熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

春近し・・・雛飾り、そして、椿の花

2017年02月22日 | 生活随想・趣味
   遅いのではないかと思っているのだが、いつも、桃の節句直前になってから、ひな人形を出して座敷に飾る。
   もう、40年近くも前になるのだが、ブラジルでの赴任が終わって、帰国した直後の桃の節句に、長女のために、浅草橋に出かけて、駅前の秀月で、五段飾りのひな人形を買った。
   その後転居で、この人形も転々としているのだが、残念ながら、8年間のヨーロッパに持っていくのを逡巡したので、この間はミスっているが、毎年、私が出し入れして飾っている。

   長女も、次女も、子供は男なので、夫々、鎧兜飾りを買ってやったので、ひな人形は、そのまま、我が家に残ったままになっていたのだが、鎌倉で同居を始めた次女家族に、昨年3月に女の子が生まれて、今年は、その孫娘の初節句でもあり、記念すべき桃の節句なので、どうして祝うか楽しみに考えている。
   次女は、自分たちでも、孫娘に、小さなひな人形を買ってやっていたが、私も、ヨーロッパに居た頃には、出張で日本に帰ると小さな雛飾りを買って帰り、部屋に飾って、雰囲気を楽しんでいた。
   

   さて、もう、春一番が吹き荒れたが、三月になると、陽が長くなってくる所為もあって、一気に温かさを増して、花木や草花が咲き始めて、春の気配が濃厚になる。
   3月3日の桃の節句には、まだまだ、桃は咲かず、咲き乱れるのは、ずっと、後になるのだが、美しく咲き乱れる風情は、格別なのだが、梅や桜ほど人気がないのが面白い。
   垣根の外に、源平梅を植えてあるのだが、まだ、木が小さくて、今年は咲くのであろうか。

   私の関心事である椿が、少しずつ咲き始めている。
   先日、蕾が色づき始めた椿が開花した。
   トムタム、桃太郎、フルグラントピンクである。
   
   
   
   
   
   

   気付かなかったのだが、門扉脇の式部が、咲き始めている。
   この椿は、卜伴のような唐子咲なのだが、黄色い蕊の周りの唐子が非常に美しいので、大切に育てていて、千葉の庭から移植した数少ない椿の一本である。
   
   

   春になると、だれでも嬉しくなって元気になると思うのだが、ヨーロッパで過ごすと、その春の素晴らしさが良く分かる。
   ヨーロッパの歳時記は、春まで幾日か、春に向かっての思いが込められていると、どこかで聞いたような気がするのだが、オランダには、クロッカスが咲き始めるころに、クロッカス・ホリデイがあって、春の到来を喜ぶ。
   丁度今頃、2月下旬だから、随分寒くて、日本なら真冬の最盛期なのだが、どんよりと曇ったリア王の世界のような暗いある日、思い切って、運河沿いの牧場に出たら、生まれたばかりの子羊が、親の後を追っていた。

   丁度、日本のゴールデンウィークの頃に、キューケンホフ公園には、チューリップやヒヤシンス、水仙、そして、桜や菜の花など、春の花が、一気に、一斉に咲き誇る。
   正に極彩色の美しい春の到来なのだが、
   私は、日本のように、少しずつ、空気や日差しが変化していって、微妙な気候の移り変わりに順応しながら、椿でも桜でも、入れ替わり立ち代わり、違った種類の花が順に咲き続けて楽しませてくれる、実に繊細な四季の変化を味わえるこの自然の恵みが、如何に有難いことか、身に染みて感じている。

   椿は、種類によって、秋が深まり行くころから、寒い冬を経て、五月晴れの美しい季節まで、咲き続ける。
   私の好きな花である。
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国立劇場・・・文楽「平家女護島」

2017年02月21日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「平家女護島」は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃なのだが、歌舞伎でも文楽でも、第二段の「鬼界が島」、もしくは「足摺」の段のみが、突出していて、殆どこの「俊寛」の舞台しか鑑賞の機会がないのだが、今回の文楽では、その前の「六波羅の段」や、その後の「舟路の道行きより敷名の浦の段」が上演されていて、違った俊寛の世界が見えて面白い。

  「六波羅の段」では、俊寛の妻あずまやが、清盛の執心に耐えかねて自害すると言うストーリーで、
  「敷名の浦の段」では、備後の敷名に赦免船が到着すると、丁度、厳島に参詣の途中の清盛に遭遇するのだが、平家追討の院宣を出されてはかなわないと、同道した後白河法皇を海中に突き落とすのを、俊寛の身代わりに船に乗って都へ向かう成経の妻千鳥が助けたので、清盛は熊手で千鳥を引き上げて頭を踏み砕く。俊寛を迎えに来ていた有王が、清盛の軍平を蹴散らして、千鳥から法皇を受け取って逃げ去る。千鳥の死骸から怨念の業火が上がって清盛の頭上にとりつくので、恐れをなした清盛は都へ逃げ帰る。

   この文楽も、近松門左衛門の浄瑠璃から、かなり脚色もされているようだが、それはともかく、「平家物語」や、それを基にした能などと、筋が大きく変わっているのが興味深い。
 
   大きく違っているのは、あずまやと有王の描き方で、「平家物語」では、
   あづまやは、命を懸けて操を守り抜いたのではなく、鞍馬の奥に移り住み、鬼界が島に連れて行けと俊寛に纏わりついた幼女を亡くして悲嘆にくれて亡くなっており、
   「有王島下り」の章で、俊寛が可愛がっていた侍童・有王が、鬼界が島を訪れて、俊寛にこの話をすると、妻子にもう一度会いたいばっかりに生きながらえて来たのだが、たどたどしい文を書いてよこした12歳の娘を一人残すのは不憫だけれど、これ以上苦労をかけるのも身勝手であろうと、俊寛は、絶食して弥陀の名号を唱えながら息を引き取る。
   有王は、俊寛の遺骨を抱いて京に帰り、高野山に上って高野聖になって遺骨を首にかけ俊寛の菩提を弔い、
   この娘も、法華寺にて仏門に入って俊寛の菩提を弔うのである。
   この段の最後は、”か様に人の思ひ嘆きのつもりぬる平家のすゑこそおそろしけれ。”
   「足摺」の俊寛の哀れさも、筆舌に尽くし難いが、この段の諸行無常も格別で、私は、あの「俊寛」の舞台も素晴らしいのだが、この段の平家物語の語りに涙を催した。

   さて、もちろん、平家物語でも、妻への思いのみが俊寛の生きがいであったことを語っており、近松門左衛門の浄瑠璃をベースにした文楽や歌舞伎では、妻あづまやが清盛に殺されてこの世に居ないと使いの瀬尾太郎兼康に憎憎しく毒づかれ、一挙に、千鳥乗船の決意が固まり瀬尾を殺して罪人となって、鬼界が島に残る。
   千鳥は、この俊寛の都に残した妻への限りなき愛を思っての近松の創作であろうし、この千鳥のロマンが欠落して居れば、この「足摺の段」は、単なる清盛の気まぐれで、俊寛が置いてけぼりを食った悲劇だけで終わってしまう。
   尤も、能「俊寛」は、平家物語通り、それだけで、終わっていて、名曲になっているのだから、それで、良いのかも知れないのだが。

   蛇足ながら、菊池寛の「俊寛」では、鰤を獲っているのをじっと眺めていた土人の長の娘と恋に落ち、結婚して5人も子供をもうけて幸せに暮らしていて、
   訪ねてきた有王が、俊寛が、南蛮の女と契るなど嘆かわしい、平家に対する謀反の第一番であるから、鎌倉が疎かには思う筈はないので帰ろうと説得するのだが、人には死んだと言ってくれと言って島に残る。

   芥川龍之介の「俊寛」は、鬼界が島を訪ねてきた有王が語るストーリーになっていて興味深い。
   ただ、一点だけを記しておくと、最愛の妻であった筈のあずまやについて、
   「有王。おれはこの島に渡って以来、何が嬉しかったか知っているか? それはあのやかましい女房のやつに、毎日小言を云われずとも、暮されるようになった事じゃよ。」

