熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・能「自然居士」狂言「磁石」

2016年07月24日 | 能・狂言
   今回の「能のふるさと・近江」シリーズは、能・狂言とも、面白いことに、人商人、人さらいの話である。

   狂言の「磁石」は、ストーリーからは想像も出来ない様なタイトルで、奇想天外な発想も良いところで、これも、狂言の面白さであろうか。
   すっぱ(茂山七五三)が、見付の者(茂山千三郎・遠江からの旅人)を騙して坂本の宿に誘い入れ、宿の主人(松本薫)に売りつけるのだが、その話を聞いていた見付の者が、先をこして、すっぱを語って長目(穴の開いた銭)200疋をせしめて遁走し、騙されたと気付いたすっぱが後を追いかける。
   途中で寝込んでいる見付の者を見つけたすっぱが、刀で切りつけようとするのを、見付の者は、自分は「磁石の精」だと言って太刀を飲み込もうとし、すっぱが太刀を鞘に収めると気を失って倒れ伏す。
 死んだと勘違いして慌てたすっぱは、太刀を供え神妙に呪文を唱えて蘇生を祈っていると、見付の者は急に起き上がって奪った太刀を振り上げ、すっぱを脅しあげて逃げて行く。
   七五三も千三郎も、先代人間国宝の千作の次男三男で、京都お豆腐狂言 茂山千五郎家の重鎮、とにかく、流石に上手い。

   歌舞伎「毛抜」にも取り上げられているが、磁石は、余程不思議で面白かったのか、他愛もない話だが、それよりも、大の男がかどわかされて売り飛ばされると言う世相が面白い。
   本来、悪賢い筈のすっぱが、この狂言では、少し抜けていて、田舎者の方が、知恵があって賢しいところが、逆転の発想でよい。
   
   一方の能の「自然居士」は、子供を買う人商人の話で、身を売って得た小袖を供養して、亡き両親を追善する少女の話である。

   自然居士が、雲居寺再建の寄進のために説法をしていると、少女が高座に小袖を供え、両親の追善を願う。そこへ東国の人商人が現れ、少女を連れ去る。少女が供えた小袖が、自分の身を売って得たものだと事情を知った居士は、説法を打ち切り、救出すべく人商人を追う。琵琶湖畔から、船出しようとする人商人に追い付き、居士は、船を呼びとめて船に乗り込む。居士は、小袖を返して、船中で、双方少女を返す返さないで押し問答し、人商人は諦めて、少女を返すことにするが、、居士を散々甚振って返そうと、居士に様々な芸能をさせる。居士は、少女を助けたい一心で、曲舞や簓や鞨鼓などの芸能を演じて、少女とともに都へ帰る。

   観世流の舞台で、シテ/自然居士 武田宗和、子方/童女 武田章志、ワキ/人商人 森常好、アイ/門前の者 茂山逸平、
   御大の武田志房師と章志の父・友志師が、後見していたが、武田志房の「能楽師の素顔」を読んでいたので、三代の舞台を感じて興味深かった。
   章志も、これまで、かなりの子方の舞台を熟しており、非常にしっかりした舞台で、祖父の弟・シテの宗和師に華を添えていた。
   NHKドラマで軽妙な芸を見せていた逸平が、至極真面目な熱演を披露していた。

   この能は、観阿弥の劇能の最高傑作だと梅原先生は言っている。
   自然居士は、狂言綺語、すなわち、歌舞音曲をもって人を救う菩薩で、法華経で説かれる観世音菩薩の権化だと言うのである。
   そのために、一度は断りながら、居士は、舟の起源を語る曲舞などかなり長い芸事を舞う。
   人商人の自分たちの理屈「俗の法」と居士の「仏の法」の対決と、俗人が僧を甚振って舞わせると言う発想が、何となく浮世離れして面白いと思った。

   この能は、自ら身を売る少女の話だが、山椒大夫の安寿と厨子王の姉弟のように、さらわれて売り飛ばされるケースが多かったのであろう。
   私は、アメリカとブラジルで生活をしていたので、人身売買で、大規模な歴史を持つこれらの国と日本との差を感じざるを得ない。

   奴隷制度との関連もあるのだろうが、ローマ時代など古代においては、戦争捕虜や被征服民族などが該当するのであろう。
   近世のブラジルやアメリカなどへは、プランテーションや鉱山開発のために、多くのアフリカ人たちが、移送されたと言うが、戦争捕虜などだけではなく、現地のアフリカ人たち自身が、現地人を狩り出して、ヨーロッパやインド商人たちに売り渡していたと言うから、悲惨な話で、新大陸発見の大航海時代の幕開けは、恐ろしい時代の始まりでもあったと言うことであろう。

   いずれにしろ、「磁石」の方は、売られようとした人間が、売ろうとしたすっぱより、一枚上手であったと言うところが面白く、笑い飛ばそうと言うことであり、
   「自然居士」の方は、悪い人買いから、少女を救い出すのが、仏の道だと正義を立てる話であり、同じ、人身売買の話でも、人情噺程度で、収まっているところが、島国日本の良さかも知れない。

   さて、余談だが、この能楽堂のロビーに、滋賀県の地図が掲げてあって、今月の能・狂言の舞台が、その地図上にプロットされていて、興味深い。
   普通には、関が原を越えて米原から彦根に入って、琵琶湖に沿って大津に向かって、逢坂山を京都に抜けるコースを取るので、この印象で滋賀県のイメージを作り上げてしまうのだが、場所によっては、雰囲気が随分違う。
   一度、長浜あたりを散策して、渡岸寺などの湖北の十一面観音巡りをしたことがあり、このあたりは、日本のふるさとを想起させるし、別の機会に、琵琶湖一周ドライブした時には、湖北の琵琶湖畔は、かなり男性的で、湖岸に激しく波が打ち付けているのを見て、驚いたことがある。
   石山寺や三井寺へは、何回か訪れることがあったが、湖東三山や甲賀の里を歩いたこともあり、滋賀の都は、日本の歴史上も古くから開けていたところなので、歌枕や能狂言の舞台に沢山登場しても不思議はないのであろう。
  
  
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七月大歌舞伎・・・「柳影澤蛍火」

2016年07月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   昼の部は、やはり、通し狂言「柳影澤蛍火 柳澤騒動」。

   史実とは違う宇野信夫作の創作だが、真山青果などの新歌舞伎と同様で、古典歌舞伎のようにそれなりの知識と鑑賞歴がないと分かり辛いのではなく、新劇を楽しむような雰囲気で観られるので面白い。
   柳沢吉保が、出世出世と人生を突っ走りながら、頂点を極めて栄誉栄華を欲しいままにしながらも、結局得たのは、学問に勤しみ貧しいながらも平穏に暮らしていた浪人時代の平安と一途に愛てしくれていた許嫁のおさめの愛の大切さ。
   序幕の「本所菊川町浪宅」の吉保とおさめの貧しいながらも穏やかな生活シーンがまぶしい。

   五代将軍徳川綱吉の時代、将軍の生母である桂昌院の寵愛を得て、浪々の身から老中まで上り詰める主人公柳澤吉保を海老蔵が演じ、互いに出世を競い合う護持院隆光を猿之助演じると言う、丁々発止の野望と陰謀が渦巻くドラマチックな芝居で、宇野信夫作・演出で、昭和45年の初演以来、2年前に大阪松竹座で、橋之助主演で上演されたが、東京では実に46年ぶり、歌舞伎座では初の上演だと言う。
   

   この歌舞伎は、やはり、現代作者の作品であるから、結構、物語にどんでん返しや外連味があって面白いのだが、その意味では、作品としてのストレートな味がぼやけてしまう。
   吉保が、仕官適うのは、桂昌院(藤蔵)の町娘の頃の幼馴染の曾根権太夫(猿弥)のとりなしだが、綱吉に認められて加増されるのは、両雄仲たがいしているとする龍光の打った芝居のお陰なのだが、二人が結託して、犬猿の仲を装って、陰謀を企てた仲間であったことが、最後に明かされる。

   桂昌院は、イケメン好みの色好みで、老醜憚ることなく、吉保に迫って閨に引き込み、吉保もこれを利用して上り詰めて行くのだが、最後の死期迫る病床で、将軍の愛妾であるおさめの方(尾上右近・実は、吉保の元の許嫁)の前で、抱けと命じて帯を解かれると恍惚状態となり、堪られなくなって逃げ去るおさめの姿を見てほくそえむ桁外れの淫乱老嬢の凄さ痛ましさ。この鬼気迫る桂昌院を、かなりの品格と威厳を示しながら、ベテランの東蔵が、女の悲しいサガを実に上手く演じていて、流石に大役者の貫禄である。
   これを受けて立つ海老蔵は、宙を仰いで苦笑しながら、仕方なく桂昌院を慰めて行くのだが、流石に耐えられなくなって、解いた帯で絞め殺してしまう。
   吉保は、更に、最後には、この殺害現場を見られた權大夫を殺して井戸に沈め、怖気づいて仲間を抜けたいと言う龍光も殺してしまうのだが、もっと面白いのは、おさめからの愛と復讐劇。
   
   幼い頃に許嫁となった弥太郎(吉保の前名)とおさめは兄妹のように仲睦まじく暮らしているが、浪々の身では所帯を持てないのだが、おさめは一緒にいるだけで幸せ一杯。
   ところが、女に興味のない綱吉の跡継ぎを心配して、桂昌院に色仕掛けでその手立てを頼まれた吉保が、こともあろうに、おさめを小姓として綱吉に差し出す。
   綱吉の手がついて懐妊したおさめは、吉保の胤と知りながら、吉松を生み、後ろ盾として吉保が権勢を強めて行く。
   心の病に悩んだ吉保は、駒込の邸宅六義園に移って狂気交じりの生活を送っており、そこへ、おさめの方が忍んでやってきて、吉保を慰めようと茶を点てて供し、吉保が半分飲みかけたところ肩に手をかけたので、吉保が、優しく茶碗をおさめに渡し、おさめも喜んで残りを飲み干す。
   そこへ、龍光が現れて別れ話を告げたので、裏切りと怒って六義園内を追い回して殺害するのだが、吉保は、口から血を吐く。
   おさめが点てたお茶には毒が入っていて、おさめは「さめと一緒に死んで下さいませ」と言ってこと切れる。
   綱吉の逝去と甲府徳川の豊綱を時期将軍への画策が進んでいることを知って、毒のまわってきた吉保は、「真実得たのはただ一つ、女の心、女の情け」と言って、切腹して果てる。
   「出世」「出世」、ただ、この一事のために人生を突っ走ってきた吉保の悲しくも切ない末路である。

