goo blog サービス終了のお知らせ 

萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

勝手に親近感 山田太一さん逝く

2023-12-02 05:45:00 | 懐かしい思い出
ふぞろいの林檎たちや、深夜へようこそ、獅子の時代などの脚本を書かれた偉人の山田太一さん。

強制疎開先で高校が私の母校、大学も一緒。と学生の頃、勝手に憧れていた。


つい最近、中学時代の仲間達とYouTubeでふぞろいが見れることが話題になり、未発表のシナリオを読んだばかりだった。






先日お亡くなりになったと昨日の報道。
棲み家が今私たち家族も住んでいる溝の口の辺りだったらしい。

そうか、もう見れないのか、新作は。


ご冥福をお祈りします。

コメント (2)

ふぞろいの林檎たち

2023-08-27 13:14:00 | 懐かしい思い出
今、我が家ではYouTubeでふぞろいの林檎たちを見直すブームが訪れている。

珠玉の台詞群。不思議なカット。今と違って初回や最終回の延長もない時代の作品である。

仲手川良雄、岩田健一、西寺実、3人(本田修一を加えれば4人)の歪な性格やダメなところが自分にもそれぞれ思い当たって、時に見事に当てはまって笑う。
強がったり意地張ったり、格好つけたり、世の中分かったようなこと言って偉ぶったり、それを分かった風に言うなって言ったり言われたり。

黒電話や寮の呼び出し電話に会社の社用電話や公衆電話でしか連絡手段がない時代の話で、ちょっと私の世代よりお兄さんお姉さんの恋愛や学校や就職に家族の問題、2では就職したての葛藤や天職や転職の話なども絡んで、何気ない日常なのに無駄なシーン・カットが一つもない。
絶対裏ではセレクトの嵐で、ノーカット版とかあったらもっと話は膨らんでいただろうけれど、削ぎ落として、後で十分伝わる台詞順序だったと分かったりして感じ入ってしまう。

どうも定期的に見返しするのが丁度いい。
人生の先輩たちからの教訓だったよと思えてならないドラマである。

YouTubeで探せるので、ここには貼らないが、是非にとお薦めしたい作品です。







コメント

ブックマークの整理 歴史の整理

2023-04-22 06:57:00 | 懐かしい思い出
Chromeのブックマークバーには便利なショートカットが大量にあります。
その時その時ではとても便利に感じて残してきたサイトへのアクセス。
最近はブックマークバーへ記録すると先ず最下層に配置され、それを便利な位置まで引き上げる作業が大変不便に感じてました。

業務で調べ物をしながら改めて追加する先をブックマークバーにした瞬間、これは何のためのサイトか?という見出しを下にスクロールしている最中に大量に見かけたため、ブックマークを整理することにしました。

多かったのはアメリカ赴任時代に頑張ろうとしていた現地のニュースサイトや旅行先のホテル探し用のサイト。中には赴任直後に物件を探しまくっていたサイトも発見。
結局私は家族で暮らしていたもう少しで別の赴任先に旅立つ同僚の家を引き継いだので、物件を探し回っていた苦労は実らなかったのですが、そういう時の思い出も掘り返されます。
バー以外にもフォルダがあり、そういうものはUSAと書かれたフォルダに移しておけば良い。
404 Not Foundと表記されたものや被り(二重登録)は削除。
中にはワカサギの釣果速報のホームページのリンクもあったのですが、今だに最新の釣果が見れたりしました。
ブックマークバーにいる必要がないものは綺麗にフォルダ分けしていきます。
頻度の高いアクセス先、業務で使うはずの最新の話題にだけに絞り込んで行きます。

中には悲しい過去と結びついているサイトも見つかりました。
当時の自分にお疲れ。と声をかけてリンクを消します。

覚えておく必要がないものは祓落とします。

次はメールの整理。
自動フォルダ分けは着信に気付かないパターンもあるので、慎重に行わないと。
unsubscribed(配信停止)の措置を取れば良いんですけど、MLBのニュースはまだ頑張って読んでいます。Two-Way Superstarと大谷翔平には修飾句が付きますヨ。

記憶装置の他のツールも整理します。
便利に保存してあるTwitterはサービスがどうなるのか不安なので、無駄なtweetはこの際消します。

※写真は幼稚園の頃の私(右)の写真です。この前実家の整理していたら出てきました。
大昔の写真たちはどうやってデジタル化しましょうかね。
コメント

後輩の皆様に偶然会った

2023-04-02 18:43:00 | 懐かしい思い出
今日は息子の大学入学式でした。
親や家族は会場に入れず、モニターを教育学部・社会科学部の校舎(14号館)での観覧となりました。
息子は私とは違って理系でして、数学解けるの気持ちいい派です。

入学式の時期の母校って本当に何十年ぶりだったんですけど、どこか懐かしい感じです。
息子は昨日は学生証の受け取りとともに、他の学部で入学式のあった友達について行ったらしいのですが、勧誘の時の先輩たちの口の悪さに爆笑してたらしい。

私たちも帰り際にサークルの勧誘を鑑賞しました。
音楽系サークルで、すっごい上手いドラムの子とか聞き惚れてしまいました。

その後に喫茶を見つけて入ってみたら、メニューに「珈琲研究会ブレンド」???
マジ?

すいません。私、珈琲研のOBですぅ!
えー何代ですか?

知りません、31年前に卒業しました。笑

部室がなくなってしまい、心配していましたが、いまだに活動していることが知れてビックリしました。

実はTwitterではずいぶん前に投稿を見たりもしていたのですが、ここ最近見つけてない感じでした。

早速、同期と一個下のLINEグループに投稿でお知らせしました。



みんなも喜んでくれました。

あぁ嬉しかった。



コメント (2)

2023/3/15 息子卒業

2023-03-15 12:24:00 | 懐かしい思い出
完全な私信です。

本日、息子が高校を卒業しました。
私の転勤に振り回されて、故郷や母校が曖昧になってしまったことについてはとても申し訳なく思っている次第です。

渡米後、初めての一時帰国(中1)の際に参加したフェス、日本人学校出身の帰国子女を求むということばかりを言われた中で、現地校での成長を見させて下さいと唯一言われたことが嬉しくて目指していた高校へ進学。
※オハイオ州はニューヨークやロスアンジェルスと違って日本人学校がなく、現地校に通いながら週末に補習校に通います。
当初は入学式の祝辞を入学生代表で読む予定だったそうですが、コロナで流れ、秋の入学式では、秋季の入学生が代表を務めたとのこと。
本人曰く、凄い流暢な英語で恥かくとこだった。笑

