知床まで全国を回る機会を得て、初めて、寅さんの世界に接することが出来るようになった。

   北海道ではどうしても、移動は飛行機になるのだが、釧路から根室までは、昔の根室本線の「花咲線」を鉄道で行った。
   確か、殆ど客のいない1両のジーゼルで、自然そのままの田舎を、ひっそりとした無人駅を通過しながら根室に着いたのを覚えている。
   神武景気頃の釧路や根室は、はるかに元気があって、駅の雰囲気も、北海道の大動脈の一端を担っているようで、活気に満ち溢れていたように思う。
   その後、北海道では、札幌から小樽や旭川、旭川から留萌くらいまで、列車を使ったのだが、特に、留萌のさびれぶりの酷さに驚き、途中のロケ地の恵比島駅ホームに隣接して置かれていた朝ドラの「すずらん」の明日萌駅などに似た駅や、もっと寂しい小屋のような無人駅が、全国各地の随所に残っていたのを思い出す。

   私のような首都圏に住み、東京や横浜や大船などと言った殆ど一日中客でごった返している駅で乗り降りする人間には、想像もできない世界であった。
   尤も、私自身は、このような雑踏の都会地を好きではなく、昔懐かしい雰囲気が残っていて、人の温もりを感じさせてくれる地方の風景や風物の方が、はるかに好きであり、そのような雰囲気が残っているのを感じて、嬉しくなってホットしているのも事実である。

   寅さんが、逝って既に20年。
   五月に、山口旅をして、日本の故郷の美しさ、懐かしさ、良さについて書いたのも、そのような発見と思いがあったからで、地方を創生して美しい日本を取り戻すことが、如何に大切か、このままでは、東京一極集中の、頭でっかちの文化文明だけが育って、リバイヤサンまがいの怪物が、日本の美しき伝統と文化、公序良俗を食い殺してしまう。

   以前に、松江から津和野経由で下松まで特急と鈍行を乗り継いで、ゆっくりと移動したことがある。
   途中運悪く、踏切事故で、単線なので、何時間も列車が止まって、仕事にならなかったことがあったが、自分の生活ペースが間違っているのではないかと、焦るのを恥じて、仕事を忘れて、津和野で沈没したことがあった。
   今でも、人生それでなくてはならない筈だと思っているのだが、あの世に近くなった今でも、時間に追われてあくせくしているのが悲しい。

   東北では、ローカル線は、仙台から気仙沼と山寺、福島から米沢経由で山形、程度なのだが、ゆっくりとした鉄道旅なので、東北の野山の美しい風景を楽しむことが出来て幸せであった。
   九州では、福岡から大分、中国・四国では、岡山から高松、高松から松山、くらいしかない。
   尤も、短距離なら、全国各地に、鉄道旅は散らばっている。
   しかし、それも殆どの旅は、もう、10年も前のことになるので、時代は変わっているのかも知れない。

   首都圏の電車では、大体、本を読んでいるのだが、東京を離れると、そんな無粋なことをせずに、静かに車窓からの景色の移り変わりを見ている方が多い。
   変な文章を綴ってしまったが、明日は、海外での鉄道旅について書いてみたい。
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映画:「ヒトラー~最後の12日間」

2016年08月11日 | 映画
   少し前に、ヒトラー暗殺計画遂行の映画「ワルキューレ」をテレビで見て、興味を感じて、映画「ヒトラー~最後の12日間」を見ようと思ってDVDを買った。
   見る機会がなくてそのままにしていたのだが、先週、NHK BS2で放映されたので、丁度、地政学や國際関係論を勉強し始めている時でもあり、ビデオに撮って鑑賞した。
   私自身は、微かに、親に抱かれて防空壕に駆け込んだり、空襲で、大阪や神戸の夜空が赤く染まっていたのを覚えており、ヒトラーは知らないが、チャーチルやスターリンや毛沢東と言った歴史上の人物は、同じ地球上の空気を吸っていた同時代人であり、第二次世界大戦以降の歴史は、わが世代の歴史でもあった。