   海老蔵と猿之助が、素晴らしい舞台を演じたのは、当然として、尾上右近のおさめの素晴らしさ、その芸の進境著しいのには舌を巻く。
   初々しい痩せ浪人の許嫁から、小姓の凛々しさ、そして、将軍の奥方へと蝶のように脱皮して行く。
   右近を最初に注目したのは、8年前の玉三郎と海老蔵の「高野聖」の舞台で、
   右近が演じた次郎だが、木曽節は秀逸で、それに、動けない身体ながら、実は、女の夫であることを匂わせているあたりの上手さと言い、歌六の親仁の素晴らしさとともに、強烈な印象が残っている。
   その後は、綺麗な乙女や若い女として登場する女形の舞台に注目していたが、今回は、おさめの方として、押しも押されもしない将軍の奥方そして世継ぎの母として、貫禄と気品を備えたベテラン役者の風格十分で、やや、トーンを落として威厳と雅さえ感じさせる声音の豊かさなど、立ち居振る舞いの上手さに止まっていない。
   どんどん出世街道を上り詰めて行く海老蔵の吉保と互角に渡り合って遜色ない出来である。

   この舞台では、猿之助は勿論のこと、猿翁が育てた澤瀉屋一家の役者たちの活躍が著しく、中車は、お犬様の殿ゆえに、縫い包みのチンを抱いて登場する将軍綱吉を、器用に演じていて面白かった。

   7年前に、この舞台の六義園を訪れて、桜を楽しんだのだが、粗削りながら、かなり、広大な素晴らしい回遊式築山泉水庭園の大名庭園であったのを覚えている。
   この歌舞伎の舞台では、タイトルの蛍火を暗示してであろう、舞台の草叢にグリーンの光が微かに点滅して、雰囲気を醸し出していて面白かった。
   
   
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わたしの憩いのひと時

2016年07月21日 | 生活随想・趣味
   仕事から離れて、我が家で過ごすことが多くなった。
   しかし、結構、何かと忙しいのが不思議である。
   庭仕事をしたり、書斎でパソコンを叩いたり、テレビでニュース番組を追っかけたりオペラや能狂言のDVDを鑑賞したり、暇に飽かせて、読書三昧。
   セミナー受講や観劇などで、東京に出かけることもあるが、天気が良いと、バスに乗って、鎌倉の古社寺などを散策する。

   ところで、ほっと、一息つきたい時には、離れの和室に入って、コーヒーや紅茶をすすりながら、新聞や本を手に取る。
   かなり、庭が広いお陰で、濡縁や窓越しからの風景は、日頃からのガーデニングで、四季の花々や自然の装いを楽しめるように植栽に心がけているので、普通のガーデン・レストランやコーヒーハウスくらいには、雰囲気があると思っている。
   今は、返り咲きのばらやカノコユリが咲いている程度だが、室内に、絶えず、何かの花を切って花瓶に生けて楽しめるように心がけているので、色彩が消えることはない。
   それに、まだ、鎌倉山から下りてきた鶯が、朝早くから、綺麗な鳴き声を楽しませてくれており、小鳥や蝶なども庭に華を添えてくれる。

   この口絵写真のマグカップは、千葉県の真朱焼だが、ヨーロッパ時代にあっちこっちで集めたティーカップやコーヒーカップなど食器類も結構あるので、気分次第で器を変えている。
   日本でも旅をすると、備前や萩、有田と言った調子で陶器を求めるのだが、陶磁器に特に興味があるわけでもないので、カップや花瓶などが殆どである。

   尤も、若い頃は、家族の好みもあって、イタリアやドイツやスペインなどで、人形や動物、建物などのフィギャーやオーナメントを結構集めたのだが、これらも勿論、イギリスやウィーンやハンガリー、ドイツなどで得た陶磁器やガラス器なども、その多くは、先の3.11の大地震で、震度6弱と5強が3度連続して、飾り棚や食器棚から飛び出し、粉々になってしまった。
   結局、形あるもは滅びるので、形のある間に、愛しみ楽しむと言うことが大切だと言うことである。
   そう思って、カップを選びながら、懐かしい思い出を反芻している。

   コーヒーは、UCCのブルーマウンテン・ブレンドを使っていたが、生産不良で販売中止となってからは、ハワイコナ・ブレンドを使っており、特に味に不満がないので、これを続けている。
   紅茶は、イギリスに居た手前、凝って煎れていたが、最近では、手を抜いて、ダージリンのティーバッグにしている。

   私にとっては、この小休止とも言うべき、憩いのひと時が大切であり、これにも飽きると、庭に出て木々や花々と会話を楽しむ。
   花の息吹に感じ入るようになったのは、東京から千葉に移って、かなり広い庭があった所為もあるが、花が好きだった友人の影響と、オランダやイギリスに住んでから花に囲まれた生活を始めたことのお陰だと思っている。
   日々、表情を変えて迎えてくれる花木や草花を眺めていると、新しい発見があったり、生きとし生けるものの愛おしさが胸に迫って、無性に懐かしさを感じる。
   そんな時に、シャッターを切るのだが、何故か分からないが、わたしの憩いの時間は、これまでの色々な人生が、ミックスして出来上がっているのであろうと思うことがある。

   憩いのひと時、ほっとして、何となく、平安の大切さを感じて、これを書いてみた。
   
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英エコノミスト編「通貨の未来 円・ドル・元」

2016年07月20日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   基軸通貨が、ポンドからドルに代わってから、まだ、100年も経たないのだが、軋み始めたドルに代わって、中国の元の台頭が話題になり始めている。
   この本は、エコノミストの論文を編集したものだが、「ドルの未来 責任を放棄した王者」で、ドルの現状と行く末を論じ、「元の未来 両刃の剣」で、中国の経済を俯瞰しつつ、元が基軸通貨になり得るのかを検討し、更に、「仮想通貨の未来 究極の基軸通貨か?」で、ビットコイン・ブロックチェーンを俎上に載せて通貨を語っていて、非常に興味深い。
   
   基本的には、基軸通貨としてのドルの地位は、まだ、安泰だが、米国が、世銀やIMFなどの国際機関に対する責任を放棄しており、その一方では、あまりにも膨らみ過ぎたオフショアドルの市場が巨大化しているにも拘わらず、危機に陥った時に、国家や金融機関を救済する「最後の貸し手」が不在なので、現在のグローバルな通貨システムは、安定性を欠いており、改革しなければ、いずれ崩壊する可能性がある。

   それでは、中国の人民元が、ドルに代わり得るのか。
   現実には、購買力平価を基準にしたGDPは、アメリカが16%、中国が17%と拮抗しているが、アメリカの経済は、ポンドがドルに移行した頃のイギリスよりははるかに強く、今の中国経済は、当時上昇気流に乗り始めたアメリカよりも、ずっと弱い。
   また、イギリスとアメリカと言う政治経済社会システムを共有する同盟国の間での平穏な交代であったが、アメリカと中国は同盟国ではない。
   更に、今日の世界の貿易・金融システムは、昔より、ずっと規模が拡大しており、継続性が強く求められており、当時は、ポンドもドルも一定のレートで金と交換可能であったのだが、今日はそうではなく、基軸通貨の交代が起きれば、需要と供給のバランスによっては、通貨が暴落する可能性がある。
   また、人民元を基軸通貨にするためには、市場を全面的に開放したり、法の支配を確立させるなど、中国自身の国家体制やその仕組みなどを根本的に改めなければならないなど、問題山積なので、基軸通貨の交代は、起き難い。
   そんなところが、エコノミストの見解である。

   市場を全面開放すれば、それは共産党にとって多くの権限を手放すと言うトレードオフとなり、
   高度成長を謳歌していた中国経済が、年初の元安と株価暴落によって、市場経済と国家統制経済の間の危険な中間領域に嵌まり込み、
   民主化を達成せずに高所得国へ移行した国はないと言うドグマに、公然と挑戦して、ナショナリズム一辺倒の経済改革を推し進める習近平のジレンマ、等々、
   結構、中国に対する辛口評論が展開されていて面白い。
   私自身は、何度も書いているが、中国が、中進国の罠をクリアできるかどうか疑問だと思っているし、どこかで暗礁に乗り上げると思っているので、それ程、中国の経済的覇権の確立の可能性は信じていない。

   ところで、興味深いのは、文春国際局が依頼した「2020年までの日本と円の未来」に対して、「円の未来 黄昏の安定通貨」と言う部分が追加されて、「マイナス金利と言う実験」「アベノミクスを採点する」で、アベノミクスを中心に、日本経済を分析していることである。

   アベノミクスの第1の矢:金融政策について、マイナス金利などいくらやっても効果は薄い。そもそも、日本で融資が増えていないのは、融資資金の供給不足ではなく、需要不足が問題だからだ。
   第2の矢の:財政政策も、景気刺激のための財政出動をしながら、同時に財政の再建もしなければならない。これ以上消費税増税に踏み切れなければ、日本の公的債務残高の対GDP比率は、先進国最悪の水準となり、2020年には、246.5%に達する。
   アベノミクスの成否は、第3の矢の成長戦略・構造改革にかかっているが、労働市場の規制緩和や農業の活性化、企業統治の改革など、利益団体や与党議員からの抵抗が強くて、日本経済に一大改革を齎すほどの効果は得られないであろう。
   自民党政権はしばらくは盤石ではあろうから、アベノミクスは、今後も日本政府の経済政策の大方針であり続けるであろうが、全面的な成功を収めることはないであろう。
   要するに、エコノミストのアベノミクスの評価は、総じて失敗。と言うことである。

   これまで、アベノミクスについても、私論を述べてきたのだが、
   成熟経済に達して、成長余力を殆ど失ってしまった(?)日本経済には、最早、金融政策も財政政策も、殆どストレートに働かなくなり機能しなくなっている。
   いくら努力しても経済成長が1%程度だと仮定すれば、益々、プライマリーバランスが悪化して、国家債務の増幅は必定で、財政再建などは夢の夢。
   日銀と政府が画策する日銀の国債の多量購入は、国債を返さなくても良い債務に化けさせる財政ファイナンスとなれば、行く行くは、貨幣化となるので、インフレへの道へ一直線。