高校の3年間はオンラインから始まる特殊な時間からでしたが、ディベートなどを通じて、色々な意見に触れた充実した時間を過ごしたそうです。
帰国先を元いた小学校の卒業生が多くいる出国前の場所近くにしたため、高校への通学はかなりハードだった、3年間。毎朝、起こすの大変でした。汗

本日の卒業式では校長先生より、宿題を託された卒業生たち。(祝辞の中でこのコロナ禍での現憲法下の基本的人権と行動制限は抵触していなかったか?世界各地で生まれた貧富の差が顕著になったことはどう解決すべきかなど)
今後の履歴書には常に卒業高校を書くことになると諭されていました。

式典の中継画面(私は午後に業務があるためオンラインで参観。謝恩会の様子は後で家内から聞きます)からは、心温まる讃美歌や祝辞と春の穏やかな陽だまりを受け、彼らは卒業していきました。


卒業おめでとう!

※写真は削除しました。あしからず。
高校1年の時にiPhone 12の画質を自慢してきた時のセルフフォト。後で消します。


コメント (8)

私がアメリカで見た大谷翔平 Sho-time 他

2023-03-13 06:52:00 | 懐かしい思い出
グループB全勝突破おめでとうございます。
特大アーチ出ましたね。
今日はアメリカ生活時の自慢話です。笑


シンシナティの近郊に住んでいたので、私たち家族は野球はREDS、アメフトはBENGALSでした。

Redsの応援に家族で行くのは、日本人メジャーリーガーがいる球団がシンシナティに来る時でした。

見たのは、
①ヒューストン アストロズに居たダルビッシュ有。
REDSはナショナルリーグなので、ピッチャーは日本のセリーグと同じく登板時はバッターボックスに普通に立ちます。
ダルビッシュのメジャー初ホームランを目の前で見ました。
②マーリンズに居たイチロー
観に行った日メジャー最多安打のピートローズの背番号永久欠番が認められたセレモニーの日に、イチローがいるマーリンズが来てイチローはスリーベースヒットを放ちました。Yeah!
私はビジター側のベンチの上方向に居たんですが、各回の守備から引き上げて来る選手が手に持つスリーアウト目のボールを観客席に投げてくれるのですが、一つゲットしました。
③ヤンキースの田中将大
前日のシカゴカブス戦で大接戦を演じて疲れ切っていた投手陣を庇って、7回〜8回までをレッズ戦で投げてくれました。ヤンキースもアメリカンリーグなので、普段は打席に立たないマー君の打者姿も見れました。ヤンキースファンは昔の巨人ファンの様にどこにも大量にいます。

④シカゴカブスのダルビッシュ有
カブスファンの同僚の退任で球場の部屋を借り切った日のカブスレッズ戦。私達は家族で行くので、部屋の下の座席から挨拶しました。
ダルビッシュのコントロールの良さは抜群でした。
カブスファンの同僚は以前カブスにいた福留を褒め千切ってました。
⑤エンジェルスの大谷翔平
帰任が決まった辺り、最後の野球観戦はエンジェルスの大谷翔平でした。
投手戦で三振の山が築かれる中、レッズリードの最終回、粘るエンジェルスの代打の次の代打の最終バッターとして、大谷翔平がコールされると、球場は歓声とブーイングの嵐に。
REDSファンの我々にはとても複雑な場面。
REDSの勝利を家族では一度も観たことがなかったので。
大谷翔平は三振でREDSの勝利。



こっちはボストン旅行の際にツアーに参加した時に撮影したレッドソックスの本拠地、グリーンモンスターの上から撮影した景色。



球団も通算20K(だったと思う)を取り、10K以上の翌日は街でpizzaが無料で食べれるらしいのですが、よく仕組みが分からず。どうも観戦チケットを店に持って行くとピザがただで貰えたらしいです。


なぜアメリカに赴任していた時期に投稿を控えていたのか?
たまーに行く野球やテニス観戦(錦織圭も大坂なおみも間近で観てます)、たまーに行く旅行がどうしても一年中遊んでいる様に映ると警戒しました。
家族は休みの過ごし方に誰もが全力です。
アメフトはチケット代が高額なので、オープン戦のみ観戦でしたけど。

ずーっと計画練ってます。
昼食時の話題もそればかり。
小さい子供は現地校とは別の補習校に毎土曜日通うので、通学や運営を担う家族もいつも忙しく過ごしているんですけどね。
三連休とかありますと、補習校の帰りに旅行出発なども計画してました。

はい、懐かしみを込めての自慢話でした。笑

コメント (2)

久しぶりの新所沢

2023-01-08 05:25:00 | 懐かしい思い出
埼玉の皆様、お久しぶりです。

東上線で川越に行くことはあっても、住んでいた新所沢に電車で行くことがありませんでした。

所沢にお試しの用事(ちょっとした時間計測 実測)があって、それを済ませたところで、新所沢に行ってみたいと家内に切望してみました。

折角所沢まで来たんだし、(新所沢の方の)街の変化を見てみたい!
所沢の駅もあんな風に変わっちゃててもう思い出せないかも。

電車からの車窓では航空公園とかに変化が少ないとも思えるけど、どうだろう。

2011年の夏以来、12年ぶりのシントコ。

PARCOがあった!TSUTATAも!
中央公園の方角に変化はないようにも思えるけど、あのお店、このお店と記憶を辿るような感覚。
住んでいた緑町4丁目の交差点方向にはデニーズも天狗も健在。今はガストな場所は以前はバーミヤンじゃなかった?