   この映画は、1942年11月、ナチ党結成の地ミュンヘン出身と言うこともあって、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーに採用された秘書トラウドゥル・ユンゲが、戦後に書いたメモや口述を基にして著された「私はヒトラーの秘書だった」と、ソ連軍とのベルリン攻防戦やナチス幹部の断末魔の足掻きなどヒトラーの最後を描いたヨアヒム・フェストの「ヒトラー~最後の12日間」を基にして制作された映画である。
   非常にセンシティブな歴史に切り込んだテーマでもあり、賛否両論話題を呼んだ映画のようであるが、監督のオリヴァー・ヒルシュビーゲルが述べているように、史実をかなり忠実にフォローしたドキュメンタリー・タッチの映画であるから、貴重な歴史として見てみると、非常に示唆に富んでおり、現代人として、あの広島や長崎の原爆投下と同じように、真正面から見据えなければならない現実だと言う気がする。

   22歳で何も知らずに秘書となり徹底的なヒトラーびいきであった秘書トラウドゥル・ユンゲが、戦後に、真実を知ってヒトラーの悪行に気付いて、その悔恨を語るところから映画が始まるのだが、
   冒頭のシーンは、 東プロイセンのラステンブルクにある総統大本営ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)を、5人のメッチャンが、深夜に訪れて、アドルフ・ヒトラーの秘書採用試験を受ける場面で、人間ヒトラーの一面を見せていて興味深い。

   この映画の主舞台は、ヒトラーが最後の指揮を取るベルリンの首相官邸の地下要塞で、幻想に惑わされて錯乱状態になって行くヒトラーの荒唐無稽な作戦指示や高官たちの裏切りなどを、戦場での悲惨な戦いや逃げ惑うベルリン市民の惨状を交えて時間の問題となったドイツ陥落の模様を克明に活写し、
   ヒトラーの56歳の誕生日を祝うパーティの模様や自殺前日のヒトラーとエヴァとのささやかな結婚式、自殺したヒトラー夫妻の跡を残さぬようにガソリンを撒いて庭での焼却、それに、ゲッペルス夫妻が6人の幼き子供を毒殺した後、自殺して焼却される様子など、生々しく描かれていて、2時間半の映像の値打ちは、あまりにも重い。

   この映画に対する感想やヒトラーとナチスなどについての感想は、軽々に論ずべきではないと思うので、今回は避けるが、フッと感じたのは、映画「日本のいちばん長い日」と比べると、同じ終戦でも、ドイツと日本は、随分違うなあと言うことである。
   それが、戦後処理や歴史問題に影響を与えているのかも知れないが、絶対に戦争はやってはならないと言うことである。

   私が、ロンドンで仕事をしていた時に、ベルリンの壁が崩壊した。
   それ以前に、ハンガリーには度々行っていたが、東ベルリンに入ったのは、その少し前と、ベルリンの壁崩壊の最中で、一挙に、東への門戸が開放されて、東西が交流を始めた。
   私は、ブランデンブルグ門を越えて、ベルリンの文化文明の中心とも言うべきフンボルト大学やオペラハウス、ベルリンの博物館島 (ムゼウムスインゼル)を真っ先に訪れて、ドイツの栄光を忍んだのだが、全く陰鬱で悲惨な状態であり、裏町に入ると、プラスチックばりのちゃちな東ドイツ製のトラバント車のタクシーが、穴ぼこだらけの道を走るのには閉口した。

   余談ながら、東ベルリンに、本来の国立ベルリン・オペラハウスがあり、ベルリンの壁崩壊前に、ここで、ホフマン物語だったと思うのだが、そして、もう一つ有名なコミッシェ・オペールで、魔弾の射手を鑑賞する機会を得たのだが、オペラの出来栄えとは関係なく、劇場の雰囲気は実に暗くて、その後、西ベルリンで見たベルリン・ドイツ・オペラとは好対照であった。