   最後の望みは、第3の矢の成長戦略だが、エコノミストの指摘のように、既得利権者や圧力団体の抵抗を打ち破り、岩盤規制の撤廃など制度や法体系の不備を改正するなどは勿論のこと、学問芸術や科学技術の振興、起業やイノベーションへのインキュベーションやインセンティブの付与強化等々、日本産業が生き生きと活動できるように、日本の政治経済社会を根底から変革しなければ、日本経済の活性化など不可能だと思っている。
   益々、金太郎飴のようになって行く安倍内閣が、続けば続くほど、日本の再生は遠のくばかりだと言う気もし始めている。
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都響プロムナードコンサート(2016.7.18)

2016年07月19日 | クラシック音楽・オペラ
   今回のプロムナードコンサートは、指揮/ミゲル・ハース=ベドヤ 、サクソフォン/須川展也 で、次のプログラムであった。

   ヒナステラ:バレエ組曲《エスタンシア》 op.8a
   ファジル・サイ :アルトサクソフォンと管弦楽のための《バラード》op.67(2016)(世界初演)
   ピアソラ:タンガーゾ(ブエノスアイレス変奏曲)(1969)
   ラヴェル:ラ・ヴァルス

   最後のラ・ヴァルスは、コンサートで何度か聴く機会があったのだが、他は、初めてである。
   各々、15分弱の短い曲ばかりで、正味の演奏時間があわせても1時間弱で、極めてシンプルなコンサートながら、サントリーホールは、満席であった。

   指揮者が、ペルー生まれなので、ラテン色の強い曲目の選定なのか、私は、ピアソラのタンゴ色などエキゾチックな雰囲気を期待して出かけたのだが、それ程でもなかった。
   ヒスナテラもピアソラもアルゼンチンの作曲者なので、何となく広大なパンパの香りらしき雰囲気があるのだが、やはり、西洋音楽と言うかクラシック音楽である。

   私は、サンパウロに駐在していた時に、何度かアルゼンチンに行っており、もう、何十年も前になるが、真っ先に、タンゴの生まれ出たボカの港の近くのサンテルモ地区にあるタンゲリア(タンゴ生演奏の店)エル・ビエホ・アルマセン(El Viejo Almacén)に行って、タンゴを観て聴いた。
   船底の様な荒れた佇まいの薄暗い店の片隅で、バンドネオンの咽び泣くような哀調帯びたサウンドに乗って、男女のダンサーが、激しくステップを踏んで踊り続ける。
   この写真は、何故か、一枚だけ残っている当時のスナップで、ニコンF2にF1.4のレンズをつけて開放にしてシャッターを切って、2倍に増感現像したものである。
   

   これも、随分前のこと、ニューオルリンズを訪れた時に、古民家をそのまま使った小さなプリザベーション・ホールで、老嬢スイート・エンマ楽団のジャズ演奏を聴いた。
   貧しい小さな部屋で、客席は、ほんの数人座れるだけの床机があるだけで、土間に座ったり後ろに立ったり犇めき合っていて、
   小編成の楽師達は殆ど黒人の老人達で、エンマのピアノに合わせて懐かしいデキシーランド・ジャズを奏でていて、実に感動的な演奏で、こんな所でジャズが生まれて育っていったのかと、感に堪えなかった。 のを思い出す。

   フラメンコ、ファド、、サンバ・ボサノバ、マリアッチ等々、ヨーロッパで聴いた音楽やラパスのナイトクラブで聴いたエル・コンドル・パッサもそうだが、その地方の民族音楽などを、異国で聴くと、旅情も加わって、胸に染みて、感動が増幅されて、強烈に印象に残る。

   昔は、ウィーンだベルリンだと言って目の色を変えてコンサートに通っていたが、最近は、トップクラスのオペラ公演は行くけれど、オーケストラなどのクラシックは、この都響のプロムナードコンサートや興味を持った単発のコンサートくらいで殆ど縁遠くなったのだが、それだけに、昔の色々な思い出を、懐かしく反芻しながら楽しむことが多くなった。

   ファジル・サイ :アルトサクソフォンと管弦楽のための《バラード》は、サクソフォン奏者須川展也が、サイに委嘱した作品で世界初演。
   ジャズ演奏で聴くことがあるのだが、本格的にサクソフォンを聴くのは初めてで、多彩なサウンドを奏でる素晴らしい楽器であることが分かった。
   サイは、トルコのピアニストで、トルコの施法体系の音楽などからインスピレーションを得たと言うことだが、サキソフォンとドラムが奏でたリズミカルなサウンドなどは、イェニチェリの行進を思わせて面白かった。
   須川展也の演奏は感動的で、舞台に登場した作曲者のサイと喜びをともにしていた。
   須川展也は、アンコールで、サイ作曲の「組曲op.52 第1楽章」をソロ演奏した。

   ミゲル・ハース=ベドヤは、最後に、大分、時間が余ったので、定期公演としては珍しく、アンコールで、ジョン・ウィリアムズの「オリンピック ファンファーレとテーマ」を演奏した。
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宝生能楽堂・・・納涼能「羽衣」「小鍛冶」

2016年07月18日 | 能・狂言
   15日午後2時から、能楽協会東京支部主催の「納涼能」が催されたので出かけた。
   能楽五流の家元ないしトップ能楽師による能舞台と言うことで、いつも、素晴らしいプログラムが催される。

   今回のプログラムは、次の通り。

   能 観世流 「羽衣 和合之舞」 シテ 観世喜之 ワキ 宝生欣哉
狂言 大蔵流 「鬼瓦」 シテ 山本東次郎 アド 山本凜太郎
 仕舞 喜多流 「実盛 キリ」友枝昭世
  金春流 「蝉丸」 金春安明
  宝生流 「野守」 宝生和英
 能 金剛流 「小鍛冶 白頭」 シテ 金剛永謹 ワキ 福王和幸

   羽衣は、何度か、それも、各流派の舞台を観ている。
   それ程、記憶は定かではないが、一番覚えているのは、天女の羽衣・長絹が置かれる位置で、正先に置かれた松の立木に掛けられるのだが、今回は、一ノ松の勾欄に掛けられていた。
   この口絵写真の羽衣は、宝生能楽堂のロビーに掛かっていた額のコピーだが、松の立木が描かれているので、前者の演出であろう。
   私の天女のイメージは、どうしても、子供の頃の羽衣伝説からで、精々、法隆寺の壁画や宇治の平等院の飛天の舞姿なのだが、その意味からでは、能の華麗で豪華なシテ/天人の舞姿は、スピリチュアルで荘厳でさえある。
   今回の羽衣は、小書「和合之舞」なので、「序ノ舞」の終わりが「破ノ舞」の位になって、「序ノ舞」のあとの「ワカ」から「破ノ舞」までが省略されると言うのだが、そのあたりは、私には知識を越えていて分かり辛い。

   仕舞は、人間国宝の友枝昭和世、金春安明宗家、宝生和英宗家、
   仕舞は能の一部を、面・装束をつけず、紋服・袴のまま素で舞う演出なので、能楽師のあたかも面をつけたような無表情の、非常に精悍な素晴らしい舞姿を鑑賞でき、私は好きである。
   それに、地謡が4人と少なくて、謡が増幅して籠らずに聴こえるので、分かりよいのが良い。

   狂言の「鬼瓦」は、これまで、3回、万作の素晴らしい舞台を観ていて、その表情と声音が鮮烈に残っているので、一寸、印象が違った東次郎のシテ/大名も面白かった。
   この狂言は、地方の大名が、訴訟で勝訴して長らく滞在していた京都から故郷へ帰る前に、因幡堂へお礼参りに出かけて、その堂の屋根の鬼瓦が、妻の顔に似ているので、懐かしくなって、オイオイ泣くと言う、一寸、意表を突いたストーリーである。

   能「小鍛冶」は、小鍛冶宗近が、天皇の霊夢で、剣を打つことになるのだが、同等の技を持った相槌がいないと断るも、稲荷明神が、狐の姿となって現れて、相槌を勤めて剣を打ち上げると言う話。
   今回は、「白頭」と言う特殊演出で、シテ/稲荷明神の金剛永謹宗家が素晴らしく勇壮な姿で登場して、緩急自在の囃子に乗って華麗な舞を披露した。
   舞台正先に、壇の作りものが出されて、その台上に、鉄床、鉄槌、刀身、幣が置かれて、この上で、剣が打たれるのだが、この日は、脇正面前方中央の席であったので、斜め後方から見上げる感じであった。

   昨年11月に、国立能楽堂主催の観世流「小鍛冶」で、シテ/上田貴弘の同じく「白頭」の舞台を観たのだが、牙飛出の面の表情など凄い迫力であった。
   この能は、かなり、リアルや表現なので、分かり易い。
   
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国立劇場八月歌舞伎・・・卅三間堂棟由来

2016年07月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場の8月の歌舞伎鑑賞教室は、『卅三間堂棟由来』。
   この演目は、2003年に、歌舞伎鑑賞教室で、同じく、魁春のお柳で上演されて好評を得たようだが、上演回数は、文楽の方が圧倒的に多くて、私など、簑助の素晴らしいお柳の姿が、脳裏に焼き付いている程である。
   蘆屋道満大内鑑の「葛の葉狐」などもそうだが、異類婚姻譚の物語の両生を生身の役者が、リアルと言うか、息を吹き込んだ芸を演じることの難しさであろうか。

   今回の魁春のお柳は、流石の熱演で、初々しさの残る嬉しそうな恋の時めきの表情を表現しながら、一転して、切り倒されて命がなくなり、愛する夫と愛しい緑丸との別れに胸を潰して慟哭の涙にくれるクドキ、そして、あの悲しくも切ない肺腑を抉るような表情は、どんな台詞よりも、断末魔の苦痛を訴えていて胸を打つ。
   黒御簾から響く槌の音に、全身を地面にぶっつけてのたうつ姿の激しさ優しさ、そして、義母や夫や緑丸の嘆き悲しみに応えて、亡霊のように現れて愛を確認して髑髏を置いて消えて行く絵の様なシーンも印象的である。
   ラストは、緑丸の引く柳の大木の後方に、お柳が宙吊りで浮かび上がる。
   
