萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり 老子 第十一章

2014-04-30 06:08:15 | プチ萌え
トイレに老子を持ち込んで、ちょこちょこと読んでいた。

おやっと思うまで読んでみることにしていたら、とうとう十一章で閃いた!

三十輻共一轂 
當其無、有車之用
埏埴以爲器
當其無、有器之用
鑿戸牖以爲室
當其無、有室之用
故有之以爲利、無之以爲用

《訳》
車輪というものは三十本の輻(や)が真ん中の轂(こしき)に集まって出来ている。
その轂(こしき)に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用を為すのだ。
器を作るときには粘土をこねて作る。その器に何もない空間があってこそ器としての用を為すのだ。
戸や窓をくりぬいて家は出来ている。その家の何もない空間こそが家としての用を為しているのだ。
だから何かが「有る」という事で利益が得られるのは、「無い」という事が影でその効用を発揮しているからなのだ。

《部分的な読み下し》
其の無に当たりて(當其無)、○の用あり(有○之用)

《感想》
初めの方の車輪の話はピンと来なかったが、器と家(室)で感づいた。
無とは何かを入れる場所。

人が暮らしていく場所、何かを盛る場所、車輪に車軸を差す穴。

その無という部分の空間・虚空に着眼せよという内容。


器の持つ素材、照り、触り心地ではなく、くり抜かれた場所にある空間がこちらのインスピレーションに作用している。

いや素材、照り、触り心地に意味がないのではなく、その空間を意識させるようにそれらも働いている。

無も有によっている。有ばかりに着目しすぎるなという訓告だろう。
特に老子は自然体を重んじることが多いため、単に「不自然な」有を戒めると、無に行き着いただけかもしれない。

これの応用は商品の企画でもいいんだけど、
ある部分では、人員のことでも同じだろう。


有る姿の何かに着目するばかりではなく、(くり抜かれている・くり抜いている)無の部分に凝ってみるというのも一興である。
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益子の陶器市に行ってきました。

2014-04-27 21:46:11 | 日々の疑問
この時期に開催しているとは知らずにいた益子の陶器市。
この期間(4/26-5/6)にやっていて、昨日の土曜日(4/26)に訪問したという報に触れて、行ってみようということになった。

GWの最中には、実家への帰郷か家内の実家への帰郷ばかりが企画として挙がっていたからかも知れないけど、益子には以前から行ってみたいと思っていたのだが、茨城かと思っていたら栃木だったとか、東関道か常磐道で行くのかと思っていたら(なんせ茨城だと思っていたくらいだから)、ナビで東北道から北関東道を通るルートが引かれて、あぁそうなの?と思ったりしていた。

朝5時半に出発した車は、なんとなく陶器市会場メインの中央の駐車場に入ることが出来た。

着いた時間はまだ8時前。コンビニで朝食を摂り、会場のメイン辺りに戻っていくと、昨日から始まっていたテントがそこかしこで準備を開始しだしており、なんとなくメインにまで戻ると、何の合図もなしに市が完全にスタートしていた。


家内に聞くと、青い四角い刺身を盛り付けられそうなお皿が欲しいとのこと。

私は何となしに、野菜がゴロゴロ入ったカレーライスがイメージ出来るちょっと深鉢な楕円形の皿を探していた。


歩いていくと何となくどこか寂しい気持ちになった。

というのも、
作家と名乗っている人達が、値札を作品に貼っているものを並べている状態を見て、さらにその前で自分の気に入る作品を探すというのはやはりどこか難しいと感じたからだ。

作品の奥に座っている作家さんを見ると…。
作務衣や程よい色合いのシャツを纏い、手拭を綺麗に頭に巻く。髭を綺麗に整え、綺麗な形の眼鏡をしている。
作品よりもその作家の人柄を鑑賞しているかのような錯覚に陥った。

なんとなく雰囲気のある服装しているんですね。皆さん。

携帯でも弄っていようものなら、作品も見る気がしなくなる。とか。。。

携帯の件を置いておくとして、気に入る値段とは一体何なんだろう。まるで自分自身が試されているような気分になる。


初めは確かに料理や珈琲などの飲み物が入ってる風景が浮かぶもの、想像を掻き立てられるようなものをという感じで探していたのだが、
そのうち、その値段でその作品をその場所から抜き取る権利という風に想う様になった。

半端物のようなものを置いてある場所からその値段でそれを抜き取っても作家にとっては痛くも痒くもない訳で、
綺麗に陳列している場所からそれを抜き取ると、そこそこのパワーが剥ぎ取られてしまう風景に気付いたのだ。

しかし、抜き取ったもの1点もその1点で別の場所に持っていっても、そのパワーを放っていられるかを想像すると、群集の効果というか、個の作品でのパワーがあるかどうか。それが持っていかれるならと付けている値段なのだろう。でも作家さんがその場に居て、迎合している人も何を分かったような気になっているんだかと妙に変な感じになっている。喫茶店でまるごと遣うなどのことほどの理解の仕方でもないわけでして…。
気に入ったは気に入ったんだという色合いで買ってきたもの数点だが、その気分の複雑なこと複雑なこと。
奥に数点の在庫を見つけた時は、前に陳列されているものの唯一感が薄れてしまって購入に踏み切らなかったこともあった。
でも、作家にとっては買ってもらえる値付けと認めて欲しい作品性とがあるわけだ。

家内と帰りの佐野ラーメンに向かう途中で、陶芸に関して色々話し合いになったのだが、家内は「作家としては全部売れて欲しいに決まっている」という意見だった。まぁ確かに。