   駄文ばかりを書き綴ってしまったが、この文楽を観る最大の楽しみは、「鬼界が島の段」だけだったが、簑助の遣う蜑千鳥の凄さ素晴らしさであり、これだけ観るだけでも、国立小劇場に足を運ぶべきであったであろう。
   録画されているのであろうが、これだけは、実際の、悲嘆に暮れて非情さに慟哭してのたうつ人形の哀れ極まりない、しかし、実に美しい姿を、目に焼き付けない限り、その凄さを鑑賞できないと思う。
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国立能楽堂・・・第57回 式能

2017年02月20日 | 能・狂言
   2月19日、国立能楽堂で、能楽協会主催の第57回式能が、開催された。
   HPによると、『翁』に始まり一日を通して上演される由緒正しい能楽公演 と言うことで、
   式能は江戸式楽の伝統を受け継ぐ由緒正しい方式による能楽公演で、公益社団法人能楽協会に所属するシテ方・狂言方全流儀が揃い、当代一流の能楽師が一堂に会する年に一度の貴重な舞台です。番組形式は"翁付五番立て"として、能の間に狂言を一番ずつ計四番を組み入れた構成となっています。最初に上演される『翁』は、各流儀の代表となる演者が毎年順番で演じることになっており、今年度はシテ方宝生流宗家・宝生和英が勤めます。
   
   私は、例年通り、通しでチケットを取得し、朝の10時から、夜の7時15分まで、鑑賞させてもらった。
   2012年からなので、これで6回目となり、これが、私の能狂言鑑賞の歴史でもある。

   当日の【番組】は、次の通りである。
第1部 能 宝生流『翁』宝生和英
     『鶴亀』前田晴啓
   狂言 大蔵流『毘沙門』大藏吉次郎
   能 喜多流『白田村』友枝昭世
   狂言和泉流『樋の酒』野村 萬
第2部
   能 金剛流『雪 雪踏拍子』豊嶋三千春
   狂言 大蔵流『左近三郎』山本東次郎
   能 観世流『花筐』観世銕之丞
   狂言 和泉流『苞山伏』野村万作
   能 金春流『土蜘』櫻間金記

   「翁」は、5年毎の5流派の輪番制なので、5年前の2013年の式能で、宝生和英宗家の「翁」を見せてもらっている。
   神がかりと言うべきか、演者が精進潔斎して臨むと言う神聖をおびた荘重な「翁」の舞台へは、途中入場禁止であり、能「鶴亀」と狂言「毘沙門」が終わるまで、インターミッションなしで連続して、2時間半近く演じられた。
   「鶴亀」は、はじめて観る能であったが、脇能ながら、神の出現はなく、玄宗皇帝がシテで、子方の鶴と亀が舞って皇帝に千年万年の寿命を授け、皇帝も、舞楽を舞って国家平安を祝い還御となると言うのが面白い。
   玄宗皇帝は楊貴妃に現を抜かして、安禄山の乱を招いて、人民を塗炭の苦しみに追い込んだのだが。

   能の「白田村」は、他流では「田村」だが、喜多流のみ「白田村」で、特に重く扱っていると言うことである。
   後場の勝修羅の「鬼神の征伐」、田村丸の霊として現れた後シテが、鈴鹿山の兇徒討伐の戦語りをして、勝利への観音の仏力を称えて舞う勇壮な舞と謡いの素晴らしさ。
   シテを演じた人間国宝友枝昭世師は、前日の能楽堂企画公演の「八島」の地謡を休演していたので心配していたのだが、大変な熱演で感動的であった。

   金剛流「雪」は、金剛流にしかない能で、しーんと静まり返った雪明りの中で、雪の精が純白の衣をひるがえして舞を舞うと言う実に清楚で美しい能である。
   こんなに若くて美しい雪の精でも、迷いを晴らしてほしいと僧に頼む。僧が仏縁を得て成仏するよう勧めると、喜んで、廻雪の舞を舞って静かに消えて行く。
   序ノ舞の途中、笛の音階が盤渉調に変わって、雪が降りしきると、足拍子は、すべて音を盗んでスカッと踏む、音を立てずに踏む実に優雅で美しい舞姿。

   観世流能「花筐」は、今回、謡を学んでいる人たちの最も期待していた能舞台なのであろうか。
   能楽協会の会長である観世銕之丞師の凄い舞台と言うことでもあろうが、私の座っていた脇正面の前列のかなりの人が謡本を広げて、熱心に聴いていた。
   ちらちら眺めるわけにも行かないのだが、どうも、舞台を観て舞を観るよりも、謡の方に集中している感じであった。
   丁度、勘十郎の本を読んでいて、文楽劇場の字幕ディスプレイに反対したのは、人形遣いたちで、自分たちの人形を観てくれなくなるのを心配したのだと言う話を思い出していた。
   この「花筐」は、何度か観ているので、比較的楽に観賞できた。

   最後の金春流の能「土蜘」も何度も観ているのだが、源頼光の土蜘退治と言う単純な話ながら、 土蜘と独武者との戦いや土蜘の精が蜘の糸を投げかけるシーンなど、スペクタクルめいた場面展開が面白い。
   この舞台では、斬られた土蜘の精は、直後、すぐに切戸から退場して行った。

   さて、狂言だが、まず、「毘沙門」は、翁・脇能に続く脇狂言で、祝言曲。
   毘沙門の面をつけて派手な衣装のシテが、鞍馬の毘沙門天の威徳などを語り、参拝者に土産物を取らせると言う単純な話。

   「樋の酒」は、野村萬、「左近三郎」は山本東次郎、「苞山伏」は、野村万作と言った今を時めく錚々たる人間国宝たちが、至芸を見せる素晴らしい狂言の舞台である。
   一番若い東次郎でも、もうすぐ、80歳。
   萬、万作兄弟は、85歳を超えていて、この矍鑠とした颯爽たる芸の凄さ奥深さは、何処から生まれ出でるのか、いつも、舞台を楽しませてもらって居ながら、驚異としか言いようのない思いに感慨しきりである。

   毎年、良く分からないながらに、鑑賞させてもらっているのだが、この式能の舞台だけは、随分、欧米などで、極上の舞台を含めていろいろな芸術舞台を見せてもらってきたけれど、絶対に引けを取らない遜色のない,日本芸術の華とも言うべき舞台だと思っている。

(追記)口絵写真は、能楽協会HPより借用。
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桐竹 勘十郎著「一日に一字学べば」

2017年02月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   国立劇場の売店で、桐竹勘十郎の新著「一日に一字学べば」が、サイン入りで売り出されていた。
   サインには拘らないのだが、アマゾンでは、在庫切れになっていたので、一冊求めて、帰りがけと、昨日と今日の国立能楽堂の公演の行き返りの電車の中で読んだ。
   これまで、文楽関係は、初代玉男や簑助、紋壽、それに、住大夫など結構読んできたのだが、勘十郎のこの本は、トータル、結構面白くて参考になった。
   若者には、良い人生のガイドブックとなろう。

   この本のタイトルは、菅原伝授手習鑑の「寺子屋の段」で、管秀才が、落書きをして楽しんでいる涎くりを窘めるセリフだが、「足遣い十年、左遣い十五年」と言われている気の遠くなる血の滲むような修行修行の人形遣いとして、やっと還暦を過ぎて一人前になったと実感している勘十郎の本心の吐露であろう。

   師匠である簑助師は、人形を持った瞬間、その人形そのものになれる「人形遣いになるために生まれてきた」と言う稀有な遣い手だが、自分はそういう人間ではないので、違うやり方を探すしかないと思って努力してきた。
  入門した早い時期に、簑助に、「わしのやり方はお前にはできへん。一生懸命教えてもええ、でも、教えてもできへんから、お前はお前のものを探さなあかん」と言われたと言う。
   続けて、
   だから、別の人のやり方がいいと思ったら、遠慮なくそっちをまねしろ、自分の真似をする必要はない。しかし、取れるものはなんぼでも取りなさい。一番いい見本は目の前にいつもいる(こう自信を持って、師匠は言われる)。ただ、お前に無理やと思うたら、ほかの誰の真似をしてもええよ、と言っていたとして、勘十郎は、これが本当の教え方だと思うと言っている。