大勝軒に行こうと決めて並んだんですけど、行列が長過ぎてドギマギ。
注文を聞きに店員さんが向かって来た手にメニューがあって、辛うじて思い出す。ワンタンが好きだった。
つけ麺の冷たいのなら、もり。あったかいはあつというのだが、もりあつのワンタンと発声。ワンタンとチャーシュー切れちゃいました〜。
じゃあもりあつのメンマ。
すいません、あったかい方で?はい、あつで。
あぁ大盛りにしてください。
家内はあつのメンマが私で切れてしまったので、あつの野菜を普通盛りでと注文。

隣に中盛りのもり(冷たい方)が配膳されたのを見て、大盛りが巨大だったことを思い出す。

食べ切れましたけど。夕飯抜きでした。

住んでいたマンション(途中でオーナーが変わって近所で引越し)を周り、息子が通っていた幼稚園を目指す。



途中のお店の距離感が狂ってる。
当時は車や自転車で移動していたから。

あの店がない、このお店はまだ残っている!の連続だが、思い出せないところもあります。
ママ会が頻繁に開かれていたサイゼリヤが無くて位置関係を一個見失いかけました。






生協は健在。住んでいたマンションからかなり遠い。
幼稚園が生協のそばだったから。
夏祭りとか卒園式とか歩いて行くの大変だったかも。。。


あぁ当時は11歳若かったんだ。

思い出紀行はここまでです。
今度は川越と一緒に周りたいです。



クセ強めのHEYJUDEでモーニングコール鳴らします。おはようございます。


コメント (2)

路地と街の発展 クリーニング店考察

2022-01-15 16:02:00 | 懐かしい思い出
以前と言ってもずいぶん昔、街がどのように発展していくかという本を読んだことがあります。
思い出せないほどの昔、時代はぴあマップを常備するのが当たり前の頃である。

街は大きく拡大していくだけでなく、徐々に路地や路地裏に文化が宿るようになるという内容でした。

 当時渋谷のスペイン坂や下北の本多劇場とは小田急線を挟んだ反対側の路地のようなところがホットスポットを形成しつつあり、知る人ぞ知るようなレコード店もあったりした思い出があります。

この前、久しぶりに高円寺に行き、阿佐ヶ谷の方にも足を伸ばしてみたのだが、両方のアーケード街から続く商店街を歩いて思い出したことがありました。

 高円寺の南側のアーケード街は途中で途切れてしまうのだが、青梅街道の新高円寺駅の方まで店は続く。
 阿佐ヶ谷の南にもアーケード街があるのだが、これがほぼ青梅街道の近くまでアーケード自体が続く。

 両方の街の大きな違いは、その長い商店街のどの位置でクリーニング屋さんが出てくるかである。

 以前読んだ、その「街の発展解説本」に拠るとクリーニング店は商業地区と住宅地区との間にできるということが書いてあったことを思い出した。
 おそらく地価や家賃と扱い量とのバランスでクリーニング店の採算が出来上がるのだと思う。
結局街の大きさはその中心からクリーニング店までの半径の中で発展するというもので、街を観察する際にそのランドマークを観察することで街の規模やら文化を推し量るのに便利だというノウハウだった。

高円寺はほぼ1km商店街を行った場所で見つけたのに対し、阿佐ヶ谷ではアーケード街の中央くらい、高円寺の半分くらいの場所でそれを見つけた。高円寺の方では横に逸れた場所に面白いお店や行列の出来るお店や妖怪のお店など不思議な世界が広がっていた。








 
両方の街ともにスーパーの軒先に並ぶ野菜の価格はとても安く、暮らしやすそうであった。

残念なことに、今私が暮らしている駅では数十歩でクリーニング店が出てきてしまう。街が路地裏文化を形成するには程遠い。
 家賃や駅からの徒歩、家の広さ、駐車場の値段、そのバランス、様々なバランスがあるが、最近はバス路線を発見したりすることで、面白さを発見している。
 業務用スーパーみたいな店は、駅からは遠い場所にあったりするので、その行き方や路地裏を一生懸命探したりしている。
 溝の口は南武線の脇に立ち飲み屋街があったり、意外な場所に矢印で「めだか売ってます」のお店を見つけたりもします。 
 最近の発見は少し離れた場所ですが、ところてんやあんみつの寒天を売ってくれるお店。
 塩豆やフルーツ缶詰、黒蜜も買えば、豪華なあんみつを家族で堪能出来る。
 近くに身代わり不動もあるので、探してみてください。以下に情報を載せておきます。

小金澤商店
044-866-5883
https://goo.gl/maps/Stz9ugrs9R2xNC3Y8




この前、小田原に降り立ったのだが、駅前は再開発がうまくいったようだったが、商店街にまでマンションがたくさん建つ様な状況で少し寂しくなった。
 地方都市がちょっと中途半端に衰退気味なのが気にかかる。

追記
店そのものが路地裏みたいなドンキホーテ。面白い発見が頻発するので、確かに癖になります。





コメント

ニチイの地下で寿がきやラーメンだった頃の思い出

2014-11-18 06:45:53 | 懐かしい思い出
近所の薬局には食品や飲料の売り場が併設されているんで、ちょっとしたスーパーみたいになっているんですけど、そこに寿がきやのラーメンのインスタントが売っていた。懐かしいとの思い出に一つ購入してみたのだが、128円という値段を考えると、寿がきやそのもののラーメンよりは安いが、袋麺の中では中華三昧と同じ値付けという、ジャンクが本格にがっぷり四つの値段だった。ちょっと笑える…



寿がきやは、安い、子供のお小遣いでいけるラーメン屋だった。

食事というよりもおやつという感覚で、友達どうしで食べに行った場所だった。


多分、私よりも年齢が低い世代か近い世代では、あさひや→ニチイが小学生時代以降であったため、寿がきやが幼少時代の自己裁量で行ける食事の場所というイメージが強い。

お小遣いは一体いくらもらっていたんだろう?すごい節約とすごい裁量を発揮せざるを得ない状況が続いたが(と思い続けているが)、ある意味様々な素養を磨いていたんだろう。耐える・貯める・遣う・止める…はあっても、余裕があって育った感じはなかったので、奢るというのはあまり芽生えなかったのかも…。
この辺に各々の育ちからくる金銭感覚がにじむんだろうなぁ。としみじみ。お互い貧乏人だったから奢られるのも苦手なのかも。


あぁニチイの地下のフードコートの話だった…。


ソフトクリームのミックスやホットドック(本当はアメリカンドックというホットケーキ生地でソーセイジを揚げたものをホットドッグと呼んでいた…ような気がする)を売っていたコーナーの対面の一隅に座席数がある程度確保していた。


ニチイが出来て、しばらくしてから寿がきやはオープンしたと思う。記憶違いなら申し訳ないが初めはなかったのでは?
逆にいつまであったか、、、高校時代まではあったと思うけど、いつ撤退したかは思い出そうと思っても思い出せない。