   この1時間半ほどの舞台は、紀州熊野の鷹狩、横曽平太郎住家、木遣音頭の三段で構成されている次のようなストーリーである。
   鷹狩の鷹が柳の木に絡んだために、切り倒されようとしたが、横曽根平太郎(彌十郎)の弓に助けられたので、柳の精のお柳(魁春)が平太郎に恋をして契り、一子緑丸をもうけ幸せに暮らしす。ところが、白河法皇の頭痛の病気の原因が、前世の髑髏が、その柳の梢に残っているので、その柳を切って三十三間堂の棟木にすれば良いと言うお告げが出て、切り倒されることとなる。お柳は、柳を切る斧の音とともに苦しみだし、柳の精であったことを明かして夫と子に別れを告げて去る。切り倒された柳の大木は運ばれる途中、お柳の思いが残って動かなくなるが、平太郎の木遣音頭とともに、緑丸の引く綱に引かれてゆく。

   この話は、白河法王となっているが、清盛との関係で変えられたのであろうが、三十三間堂は、後白河法皇の御所に造営されたのが始まりだと言うから史実とは違う。
   柳は、雌雄異体なのだが、お柳が、夫平太郎を椥の木として、連理を語っているのが興味深いと思った。

   さて、今回、魁春のお柳の相手役平太郎を演じたのは、彌十郎。
   左團次のような重厚でどこか厳つい性格俳優とも言うべき重鎮が、どちらかと言うと若手の二枚目役者が演じそうな役を演じていて、一寸、驚いたのだが、それなりに面白いキャスティングで、楽しませてもらった。
   松江の一寸悪役面の太宰師季仲も、逆な面白さが出ていた。
   進ノ蔵人の颯爽とした侍姿の秀調、平太郎母滝乃の歌女之丞は、はまり役。
   伊佐坂運内の道化仕立ての橘太郎は、鳥つくしの面白いせりふ回しで観客を喜ばせていた。
   
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The Economist:Our bulldozers, our rules 中国の新シルクロード建設

2016年07月16日 | 政治・経済・社会
   エコノミスト誌が、”Our bulldozers, our rules”を書いた。
   ”China’s foreign policy could reshape a good part of the world economy. 新シルクロード建設が、世界経済の良き拡大だと言うのだが、どうであろうか。 
   これこそ、まさに、中国の大唐帝国回帰への布石であろう。
   欧米先進国の世界から考えれば、かなり開発から取り残された地域への開発なので、望ましい筈なのだが、公共心が低くて、地球温暖化など宇宙船地球号のサステイナビリティへの配慮に欠ける中国の開発戦略であるから、何となく、地球の乱開発となって人類を益々窮地に追い込むことにならないか、少し憂慮はしている。

   しかし、このプロジェクトは、実に、爽快でもある。
   アメリカを完全に抜きにして、ロシアとヨーロッパを巻き込んで、巨大な一大経済圏を確立しようと言うのである。
   それも、マッキンダーが唱えたハートランドを抑えて、スパイクマンのリムランドさえも支配して、「世界島」を制する。
   正に、世界制覇であって、大唐帝国の復活どころのスケールではない。
   
   シルクロードは、7世紀に、中国の商人が、中央アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパへ行き来した重要な交易ルートだったが、戦乱の後、何百年も途絶えてしまっていた。
   このシルクロードは、パックス・シニカの黄金時代には、世界中の人々が、絹などの中国の豪華製品を渇望し その通商ルートであったのみならず、外交と経済発展の導水路でもあった。
   習近平は、このシルクロードをリバイバルして、中国の国威発揚を図ろうと言うのである。
    

   今や、クレーンと建設クルーが、キャラバンとラクダに肩代わりした。
   中国のコスコは、ギリシャのピレウス港の67%の所有権を抑え、そこからハンガリーやドイツに向かって高速鉄道を敷設しようとしている。
   7月には、パキスタンで、中国デザインの核原子炉が第3段階に突入し、更に、高速道路への融資やタール砂漠の石炭採掘への巨大な資金供与を発表している。
   今年当初の5か月における中国の海外契約の半分以上は、このシルクロードに沿った国々へのものだと言う。
   政治家の交流も急を極めており、習近平がウズベキスタンへの援助ばらまきの後、セルビアとポーランドを訪問し、北京を訪問したロシアのプーチンやモンゴルのリーダーたちも、新シルクロード構想に賛意を表している。
   第一回のAIIB総会が開かれて世界中から60人以上の財務大臣が北京に結集するなど、中国の巨大な経済外交の大車輪が回転し始めた。

   中国政府は、この新シルクロード・リバイバル・プロジェクトを、
   “One Belt, One Road”,すなわち、OBORと呼称している。
   「一帯一路」である。

   その意図するところは、3つ。
   第1には、このプロジェクトは、広範囲に及ぶこと。
   ベンガル湾のミャンマーから南西中国へのガス・パイプライン、北京からデュースブルクへの鉄  など900以上のプロジェクトが俎上に乗っており、その総額も4兆ドルと、マーシャル・プランの0.13兆円とはケタ違いで、敵国(?)へも援助する。

   第2には、2020年に小康社会を「全面的」に実現し、21世紀半ばには、「強力な繁栄大国」を目指すとする習近平の重要な政策の実施のために必須であること。
   習近平は、新シルクロードは、中国の通商経済の導線とソフトパワー拡大に寄与する外交政策の重要な一環だと考えている。
   更に、この政策は、混乱を起こすことなくグローバルパワーを強化してマイルドなセキュリティ環境を作り上げて、偉大な過去を再現する「中国の夢」の実現のために格好のプロジェクトだと考えている。

   第3には、これは、アメリカと欧米先進国が作り上げた規制の世界貿易に対する挑戦である。
   世界には、2つの主な貿易ブロックがある。
   一つは、ヨーロッパとの大西洋ブロック、もう一つは、アジアとの太平洋ブロックで、両方とも、アメリカが抑えている。
   しかし、OBORは、アジアとヨーロッパを接続する通商ルートだが、中心となるのは、アメリカではなく、中国である。

   習近平が、就任して最初に手掛けたシルクロード・プロジェクトが、パキスタンの巨大な水力発電で、その後、多くのプロジェクトも順調に進んでおり、更に、地方各省も積極的に辺境地帯などへのプロジェクトを進めていると言う。
   内需拡大による経済構造の改革が叫ばれているのだが、この新シルクロード・プロジェクトにより、OBOR係諸国に、リトル・チャイナを輸出構築して、余剰の鉄やセメントなどを放出すれば、内需拡大にもなって一挙両得になるであろう。

   さて、OBORプロジェクトも、中国の単なる善意の経済開発から、プロジェクトの運営支配等、そして、インフラを通じての国家経済への影響力強化や介入など、徐々に中国の影が、関係諸国に投影され始めているとも言う。
   私が若かりし頃の、国際経済学や国際経営学の格好のテーマは、米帝国主義の拡散と米国籍の多国籍企業の植民地的支配であったのだが、あのヨーロッパでも、シュラバン・シュレベールのアメリカのMNCのヨーロッパ支配を論じた「アメリカの挑戦」が、ベストセラーであった。
   
   再び、毛色は違っても、今回は、弱肉強食の自由市場システムによる資本主義ではなくて、もっと強力かつ過酷な国家資本主義による帝国主義が再来するのであろうか。
   ICT革命によってグローバル化した時代で、瞬時にグローバル規模で情報や通信が行きかう時代でありながら、地理に縛られて国家の命運が左右されると言うこの現実。
   地理が生き、地政学が躍り出たのが、正に、この中国の新シルクロード・プロジェクトであり、アメリカが地団太踏んでも対抗できないところが興味深いと思っている。
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ロバート・D・カプラン著「地政学の逆襲」(4)「パックス・アメリカーナは中国に有利?」

2016年07月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先のブレマーのブックレビューで触れたのだが、
   東アジアは別として、アメリカが従来通り軍事的優位を保ってくれて、中国の経済成長を阻む、発展の障害となる世界的な紛争と言うリスクが抑えて貰えれば、中国が、世界的なリーダーとして役割を果たすべきプレッシャーから解放されるので、中国にとっては、むしろ、好都合である。と述べている。
   すなわち、パックス・アメリカーナは、中国の国益にもかなっている。と、ブレマーは主張しているのである。
   中国が、何の不安もなく、マラッカ海峡を通過して、中東の石油にアクセスできるのも、アフリカから天然資源を自由に輸入できるのも、米軍の航行安全維持の世界戦略故であり、中国は何のコストも負担することなく、アメリカの構築した公共財を享受できているのである。

   同じような見解を、形は違っているが、カプランも本書で述べている。
   その部分を一部引用すると、
   ミアシャイマーなどは、・・・・アメリカが中東の無駄な戦争に多大な資源を費やしている間に、中国が最新の防衛技術を獲得したことに憤りを感じている。たとえアメリカがアフガニスタンとパキスタンを安定化させることが出来たとしても、その恩恵を主に受けるのは中国なのだ。中国は、エネルギーや戦略的鉱物資源を確保するために、この地域全体に道路やパイプラインを建設することが出来るからだ。

   先にルトワックの「中国4.0」で論じたように、このパックス・アメリカ―ナを上手く利用して、中国は、2000年頃までは、世界に対して「平和的台頭」を示して、、北京のリーダーたちは、合理的な費用対効果の推測を含んだ冷静な計算をして、弱者を装って、欧米や日本から支援や投資を受け続けて、大国への道を成功裏に歩んできた。
   ところが、この「平和的台頭」さえ維持しておれば、中国は反発を受けることなく外界の荒波にもまれることなく、穏やかな国際環境を泳いでいけた筈なのだが、リーマンショックで経済危機に直面した欧米日などを尻目に、中国は、経済的な成功に舞い上がって、「金は力なり」と、カネと権力の混同と言う錯誤を侵して、更に、経済力と国力の関係を見誤って、一気に馬脚を現して、世界覇権への道へ舵を切った。
   習近平自身が就任演説以降、「中華民族の偉大なる復興という中国の夢の実現」を標榜しているように、そして、先日、カプランの解説を記したように、中国は、「帝国」への道を突っ走り始めた。