   人形遣いは、指の使い方を弟子にも教えない。また、指をどう使っているか、外からはうかがい知れない。言うなれば、完全にブラックボックスで、その遣い手独自の企業秘密と言うことである。
   最近、ようやく、「師匠のあの動きは、こういうふうに遣っているに違いない」と今までわからなかったことが、思い当たるようになってきた。人に話したら、「まさか、そんなこと」と驚くようなこと・・・だが、その「まさか」をやるから、他にはない芸や個性が生まれるのだと思う。と言っている。
   師匠は、手も大きく指も長いが、自分は人より手が小さいので、女形の人形を遣うときは少しでも指が届くように、左手の爪を伸ばしていると言うのだが、師匠を越えるために、勘十郎は、指に過酷な試練を与えても、この「まさか」に挑戦するのであろうか。

   名人、上手と言われた人が、果たして、器用であったとか、最初から何でも出来たかと言えば、そうではないだろうと思うとして、初代玉男が、「気の遠くなるような時間を使って来ているから、それができる」と言ったと紹介している。
   マルコム・グラッドウェルの「天才」と言う本であったか、荒川静香が、何万回か転んだはずだと書いていたような気がするが、これであろうか。

   もう一つ、初代玉男が、「師匠は師匠で凄いし、親父も親父ですごいけれど、きみは親父の真似も、師匠の真似もしたらあかんのやで」と言ったと言う。
   
   勘十郎は、この本では、色々な方面から多分野に渡って、貴重な経験なり文楽論なども語っているのだが、私には、主遣いの首を遣う左手の遣い方がブラックボックスとなっていて、芸の継承と言いながら、この一番大切な手法が、全く個人技であって、突出した人形遣いの至芸であることに、感銘を受けた。
   同じ文楽の世界でも、太夫の場合では、住大夫が文字久太夫を教えているビデオを見れば、細部にわたって徹底的に教えていたし、能狂言や歌舞伎などの教え方なども、手足を取って細かく厳しく教授し訓練しているようだし、古典芸能の伝承と言っても、大変な違いがあることを知って、一寸、驚いている。

   人形は、人間ができることなら何でもできると、プロ野球の始球式を成功させており、今度の東京オリンピックの聖火ランナーをやりたいと言う。
   人間の手なり五感は、最高で、高度なレンズ磨きも手磨き以上に高い精度を出せないし、あの新幹線の目を瞠るように美しい先端のカーブも人間の手磨きであると言うことだし、景徳鎮の窯の温度調節は人間の眼力のなす神業であると聞いたことがあるが、とにかく、人形遣いの左手は、遣い方次第では、途轍もない素晴らしい人形の芸を見せてくれるのであろう。

   今回、このことについてだけについてコメントしたが、私自身、随分多くのページに付箋を張り付けている。
   勘十郎の舞台は、簑助の人形の左手遣いであったのであろうか、黒衣の簑太郎の頃から20年以上も観続けており、一度だけだが、外人記者クラブで、勘十郎の文楽人形談義を聞いている。
   文楽ファンと言うだけではないと思うが、一芸に秀でることの凄さを感じている。
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国立劇場・・・文楽「冥途の飛脚」

2017年02月16日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   近松門左衛門の男女の悲劇を描いた作品だが、この「冥途の飛脚}は、「曽根崎心中」や「心中天の網島」のように、男女の心中、すなわち、情死で終わらずに、公金横領の咎で、逃亡を企てて、捕縛されて幕が降りる。
   面目を潰されたと息巻いた飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛が、御法度の封印を切って追い詰められ、その金で恋仲の新町の遊女梅川を身請けして忠兵衛の在所新口村を目指して逃亡するすると言う話なので、いわば、心中する必然性はない。
   一説によると、梅川は、苦界から抜け出すために、忠兵衛を唆して横領させたしたたかな悪女だとも言われていて、忠兵衛は、千日刑場で死罪となったが、梅川は、入牢するも無罪放免となって新町に帰って大繁盛したと言うから面白い。

   興味深いのは、近松門左衛門は、この「冥途の飛脚」では、大谷晃一教授によると、梅川を、姿も心も、この上ない美しくて優しい遊女として描いたために、観客は彼女の哀れさに涙で袖を絞り、大当たりしたと言う。
   もう一つ興味深いのは、歌舞伎では、忠兵衛を煽りに煽って封印を切らせた張本人である八右衛門を悪人として描いているのだが、近松門左衛門は、むしろ、善人として描いており、その説得や梅川の窘めにも耳を貸さずに、激高した忠兵衛が、暴走して封印を切ると言う話になっている。
   梅川の玉三郎との舞台で、短気で見栄っ張りのがしんたれの優男の忠兵衛を演じた仁左衛門が、八右衛門になって登場すると、悪口雑言の限りを尽くして、藤十郎の忠兵衛を煽りに煽って、切羽詰って封印を切らせ、去り際に、こっそり封印の紙を拾って、公金横領を訴えると言う徹底的な悪役を演じて、憎々さも秀逸なのだが、何故か、冴えた大阪弁の啖呵が、心地よく響くのであるから面白い。

   一方、近松の浄瑠璃でも文楽でも、この新町越後屋の場で、八右衛門が、忠兵衛のことを思って郭に寄せ付けないようにと諭す意味で善意で忠兵衛の金の不如意の話をしているのだが、その内容が、このままでは泥棒してさらし首となると言った極端な話をするので、門口で立ち聞きしていた忠兵衛が誤解して堪忍袋の緒を切って部屋に飛び込み、八右衛門も梅川も、忠兵衛の懐の金は公金であろうと思っているので、必死になって手を付けるなと説得するのだが、短気で見栄っ張りの忠兵衛は、この金は大和から養子に来る時の持参金で他所に預けていたのを見受けのために取り戻した金だと言って、激情を抑え切れずに男の意地を押し通して、とうとう封印を切ってしまう。
   忠兵衛は、梅川の身請けの残金、借金、そのほかの祝儀などに使い切り、今晩のうちに、梅川が廓を出るようにしてくれと急き立てるのだが、梅川は、一生の晴れのこと、傍輩衆への別れもちゃんと済ませてとはしゃぐと、忠兵衛はわっと泣き出し「かわいそうに、何も知らぬか、今の小判は堂島のお屋敷の急の金じゃ。・・・
   舞台は、一気に暗転。
   「ふたりで死ねば本望。生きられるだけ生き、この世で添えるだけ添おう。」と、まろびつ転びつ、手に手を取って、逃げて行く。

   今回の舞台でも、文楽ではいつもそうだが、浄瑠璃の下之巻のうち、「道行相合駕籠」で終わっていて、歌舞伎「恋飛脚大和往来」ではよく演じられる「新口村の段」は、上演されない。
   その方が、余韻を残して良いのかも知れないが、芝居としては、「新口村の段」だけでも、独立した味のある舞台となるほどの名場面なので、ないとなると、物足りない感じがする。
   梅川と忠兵衛は、忠兵衛の故郷新口村まで落ち延びて来て、父親孫右衛門に涙の再開をして、逃げる途中に捕縛されて引かれて行くのである。
   通りかかった孫右衛門が下駄の鼻緒を切らして泥田へと転んだので、梅川は、おもわず家から飛び出して助け、事情を察した孫右衛門が、路銀にせよと金を梅川に渡して去って行く悲しい親子の別れが余韻を引く。
   歌舞伎でも、この舞台は涙を誘う。

   私など、専攻が経済学なので、商都大坂の飛脚問屋、書状と貨幣を預って輸送して商売と金融の重要な役割を果たしていた通信金融システムに興味が行く。
   18世紀に、世界に先駆けて、大坂の堂島で、米相場から近代的な商品先物取引が始まったと言う大坂であるから、当然のことだが、その信用システムの一寸した歪と言うか蹉跌が、芝居のサブテーマになっていて、面白いと思ったのである。
   芝居でも絵画でもそうだが、その時代の政治経済社会の有様が、非常にビビッドに表れていることがあって、そんな側面からの、脱線した鑑賞も味があって良い。