白濁した見慣れないスープ、味わったことのない独特の味。

鶏がらベースのラーメン→出前というのがラーメンの位置づけで自分の家の常識だったから、外食の極端に少ない時代でラーメンのバリエーションの話はそこかしこから聞こえてはくるけど、それほど重要なイメージがなかったし、多くの経験がなかった。

今こそお店の個性として様々な盛り付けや味やトッピングという話題についていけるが、子供の頃の自分にはそれこそ食事はどうでもいい感じだったのだろう。

それでも寿がきやは、一定以上の回数を食べれる値段(240円くらい)という子供向けの値付けだったから、記憶に残る味となった。


店舗の出店は、中部に限られ、浜松では多くの店舗があるようだが、関東から一切撤退してしまっている状況のようだ。

それこそ何かの目玉で小田原あたりで復活となれば、それなりの集客が望めないのだろうか?イベントなら行くけど常用するかはというのであろうか?浜松の現状を確認したい。確かにフードコートの形式は様変わりした。イートインの形式に古さが漂うものから、新しいと店舗や店名を目で確認することまでがデパートやモール形式の一つのバロメータになりつつある。


私自身が何故ここまで寿がきやの出店戦略を考えているのか?まるで分からなくなってきたので、もう止めるが、その店舗のなりがDOMDOMバーガーのようなちょっと悲しいものなのか?他の行列が出来るような何かを(もちろん基本は値段だと思っているが)もたらすことができないものかを是非とも再考していただき、懐かしいものと再会させてもらえないか?と想い募るばかりである。




一個のインスタントラーメンで何熱くなってんだか…。




コメント (2)

明智小五郎と金田一耕助(江戸川乱歩と横溝正史)を思い出す

2013-04-28 06:08:29 | 懐かしい思い出
子供のころに夢中になっていたものを思い出すことが多い。
純粋にその当時はどう思っていたのか?ということ自体を思い出す。
だって色々知らなかったから、今の自分には思いつかないことや想像を膨らまして怖がったりワクワクしたりしたものだ。

探偵小説というと、ハードボイルドの流行が高校時代にあって、それに憧れたりもした。
レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウのイメージ。
男の質として、真逆だったからこその憧れだったのかな?

他にも北方謙三や大沢在昌なども軽くではあるが読んだ。逢坂剛のカディスの赤い星とかもそうだったかな?

最近は特に小説というものは歴史ものに限られているし、それでもあまり読まなくなっている。
何してんだ、本当に…という感じではあるが、他の「時間を奪うもの」に翻弄されているのだろう。
上手いもんだ。本当に…。
興味がなくなったんではなくて、興味の向かう先が次々と現れる。

話を戻そう。

昔読んだ、「よかった」という感想を持っている小説を思い出すことで、何かを取り戻そうという意識はあるようなのだ。


きっかけは、坂口良子さんのご逝去だった。

横溝正史・市川昆タッグの作品にはよく登場されていた。

本当は池中玄太80キロでの暁子役のイメージの方が強いんだけど、半ペラとか楠公さんとかと一緒にね。

でもきっかけはそうだった、「あぁ獄門島とかに坂口良子さんでてたなぁ。。。『きちがいじゃが仕方ない』というトリック、あぁあったあった」と思い出した。
※季語の季節が違うという意味です。


うちの長男が成長し、小学3年生。本も読むけどゲームばっかり。
でも自分だってボードゲームや探偵小説ばかりを読んで暮らしてたんだった。

やはり思い出す一番の原点は、怪人二十面相。明智小五郎と少年探偵団の小林君の活躍だ。江戸川乱歩の世界。

作品は沢山あったのだが、すぐに思い出すのは電人M。

青銅の魔人、夜光人間、サーカスの怪人、、、、。

少し大人な読み物では黄金仮面など、不思議な世界観な作品が多く、今思えば電話も携帯などが流行しだすとアリバイなどを含めて成立し難い設定なものも結構出てくるとは思うけどね。
でも奇想天外なシチュエーションや頭に浮かんでいた風景は、思い出すと暗くもう一度読み味わってみ直したい世界だ。

本を読むスピード感も当時は10頁も読めば、はい次の日ということもあっただろうなぁ。でも挿絵が入っていたのでそれを励みに読み進めていったこともあった。


挿絵がなくなる小説にいつ踏み出せたのだろう?

課題図書みたいなものを読むのが好きではなく、無理に読まされるのが嫌いだったから、逆に名作みたいな文芸作品の記憶があまりない。

でも、国語の教科書や課題図書に選ばれたくて書かれていたわけでもないのだ、その名作群も。
そう思うと勿体ないことをしたなぁと思う。
純粋に発表したいと思っていたわけで、、、、でも時代の背景が違う。
テレビもなく、さらにはラジオも普及していない頃の作品には、それなりの威厳が漂っていた(いる)のかもしれない。

まぁじゃあそういうものも著作権も切れて、安く普及しだしたものもあるだろうから、、、いや図書館で借りれるものを借りてみますか?



小学校の当時には、映画化されて話題になることで、小説にも興味が出たのが、横溝正史作品。

「悪魔が来りて笛を吹く」「犬神家の一族」などの宣伝から、本屋さん(伊勢冶書店さんです)に出向き、おどろおどろしい表紙に惹かれて購入しだしたのであろうことは想像できる。
小松左京の「復活の日」などの作品もあったことから、映画と小説のコラボで相乗を狙っていた角川文庫の思惑にまんまと乗っていたのであろう。

前にもどこかで書いたと思うが、「Let it be」はビートルズが悪霊島のために作った作品だと思っていたし、解散していたことは辛うじて知っていたのだが、本当に再結成したのだと思っていた。
もちろんシングルレコードも悪霊島のカバーのものを買ったしね。

映画『悪霊島』 予告篇

ニコ動にはあったんだけど、let it beの外れてる予告編付けときます。


そういえば、探偵ってなんだろう?と当時から思っていた。持っていたイメージは頼まれて調査する刑事?
いや一体なんなんだろ?探偵って。
浮気や素行調査のイメージの方が今では上だが、行方知れずになった人を探してほしいとか?
金田一耕助も何か頼まれていたような気がする。八つ墓村の時とか。