   今回の南シナ海の領有権問題に対する仲裁裁判所の裁定を、「紙屑」だと、北京政府自らが、国際法規と国際秩序を否定して憚らない、この野蛮極まりない暴挙に対して、国際社会は、どう対処するのか。
   フィリピンのTVでは、仲裁裁判の裁定後、フィリピンの漁船が、スカボロー海域に入ろうとしたら、中国の船が侵入を妨害して入れなかったと詳細に実況で報じていた。
   日本人のように、「恥」を知る民族かどうかは知らないが、国際社会、すなわち、グローバル世間に対する顔向けが出来るのかどうか。

   さて、この本は、何も、中国だけを書いているのではなく、ヘロドトスから、ナチス、そして、冷戦、地域論においても、ヨーロッパ、ロシア、インド、イラン、トルコ、メキシコ等々、多岐に亘って、地理や地政学、外交や軍事、戦争と平和、民族の興亡など、微に入り細に入り論述していて、非常に興味深くて面白い。
   私は、NHKのBS1の7時からの「キャッチ!世界のトップニュース」と夜10時からの「国際報道2016」を見ることにしているのだが、この本のお陰で、益々、面白くなってきている。
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ロバート・D・カプラン著「地政学の逆襲」(3)「中国の大中華圏への道」

2016年07月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   日本人にとって、地政学上、中国がどのような位置にあるのか、非常に関心の高いトピックスである。
   中国の台頭は、今昔の感で、私自身、イギリスにいて、フィナンシャル・タイムスやタイムスなど主要メディのアジアのタイトルが、chinaとなって、japanが消えて行くのを見ながら、アジアの権力の移行なり、欧米メディアの関心が、一気に中国にシフトして行くのを知って、日本の凋落を感じたのだが、今や、経済力、国力の差は歴然としていて、尖閣諸島問題など、中国が脅威にさえなってしまった。

   東シナ海のみならず、もっとアグレッシブに領土拡大を試みている中国の南シナ海問題に対して、
   これは、毎日ニュースのタイトルだが、
   ”<南シナ海>中国の主張「九段線」認めず 仲裁裁判所判決”
   フィリピンが申し立てた仲裁手続きに対して、オランダ・ハーグの仲裁裁判所は、12日、南シナ海をめぐる中国の主張や行動は国連海洋法条約違反だとして、中国が「歴史的権利」として主張する「九段線」について国際法上の根拠は認められないとの裁定を下した、「人工島」の海洋権益についても否定した。南シナ海のほぼ全域の主権を主張して強引に進出する中国に対し、初めて国際法に基づく判断が下されたのである。

   裁定は、南シナ海で実効支配の拡大を続けている中国側の主張を退けたが、中国は、これまで通り一貫して裁定を無視する姿勢を続けるであろう。強制的に裁定に従わせる罰則などの手段はないのだが、国際法違反だと明確に裁定されたのであるから、国際社会が、中国に対して、司法判断の尊重を求める圧力を高めるのは必至となり、中国が窮地に追い込まれるのは必置で、南シナ海情勢は一段と緊迫度を増してくるであろう。

   この九段線については、「中国4.0」で、ルトワックが、
   九段線の元となった地図は、中国が実効支配的な支配力をほとんど持たなかった時期に国民党の軍の高官が酔っ払らいながら描いたもので、こんな馬鹿げたでっち上げの地図に拘るなど初めからない。と書いていることは、先に紹介済み。
   更に、正確を期するために、ウォールストリート・ジャーナルのAndrew Browneの記事と写真を引用しておくと、
   ”「九段線」はこれまで常に不可解なものだった。旧中国国民党政権が台湾に逃れる前の内戦終戦前の混沌とした時期である1946年に描かれたものだ。実際、当初は9本ではなく11本だった。勝利を収めた共産党員がこの線を採用した後、1953年にそのうち2本が削除された。地図作成者は規模と正確さを尊重するが、九段線は正確な位置を示していない。太くて黒いマジックペンで書き足されたように見える。
   さらに、中国政府がこの九段線の意味を適切に説明したことはない。(前述の根拠のない線引きなら、説明など出来る筈がない)。この線の内部に点在する領域の要所に対する「疑う余地のない主権」という中国の主張は、この線自体から発生しているのだろうか。あるいは、その逆で、この線は領域の要所と周辺の海域から発生しているのだろうか?”
   

   こうした理由のため、国際法に従えば、九段線の正当性が認められる可能性はほとんどないだろうというのが、欧米の法学者たちの一般的な見解だ。と結んでいたが、その通りに裁定が下されたのである。

   前置きが長くなってしまったが、それでは、中国が、何故、海洋進出とその覇権確立に躍起となっているのか、「大中華圏」1章を割いて中国を語っているので、カプランの見解を考えてみたい。

   かっての中国は、古代から万里の長城を築いたり、ロシアなど隣接する強国などとの鬩ぎ合いで国境警備が大変であったが、現時点での中国の陸の国境は、危険よりも機会に恵まれており、インド亜大陸と朝鮮半島を除けば、競合諸国とぶつかり合うことなく、単に空間を埋めているだけであり、人民解放軍が中国国境を超えるのは、誤算が生じた時のみである。
冷戦当時、毛沢東の中国は、国防予算を陸軍に集中させる必要があったために、海上の防衛が手薄であった。
   ところが、現在は、陸の国境に敵なく、陸上において非常に有利な位置を占めているので、軍事予算を大きく海の国防のために回して、海軍力の増強に取り組み、太平洋とインド洋を、勢力圏として再び確立し始めることが出来るようになった。
   外洋に面した都市国家や島国がシーパワーを求めるのは当然だが、中国の様な閉鎖的な大陸国がシーパワーを追及するのはぜいたくであり、何らかの「帝国」が生まれつつあることの証左である。とカプランは言う。

   加えて、現実には、日本からオーストラリアまでびっしり張り巡らされた「逆・万里の長城」とも言うべきアメリカの同盟国による監視塔が存在して、中国は、この身動きが取れない状態にいらだっており、著しく攻撃的な方法で、この問題に対処してきた。
   したがって、21世紀の中国は、主に海軍を通じて勢力を投射することになるであろう。と言うのである。
   
   カプランは、第二次世界大戦中に、ニコラス・J・スパイクマンが、「アメリカの地中海(カリブ海)論」に倣って、中国が、近代化し、活性化し、軍事化すれば、「アジアの地中海(南シナ海)」の沿岸帯の大部分を支配し、日本のみならず、西洋列強の地位を脅かすと予言していたのを紹介して、この地域への中国の経済進出が政治的な含みを帯びることは間違いなく、この海域が、中国空軍によって支配される日が来ることは容易に想像されると述べている。

   また、中国は、制海権を握ることが如何に重要か、「制海権は共通海域から敵船の旗を一掃する圧倒的な力になる」と説くアルフレッド・セイヤー・マハンへの傾倒を益々強めており、中国海軍は、規模と範囲の拡大に傾注している。
   中国海軍は、西太平洋を越えて、インド洋への進出を目論んでおり、インドは脅威を感じ始めている。近隣諸国に、多額の軍事・経済援助を行い、政治的支援を提供しており、ミャンマーのチャウピュ、バングラデシュのチッタゴン、スリランカのハンパントタ、パキスタンのグワダルなどのインド周辺で、港湾の建設・改修を進めている。
   まずは、ヨーロッパへの経済的布石だとしても、あれ程、共産化を恐れて、EUとNATOにギリシャを引き入れたにも拘らず、何故、中国が、地中海への突破口・アテネの外港ピレウスを抑えたのを、米欧は阻止しなかったか不思議だが、とにかく、中国が、制海権を握ろうと必死に動き始めたことは事実であろう。

   南シナ海は、中国にしてみれば、マラッカ海峡を経て、インド洋と中近東、アフリカへ抜ける最も重要な生命線とも言うべき海域であるから、大唐帝国への回帰を国是とする中国にとっては、絶対落とせない布石なのである。
   今回の仲裁裁判所の裁定が、どのように推移して行くのか、問題山積みの東シナ海と南シナ海への中国のアグレッシブな外交・軍事戦略が、風雲急を告げている。
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ロバート・D・カプラン著「地政学の逆襲」(2)「スラム化した都市化」

2016年07月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先に、ヒズボラなどの準国家の集団が、国家内部で紛争を起こして、國際危機の元凶となり、世界の治安維持に大変な問題を引き起こしていることについて考えてみた。

   何故、原理主義的なイスラムの過激集団など、中近東を起点にした準国家の集団が勢いを増し、テロリストたちを世界中に拡散し続けるのか。

   まず、アジアの現状認識が大切である。
   人口が増え、ミサイルの射程距離が伸びている所為で、アジアは益々「閉所恐怖症」が強くなっている。
   ICTや軍事技術など科学技術の発展によって、アジアがその工業力に見合った軍事力を身につけるにつれて、アジア大陸は、まさに、縮小するチェス盤になり、有事あれば一触即発、ミスや誤算の余地がなくなりつつある。
   加えて、コンピュータウイルスや核・細菌爆弾などの「破壊的技術」が、現状を混乱・一変させ、現在の優位を屈返し、新しいスキルを養い、新たな戦略を生み出し、不確実性が増すので、既存の秩序は揺らぎ、危機に陥る。
   ミサイルと大量破壊兵器がアジアに拡散し、「貧者の核兵器」やその他の破壊的技術が勢力を得て、核兵器保有国を含む貧困国が犇めく狭い空間は、正に、アメリカの西部開拓時代を彷彿とさせて、世界の勢力バランスを一変させようとしている。と言うのである。

   さて、もっと深刻な問題は、21世紀は、メガシティが地理の中心となると言う現実。
   各国政府は、ミサイルや近代的で外向き志向の軍隊によって力を高める一方、貧しい生活環境や物価の周期的な高騰、水不足、住民の声に応えられない公共サービスなどに悩まされる人口過密のメガシティは、民主主義と過激主義との温床になる。
   将来の都市部の人口増の大半は発展途上国、特にアジアとアフリカに集中し、現代は、世界人口の多くの割合がスラム環境で暮らす時代である。と言うのである。

   アラブ人の多くは、無秩序に広がった人口過密な荒廃した都市の人混みの中に暮らしていて、見知らぬ他者に揉まれて暮らす都市生活の人間味のなさから、激しい宗教的感情が生まれ出る。
   イスラム過激派は、過去半世紀にわたって北アフリカと中近東圏全体で進行中の都市化の物語の一部であり、2011年にアラブの諸政権を転覆させた急進的な民主化要求デモも、都市化に一因があった。と言う。