   今回の舞台は、玉男の忠兵衛と清十郎の梅川であったが、私が一番最初に観たのは、もう15年以上も前だが、初代玉男の忠兵衛、簑助の梅川、文吾の八右衛門であった。
   その後、もう一度、玉男と簑助の舞台を観たが、この時は、玉男の最晩年でもあり、「道行相合かご」の忠兵衛は、勘十郎に代わっていた。
   この時、「淡路町の段」で、忠兵衛が、堂島の蔵屋敷に300両を持って届けるべく、梅川のいる新町に引かれて、西横堀で、行こうか戻ろうかと逡巡するシーンで、玉男の忠兵衛が、三味線の軽快なリズムに乗って、ステップを踏んでいたのを、思い出す。
   その後は、二代目玉男の徳兵衛と紋壽の梅川であった。

   良く分からないが、二代目玉男も清十郎も、実に感動的な舞台を見せて魅せてくれたが、初代玉男と簑助の、どこか心の底から湧き上がってくるような連綿とした味と言うか感動のうねりが、懐かしいと思って観ていた。 
   
   
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鎌倉便り・・・義経・腰越状ゆかりの万福寺

2017年02月14日 | 鎌倉日記
   稲村ケ崎から湘南街道に出て、海岸通りの歩道を、七里ガ浜を経て腰越に向かって歩いた。
   腰越の万福寺に行きたいと思ったのである。
   この街道を歩くのは初めてであったが、江の島と鎌倉の間を歩く観光客も、結構いて、海沿いに並ぶレストランや海鮮料理店が賑わっている。
   途中に、鈴木大拙などが建立したと言う晩年をここで過ごした西田幾多郎記念碑が立っていた。
   波が適当なのか、波乗りに興ずる若者たちもいた。
   
   
   
   

   腰越は、江の島が目と鼻の先の小さな漁港で、しらすが上がるので、鎌倉の名物のようになっている。
   万福寺と言えば、宇治にある中国ムード濃厚な禅寺黄檗山万福寺の方が有名で、学生の頃、教養部の宇治分校に通って居たので、何度も訪れているのだが、この腰越の万福寺は、真言宗大覚寺派の寺で、正式名は龍護山医王院満福寺で、744年に、聖武天皇の勅命で行基が建立した古刹だと言う。
   小動の交差点からはすぐで、御霊神社でも書いたが、この寺の参道も、江ノ電が横切っていて、入山する石段のすぐ下を、電車が走っている。
   
   

   石段を上がり、山門を潜ると、正面に本堂が現れ、左手の庫裡入口の手前に、義経と弁慶の腰越状作成シーンの彫像が立っている。
   左端に、弁慶の腰掛石があるのが、愛嬌であろうか。
   
   
   
   

   1185年に義経が兄頼朝から、鎌倉入りを許されず、この寺に逗留時に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いたのだが、拝観入り口を入ると、玄関ホールの奥右手に、幸いにも、「不顧為敵亡命」の6文字が抜けたために残っている、弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が、展示されている。
   寺の資料によると、この手紙は、起請文であり、兄上の恨みをかっているのは兄弟の前世の報いなのか、本心を述べたいので、兄上の慈悲にすがり、鎌倉入りを許してほしいと心情を吐露し、幼児の頃の哀話から父・義朝没後の経緯、挙兵の軍功のことなども語られていて、さながら、「義経物語」で貴重な資料だと言う。
   義経は、結局、鎌倉入りが出来ずに、涙を呑んで、ここから、京に帰ったのである。
   
   

   さて、私が興味を持ったのは、新しい作品なのだが、義経ゆかりの寺として、義経の歩んだ人生を、寺の本堂に、鎌倉彫の技法を取り入れて漆画で彩った、裏・表三十二面に、襖絵が、嵌め込まれていることであった。
   当然のことととして、歌舞伎や文楽、能の舞台を連想しながらの絵画鑑賞なのだが、手に取るように、劇的な舞台が脳裏を駆け巡って、しばし、感慨に耽っていた。
   まず、目に入ったのが、矢を受けて仁王立ちに立つ弁慶の最期。
   義経と静の別れ、悄然と去り行く静、しづやしづと舞を舞う静、義経と弁慶の平泉への旅立ち、矢を受ける馬上の義経、幼子を取り上げられる静・男の子であったので由比ヶ浜に沈められたという。
   客間のピアノの後ろには、この寺のテーマである腰越状作成シーンの劇的な襖絵がある。
    
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   帰途、殆ど正面に位置する、海側の小動神社に行った。
   新田義貞ゆかりの神社とかで、境内の高台から、腰越漁港越しに、江の島が良く見える。
   
   
   
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鎌倉便り・・・御霊神社から稲村ケ崎へ

2017年02月13日 | 鎌倉日記
   冬の鎌倉は、千葉に居た時よりも暖かくて、天気の良い日は、冬でも観光日和である。
   今日は、長谷寺近辺を歩くつもりで、鎌倉山からバスに乗ったのだが、長谷寺から御霊神社に出て極楽寺に抜け、極楽寺から歩いて、稲村ケ崎に向かった。

   御霊神社前の民家の梅が綺麗に咲いていて、御霊神社でも、まだ、小さい木だが、紅白の梅が植わっていて、楽しませてくれた。
   
   
   
   
   
   
   
   

   御霊神社の鳥居前の枝垂れ桜が咲いていて綺麗であった。
   何時も、面白いと思って見ているのは、鳥居のすぐ外、参道を江ノ電が横切っていることで、石段の途中を電車が走っているのである。
   オランダで、高速道路を、飛行機の滑走路が抜けているているのを見て驚いたが、そんな感じである。
   人力車のある石段の上が、江ノ電の線路なので、良く分かる。
   
   
   
    
   


   御霊神社から、極楽寺坂切り通しへ抜ける角に、一寸古風な菓子店力餅家がある。
   気になっていたので、入って、名物だと言う力餅と鶯餅を買って、食べてみたのだが、力餅は、いわば、あんころ餅で、鶯餅もそうだったが、非常に柔らかい餅で、美味しかった。
   
   
   
   

   さて、切り通しを抜けると、極楽寺の門前に至る。
   この寺は、参詣者オンリーと言うことだが、いつも門が開かれていて、自由に入れる。
   何故か分からないのだが、境内の写真撮影は禁止されている。
   ところが、境内に、「長谷梅まちめぐり 春こいキャンペーン2017」と言うチラシが置いてあって、①長谷の梅をめでると言うところに、長谷寺・光則寺・極楽寺と寺社名が書かれていて、チラシの反対側には、梅まちはせ&鎌倉のまちの写真 SPRIMG LOVE フォトコンテストと派手に書かれていて、写真を募集しており、この側が上向きにおいてある。
   尤も、①の脚注に、極楽寺境内では写真撮影が禁止されています。ご注意ください。と書いてあるのだが、果たして、この人を食ったようなキャンペーンを、真面な(?)寺がやることなのであろうか。
   文化都市である筈の鎌倉の民度を疑う。
   
   さて、江ノ電では、稲村ケ崎は、極楽寺の次の駅で、江の島の方へ街道を歩けばよいので、天気も良かったし、歩くことにした。
   交通の激しい湘南道路とは違って、稲村ヶ崎駅までは、比較的静かな住宅街の道路が通っているので楽に歩けた。
   稲村ケ崎入り口で湘南道路に出ると、目の前に太平洋が広がっている。
   左手に稲村ケ崎、右手に江の島。
   残念ながら、富士山は、雲が覆っていてよく見えなかったが、青い海が、豪快に波音を立てていて、眺望がすばらしい。
   稲村ケ崎突端に立って、しばらく、海を眺めていた。
   遠く大島が見える。
   
   
   
   
   
   
   
   