警察なども頼りにするくらい優秀な調査・捜査能力を持った人?少なくとも横溝正史作品の中の金田一耕助はその通りだ。

依頼がある訳ですね。金田一耕助が巻き込まれるきっかけは…。少なくとも。復員してきた人を探してほしいだとかいう…。でも犯人を捜してくれという話では基本ないのでは?なかったかとも
思うんだけど、、、、真相という類のものを引き出したいという欲求はテレビの前の視聴者が事件の背景を知りたいとか思うこととまるで変わらないと想像すれば、探偵が事件と相俟って登場してくるのも
ある程度は理解できる。
当時は相談に来る先が間違っているんじゃないのか?
などとは微塵にも思わなかったのだろう。

導入部分にごつごつとした説明なんて出てこなかったはずだ。依頼は不思議であってもそれを感じさせないスムーズなイメージから一気に妖しいというか怪しいという雰囲気や風習をもつような、土着な感じの場所で、
しきたりとか言い伝えなどを交えた事件構成に持ち込まれ、で、そういった(子供でもそんなこと今の時代でも起こるか?と思えた)祟りとかを元にした猟奇的なことが起こってしまい、結局そういう言い伝えそのものにも
人間の欲望やら虚栄やら汚れた部分をデフォルメした象徴のような形で事件が出来上がっていることを暴く。歴史は繰り返すのね。当時の真相と混ざり合って…。

就職してからも一時期横溝作品は古本屋さんを見かける度に買っていたのだが、今はもうどこかに行ってしまったか処分してしまったか。

これらも図書館で借りて、グイッと読んでしまおう。

思い出し読み。



小説がもつ簡潔で紆余曲折が適度と(思い返すと)思えさせられた作品に触れてみて、「書けるのか」やっぱりそんなものは「書けないのか」を考えてみたいと思っている。
コメント (1)

おしんが圭にも厳しく言い返す「お前なんかに分かりゃしないよ!」の一言 第20話 俊作あんちゃん追悼の回

2013-02-04 07:47:28 | 懐かしい思い出
1月から始まっている「おしん」。
録画を大量にしている。

初め、これをかけていると、息子は「はいはい。」と言って、横を向いてしまっていたのだが、最初の奉公先に出されて、いびりとも取られかねない奉公人の厳しいしつけが始まると、「これ、一体どうなっちゃうの?」と心配顔で話に夢中になり始めた。

五十銭銀貨をばんちゃん(おばあちゃん)に持たせてもらったおしんが、奉公先でそれが元であらぬ疑いを掛けられてしまう。
ご主人がひょいと借りたという、そのひょんなタイミングに居合わせていたために、盗人呼ばわりされ、持っていた五十銭のために、犯人と断定されてしまい、取り上げられて、仕打ちが苛烈を極める。

もうやんだ。おかあちゃんのところに帰ると雪道をトボトボと無謀にも歩き始めるおしんは、雪道に倒れ込み、猟師に扮して逃亡生活を送っていた俊作あんちゃんに助けられる。


そのあんちゃん、軍人一家の家に生まれ、軍人は偉い人だと思い過ごしてきたが、二百三高地を経験し、余りにも酷い戦地の状況に嫌気が差し、戦争に向かい続ける国家に叛く形で逃亡を始めた。

おしんの聡さに警戒を強めていたが(おしんは避けられている・迷惑がられているという印象)、或る日、古傷が元で高熱を発した俊作を徹夜で看病したおしんに打ち解け、字から算術、戦争への自分の考えを教え込むまでになる。


そして現代。

俊作あんちゃんから、お金やものがなくたって幸せに生きていける。あんなに色々なことを学んだのに、どうして今まで思い出せずに居たんだろう?人間なんて情けないもんだ。今更思い出しても遅い」と涙ぐむおしんに、同行してきていた圭が声をかける。
「おばあちゃんはいつも一生懸命生きてきたじゃないか。間違ってなんかいやしないよ。」と慰める。


そこでおしんはぴしゃりと言い放つ。
「お前なんかに分かりゃしないよ」

この言葉が強烈だ。


おしんはこの旅に出た理由がどこで自分が間違ってしまったのかを探す旅と位置づけている。

大事にしていた想いを思い出し、思い出しし、自分の半生が多くの人に支えられていたことに気付くとともに、今の自分にはないものを思い出している。

どこかで確実に誤ったのだ。
マルチウーマン、おしんにもどこかで道を誤るという岐路が来る。

そんな物語の幼少期は、どこまでも儚く悲惨で、去来する想いはどれも間違っている気がしないのだ。それは見ている者と圭が同期しているのだが、物語が大きく躍動するこの後を予見させられる。

昨日は加賀屋の1週目、絵本ちょっと借ります事件とハーモニカ強奪事件が一気に来た。
来週は加賀屋2週目からばんちゃんとのお別れまでの幼少期最後の週になるはずだ。

おしんはいつ見ても考えさせられる。



そして息子も人の一生もののドラマを見るということが何の苦もなく、始められそうだ。
一つ一つの息子の疑問に、まるで加賀屋のくにがおしんに教えるように、含めて教えてやる。
コメント

お茶にお金を払うようになるまで・・・

2012-05-07 02:38:05 | 懐かしい思い出
烏龍茶の日本における歴史を調べてみたら、1981年に伊藤園が登場させたらしい。
1970年代には、ピンクレディーが美容のために飲んでいるということで話題にもなったらしい。
1981年2月に伊藤園が缶入りで登場させ、
1981年12月にサントリーも缶入りで登場させる。
1985年に伊藤園が緑茶も缶入りで登場させたときにとうとう烏龍茶も市民権を得て、広まっていったという。。。

私は、このお茶にお金を払うということを、駅で弁当屋さんから熱いビニール容器入れのものを購入することしか頭に入れておらず、お茶、ましてや水に、コーラやファンタやスプライトやチェリオと同等の価値を見出して、お金を払うようになるとは夢にも思わなかった。

これには突破口が存在して、確実に誰かが購入したのを見て、初めて自分達も購入してみようとなった飲み物であることが分かっている。。。。


それは忘れもしない、高校時代に組んでいたバンドで、小田原の太田ビルの地下でいくつかのバンドと合同でコンサートを開いたときのこと。
ボーカルが初めて、ステージに持ち込む飲料でも「ポカリスエット大流行」であったバンド内にサントリーの烏龍茶の缶を持ち込んで、度肝を抜いたところに始まる。