   過密都市が犇めき、各国のミサイルの射程距離が重なりあい、グローバルなメディアに煽られたこれらイスラム圏では、噂や半端な真実が衛星チャメルを介して高速で飛び交い、群衆を激高させ、その群衆が、
   ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアを通して力を手に入れ、権威に挑戦して破壊活動に突進する。
   カギを握るのは、群衆で、群衆、あるいは、暴徒の中にさえいれば、危険と孤独を免れる。民族主義、過激主義、民主主義への切望は、すべて、群衆が生まれる過程の副産物であり、孤独から逃れたいと言う気持ちの表れである。見知らぬ人々の寄り集まりで人間関係の希薄な新興都市、特に、そのスラムでは、貧苦に喘ぎながら夢も希望も失った個人の激しい渇望が吹き荒れる。

   広大で貧しい過密都市を統治する重圧で、国家運営がかってないほど厄介となり、硬直化した独裁政権が崩壊し、新しい民主主義が生まれても脆弱で定着しない、
   その隙をついて、前述した、「国家は重荷であるので、統治する責任を負わずに権力だけを求める無国籍の権力」「準国家の集団」が、暗躍して国家を操作し、更に、最先端のICT技術を駆使して洗脳したテロ要員を、世界中に派遣して騒乱を起こす。

   ここで、重要なのは、アラン・B・クルーガーの「テロの経済学」で、ブックレビューしたように、「テロリストは貧しく教育なしはウソ」で、
   ”政治的暴力やテロリズムに対する支持が、教育水準が高く世帯収入も高い人々の間で多くなっている。
   テロリストは、出身母体の人口全体に比べ、教育水準が高く富裕階層で、貧困家庭の出身である傾向はない。”と言う現実を忘れてはならない。

   先のバングラでのテロ事件で、犯人が高学歴の富裕層だったと言うのが話題になったが、革命分子を、ICT革命を駆使して、瞬時に地球を駆け巡るソーシャルネットワークや衛星通信ネットワークを通して洗脳して訓練育成するのであるから、当然なのであろう。
   これに加えて、エスタブリッシュメントの構築した政治経済社会システムが、格差の異常な拡大など民主主義を根底から崩し始めている現実に激高して、目覚めた(?)若者たちが、秩序を破壊してリセットしようとしているのだと言う。

   イスラム原理主義の脅威や サミュエル・P. ハンチントン「文明の衝突」など宗教や文化の対立が問題となることが多いのだが、私は、むしろ、欧米エスタブリッシュメントが構築した現状のグローバル秩序に対する反発であって、民主主義なり資本主義なり、或いは、自由主義なり、制度疲労して危機的な状態に陥った制度に対するアンチテーゼの胎動だと言う気がしている。
   ムーアの法則で、幾何級数的に進化発展するICT革命や科学技術の進歩が、止められない以上、メガシティへの都市化、マルサスの予言が頭を擡げ始めたスラム化の進行は、どうしようもないのかも知れないが、営々と築き上げてきた人類の英知が、文化文明を守ってくれることを祈るのみである。

   それでは、このような世界の潮流を如何に、制御して乗り切るのか。

   イスラム世界でも、昔の農村は、拡大家族のしきたりや習慣の自然な延長線上に、宗教があって、家族を繋ぎ留め、若者たちが犯罪に手を染めないようにするために、公序良俗を維持し続けていた。
   しかし、イスラム教徒たちは、都市に移住するうちに、スラムの匿名性の中に投げ込まれ、過激な民族主義と厳格でイデオロギー性の強い宗教の蔓延の中で、孤独と疎外感の中で生きなければならなくなった。と言うのである。

   話は、一気に飛ぶのだが、私は、大学に入った時に、丁度、日本経済が絶頂期にあり、経済学部で勉強するテーマを、経済成長と景気循環に決めて、ずっと、このテーマを追い続けて勉強してきた。
   しかし、今になって、果たして、人類、と言うよりも、我々庶民にとって、経済成長による文化文明の発展が、良いことなのかどうか、考え始めるようになっている。
   もっともっと、人間を大切にして、生きる喜びをかみしめながら日々を送る生活を求めて、政治経済社会を作り直す必要があるのではないかと思い始めたのである。
   昔はよかったと言う気持ちはないが、この五月に訪れて津和野への車窓から見た田園風景の美しさを思い出して、これこそが、本物ではないかと思っている。
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ロバート・D・カプラン著「地政学の逆襲」(1)「無国籍の権力」

2016年07月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本を読んでいて、子供の頃に一番好きであった教科が、地理、特に、世界地理であったことを思い出した。
   このカプランの本のタイトルは、The Revenge of Geography: What the Map Tells Us About Coming Conflicts and the Battle Against Fate。
   「地理の逆襲 地図が運命に対して迫りくる混乱や戦いについて我々に語っていること」
   地政学と言うよりは、日本版のサブタイトルの「影のCIAが予測する覇権の世界地図」が示しているように、地図、地理が、戦争と平和、すなわち、国際外交、国際戦略などに、どのような役割を果たしているのかと言う、非常に興味深いトピックスを論じているのである。

   ヘロドトスあたりから説き起こして、マッキンダーのハートランド論やスパイクマンのリムランド論は勿論、目まぐるしく展開する地球上の戦争と平和、文化文明の移動等々、地政学や国際外交など、地理を巡って繰り広げられる興味深い話題満載。
   今、中近東やアフリカで展開されている国際紛争や、米ソ、米ロの鬩ぎ合い等々、風雲急を告げている熾烈な国際情勢の謎が解き明かされるなど、非常に面白い。

   したがって、現下の国際情勢について、非常に興味深い話題を随所で論じているので、レビューと言うよりは、夫々重要だと思ったトピックスに焦点を絞って、考えてみたいと思っている。

   まず、今回の課題は、国家は重荷であるとする「無国籍の権力」、すなわち、「統治する責任を負わずに権力だけを求める」準国家の集団についてである。
   レバノンのヒズボラは、ベイルートの政府をいつでも望む時に転覆させ得るが、敢えてそうしないのは、国家は特定の原則に従わなければならず、その為狙われやすくなるからだと言う、このヒズボラの様な集団組織である。

   現在の情報通信・軍事技術を利用して、こうした集団は組織化し、海外に支援を求め、殺傷兵器で武装して、国家が独占している手段を獲得している。産業革命では大きいこと(戦闘機、戦車、空母など)がよしとされたが、脱産業革命では、小さいこと(小型爆弾、プラスチック爆弾など)がものを言う。国家に属さない小規模な集団は、新時代の小型化の恩恵を受けている。実際に、テロ集団や反政府集団など不穏分子が、国家を持つべきでない理由は増える一方である。とヤクブ・グリギエルは説いている。

   国家が互いに破壊する能力が高いほど、また、大国の力が大きければ大きいほど、国家を持つことは、特に、既存権力に挑戦しようとする集団にとっては、危険になる。
   国家的地位では決して実現できない宗教的情熱やイデオロギー的過激主義に触発された、絶対主義的な目標を掲げる者たちには、国家はまるでなじまない。と言うのである。

   レバノンをはじめとして、スリランカのタミール・イーラム解放の虎、インドの共産党毛沢東主義派集団ナクサライト、パキスタンの親タリバン勢力やパシュトーン人部族集団、アフガニスタンのタリバン、イラクの内戦で活躍した民兵組織などは、その存在する地形に根ざした準国家の地上部隊だと言う。
   ナイジェリア、イエメン、ソマリアなどは、国家として殆ど機能しておらず、準国家の民兵組織に牛耳られている。
   最早、これら準国家の集団は、単なる反政府抵抗勢力やテロ集団の域を越えて、国家転覆を図らずに、国家内国家の体を示して、実質的に国家の命運を握っている。

   精密誘導ミサイルでピンポイントで正確に敵陣を破壊できる時代に、ターバンを巻いた少人数の部隊は、複雑に入り組んだ山岳地帯の地形を利用して、超大国を悩ませることが出来ると言うこの現実。こうした民兵組織こそ、地理の逆襲の好例だと言うのである。

   国家ではない特権(?)と利点をフルに活用して、ガンのように増殖して国家を蝕み、国際紛争をグローバル規模で展開する。
   イスラム国家ISは、国家を標榜するアミーバ国家のような存在だが、国家ではないが故に、如何なる国際機関も国家も、交渉さえ不可能であり、欧米など壊滅すべく戦えども、一向に勢いが衰えず、最先端のICTや科学技術を駆使して変貌を遂げて拡大を続けている。
 
   話は、一気に飛ぶが、Brexitで英国は、EUから離脱すると言う。
   国家、Nation-state、とは、一体何なのか。
   
   それを考える前に、次回は、何故、イスラム圏で過激集団が暗躍するのか、都市化への激流の中で展開される世界の潮流について考えてみたいと思う。
   
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七月大歌舞伎・・・夜の部『荒川の佐吉』『鎌髭』『景清』

2016年07月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座の舞台は、猿之助と海老蔵、市川家の舞台である。
   既に代替わりして大分経つこともあって、堂々たる舞台を見せて観客を楽しませている。

   まず、今回観たのは、夜の部で、『荒川の佐吉』、それに、壽三升景清の歌舞伎十八番の内『鎌髭』と『景清』。
   しみじみと感動させてくれる真山青果の新歌舞伎「荒川の佐吉」は、猿之助の佐吉の絶品の舞台で、二年前に新橋演舞場で通しで演じられた壽三升景清の二つの演目は、正に、成田屋の一八番で、海老蔵が團十郎ゆかりの素晴らしい舞台を見せてくれた。

   「荒川の佐吉」は、正真正銘の芝居そのもので、蜷川シェイクスピア戯曲でも素晴らしいキャラクターを演じてきた猿之助の新境地を見たような思いの、感動的な舞台であった。

   「江戸絵両国八景」と言うタイトルがついている 真山青果の「荒川の佐吉」だが、その美しい詩情豊かなイメージを感じさせてくれるのは、幕切れの夜明け前の桜が満開の薄暗い向島の土堤の茶屋のある風景で、目が見えない姉の乳飲み子を見捨てて出奔してしまったお八重(米吉)との、しみじみとした再会シーンである。
   今回は、猿之助と米吉だったが、その前は、染五郎と梅枝、そして、仁左衛門と孝太郎の万感胸に迫る美しいシーンであった。
  「侠客の世界をのし上がった男の潔い生き様を描いた真山青果の名作」と言うことで、この後、佐吉は、自分を認めて後見役を務めようとした相模屋政五郎(中車)が、惜しいなあと言って止めるのを振り切って、鍾馗(猿弥)の二代目継承を棒に振って旅立って行く。
   いくら苦労して、泣きの涙で手塩にかけて育てたにしても、大店の跡取りとなった盲目の卯之吉にとって、育ての親が万年三下奴の自分であることが邪魔になると慙愧の思いで去って行く佐吉の姿は、あの第三の男やペペルモコのような名画のラストシーンのような懐かしさと愛しさが滲み出ていて感動的である。