その話し合いの中で、「本当の自信作は絶対に持ってこない(売らない)」というのは自分の意見。
いや作家なら同じ作品ならいくらでも作れると、自信作にも程よい値段で売りに出すのであろうか?
芸術家でない自分に作品と向き合う手離れの覚悟の感覚ほど縁遠いものはない気もする。

なので、目利きというか間に商人が入ることはごくごく自然に思えることもあった。

でも大成したい、世の中に知られたいという作家の気持ちもあることは分かる。
個展・陶器市での説明・店とのコラボ…。他の手段は?どうしても最後は作品に理解のある流通とのよい関係に繋げる必要を感じる。メディアで取り上げられるとかがいいなぁ…。


作家でもない癖にどこまで想像しているのだこの私は…。


単純に何にいいと思うかという自分の感性に触れること、益子焼やその他の焼き物の作品の多様性を感じ取れる場所、陶芸作家さんという人生を目一杯想像して、楽しむなど…色々な楽しみ方があります。
それこそ今回は諦めたのですが、益子で美味しいカレーを出している店の使っている食器は、どこの窯元の作品を使っているのかとかを探索したりするのも一興ですね。
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世に棲む日日完読

2014-04-06 11:34:31 | 推薦します!
以前、facebookで元会社の同期が、「吉田松陰と高杉晋作からこれほどまでに影響を受けていたとは!」と世に棲む日日を再読しているという記事に出会った。

自分は読んでいない。
その同期が福島出身なのに、長州出身のこの2名から影響を受けていると書いているところが可笑しかったからだろう。とても気になった。

幕末と明治は竜馬がゆくと坂の上の雲で、覆っており、鹿児島も長州もその視点から、おおよその動きが分かっている積もりであったのだが、、、ここまでの激情家と展望の利く天才とが師弟とはいえ、時代に呼応して躍動する様は確かに痛快だった。

最近では八重の桜で、佐幕も倒幕も実は「攘夷」でなくて「開国」が生命線だったということを窺い知ることが出来た。


彼が「ここまで影響を受けていた」との表現はどのようなものだろうという興味で読みすすめた。一体この人物達の何処にであろう?
憧れなのかもとも思うが、小説の中の主人公が痛烈とも痛快だとも思うのは、覚悟が勝っている(まさっている)からであり、(このような)革命家になりたいと思っているのか?と云えばそうではないと思うのだけど、斯く在りたいと心意気を表現したとも思える。

そうか、革命家になりたいか?クーデターでも起こすか?と訊けば、「そういうことではない」と弾かれることが分っていても
訳知りな感じな一部分を曝け出してくれたことは、友人としては感謝である。

(保守の蔓延る)体制に対しては常に物申すというのが、彼が標榜しているスタイルであり、小さくまとまるバランスと調和の取れた矛盾のない意見など、「真っ平御免」というのがその根幹にあるのであろうと理解した。
人の熱い意見にあるそこかしこの矛盾などはつくものではない。揚げ足取りとは意見の無いものの生き甲斐のような下らないものだと断じているように思える話に思えたから。


思想家というよりも、吉田松陰のその無垢な究明に対する情熱は「異常」だし、それを支える態度、その解き明かした国体を結晶のような思想にまで繋げてしまう行為は「奇異」だし、どんな人間にでも師匠として接し、牢屋で同宿だったものを本気で松下村塾の教師として招いてしまうことも「奇特」であるのだけど、その程度で括ってしまっては人の一生で、ここまで純粋に追い求めることに辿り着いた人間に対する言葉としては悪すぎるし、軽すぎる。
でも思想などというものは、大嘘中の大嘘だとも書いており、虚構に虚構を塗り固める作業ともしている部分には、一方的でない意見の表明の仕方ではなかろうかと思いもした。司馬自身も思想と対峙しているのである。


また、その思想の実践者の高杉晋作。開眼したもの達の中では特に奇天烈な行動が多く、思想の転じ方を見ても、訳知りの代表格。
司馬作品には様々なベクトルで開眼者(坂本・西郷)では出てくるので、歴史に厚みが生まれている時期なのだろうと思うし、教科書という類が相応しくないのが歴史だとも思いもする。

単純な志士が軽く扱われ、其の後に大成した者・頓挫した者達の顛末を披瀝しながら小説が進むので、たまに『こういう人物にはなりたくないもんだな』とか『こういう人間にこそなりたいもんだな』とかを植え付けて行ってしまう作品でもある。


あとがきにも書いているが、戦時中の教育の影響か吉田松陰を敢えて避けてきたという司馬が、挑んだ作品でもあったのであろう。
最終的な帰結(高杉晋作の運命そのものと吉田松陰の最期)は知っていても、それに至るまでの劇的な軌跡を追って、日本の歴史上の偉人の所業に思慕の念を抱くのも、斯くありたいと思うのも、司馬氏の見舞われている状況そのものを思うことも、それ以外のことを思うことさえも、いい機会だと思う。

日本の昔の革命家(この作品の高杉晋作)や開明的な思想家(この作品の吉田松陰)の浅い部分で民意を翻弄することなく、奥底に流れる民族の誇りの部分にだけ作用してくれとも願うけれど、こればっかりは、扱う人と受け取る人と時代や時期やその時々の道徳に拠ってしまうのだろうなと、、、少し寂しい思いもしてしまうのだ。

寂しいとは、それほど天才的な者達にも、絶望的な民意の移ろいが作用するあたりがそう思わされたのであろう。
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