   その後、腰越に出て、義経が鎌倉に行けなくて、腰越状を書いたと言う万福寺を訪れた。
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国立劇場・・・文楽「曽根崎心中」

2017年02月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立小劇場の文楽は、オール近松門左衛門プログラムで、第2部の「曽根崎心中」のチケットは、早々にソールドアウトで、全日、満員御礼である。
   ところが、東京では、女性ファンの何人かに、心中ものは好きではないとか、じゃらじゃらした芝居は嫌いだとか、この「曽根崎心中」にネガティブな感想を聞いたことがあり、意外な感じがしている。
   私の場合は、近松ファンであるから、心中ものであろうと何であろうと、何の抵抗もないし、近松の描くがしんたれの男や気の強いしっかりとした女などは、元関西人の私の周りにはいくらでも居たし、全く、異質感のない世界なので、好きだとか嫌いだとか言った意識はなく、近松ものとして鑑賞している。

   もう、この「曽根崎心中」は、文楽でも歌舞伎でも、何回、見ているであろうか。
   しかし、歌舞伎では、藤十郎がお初を、文楽では、初代玉男が徳兵衛を、夫々、1000回以上も演じていて、これらが決定版であり、後にも先にも、これを凌駕する舞台は現れていないと言う。
   私は、26年前にロンドンで、玉男の徳兵衛に文雀のお初で、「曽根崎心中」を観て、一気に、文楽ファンンになった記念すべき重要な演目でもあり、元々、近松門左衛門を読んでいたので、その後、意識して、劇場に通って、鑑賞を続けている。
   その後、玉男の徳兵衛と簑助のお初と言う最高の舞台を観る機会が何回か続いて、玉男の逝去後は、勘十郎が徳兵衛を遣う舞台や、二代目玉男の徳兵衛で、勘十郎や清十郎のお初を遣う舞台を観ているのだが、今回は、当代玉男が徳兵衛を、勘十郎がお初を遣っているので、玉男簑助の一番弟子への芸の継承と言うことであろう。

   さて、今回は、まず、この文楽のラストシーンについて、考えてみたい。
   この文楽の床本は、近松の原作浄瑠璃とは、いくらか改変されていて、今回の舞台では、心中への道行きを扱った「天神森の段」では、省略されたり、詞章が、変更されていて、その異同が興味深い。

   その床本の前に、問題のラストシーンだが、
   今回の舞台では、歌舞伎の舞台と同じように、手を合わせて祈るように徳兵衛を見上げる後ろぶりのお初の喉元に、徳兵衛が、刃を近づけるところで幕となった。
   しかし、ロンドンで観た時は勿論、その後日本でも、簑助のお初が、玉男の徳兵衛の脇差に突かれて大きく仰け反り、徳兵衛も、しっかりとお初を抱え込んで、自分の喉笛を切って、お初を抱きしめるように重なって頽れると言うリアルな断末魔の表現が普通であった。
   原文では、”いとし、かはいと締めて寝し、肌に刃があてられうかと、眼も暗み、手も震ひ、弱る心を引き直し、取り直してもなほ震ひ、突くとはすれど、切っ先はあなたへはづれ、こなたえそれ”と、徳兵衛の狼狽ぶり、その後のお初の断末魔の四苦八苦を語り、遅れじと、”剃刀取って喉に突き立て、柄も折れよ、刃も砕けと抉り”と、徳兵衛の最期の描写の凄まじさ。
   住大夫の話だと、「心中の場のラストは、玉男はんと簑助君の相談で演出が変わります」と言うことらしいのだが、玉男が、「はよ 殺して、殺して」と言われても、好きな女に刃を向けるなど正気の沙汰ではなく、最後のシーンでは、徳兵衛の顏を背けるのだと言っていたのだが、いずれにしろ、近松の浄瑠璃本に近い演出であったと言えよう。
   私は、外国の鑑賞者が言うように、浄瑠璃本に沿った演出の方が良いと思っている。

   近松浄瑠璃のラストは、”誰が告ぐるとは、曾根崎の森の下風音に聞え、とり伝へ、貴賤群集の回向の種、未来成仏、疑ひなき、恋の手本となりにけり。”となっていて、先に曾根崎のお初天神訪問記に書いたように、現地では、浄瑠璃を受けて、お初徳兵衛の恋の手本のような印象になって、恋人の聖地のようになっているのが面白い。
   余談ながら、文楽の床本のラストは、”南無阿弥陀仏を迎へにて、あはれこの世の暇乞ひ。長き夢路を曾根崎の、森の雫と散るにけり”となっていて、精神性と言うか、近松の思い入れは消えている。

   もう一つ、死に直面して、お初と徳兵衛が、述懐するシーンがあるのだが、床本では、お初の表現は殆どそのまま踏襲されているのだが、徳兵衛の今生の分かれに際しての詞が、ヒューマンタッチと言うか、物語性を帯びているのが興味深いのである。
   浄瑠璃では、親に対して、”冥途にまします父母には、おっつけお目にかかるべし。迎へ給へと泣きければ・・・”となっているのだが、文楽の床本では、”笑はば笑へ口さがを、何憎まうぞと悔やまうぞ、人には知らじ我が心望みの通り、そなたと共に一緒に死ぬるこの嬉しさ。冥途にござる父母にそなたを逢わせ嫁姑、必ず添ふと抱き締むれば、・・・”と脚色されていて、徳兵衛の心意気をサポートしていて面白い。

   この「天神森の段」は、原文は結構長いのだが、床本ではシンプルに短縮化して、実際の文楽の舞台では、義太夫語りと三味線を非常に有効に活用して、お初徳兵衛の、色彩感覚を研ぎ澄まして昇華した非常に美しい道行きシーンを紡ぎだして、感動的な見せて魅せる舞台にしていて、非常に内容の濃い舞台になっていて、素晴らしいと思う。

   ところで、小野幸恵さんの本を読んでいると、初代玉男が、二代目に、「徳兵衛は、かわいいねん」と、教えたと言う。
   近松の二枚目は、仕事でも色事でも、男として成熟した男が多いのだが、徳兵衛は、丁稚から手代になって間もなく、子供っぽさを残していて、それは、若者らしい一途になっている。
   叔父である平野屋の主人のおかみさんの姪と娶わせて江戸の店を任せようと言う、いうなれば、出世話を、お初への恋ゆえに、棒に振ったとも言えなくはない。
   尤も、頭の上がらない嫁取りなので徳兵衛の意に沿わないと言うこともあろうが、とにかく、お初が、人生の総てであると言う天然記念物のような純愛で、真面目で仕事一途の若者であるから、他には何も見えていないし、売り物買い物である筈のお初も、これに輪をかけたような徳兵衛への愛情の持ち主である。
   苦界から逃れえる筈のないお初と、身請けなど夢の夢の手代の徳兵衛との恋であるから、行く先は目に見えており、愛を全うするためには、心中以外に道はなく、惰性で逢瀬を重ねているだけである。

   徳兵衛のお初への恋心は、直角の愛、初恋であろうし、穿って考えれば、徳兵衛にとっては初めての相手であったかもしれないのだが、その徳兵衛を、二代目玉男は、師匠が遣ったように、かわいらしい、そして格好のいい徳兵衛が遣えるようになりたいと思っていますと言っている。

   ところで、お初が、何故、島原から、最も身分の低い堂島新地へ格下げになって移って来たのかと言うことだが、フィクションとしても、角田光代は、ブックレビューした「曽根崎心中」で、島原で天神の青柳の禿をしていた時に、青柳が囲炉裏の鍔薬缶を取ろうとして手を滑らせて熱い薬缶がそばで正座していたお初の腿に落ちて股に大火傷を負って疵物になったからで、この焼け爛れた傷口を客に見せないように必死にカバーするも、徳兵衛には、そのままを見せて、お初の愛情の証としている。としていて面白い。
   花魁の地位をお初に取られるのを嫌って、青柳がワザとしたと同輩がコメントしていたと言うから、お初は、元から、かなりの美人で魅力的な遊女だったのであろう。
   徳兵衛が、一途に思いつめるのも当然だと、解釈しておくと話も分かり易いかもしれないと、勝手に思っている。