   真山青果は、この「荒川の佐吉」を、十五代目羽左衛門に「最初はみすぼらしくて哀れで、最後に桜の花の咲くような男の芝居がしたい」言われて書いたと言う。
   十五代目羽左衛門は、当時最高の美男子役者として有名だっと言うから、私は、二度、素晴らしい仁左衛門の佐吉を観ているのだが、これが、現在の決定版なのであろう。
   Youtubeで、”片岡仁左衛門・千之助 「荒川の佐吉」ダイジェスト”と言う感動的な映像が見られるが、 8分一寸のトップシーンの寄せ集めだが、雰囲気は痛いほど分かる。

   さて、今回の猿之助の佐吉だが、頼りなくてだらしのない、しかし、どこか男気のあるチンピラ三下奴が、連れ去られようとして必死にしがみ付く盲目の卯之吉を守ろうと、切羽詰まって相手の一人を手斧で切り倒して、「人間、捨て身になれば恐いものなんかない」と開眼する佐吉の男の軌跡を、青虫が華麗なアゲハチョウに脱皮するように、実に丹念に丁寧に演じ切っていて爽快である。
   大詰めの「両国橋付近、佐吉の家」での、政五郎が丸惣の女将となったお新(笑也)をともなってやってきて、卯之助をお新に返してやってくれと佐吉を説得シーンは、この歌舞伎の最大の山場であろう。腹を空かせて泣く赤子を貰い乳に夜道を彷徨う虚しさ悲しさ、破れた着物を縫えずに紙縒りで結ぶ辛さ、主を失ったしがない三下奴の盲目の子育ての血の滲むような苦しさを断腸の悲痛で語るも、卯之吉の安泰な将来を説得されて、手放す決心をする。
   恐らく等身大の演技で、誠心誠意努めたのであろうが、これが実に素晴らしくて、本来の天性の素質もあろうが、抜群の発声術を駆使した語り口で、芝居に引きずり込み、本心の吐露であるから、私など比較的鈍感な聴衆でも、感動感動であった。
   実に、上手い。
   この舞台では、中車、猿弥、笑也、門之助と言った劇団ゆかりの役者が重要な脇役を占めていたが、座頭役者の貫禄十二分である。

   海老蔵は、佐吉の親分仁兵衛を切って縄張りを奪って佐吉に殺される成川郷右衛門を演じており、颯爽とした格好の良い侍ぶりで絵になっていて、華を添えている。
   中車の親分ぶりも、中々堂に入っていて良く、観客の拍手から言っても、今や、大歌舞伎俳優の貫禄である。
   笑也は、この舞台では、謝って泣いてばかりいる役だが、華があり、また、猿弥の貫禄と凄みは抜群。
   米吉の女形は、一番可愛くて綺麗だと思っているのだが、ここ数年大変な進境で、今回は、かなり重要なお八重を演じており、情緒も豊かになった。
   上手いと思ったのは、佐吉の唯一の友・相棒とも言うべき大工辰五郎の巳之助で、三津五郎の雰囲気が出てきた感じで、末が楽しみである。

   海老蔵が紡ぎ出した壽三升景清の通し狂言は、2年前の正月、新橋演舞場で見ている。
   最もポピュラーな『景清』のほかに『関羽』『解脱』『鎌髭』を連ねた4部構成で、今回は、その内、『鎌髭』と『景清』が演じられた。
   景清は、「悪七兵衛」と呼ばれた源平合戦で勇名を馳せた平家側の勇猛果敢な武士なのだが、実在したものの生涯に謎の多い人物で、平家物語に出て来る、合戦で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ 兜の頭巾の左右・後方に下げて首筋を覆う部分)を素手で引きちぎったという「錣引き」が有名で、古典芸能の格好のキャラクターとして、近松門左衛門が、「出世景清」を書くなど、色々な世界に登場している。
   能の「景清」は勿論、文楽や落語などでも「景清」は演じ語られているのだが、描く主題やストーリーが、まちまちなのが面白い。
   能の「景清」は、盲目となり、日向国へ流されていた景清を、尾張国熱田の遊女との間に生まれた一人娘人丸が鎌倉から日向国宮崎へ訪ねて来る話。
   歌舞伎の「日向嶋景清」は、このストーリーを展開しており、しっとりした人間模様が描かれていて、この方が芝居になっている。

   「鎌鬚」は、景清(海老蔵)が、源氏の武将三保谷四朗(左團次)のところへ乗り込んで行き、鬚を剃って貰うべく頼むので、首を掻く絶好の機会だと、大鎌で掻こうとするも不死身の景清には通用せず、縄にかかるべく来た景清は、自ら身を差し出して、猪熊入道(市川右近)に縄にかかって都へ引かれて行く。
    「景清」は、六波羅の牢に入れられ尋問するも口を開かないので、岩永左衛門(猿弥)が、妻阿古屋(笑三郎)と娘を呼び拷問しようとするが通じない。そこへ、秩父庄司重忠(猿之助)が現れて誠意を尽くすと、景清が、源氏の無能さを世に知らしめ天下泰平の世を作るのだと語ったので、重忠は、頼朝も全く同じ考えだと言ったので、景清は復讐の念を捨てる。

   ストーリーがあってない様な、とにかく、荒唐無稽な話(?)をでっちあげて繋ぎ合わせて、華麗で豪快な、スペクタクルシーンを繰り広げて、成田屋が、隈取をして凄い衣装を身につけて登場し、絵になる素晴らしい大見得を切り続けるのであるから、観客は熱狂する。
    この錦絵が、巷の人気を集めて、市井を賑わわせて、その錦絵を持った冨山の薬売りが、全国津々浦々まで流布させて、江戸の文化や流行が広がって行く。
   前の壽三升景清のポスターを見れば分かろうと言うもの。
   今回のエビをバックにしたラストシーンは、歌舞伎美人の写真を借用する。
   
   

   とにかく、荒事の典型とも言うべき、海老蔵の展開する勇壮華麗なスペクタクルシーンと錦絵を彷彿とさせる大見得の数々を楽しむ絶好の舞台である。
   ただ、今回の舞台と関係があるのかないのか知らないが、鎌倉山から険しい化粧坂を下る途中に景清の土牢が残っているが、豪快な舞台の雰囲気とは全く違うのが興味深い。
   
   
   しっとりとして泣かせる2時間以上の「荒川の佐吉」の後に見る成田屋の荒事の世界も、非常に面白い趣向である。
   
   
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Brexitの不思議:日産英国工場の住人は離脱派

2016年07月07日 | 政治・経済・社会
   今日の日経朝刊に、”英EU離脱一票に込めた反政権 日産の城下町、残留反対の風
「労働者をないがしろ」 内政問題に矮小化 ”と言う記事が掲載されていた。

   英国が欧州連合(EU)からの離脱を決めた国民投票で、離脱票が多かったのは労働者階級が住民の多数を占めるイングランド北部地方。日産自動車が工場を構える人口約27万人のサンダーランド市もそのひとつだが、日産車の主要な輸出先であるEUは市の雇用の創出元ともいえるが、61%と圧倒的多数が離脱を支持した。
   86年に、深刻な英国病から脱皮するために、サッチャーが懇願して国主導で日産を誘致し雇用を維持し、取引先も含めた日産の雇用は北西地域全体で約3万5000人。造船業などの不況で瀕死状態であった失業率が高い同市には必須の工場であった。
   ところが、その住人たちが、自分たちの雇用主の日産を窮地に追い込む挙に出たと言うのだから摩訶不思議である。

   今後の市の経済状況は日産がこれまで通りの操業を続けるかに左右される。同工場では年間製造する約50万台のうち8割を輸出し、その多くが欧州向けで、離脱したら、ドーバー海峡を越え、大陸欧州に車を輸出するのに10%の関税がかかる。カルロス・ゴーン社長は投票前から「離脱すれば今後の工場投資を見直す必要がある」と発言していたので、大ナタを振るうことになるかも知れない。

   自分たちの首を絞めることが分かっていなかったとしか言いようがないのだが、
   地元の記者は、「体制に反発する道具として国民投票が使われた」と分析する。金融危機後の10年に与党保守党が決めた緊縮財政では市の予算が大幅に削られ福祉や子ども手当など公共サービスの質が低下した。福祉に頼りがちな高齢者や低賃金にあえぐ高卒労働者を中心に、不満のはけ口をキャメロン首相が嫌うEU離脱に求めた。
   国全体の経済問題であるはずのEU離脱が反ロンドンという内政問題に矮小化されたと嘆く残留派は多い。「離脱派は間違った情報に踊らされた。EUとは何かをも理解せず、サンダーランドにほとんどいないはずの移民が仕事を奪うとの幻想を抱いた。労働者の不安に離脱をうたう政治家がつけこんだ」。と解説する。

   また、中山淳史 編集委員が、”トヨタや日産が英国民投票で見た現実 ”と言う記事で、同様の問題を論じている。

   次は、Brexit反対、すなわち、EU残留派の投票率だが、1、日産のあるサンダーランド 38.7% 2、トヨタのあるダービー 42.8% 3、トヨタのあるフリントシャー 43.6% 4、スホンダのあるウィンドン 45.3%――。日本車大手の工場がある都市がみな、EUへの残留に「NO」を突きつけた。

   この10年間で40万人以上もの移民がEU域内から英国に流入した。引き金は2004年にEU加盟国が15カ国から25カ国に急激に増えたこと。ポーランドなど旧社会主義陣営の東欧諸国が加盟したことで、日本車大手の工場がある町にも、就労ビザを持たなくても英製造業で働ける労働力が大量に散らばっていった可能性がある。と言う。
   Brexit選挙後、英国ではポーランドなどの移民労働者への嫌がらせが起こっていたが、大半の問題は、今の中東や北アフリカからの難民ではなく、ポーランドなどの東ヨーロッパや旧ソ連のバルト3国と言った後発の東からの安い移民労働者の大量流入による雇用と生活圧迫への反発であろう。