もちろん、他のメンバーの感想は、「よく買ったな!」という武勇伝めいたものであり、その後みんなで競うようにして烏龍茶を買い始めた。

この後、サントリーと伊藤園、どちらが本格か?論争が勃発!
このとき、本格とされたのは(最初に出したこともあって)伊藤園だった。


しかし、ボーカルが「烏龍茶って喉が絞まる」らしいので、『ステージで飲むのには不向きだ』と云い始め、止めるのもボーカルからだった。。。。

その年代は1984年から1985年の初頭であった。それまでは私はお茶類にお金を投じることをまるで良しとしていなかった。



次にペットボトルの登場はいつだったのか?何から始まったのか?ということを考察していきたい。

自分は缶入りで350ml缶でメローイエローやらセーフガード、マウンテンデューを購入するのが好きだったことから、缶での自動販売機、店頭購入が当たり前だったのが中学・高校時代だと思う。。。
1983年にコカコーラが前年に導入したものを全国展開しているらしく、中学の末期にはこれに出遭う可能性があった?本当?

それまでは醤油の入れ物だっただけだったそうだ。。。

コーラはペプシの300ml入りの瓶が出来る前はコカコーラの190mlの麗しい形のもの。味やブランドよりは量を採る小学生時代は、確実にチェリオかペプシ。ペプシは300mlや蓋の裏をめくると当たりや外れが出るものが流行り、スターウォーズや王貞治の756号の下敷きとかはペプシからのものだった。でも瓶。ペットボトルは500mlからスタートしている?だとしたらお得感は小学生の間でも響いただろうが、150円という少し値段もアップした感じがいつまでも自分の中では市民権を得にくい状態だったのだろうかと考える。

高校時代にバンドではポカリスエットだったと書いたが、これも缶だった気がする。

高校時代に、ペットボトルがあった?としたら。。。。セブンイレブンで見かけていたかどうか?という時分かぁ。。。家の裏にセブンイレブンが出来たのって・・・・中学時代?いや小学校時代?
お菓子屋さんだったうさぎやさんが本当に7時から23時(夜11時)の間開く状態でのコンビニを開業したのが、1980年~1982年とかだったと思う。
中学時代には通学路にもセブンイレブンが登場するが、それ以前はうさぎやさんが一番初めだった。そこで見かけたのかなぁ。。。。

本当に復刻してもらいたいのが、当時のテレビ欄とか?いう新聞の後ろ面ではなくて、当時のコンビニの飲料の並びとか?の写真が見たい!

大学時代には、C1000タケダ、オリゴCCとか鉄骨飲料とかがブームだったし、高校時代まではラガービールが牙城だったビール業界に(飲んでませんよ)、アサヒがスーパードライを投入して、キリンは一番絞りに行き、サントリーは焼酎に行ってしまったのも大学時代。



時代を感じさせるものに、流行や時事があるが、コンビニの飲料の並びにはそこそこの時代が滲む様な気がしてならない、今日この頃です。
コメント (4)

ぎり思い出せると思っているテレビ番組の内容・・・・実は無理。

2012-03-20 06:34:56 | 懐かしい思い出
soreyuke mahougumi

それいけ魔法組・・・・あれ?思い出せない。。。5年3組魔法組。。。
見ていたはずなのに、印象に残っていない。。。自分は5年4組で3組が羨ましかったと思うんだけど。。。。

がんばれ!レッドビッキーズED

レッドビッキーズも思い出せない。。。

がんばれ!ベアーズ~青春カーニバル~
THE BAD NEWS BEARS TV intro 1976(Japanese ver)

思い出そうとすると、こっちの方になっちゃうかな?ベアーズが遠征費を稼ぐためにアントニオ猪木と監督が対戦するというハチャメチャなシーンを覚えている。


アニメは結構覚えているんですよ。。。でも実写ドラマは微妙。
どれも似通っているから?

世迷い言(日吉ミミ+一橋FSC)

ムー一族も多分見れていない。多分再放送。これ、再放送で見る価値ありか?と云われればそうなんだけど、仕方ない。朝10時から再放送しているのを結構観ました。

【高音質】寺内貫太郎一家(1974年 メインテーマ)/井上堯之バンド

こっちも思い出せない。。。浅田美代子さんでしょ?年齢的には確実に見ているはずがない。

みよちゃんの試練-2 浅田美代子


「時間ですよ」は覚えています。寝なさいって云われました。(笑)

キョーダイン

内容はまるで思い出せないなぁ。。
イナズマンもアイアンキングもバロムワンもキカイダーも主題歌くらいかな?
でも思い出すと色々見せてはもらってたんだって感じですね。。。内容が似通っているというより似ちゃうんでしょうね。悪魔や悪者、怪人、その作り込みがギリ煮詰まっていない感じだからでしょうか?

レインボーマン ~ OP・予告・初期ED

これは結構覚えているんですよね?レインボーマン。見ていて怖かった。保育園でも見ていたが、見せちゃいけなかったのでは?子供達は眠れなくなっていたと思う。
放送禁止レベルでしょ?今思えば・・・。この実験放送ぶりが見事。
でも死ね死ね団のコンセプトって知ってます?
→敵対する勢力は、黄色人種、特に日本人に恨みを持ち、日本という国家と日本人皆殺しを企む組織、死ね死ね団。普通の人間が敵です。大東亜構想に対する積年の恨みみたいな?これが妙におっかないんです。
インドの山奥で修行だとか、ダイバダッタとかって凄くアジアンテイストな感じ。今なら受けるのでは?少し時代が早過ぎた感が否めない。


日本沈没(1973)予告編

日本沈没・・・強烈に覚えている。おっかなかった。見ていて鳥肌が立った。姫路や京都、伊豆の小島が大きな地震で沈んでいく。お経を唱えて祈るお坊さんも。。。教室に絵を取りに帰って戻ってこれなくなる子供とか・・・。村野武則が当時はジュリー並に格好いい人だと思っていた。動画よりもこの歌だけで当時が思い浮かぶ。昨今の地震騒動の際、モロに思い出してしまった。
※歌の動画が消されてしまったので、映画版の予告編を付け直しました。

忍者マーチ [ OP Version ] - 仮面の忍者 赤影

大好きだったが、プロットは何も思い出せない。冒頭の部分で大まかな説明が入るが大人になった今みると、「へぇ~」と思ってしまう。
青影の鼻に手を当てる芸ばかりしか思い出せない。これをやると大人が怒る。無理もない。本当に憎らしいポーズなんだもん!