   壁崩壊直後に、市場調査で、ライプチッヒやドレスデンにも行ったのだが、東ドイツの貧しくて目を覆うような悲惨な景観や市民の生活状態を見て、如何に、国土を荒廃させて、国民を疲弊させ窮地に追い込んでしまったのか、ナチスの爪痕が、それも、共産体制下で、半世紀近くも経っているにも拘らず残っていて、言葉も出なかったのを覚えている。
   ヒトラーが、戦時に、滑走路として使用するために、中央分離帯なしのアウトバーンを作ったと聞いていたが、実際に、東独に残っていた飛行場の滑走路のように広い一直線の道路を見ると、驚異であった。
   この映画でも、ヒトラーは、古代ローマの壮大な都市模型を前にして、夢を語っていたが、フリードリヒ2世の肖像画をじっと見上げているシーンなどを見ても、誇大妄想と言って良いのか、理想を描きたいと言う画学生の絵心が残っていたのであろうか。

   アドルフ・ヒトラーを演じたブルーノ・ガンツが語っていたが、言うならば、普通の人間に過ぎない筈のヒトラーに、何故、誰も反発しなかったのか。

   ヒトラーやゲッペルスは、悲惨な状態に喘いでいる国民の生命財産を救うべく、何度も側近に、終戦交渉を促されるのだが、「国民が選んだ運命だ ! 」「自業自得」だ言って、ドイツ国民の犠牲を正当化し拒否し続けた。
   考えてみれば、ウィーン美術アカデミーを受けて失敗した画家志望の放浪青年であったヒトラーをドイツ国民が自分たちの代表として選んで囃し立てて、彼らが言うように、形の上では、民主主義国家であったから、ヒトラー政権は、国民の信任を得て民主的に誕生したと言うこのなのであろう。
   問題は、その後の振り子の振り方であって、現在でも、世界中には、何かの拍子に台頭して、国民の生活や安寧を無視して、権力を行使し続けている独裁者や独裁政権が存在している。

   蛇足だと思うのだが、選挙は魔物。
   賢い筈の東京都民や大阪府民が、ノック青島現象を起こしたし、アメリカの大統領選挙でも、予想外の展開を繰り広げている。
   ヒトラーの台頭は、両大戦間の大混乱とと経済恐慌と言う歴史上激動の異常な時代に起こったこと。

   さて、話が全く違うのだが、キッシンジャーが、「国際秩序」のなかで、
   ロシアでは、ピヨートル大帝など、過去と決別したいと言う国民の願望を、非情な独裁君主が動かして、国民が達成できなかった偉業を成し遂げたので、やり方がいくら非情であっても、国民を突き動かした臣民や子孫に功績を称えられた。最近の世論調査で、スターリンも同時代の見方で、ある程度そういうふうに認識されていたことが分かった。と述べている。
   エカチェリーナ大帝も、中興の祖だが、ロシアの極端な独裁制は、これほど広大な領土を維持できる唯一の統治システムだと正当化した。西欧には気まぐれな専制主義と見られるものが、ロシアでは本質的に必要不可欠とされ、きちんと機能する統治の前提条件になっている。と言うのである。
   国家の統治システムとして、歴史上も色々な政体が展開されてきたが、良し悪しは別として、参考のために記しておきたい。

   この考え方を、今のロシアに当てはめて考えればどうなるか、興味深いと思うのだが、あのロシアの過酷な農奴制度などの悲惨さを考えれば、庶民の人権と生活を無視して圧殺するような統治システムなどは、絶対に正当化できないと思っている。
     
   
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Rioオリンピック2016とリオの思い出

2016年08月09日 | 海外生活と旅
   Rioオリンピックでの日本人選手たちの活躍を見ていると嬉しい。
   開会式の放映で、リオの風景が映し出されて、見慣れた風景が浮かび上がると、無性に懐かしくなった。

   はるか昔、1974年から1779年まで、ブラジルのサンパウロに在住していたので、リオへは、仕事や観光で良く訪れていた。
   その前は、フィラデルフィアでのMBA留学の2年間であったので、何となく、腰掛気分の海外生活であったのだが、ブラジルでは、仕事をして実績を上げなければならないし、家族も帯同しての本格的な海外生活なので、緊張を要した。

   当時のブラジルは、大変な好景気で、鳴り物入りで囃されたBRIC'sの比ではなく、大変なブラジルブームで、草木も靡く勢いで、日本企業が大挙してブラジルに殺到した。
   しかし、最近のブラジル経済の失速と同様に、ブームは長続きせず、世界でも屈指の経済的資源に恵まれながらも、何時まで経っても、ブラジルは「未来の国」である。
   