   離脱交渉が動けば、サプライチェーンなど課題山積で、トヨタも日産も英国で組み立てた車のかなりの部分をEU諸国に輸出している一方、部品はフランスやドイツ、ベルギー、オランダ、イタリア、アイルランド、モナコ、スペイン、ポルトガル、ポーランド、ハンガリーなどから輸入しており、英国の自動車産業全体では部品の国外調達比率は6割にも達するという。
  離脱で交渉が動き出せば、EU、場合によってはそうした国々と個別に通商交渉をする必要があり、推定では50を超える国・地域との協定が必要となるが、その一方で、「交渉の専門家が英国には10人強しかいない」と言うのだから、目も当てられない。

   EUのメンバーとしてセットアップされていた政治経済社会システムが、一気に崩壊して、40年以上も前の独立国家英国に逆戻りしての再出発であるから、貿易一つの調整にしても、並大抵のことではない。
   こう考えてみれば、正常な国家体制に戻すために費やすべき、英国のEU離脱による精神的苦痛は勿論、実質的な手間暇コストは、膨大なものとなり、余程上手くリセットしないと、失うものは極めて大きいことが分かる。
   Brexitの急先鋒であった独立党のファラージュ党首が失脚し、率先してBrexitを吹き込んで煽りに煽った保守党のボリス・ジョンソンが敵前逃亡すると言う体たらくで、随所に、Brexit後遺症が出てきて、徐々に、英国民の生活を絞め始めたと言う。
   
   先のBrexitに関するブログで書いたのだが、結果次第では、如何に、国民投票が恐ろしいことかが分かる。
   時には、無責任なアジや扇動に煽られた国民が一気にポピュリズムの嵐に巻き込まれて崩壊して行き、民主主義の屋台骨まで危うくしてしまう。
   例えば、直前に、軍事的な有事が勃発して、何か危機的な状況になれば、憲法改正など一気に国民投票で決まってしまうであろう。
   ポピュリズムに煽られて、あのヒトラーのアジ演説に、われを忘れてドイツ国民が熱狂し、日本人が、国家を崩壊の瀬戸際にまで追い込んだ軍国主義に走ってから、まだ、一世紀も経過していないのである。

   私は、日産英国工場が建設を始めた頃に、会社がこの工事のサポートに建築技師を派遣していたので、欧州駐在の代表として、何度か現地を訪れている。
   イギリスの東岸、殆どスコットランドとの国境(UKでは国境と言う)に近いニューキャッスルに飛行機で入って、サンダーランドの日産の工場に行く。
   ニューキャッスルは、産業革命時に蒸気機関車を実用化したジョージ・スティーブンソンが生まれた土地で、産業革命以降、重工業や造船業で栄えた英国有数の重要な産業都市であったが、私が訪れていた頃には、あの産業革命を起こしたブラックカントリー同様に、見る影もないほどの廃れぶりであり、サッチャーが、如何に熱心に日産を口説き落としたかが良く分かった。

   隣市のサンダーランドも似たり寄ったりで、すぐ近くにワシントン大統領の故郷であるワシントンがある。
   強烈に覚えているのは、階級社会の名残であろう、まだ、古いパブが残っていて、店が、上流階級のパブと、労働者階級のパブとで完全に真っ二つに区切られていて、内装など店の質や佇まいが完全に違っていたことである。
   良し悪しは別として、イギリスと言う国は、長い伝統と歴史を引っ張ってきた極めて奥の深い途轍もない国だと言うことである。
   私は、英国の永住権を持っていたので、今度の国民選挙を通じて、その明暗、虚と実を見たような感じで、感慨深いのである。
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国立能楽堂・・・能「白鬚 間狂言:道者」

2016年07月06日 | 能・狂言
   今月の国立能楽堂の主催公演のテーマは、「能の故郷・近江」で、最初の曲が、能・観世流「白鬚」。劇中劇のような間狂言・大蔵流「道者」が演じられる、2時間20分、休憩なしの凄い舞台であった。

   事前に、勉強しようと、岩波講座・能・狂言を見ても、角川の「能を読む」を見ても載っていない。
   いくら、沢山、能狂言の本を探しても、無駄で、インターネットで多少知識を得て、結局、能楽堂に行って、プログラムを読んで俄か勉強した。
   観世流と金春流のみの現行曲で、上演自体がまれだと言うことだが、実際に、この舞台を観て、非常に感激した。
   
   この能の舞台は、琵琶湖の西岸の、比良山の麓近くにある白鬚神社である。
   近江最古の大社と言うのだが、随分昔、琵琶湖一周ドライブの時に、立ち寄る機会があった筈だが、近江路へはかなり通いながら、訪れたことはない。
   琵琶湖に浮かぶ、朱色の湖中鳥居の写真は、良く見ている。

   この能は、
   お釈迦さまが、仏法を流布するために飛行中に琵琶湖のあたりに目を止めて、滋賀の浦に糸を垂れている老人に、仏法結界の地にしたいので譲って欲しいと言う。
   老人は、仏法結界の地になれば釣をするところがなくなると断ったので、お釈迦さまは諦めて帰ろうとしたところに、薬師如来が現れて、自分は太古からこの所の主であり、この老人はそれを知らないのだが、早くここで仏教を開きなさい。五百年仏法を守護しましょう。と誓い合って、二仏は東西に分かれて去った。と言う話が核になっている。
   この老人が、白鬚明神となる。

   当然、能であるから、前場は、勅使(ワキ/宝生欣哉)の前に、漁夫(前ツレ/観世淳夫)を伴った漁翁(シテ/観世銕之丞)が現れて、白鬚明神の威光を崇め、天下太平の世を賞賛し、前述の明神の縁起を語って消えて行く。
   間狂言は、白鬚明神に仕える勧進聖(オモアイ/山本泰太郎)が、社の屋根葺き替えの勧進に船に乗って湖上を行く。道者たちの乗る船に合って、説得するが、道者たちは、勧進の要請に応えない。怒った聖が呪文を唱えると、鮒(アドアイ/東次郎)が出現して怒り狂ったので、驚いた道者たちは、着ていた着物を脱いで勧進すると、喜んだ鮒は、船の綱を咥えて曳いて行く。
   後場は、勅使を慰めようと、白鬚明神(シテ/銕之丞)が現れて、夜遊の舞楽を奏する。雲居が輝くと、天灯を持った天女(後ツレ/谷本健吾)が現れ、湖水が鳴動すると、龍灯を持った龍神(後ツレ/長山桂三)が現れて、灯明を神前に供えて舞を舞う。去り行く両神を見送って、白鬚明神は、太平の御代を寿ぐ。

   正面に一畳台が置かれて、その上に作り物の社が据えられた。
   銕之丞師が、前場の漁翁で登場して、ラストシーンでこの社に消えて行き、間狂言中に、この作り物の中で、着替えて、後場の白鬚明神に代わって現れる。
   また、舞台左右に、二艘の舟の作り物が置かれて、間狂言で、聖と道者たちとの舞台となる。
   演者の数もかなり多く、間狂言だけでも35分の長丁場であり、コミカルタッチからスペクタクルな面白い芝居が演じられており、狂言が能と互角に渡り合っている凄い舞台である。熱演を続ける聖の泰太郎や船頭(アドアイ)の山本則重たちに華を添えるべく、80歳直前の人間国宝東次郎が、面をつけて舞台に突進して登場し、舞台で跳ね上がって舞台に激しく着地し派手な舞を舞う、この迫力は、流石である。

   先代の観世銕之丞の「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」を読んでから、銕之丞家に興味を持って、当代の観世銕之亟師の舞台を観続けており、更に、当代の著書「能のちから―生と死を見つめる祈りの芸能」を読んで、一層、ファンとなったのであるから、今回の「白鬚」は、私にとっては、大変な期待の舞台であった。

   前回の「石橋」では、激しい息遣いが印象に残っているのだが、今回の後シテ白鬚明神では、長時間の、舞楽を模したと言う「楽」を、茗荷悪尉の面をつけて鳥兜姿で重厚かつ優雅に淡々と舞い続ける姿は、崇高でさえあり、素晴らしかった。
   脇正面前列から見上げていたので、この狩衣・反切を着した容貌魁偉な姿を見て、場違いだとは思うのだが、何となく、ケネス・ブラナーのハムレットの舞台の父王の亡霊姿を思い出していた。

   天女と龍神が灯明を捧げて登場し、作り物の社で端座する白鬚明神の前で舞うのだが、赤装束の龍神と奇麗な天女が登場するだけでも、一気に舞台が華やぐのだが、白鬚明神の楽と言い、素晴らしく優雅な舞台で、静的な前場と、芝居仕立ての間狂言、そして、この見せて魅せる後場と、起承転結、バリエーションの利いた能狂言の面白さが結晶した舞台で、2時間半近い時間を忘れていた。
   私の様な初歩で表層的な鑑賞しかできない鑑賞者は、どうしても、舞台で舞い演じている能楽師の動きばかりに目を奪われてしまうのだが、今回は、囃し方の凄さ素晴らしさや、地謡方の底力にも感激しきりであった。

   面は、前シテが笑尉、後シテが茗荷悪尉、天女が万媚、龍神が黒鬚、
   私は、学生時代から古社寺を廻り続けて、仏像を熱心に鑑賞し続けて来ているので、文楽の首や、能狂言の面にも、興味を持って見ているのだが、今回の舞台の面は、非常に興味深かった。
   欧米の教会や寺院でも、素晴らしい仏像や彫刻などを随分見てきたが、日本の彫刻には独特な味があって、能狂言は、その素晴らしい面をつけて生身の能楽師が命を吹き込んで演じるのであるから、はるかに素晴らしいのである。

   さて、お釈迦さまが、老人に断られて、しおしおと退散すると言う話も、何となく、童話めいて面白いし、お釈迦さまの開いた仏法結界が神社と言う神仏混交の大らかな世界。翁のように精進潔斎と言わないまでも、一種神性めいた能狂言の面白さも、このあたりにあるのかも知れない。
   とにかく、白鬚は殆ど演じられることのない稀曲だと言うのだが、良い機会を得たと思っている。
   
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