宮脇康之「おもちゃ屋ケンちゃん」

ケンちゃんシリーズでどれが一番印象に残っているか?実は代替わりした「パン屋のケンちゃん」でした。♪パン、パン、パンときて、パンときてパン♪という主題歌の印象が一番残っている。。。。その動画がないんだよね。。。寂しい。

俺はあばれはっちゃく うた・堀江美津子 0001

あばれはっちゃくくらいまでくると逆立ちからお父さんの恫喝的なお叱りとかも思い出せる。


懐かしのアイドル 1970年代

この頃の歌謡曲が自分の原体験であることは間違いないと思われ。。。。覚えているものの方が余程多い。というかこの中の曲、久々に聞くと名曲揃い!誘われてフラメンコかぁ。。。この前バイブレーションを歌って、みんながギリ覚えていたりいなかったりだったが、こっちならみんな覚えているだろうな。

レコードはまだたまに買ってもらえていたかも。それは幸せなことだった。



日曜日の朝はいつもレコードをかけて過ごしていました。
コメント (2)

魚にまつわるエトセトラ

2012-03-14 07:49:14 | 懐かしい思い出
子供の頃の食卓に思いを馳せる。

痩せっぽちだった私は、おふくろに「肉を食わせろ!」と威張って云う。
ハンバーグを焼いてくれることもあったし、唐揚げを揚げてくれることもあったが、やはり我が家には魚が並ぶことが多かった。

小田原には早川に漁港があり、そこに魚市場がある。
ダイヤ街と錦通がぶつかる角には「魚国」さんがあり、威勢のいい掛け声で魚を売っている(これは今でも)。

大学で知り合った、築地の料亭の娘が「うち、あそこ(魚国)までお魚を仕入れに買いに行くことがある」と云っていたのはびっくりだった。

うちのおふくろはそこでの買い物は余りしていない・・・・と思われ、公民館横の路地をひたすら国道1号線に触れるか触れないか辺りの神社の脇にあるお魚屋さんで刺身を買っていたと記憶している。他のお店だと仲見世商店街だったかな。。。

大きな陶器のお皿を預け、柵(さく)で売っている鮪やら鰤やらを指定すると、綺麗にそのお皿に並べて返してくれるお魚屋さんで、よく受け取りに行かされた。

刺身はもっぱら親父の肴だ。

もちろん私達も食べたが、日本酒の熱燗に合うことが一番だったのだろうと思う。


ぶつ切りのマグロには山芋を擂ったやまかけを添えてあり、今でも思うがあの組み合わせは絶妙だった。

鰤は照り焼きもあったが、焼き魚といえば、やはり鯵の開きだ。
朝食に出てくることもよくあり、朝の目覚めに台所から煙が昇り、換気扇がフル回転しても排気が追いつかず、TBSラジオの朝番組が響く台所はよく鯵の焼いた匂いが充満していた。

秋刀魚、秋刀魚を焼くのが風景になるほどではないが、肝の部分が旨いというのは確かに親から教わった。ただ肝を食べると決って鱗のようなものが出てくるのが煩わしく思っていたかも。

そして煮魚といえば、金目。金目鯛を煮付けたものがよく出された。

甘塩っぱく煮付けられた魚、目の辺りはプルンとしていて、口に含んで中の白い芯のようなものが出てくるまで舌と上顎の力で押し潰して食べていた。

「肉を食わせろ」と喚いた過去の自分が、当時の食卓の贅沢さに一番気付けていない。


我が家の食卓は台所内に併設されていて、テレビがある居間とは隔絶されていた。

早くテレビが見たい自分は食事そのものを煩わしく思っていたことも思い出される。
今の息子も御飯を食べるのが遅く、唾が出ないのかお米を噛むのに時間がかかって仕方がないのだが、当時の自分も御飯をそれほど多くは食べていなかったと思う。
何を食べたいかと問われても戸惑う息子を見ていると、当時の自分もそれほど食事に拘りなどなかったことを思い出す。出されるものを食べる、出されるものに子供なりの文句をつける。ハンバーグ、ナポリタン、ビフテキ、エビフライ。洋物を強請るのは当時の自分の癖だったろう。

おかわりをすれば褒められていたような気もする。。。。
カレーライスは必ずおかわりするのが習慣だったなぁ。

焼き魚で思い出すのは、骨を喉に引っ掛けてしまった経験が何度かあり、それを白飯を噛まずに飲み込んで流した経験も何度かある。一度目に経験した後は、焼き魚が大嫌いになったような。。。


一度ムニエルを作ってみたというおふくろが得意そうにしていたのを覚えているがムニエルが定番化したか?と問われるとまるで思い出せない。あれは何の魚だったのだろう?

芦ノ湖にブラックバスを釣りに行き、釣り上げたバスを持ち帰りバターで焼いた時、小麦粉を振っていたかな?だとしたらムニエルだったかも知れないけど、その釣りから帰って来た私は熱を出して寝込んでしまったため、バスを食したことは未だにない。Daiwaの釣り魚事典か何かに書いてある調理法を指差し、その通りに作ったものを食べているおふくろの姿の記憶はあるが、気分の悪くなった私は食事をせずに横になっていた。


あぁ鰈の煮付け、、、、卵をふんだんに持った鰈の煮付けが好きだったなぁ。。。


温かいものが食べられるのはとても贅沢だと云い続けられたのだが、本当にそう思うことがあったのは小学校高学年の時の記憶に拠る。。。。

おふくろ方のおばあちゃんの家に一人で泊まりに何日も行っていたときの記憶だ。

炊飯器はあるが保温機能がないため、朝はいつも冷たくなった夕飯の時に炊いた御飯を食べるのだった。
これが嫌で嫌で仕方がなかったのだが、肉屋さんでメンチカツやら買い物に付き合っている時に、おばあちゃんに「今夜カレーにして」とお願いした。
翌朝はその残ったカレーのルーの中に冷えた白飯を入れてもらい、ドライカレー風にして温かく食べさせてもらうことに成功した。