  さて、太夫と三味線だが、「天満屋の段」は、咲太夫と燕三、「生玉社前の段」は、文字久太夫と宗助、「天神森の段」は、津駒太夫、咲甫太夫、芳穂太夫、亘太夫と、寛治、清志郎、寛太郎、清公
  咲太夫と燕三の天満屋の段は、圧巻であり、縁側に腰を掛けたお初と、縁の下に忍び込んだ徳兵衛との切なくも万感の思いを込めて心情を吐露し交感する足の会話を、躍動させて感動的であった。

  人形だが、玉男の徳兵衛、勘十郎のお初、玉輝の九平次。
  現在考ええる最高の布陣であり、素晴らしい舞台であった。

  
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世界らん展・・・日本大賞2017

2017年02月11日 | 展覧会・展示会
   国立能楽堂の能狂言の公演の後、東京ドームの世界らん展に出かけた。
   初日なので、かなり混んでいたが、私の場合は、閉園1時間くらい前に行って、一周りするだけなので、その頃には、適当に空いていて問題ない。
   今回は、入場門のところは、宝塚の担当とかで、歌劇団のプリマの衣装が飾られていて、一寸、毛色が変わって興味深かった。
   とにかく、入場門を潜った後のデコレーションも、美しかった。
   
   
   
   
   
   

   今年の日本大賞は、デンドロビュームグロメラタム”ロングウェル”
   綺麗なデンドルビュームである。
   蕊のところの赤い実のようなポイントが、中々良い。
   
   
   
   

   今年も、假屋省吾が「蘭の世界」、志穂美悦子が「阿吽」を展示していた。
   夫々、見方によって面白いが、私は、志穂美悦子の方が、好みであり、美しいと思って眺めていた。
   
    
   
   
   
   
   

   日本の美のコーナーで、日本いけばな三大流派が、特別企画展示をしていた。
   全く違った雰囲気の作品だが、私など保守的なのか、池坊のようなクラシックな雰囲気の方が好きなのだが、豪快な感じのいけばなも面白いと思った。
   次の写真は、小原流、草月、池坊の作品である。
   
   
   
   

   展示場のディスプレィ部門の模様は、次のようなものだが、今回は、スケールの大きな展示が多かったように思う。
   
   
   
   
   
   
   

   個別部門は、色々な花が展示されているので、個々の花を見て歩きながら写真を撮るのが楽しい。
   尤も、名札などが邪魔になったり、気に入った花が思うような位置になかったりで、結構写真にするのが難しい。
   日本大賞のブースの両翼に、優秀な作品のトロフィー賞のブースがあるのだが、このひな壇の花は、夫々特徴があって面白い。
   
   
   
   
   

   どこにあった花だったか、花の名前も覚えていないのだが、主にトロフィー賞コーナーの写真だったと思う。
   個々にシャッターを切った花の写真を列挙しておきたい。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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わが庭・・・椿がほころび始める

2017年02月09日 | わが庭の歳時記
   この数日、一気に寒くなって、みぞれ交じりの雪がちらついている。
   しかし、少しづつ、陽が長くなって、梅の花が、咲いて春の予感を醸し出し、わが庭の椿も、蕾が色づき始めて、少しずつほころび始めてきた。

   花が開き始めたのは、ハイフレグランスと菊冬至とマーガレット・デイビス。
   寒さに繊細な花弁がやられてしまうので、満開前に、写真を撮ることにしている。
   白侘助の花は、咲いて、もう、散ってしまっている。
   
   
   

   蕾が色づき始めて、もうすぐ、咲きだしそうなのは、トムタムとフルグラントピンクと桃太郎。
   私の植える花は、別に意識しているわけではないのだが、何となく、ピンクの花が多い。
   この地球上にある花の70~80%は、白と黄色だと言うのだが、白い花は、植えるにしても、生けるにしても、鑑賞するには、非常に難しい花だと思う。
   黄色は、好きな色なのだが、椿では失敗ばかりしていて、今、ボタンだけ、二株維持している。
   
   
   

   私の場合、色々、花木や草花を植えているのだが、どうしても、椿が中心になってしまう。
   3月の中頃から、1か月ほど、椿の花の最盛期なのだが、京都の庭園など、関西時代は、随分、春の花を追いかけて散策したものだが、さて、鎌倉や東京は、何処を歩こうか、楽しみにしている。
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二月大歌舞伎・・・昼の部「四千両小判梅葉ほか」

2017年02月08日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   やはり、「昼の部」の目玉は、「四千両小判梅葉」で、大胆にも江戸城の御金蔵破りをして曝し首になる菊五郎の野洲無宿富蔵と梅玉の藤岡藤十郎を主人公とした、一寸桁違いの大盗賊の話で、中々、味のある歌舞伎で面白い。

   ただ、この舞台は、2012年の顔見世興行で、殆ど同じ登場人物で公演されており、私自身、このブログで観劇記を書いており、結構読まれていて、それ以上の記事を書くことも出来ず、蛇足となるので、止める。
   いずれにしても、意表を突くようで興味深いのは、「伝馬町大牢の場」である。
   大きな 牢屋内の一室で、畳を重ねた高みに陣取った"牢名主 松島奥五郎(左團次)"と"隅の隠居(歌六)"が左右に居を占め、その間に、富蔵などの顔役6人が座って牢内の諸事を取り仕切り、20人くらいの罪人が左右の端に整然と並んで座っている。
  上席の二番顔役の富蔵が、新入りの罪人を一人一人詰問して、吟味しながら牢内の居場所を決めるのだが、大枚の金子を隠し持って入って来たものや、男前で器用で調子のよい新入り・寺島無宿長太郎(菊之助)などに甘く、「地獄の沙汰も金次第」と見得を切る。

   実情を聞きこんで芝居を書いたと言うので、当時の牢屋事情だと思うのだが、極めて整然として秩序だった牢内のシステム管理とコーポレートガバナンスの徹底が、興味深い。
   最後には、二人は刑場に引かれて行くのだが、処刑が決まって出牢する富蔵に、牢名主が着物と博多帯、隅の隠居が数珠を贐として与えるところなど実に面白い。
   役者たちも適役で出色の出来だが、菊五郎の極め付きと言うべき芝居が、感動的である。
   
   「猿若江戸の初櫓」は、
   出雲の阿国と猿若の一座は、江戸での旗揚げを目指す道中で、材木商の福富屋万兵衛が、将軍家への献上品を届ける途中に狼藉者が暴れて立ち往生しているのに出くわす。猿若は、若衆を集めて音頭を取って荷物を運ばせ、それを見た奉行の板倉勝重が、猿若たちの働きを褒めて、江戸中橋の所領を与えて、江戸での興行を許し、福富屋に芝居小屋の普請を命じる。期せずして、江戸旗揚げを実現した猿若たちは、喜んでお礼として舞を披露する。

   岩波講座の「歌舞伎文楽」10巻を積んどくなので、江戸歌舞伎の歴史などが良く分からないのだが、チラシでは、「江戸歌舞伎発祥を華やかに描いた猿若祭にふさわしい一幕」と言う。
  特に内容のある歌舞伎ではないと思うのだが、いずれにしろ、 猿若の勘九郎と阿国の七之助の舞台である。

   「大商蛭子島」は、平家追悼の院宣を持つ文覚上人が、頼朝に会って、院宣を手渡し、頼朝が平家討伐の旗揚げを決意し、遺族郎党が結集すると言う話。
   冒頭、大変好色な寺子屋の師匠の正木幸左衛門が、実は、頼朝であって、その女房おさよ(時蔵)が悋気を起こして痴話げんかを演ずるハチャメチャの出だしで、寺入りを望んでやってきた若い娘おますが、実は、政子で、おさよがおますに妻の座を譲ると言う展開になったり、文覚(勘九郎)が、身を窶して乞食坊主のようないでたちで獄谷の清左衛門の名を騙って現れたり、とにかく、ストーリーに脈絡が欠乏していて、良く分からない芝居であった。
   寸前まで夫であった頼朝と政子の新婚初夜を睨みながら、長唄「黒髪」に乗って演じる、苦悶する時蔵の芸の冴え(?)が、見どころであろうか。
   それに、助平の松緑が面白く、勘九郎が、ほろっと勘三郎を思わせる声音や仕草をして驚かせる。