   あの当時も、サンパウロには、高層ビルが何千棟も林立する巨大な近代都市であったが、一方、中心から離れると貧民街ファベーラが広がっていると言う二重国家の様相を呈していたが、今も、リオの風景を見ていると、美しい海岸沿いの近代都市の横に山手に向かって、びっしりと低層のファベーラが広がっていて、殆ど変わっていない。
   ルーラ大統領の時に、大規模な貧民救済政策を実施したが、深刻な経済格差は解消されず、治安の悪さが依然として問題となっている。

   尤も、私自身は、リオを訪れても、コパカバーナやイパネバ海岸沿いの高級街や官庁ビジネス街しか行ったことがないので、ファベーラは知らない。
   しかし、一度だけ、友人の紹介で、日本にサンバ演奏団に参加して訪日したと言う演奏者を訪れて、サンパウロのファベーラに行ったことがあるのだが、あのリオのカーニバルでもそうだと思うのだが、多くの音楽家やダンサーたちは、ファベーラに住んで居たりするようで、正に、「黒いオルフェ」の世界であった。

   もう一つ、印象的であったのは、カーニバルやサンバに繰り出すブラジル人の多くは、庶民たちであって、金持ちたちは、ホテルや大会場を借り切って大パーティを開いて、自分たち自身のカーニバルやサンバを楽しむようで、私も一寸覗いただけだが、華やかで楽しそうであった。
   もっと金持ち連中は、外国に出て、楽しむのだと言う。
   何時まで経っても、ブラジルは二重国家のままなのである。
   これによく似た現象は、アルゼンチンのタンゴにも見られるようで、世界遺産に登録されても、まだ、庶民の芸術のようである。

   リオでもサンパウロでも、街の一角でのカーニバルの雰囲気を味わったが、大変な雑踏と人混みなので、本格的なカーニバルには見に行かずに、テレビで実況を見ていた。
   日本でも、祇園祭くらいで、祭り見物には行っていないので、まあ、仕方がないと思っている。

   リオとサンパウロを飛行機で往復すると、チャンスに恵まれると、あの巨大なキリスト像コルコバード(Corcovado)が、機内の窓から綺麗に見える。
   車で上ると、かなり高いところへの一本道なので、下手をすると上り切るのに時間がかかる。
   ケーブルカーもあるようだが、私は、マイカーで上った。

   もう一つ、上から遠望できるリオのシンボルは、頭のないライオンが伏せているようなポン・ヂ・アスーカル(Pão de Açúcar)で、砂糖パンに似ていると言うのでこの名前がある。
   とにかく、リオの上空を飛ぶと、飛行コースにも寄るのだが、コルコバード、ポン・ヂ・アスーカル、そして、弧を描くコパカバーナとイパネマの白砂の海岸などの美しい風景が眼下に迫り、最初に見た時には、非常に感動した。
   あまりにも美しくピクチャレスクな光景は格別で、ぐんぐんと迫りくる風景は圧倒的であり、その後、プラハで、私が見た一番美しい都市景観だと思って感激した、あの印象と同じである。

   さすがにリオでは仕事にならなかったが、多少、時間にも余裕があったので、コパカバーナで、美女たちの写真を撮ったこともあった。
   赴任を終えて、ブラジルを離れる前に、コパカバーナ海岸のリオ オットン パレス(
(Rio Othon Palace)に何泊かして、名残を惜しんだ。
   薄暗いホテルの高層の窓から望んだ、大西洋のかなたの地平線に浮かび上がる朝日の美しさは、今でも、印象に残っている。


   ブラジルについては、このブログの「BRIC’sの大国:ブラジル」ほかで随分書いて来たので、蛇足は避けるが、私にとっては、初めてのかなり長い海外生活の地で、永住権も取得した第二の故郷にも近い思い入れのある国なので、今回のオリンピックについては、平穏無事に成功裏に終わって欲しいと願っている。
   少し前に、大分追加勉強して、2年間、群馬県立女子大学で、単発のブラジル学講義を行ったことがあるのだが、歴史上も非常に特異な国ではあるけれど、協創には最高の国だと思っており、日本としては、特に、注目すべき国であろう。