子供なりに懸命に考えての発案だった。電子レンジなんかまだ各家庭にない頃の話。

イルカや鯨の鍋も食べたが、鍋で一番の思い出は鮟鱇(あんこう)。鮟鱇の肝をふんだんに入れた鍋が出てくると軟体な具が一斉になくなって行くのが思い出だ。

ある時から身体にいいと湯豆腐がよく出されるので、その中に入る魚は鱈ばかりになっていった。

自分も釣りをしていた時期があるが、釣ってきた魚を食べたのはやはりワカサギ。

これが楽しみになり、釣りといえばワカサギ釣りばかりになっていった。


最近、実家に帰ると、ワカサギ、ワカサギと親父が云う。。。





今度、芦ノ湖か丹沢でも行ってこようか。釣りじゃなくて単に食べに。
コメント (2)

たこ焼きのタコの代わりに・・・・

2012-03-11 08:15:39 | 懐かしい思い出
たこ焼きの蛸(タコ)の代わりに、他の物を入れて焼いてみたら美味しくならないか?という実験をしたことがあります。


昨日のお好み焼きに続いて、今日はたこ焼きの思い出です。大阪人ではないので、たこ焼きは日常食ではありませんでした。。。。


私のたこ焼きの頂点は、小学校高学年~中学時代。1個10円で売っていた私が通った中学校の側のおばさん(おばあさん)が経営するたこ焼き屋でした。

しかも必ず1個から5個くらいのおまけをつけてくれるというシステムで、子供にも大人気。


それ以前のたこ焼きといえば、小田原だと。。。。仲見世商店街を銀座通りからダイヤ街に抜けたところにあったアメリカンドックやソフトクリームと一緒に、内側がアルミの箱に入って8つくらい入っていた紅生姜がとっても効いた、たこ焼きのイメージが強くある。それはアルミ箔と接触している底の部分が平らな形状のたこ焼きでソースは別に付けられていたと思う。(もしかしたら、生地にソースが入っているようなイメージもあるけど。)おみやげとか買い物に付き合うと買ってもらったりとかしていた。


話を少し戻して、中学校そばのたこ焼き屋さん、『10円たこ焼き』と呼ばれていたので、そう呼びます。

うちのおばあちゃんが、「何か食べたいものはないか?」というので、「10円たこ焼き!」というと、ならこれで買ってきなさいと、もらった千円札を握り締め、自転車を漕ぎまくって辿り着き、10円たこ焼きのおばさんを叩き起こして、「100個!10円たこ焼き100個下さい!」とお願いした。

おばさんは驚いていたが、ぶつぶつと文句を言いながら、10個の皿の上に5個のおまけを付け続け最終的には150個のたこ焼きを焼いてくれた。。。。。

やっぱり割に合わないんだ。10円。。。あぁ疲れたとへたれこむ様子に感謝!

家族に初めて食べさせる10円たこ焼き。弟も入れておばあちゃんと両親の5人で「一人2皿(30個)ずつね。」と食べたのだが、自転車のかごに入れてきたものの、下にされたたこ焼きは少々潰れていた。だって、発砲スチロールの皿に15個並べたものをサランラップで包み(くるみ)、その上からもう一重淡い緑色(鶯色?)の団子の持ち帰りのときに包むような紙で巻いてゴムで止めただけ。上に物が載ることを想定していない包み方だったからまるで仕方が無い。。。。




そのたこ焼き、中学時代に先輩がおばさんに聞いていた。

「このたこ焼き、たこじゃなくてイカ入ってるんだよね?」と。。。

おばさんは、「たこ焼きは形が蛸壺に似ているからたこ焼きって呼んでるだけで、中身はタコでなくてもいいんだ」と主張していたが、どうもこれは採算を合わせていたのかもしれない。味を思い出すと、少し軽いんだな、これが。多分天かすが多く入っていたのかもしれない。生地の感じが少し軽くしっとりではない。ソースはおばさんが塗ってくれて、青海苔もかかっているし、紅生姜はふんだんではない印象が残っている。イカのイメージは余りなく違和感すら持っていなかった。


そんなこんなで、時は過ぎ、独身時代にあのたこ焼きの鉄板をいくつか買い、たこ焼きの作り放題などをしていた私は、友達の家で「他にもたこ焼きのたこの代わりになるもの」という企画をしてみた。別にイカでも構わないことを実験するためではなく、新種との出会いを期待して。。。


粉を卵と水で溶いたタネ、刻み葱、紅生姜は私が担当したが、他の具については参加者が「これぞ」と思うものをチョイスしたものをスーパーで購入した。



試してみたが、やはりタコの食感に敵うものは存在しなかった。

えび:もう歯にかかることなく噛み切れてしまうので、具なしのたこ焼きになってしまったようだった。タコのもつ弾力と一度止まる歯応えを認識させてくれる具だった。
風味や味はどうかというとそこそこだったかな・・・・・。ソースにかかってしまうとえびの風味も形無しだった。

チーズ:溶ける代表格。歯応えがないということがこれほどこのボール料理の決め手とは!と気付かせてくれる。

納豆:大阪人の嫌いな納豆で勝負してみたが、意外とこれは評判悪くなかった。



他の企画の記憶がない・・・・。

たこ焼きが絶妙なのは、タコという食材が生地の中にあって弾力と噛み応えを担当しているのに対して、紅生姜がソースにしっかりとアクセントになっていること。紅生姜はお好み焼きでも使わないこともないが、たこ焼きにこそという風味を担当している。それに焼きそばと同じソースに合う青海苔で覆い、香り付けにも成功している。
あぁそうか、焼きそばと近いかぁ。。。。

小さい中に色々と個性豊かなものを絡ませていることで強烈に印象に残る料理なんだと思われる。

そうそう、このたこ焼きの記事を思いついたのは、海老名のサービスエリアでえびえび焼きというものが売られていたのを見たのがきっかけ。

もちろん、買っていない。だって失敗した記憶があるから。。。。

海老か、生地に緩みの様な工夫があるか、焼き方に一癖でもあるのか?  でないと海老がプリプリしているなんて感じられないと思う。過去の実験経験から。。。
海老はやはり中華料理が一番旨いという思い込みのようなものがあるからかもしれない。。。。


口絵の写真は、カラオケまねきねこのたこ焼きピラミッド。。。。見た目は豪快だが、紅生姜が効いておらず生地も緩めだ。
冷凍ものなのだろうが、時間短縮のため、生地が早く解凍されるように工夫されているのだろうと思う。
コメント (4)