   鳶頭の梅玉と芸者の雀右衛門の「扇獅子」は、綺麗な舞台で、一服の清涼剤。
   
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初春の上海・江南紀行(12)上海:新天地にみる現在の中国

2017年02月07日 | 初春の上海・江南紀行
   新天地とは、一寸変わった地名だが、2001年開発された上海の観光スポットである。

   上海ナビによると、
   1920~30年代に建てられたモダンな雰囲気の 「石庫門住宅」 を修復し、旧フランス租界の街並を再現した 「新天地」。過去と現在が融合した華やかな空間は、今や上海のダイニング、ファッション、そしてカルチャーなど多岐に渡るシーンでランドマーク的な存在です。 と言うことで、
   ウィキペディアでは、
   夜のバー街が特に有名になって、上海の観光名所ともなっているので、大変混んでいる。

   上海の繁華街である南京東路・西路に隣接したかなり広い街区を占める独立した新しいアムーズメントエアリアと言った感じで、欧米の繁華街と変わらない雰囲気である。
   この写真の南京西路から一つ街路を入ったポケットのような空間である。
   
   

   私は、10年前にも、ここに来て、小一時間散策したのだが、一番その違いに気づいたのは、この新天地にやって来て楽しんでいる客が、外人観光客から、一般中国人、それも、特に、若い中国人になっていて、完全に、地元の人たちの娯楽歓楽街になっていると言うことである。
   10年前には、中国には、一寸異質な、欧米から店舗やレストランを移して持ってきて、舶来の商品を並べて売っていると言うか、そっくり、欧米の町の一角を移し替えた感じであった。
   したがって、客も大半は、外国からの観光客であって、それほど、繁華でもなかったので、我々のような異国からの客が、ちらほらで、一般の中国の人は、少なかったように思う。
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   これまで、かなりの現代および現在の中国の政治経済社会に関する専門書を読んで、このブログでも評論を綴ってきたのだが、今回の上海旅は、実際に現地に行って、例え、片鱗であっても、現実の中国に触れて、中国の生の姿を感じて、中国を知りたいと言うのが目的であった。
   中国の経済統計など、信用できないと言う欧米の専門家もいるが、成長率はともかくとしても、間違いなしに、中国の経済成長なり、経済社会の発展は、掛け値なしに進んでいると言うことである。
   それは、37年前の、途轍もなく貧しくて荒れていた北京の繁華街王府井の情景や、その少し後の上海の実態を見てきたので、痛いほど良く分かる。
   中国経済は、輸出と投資によって支えられており、内需拡大など経済構造の改革を進めなければならないと言われているが、この新天地での若者たちの賑わいや、上海の繁華街での中国人の旺盛な消費意欲と言うか、その風景を見ていても、中国人一般大衆の消費需要は、前とは比べられない程、上昇している。

   先日、ニューヨークとモスクワと上海の都市風景を比較をして、それぞれの国の未来を見越して、既に、勝負がついていると書いたが、実際に、40か国以上を歩いて直にその国の空気を吸って来て、国力などを実感して来ているので、その勘は間違っていないと思っている。
   
   
   
   
   

   一寸、路地に入ると、煉瓦造りの建物にひっそりとオープンしているシックな店があって、興味深い。
   中国の女の子がポーズを取ってくれたので、シャッターを切った。
   
   
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福岡伸一著「光の王国」~フェルメール紀行

2017年02月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   フェルメールについては、何冊か本を持っているのだが、最後まで読んだのは初めてである。
   ANAの機関紙の記事であるから、いわゆる、旅行記とも言うべきフェルメールの美術紀行で、それに、著者の専攻が生物学で理系の観点からフェルメールの絵を観察しているので、面白いと思ったのである。

   光が粒子であることを予言したのは、アインシュタインだが、それより、300年前に、フェルメールの作品の細部には、秩序ある調和として「光のつぶたち」が見える。
   レーウェンフックやスピノザたちが、ともに焦がれた、その光に導かれて旅に出た。と著者は言う。

   「窓辺でリュートを弾く女」を見て、楽器を演奏中の女が窓の外の出来事をふと視線を向けた瞬間をシャッターが切られた。
   動きの時間を止め、その中に次の動きの予感を封じ込めたと言う意味で、これを、”微分”と言う。
   フェルメールの絵の中の光が、あるいは影が、絵としては止まっているにもかかわらず、動いているように見える。フェルメールの絵には、そこに至るまでの時間と、そこから始まる時間への流れが表現されている。時間を止めながら、時間の流れを表現する方法、言うならば、”微分的な要素が含まれる。と言うのである。
   

   私には、”微分”と言う意味が良く分からないのだが、写真を趣味としているので、フェルメールが、非常に微妙な意味深なシーンでシャッターを切って、その瞬間を封印している。と言うことは良く分かる。
   それに、フェルメールは、ほかの大画家のように、神話やキリスト教の世界は勿論、偉大な歴史的イヴェントも壮大な風景も描かずに、極平凡なオランダの市井の中流階級の生活、それも、殆ど女性をテーマにした絵を描き続けているのだが、実に、その背後に内包される物語の豊かさなど、想像を超えた世界が展開されていて、興味深いことは分かる。
   しかし、偉大な絵画は、皆、そう言うものではないであろうか。

   フェルメールの作品で現存しているのは、37作品で、そのうち、ボストンの作品が盗難にあって行方不明なので、たったの36作品である。
   アメリカでは、ニューヨークに8、ワシントンに4、そのほかに3、
   オランダでは、アムステルダムとハーグに8、
   イギリスではロンドンなどに4、
   フランスに2、
   その他、ドイツ、オーストリア などに8、だと思うのだが、
   フェルメールが生活して絵を描き続けたオランダのデルフトには、一作品も残っておらず、世界中に拡散しているのである。

   これまでにも書いたが、私は、オランダに3年間住んでいたので、この地で、熱烈なフェルメール・ファンとなった。
   最初に、アムステルダムに出張した時に、レンブラントの「夜警」を見たくて、アムステルダム国立博物館に行ったのだが、その時に、フェルメールの「牛乳を注ぐ女 」を見て、圧倒されてしまった。
   それ以降、フェルメールを見る毎に、感激している彼の絵の魅力への傾斜は勿論だが、例えば、女の捲り上げたシャツの黄色っぽい辛子色から黄緑へとグラジュエーションの微妙な色彩の豊かさなど、何とも言えない程、美しいし、注がれれている牛乳の微妙な光など、細部まで、感動して見ていた。
   

   その後、すぐに、ハーグに出かけて、「マウリッツハイス美術館」に行って、「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」や「デルフトの眺望」などを見て、また、感激しきりであった。
   幸い、アムステルダムとロンドンでヨーロッパに駐在して、8年間いたので、イギリスやフランス、ドイツ、オーストリアなどの美術館を片っ端から、フェルメール行脚をしたのである。
   アメリカでは、ニューヨークは、このブログの「ニューヨーク紀行」で書いているし、ワシントンにも行っているので、アメリカのフェルメーも殆ど見ている。
   8年前に、東京都美術館で、フェルメール展が開催されて、見ていなかったダブリンのナショナル美術館の「手紙を書く婦人と召使」と個人蔵の「ヴァージル前に座る若い女」を見た。
   何点見たか定かではないが、現存するフェルメールの大半を、この本の著者のフェルメール紀行の舞台で見ているので、その懐かしい思い出を反芻しながら読ませてもらった。