   テレビで、オリンピック放送を見ていたら、窓の外で、アゲハチョウが、カノコユリにたわむれ始めたので、フッと、同じような光景を見たブラジルを思い出し、この文章を綴ってみた。
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映画「インデペンデンス・デイ リサージェンス」

2016年08月08日 | 映画
   夏休みシーズンの映画館では、殆ど、子供向けの映画が占めていて、大人にとって面白そうな映画は少ない。
   どうしても、映画を見るとなると近場と言うことになるのだが、鎌倉には映画館がないので、隣町のシネマコンプレックスである109シネマズ湘南に行って、IMAXを見ることになる。

   最近、孫たちと話が合うためにも、一寸毛色の変わった映画も見ており、私としては、殆ど見たことがないジャンルの「インデペンデンス・デイ リサージェンス」を見ることにした。
   20年前の「インデペンデンス・デイ」を見ていないので、よく分からなかったのだが、
   1996年に公開された前作SF「インデペンデンス・デイ」の20年ぶりの続編とかで、エイリアンの侵略を撃退して生き延びた人類は、宇宙における独立を宣言して、回収したエイリアンの技術を利用して防衛システムを構築して、エイリアンの再来に備えた。ところが、再び地球を目標に襲来したエイリアンの兵力は想像を絶するほど高度に進化した圧倒的なもので、人類は為す術もなく、再度の絶滅の危機を迎え、壮絶な宇宙戦争が展開される。
   前回でも、空前のディザスター映像で大反響を呼んだが、今回は、更に、高度なCGなど大進化を遂げたICT技術を縦横に駆使して、別次元の途轍もないスペクタクルを創造した革新的な超大作になったと言う。

   監督は、前作も手がけたディザスター映画の巨匠ローランド・エメリッヒで、戦闘機パイロットの主人公ジェイク役を「ハンガー・ゲーム」シリーズのリアム・ヘムズワースが演じ、ビル・プルマン、ジェフ・ゴールドブラムら前作から続投したキャストも参加したと言うのだが、私には分からない。
   主役は、若い男女の戦闘機パイロットなど戦士なのだが、当然、地球の運命をかけた宇宙戦争であるから大統領など偉い人が出てきて活躍するし、とぼけた調子の科学者や指揮官なども登場するのだが、エイリアンによって親を失った子供たちの乗ったスクールバスがエイリアンの頭目である女王に追っかけまわされて砂漠を突っ走るなど、遊び心満開の映画で、非常に面白い。

   監督が言っているのだが、20年の進化を考慮して、“地球防衛システムの発足”や“世界平和同盟の締結”“月面に基地を建設”といったキーワードを配し、また、「96年の出来事(エイリアンの襲来)を“戦争”として描いたが、本作は、“戦後の世界”を描いて、人類が、地球上において、初めて、民族や人種を越えて一致団結している世界を描出している。
   本作は娯楽として作っているから、まずは楽しんでもらって、後から考えたらメッセージ性もあるなと思っていただきたいといっているのは、この、人類皆兄弟、力を合わせて宇宙船地球号を死守しようと言うことなのであろう。

   とにかく、高度に構築された宇宙基地で最新鋭機が派手な戦闘を繰り広げ、海も山も、都会も田舎も、エイリアンの攻撃に晒されて、天地が分からないくらい地球が鳴動し揺れ動いて破壊されて行く凄まじい光景など、科学の進歩か映像技術の進歩か、文句なしに、面白い。
   科学技術の進歩と言いながら、実際に戦闘を繰り広げているのは、戦闘機であり自動小銃だと言うところが時代錯誤のような気がするが、若い男女のラブロマンスもテーマの一つであるから、スペクタクル漫喫の娯楽映画として楽しめばよいのであろう。

   私には、どんどん、畳みかけて展開されて行く創造性、そして、想像性豊かな絵のようなシーンの移り変わりが、正に、映画でしか表現できない素晴らしい芸術を生み出しているようで、楽しかった。
   
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