   大切なことは、フェルメールがこれらの作品を描いたデルフトと言う風土と歴史的背景を知って、フェルメールを鑑賞することである。
   私は、3年間、オランダに住んでいたので、オランダの風土は身に染みており、随分、オランダの中を歩いたし、デルフトにもよく行った。
   フェルメールが絵を描いていた小部屋が、何処にありどんな構造かは定かではないが、オランダの気候は、特に冬は、正に、リア王の世界で、太陽が射すことは殆どなく日も短くて、古い家の窓も小さく、フェルメールの描くステンドグラス窓からの光は、非常に弱い筈である。
   それは、レンブラントについても言えると思うのだが、ゴッホやモンドリアンなどのカラフルな絵の世界とは対極にあり、キューケンホフ公園やリセ郊外の球根栽培畑の極彩色のチューリップの乱舞や絨毯とは、全く違う世界であった。
   デルフトに行けば、フェルメールの描いた「デルフトの眺望」と殆ど変わらない風景が今でも随所に残っているのが分かる。
   街中のレストランなどに入って憩えば、古いオランダの家の室内が、暗くて、それ程、オープンで風通しが良く快適ではなかったことが分かって、また、違った感慨を覚える筈である。
   

   もう一つ、フェルメールが、生きていたのは、1632年10月から1675年12月だと言う。
   その頃は、オランダは、東インド会社を設立してアジアに進出するなど、イギリスと制覇を争って、世界に雄飛していた時で、アムステルダムは、世界経済の一大中心であり、世界中の文物が集まっていた筈で、デルフトにいたフェルメールのの絵の中にも、そのグローバル展開の片鱗が垣間見える。
   寒村ホーン港から、木っ端のような船に乗って、オランダ人は、世界に雄飛して、はるか、インドネシアにまで交易の輪を広げた。
   そして、オランダの政治経済社会をリードしたのは、国王でもなく強力な貴族でもなく、成熟して経済力を備えた市民であり、その独特な社会構造が、フェルメールの絵画の土壌を育んできた。
   この本の著者は理系なので、その方面の話がないのだが、政治経済社会など、あるいは、文化的側面から見たフェルメール論が欠落していて、私には、違和感があった。
  
   ニューヨークのメトロポリタン博物館は、写真撮影自由なので、私の撮ったフェルメールを掲載しておく。 
   5点のフェルメールやレンブラントの絵の前で、長く、佇んでいたが、飽きなかった。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
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初春の上海・江南紀行(11)上海:外灘と浦東への展望

2017年02月04日 | 初春の上海・江南紀行
   上海を最初に訪れたのは、30年以上も前になるのだが、その時、貧しい中国ながら、真っ先に感じたのは、The Bandと称される外灘の威容であった。
   黄浦江の河岸線に一直線に並んだ古色蒼然とした立派なビル群で、殆ど1920~30年代に建設されたと言うから、戦前の上海が、アジアの中心都市として、如何に、隆盛を誇っていたかを、如実に物語っていて、一種の驚きを覚えたのである。
  この外灘は、元英国の居留地で、ロンドンに居た時、親しかったイギリスの建設会社の社長が、あのビル群を自分たちの会社で建てたんだと語っていたのを思い出した。

   今回は、外灘の海岸線の遊歩道を歩き、夜のナイトクルーズで、運河上から、外灘の夕景を眺めただけなので、実際の現状は分からないが、10年程前に来た時には、この外灘のビルの最上階の高級レストランで会食して、運河越しに、電光に照り映える対岸の裏東の新築高層ビル群の夜景を楽しんだ。
   最近では、南側には、新しい近代的なビルが建っているのだが、古い重厚なビルは、そのまま、内部を改装して保存され、上海市の公共機関や金融機関などが、オフィスを構えているようである。
   私など、丸いドームのある旧香港上海銀行ビル(上海浦東発展銀行)や時計台のある江海関(上海海関)が、一番印象に残っているのだが、夫々、由緒のある建物のようである。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   


   外灘から、黄浦江を隔てて、近代的な高層ビル群のパノラマを展開しているのが、黄浦江と長江河口部に挟まれた浦東地域で、開発以前は川沙県の原野が広がる地であったと言う。
   上海のランドマーク「東方明珠塔(上海テレビタワー)」、それに、世界第2位を誇る上海タワー(632m、121階)上海環球金融中心(492m、100階)、金茂大厦」などの高層ビルが建ち並ぶ威容で、上海の経済発展を象徴するエリアである。
   瓶抜きのような形をしたビル上海環球金融中心(上海ワールド・フィナンシャル・センター)は、森ビルだと言う。
   浦東の開発が始まったのは、1990年代に入ってからなので、私が30年前に来た時には、影も形もなかったはずである。
   しかし、10年前に上海を訪れた時には、金茂大厦ビルが最高峰で、テレビ塔が印象的であったが、実際に、浦東に渡って新市街や新しい開発地を1日中歩いたが、大変な発展ぶりとその威容に感銘を受けた。
   ただ、今回、対岸に、ビル建設のタワークレーンが立っているのは、1棟しか見えなかったので、発展のスピードが、鈍化したのかも知れない。
   
   
   
   
  
   ナイトクルーズは、天候に恵まれて、かなり、クリアに夜景を見ることができて、興味深かった。
   写真を撮るために、3階のデッキに出て、辛抱していたが、東京の気候とよく似ていて、それ程、寒さを感じなかった。
   
   
   
   
   
   
   
   

   さて、ここで考えたいのは、都市景観を見ての経済的な国際比較だが、まず、2年前に訪れたモスクワについて、開発中のモスクワ・シティについて書いた。
   このプロジェクトは、古色蒼然たるこの大都市で、モスクワで見た新都市域開発が行われていた唯一の地区であった。
   1992年モスクワ市政府によって、ロシア及び東欧において最初の大規模商業・業務・住宅・娯楽コンプレックスの建設が目標で、「都市の中に都市を作る」ということで計画されて、現在も進行中だが、ロシア経済の悪化で中断状態である。
   
   一方、ニューヨークだが、ケネディ空港から、車で入れば、一目瞭然だが、都市景観は、正に、20世紀、それも、かなり前の都市景観で、新しいビルが散見できても、既に、過去の街と言う感じがする。
   トランプが声高く唱えているように、アメリカファーストであって、もう、外に脇目を振っている状態ではないことが良く分かる。

   文化文明の発展成長には、特に、経済面においては、勢いと言うもの、進行するベクトルが力強く前に向いているかどうかが、最も重要である。
   上海のこの20~30年くらいの成長発展を見れば、もう、既に、勝負がついているのではなかろうか。

(追記)ウィキペディアから、外灘の風景(1928年)写真を借用する。
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鎌倉便り・・・東慶寺の梅はもうすぐ見頃

2017年02月03日 | 鎌倉日記
   東慶寺は、山門を抜けると、正面の金仏への一直線の参道の両脇に、梅の古木が植えられていて、その梅を見たくて、出かけて行った。
   門前の白梅は、かなり、開花していたが、境内の梅は、少し早かったようで、まだ、殆ど咲いていなかった。
   それに、ここの境内の梅は、白梅が多い所為か、あまり、目立たないのである。
   入ってすぐ右手に、いつも、迎えてくれる花の植え込みがあるのだが、そこには、今年は、ミニハボタンが植えられていた。
   その背後のボケも、黄梅も咲いていて、地面から、フクジュソウが顔を覗かせていた。
   
   
   
    
   
   
   
   

   鐘楼わきの白梅は、ちらほら咲きだが、古木の風格があって、枝ぶりが面白い。
   湯島の白梅には、及びもつかないが、この古木の先の咲き始めの梅の花を見るのが楽しみであった。
   
   
   
   
   本堂や金仏脇にも、咲き始めた梅があり、春の香りを告げている。 
   
   
   

   境内の奥は、山に向かって墓所となっていて、有名人の墓石が多いのだが、ひっそりとしていて、訪れる人は少ない。
   やや、高みから、谷を隔てて、円覚寺の鐘楼脇の建物が遠望できる。
   下って、白蓮舎前の田圃脇の庭には、ミツマタが植わっているが、開花までには、少し早い。
   
   
   
   

   境内の梅の開花模様を、
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   この境内には、一寸、種類の違った梅が植えられており、ほんの数輪しか咲いていないのもあるのだが、夫々に、趣があって面白い。
   
   
   
   
   
   
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