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東京の夜景動画ブログです。

評論空間という戦場

2007-06-07 19:02:06 | 撮影とテーマ設定2006~07年11月


今日は少し早めに家を出て、ほてほてと表参道画廊へ向かい、会期の変更などに関して打ち合わせをする。
途中、気の向くままにロールフィルムを2本消費したが、撮影している間にあれこれと新たな構想が沸いてきて、自分でも少々驚く。たとえ作品にならなくとも、ファインダに空間を配置してシャッタを切り、現像するという一連の行為から、ただ歩いていたときとは全く異なる見方が生まれるのだろう。



今週は「MUSEE F」で丸山トシカズ氏の個展が開催されているが、第一印象やインスタレーションの丁寧さとは裏腹に、さりげなく隙を見せている部分に興味を持った。作家氏にお話を聞かせていただく中でも確認を取ったのだが、手持ち撮影のもつキャンディッドな感覚と、被写体の持つ「率直さとは無縁のたたずまい」との関係を、マッチしていると受け止めるか、あるいはミスマッチのノイズを感じ取るかで、かなり評価が分かれるように思えてしまった。
ただ、個人的には比較的好みの作風でもあるし、この「さりげなく見せている隙」をひとつの芸風に出来れば、一気に出世してしまうような感触も得た。



また、表参道画廊ではSteven Berkowitz氏の写真展が開催されているが、こちらは既に十分なキャリアを積んだ作家でもあり、作品やインスタレーションには一部の隙も無い。また、展示風景やポストカードからもうかがえると思うが、相当に日本的な美を意識した作品でもあり、特に東海岸で評価が高いのはうなずけるところだ。
ただ、日本の鑑賞者にとってはあまりにも外連味が無さすぎるように受け止められ、かえって「お高い」イメージが生まれるかもしれない。まぁ、個人的には外連味なんて無いに越したことはないと思うのだが、なんだかんだ言っても好きな人が多いからね。



少し長居をしてしまったので、昼食も取らずに事務所へ戻ったら、直後に社長がやってきたので、少し罰の悪い思いをする。
その後はいつものように打ち合わせだのなんだのが始まるのだが、年初の予想をはるかに超える市場状況の急速な悪化振りに、話しながらもすっかり気がめいってしまう。



こういう時、他業種なら必ずといっても良いほど「宣伝活動」の話が出るらしいが、ことにオタク相手のゲームではいささか話が変わってくる。例えば、最近ではPS3の不振が如実に示しているように、宣伝の大量投下でオタクの心をつかむことは至難のわざと言え、あの秋元康ですらドリームキャストをはじめとするゲーム市場では失敗の連続であり(アイドルプロデュースも失敗続きという話があるけどね)、市場規模の違いがあるといっても難しいことに変わりはない。



これは、顧客となるオタクが「下手な業界人より商品知識を持っている」という、オタク業界に特有の背景によるもので、オタク相手の商売を続けている限り「永久に逃れることの出来ない宿命」でもある。恐ろしいことに、これは「評論」に対しても同じことが言え、ソニーのような評論の捏造は論外としても、例えば御用評論家に提灯記事を書かせるといった工作が、少なくともゲームオタクにはなかなか通用しないのだ。



そもそも、宣伝や評論で顧客の注意をひきつけるためには、顧客に対して販売側が「圧倒的に商品知識を持ち、それを小出しにできる環境」が必要で、表現は悪いが「知識の偏在を悪用」しているわけだ。そのため、顧客と販売側の知識差が大きければ大きいほど、その差を埋めるための宣伝や評論が大きな力を持つということになる。



恐ろしいことに、これは芸術分野においても同じことが言えるというか、むしろ芸術分野においては「受け手が作品の良否を判別しづらい」ことに乗じた、評論による作品ジャンル同士の、あるいは作品ジャンル内での権力抗争が常態化しているといっても過言ではない。



写真というジャンルにおいても、古くは戦前の光画による新興写真の称揚と大正期芸術写真ピクトリアリスム)の全否定から(そういえば「ライカ対コンタックス論争」ってぇのもありましたな)、報道写真に代表される戦中から戦後にかけてのリアリズム偏重をもたらした写真雑誌の選評等がある。これらの論争や選評などを目にした方は既にご存知であろうが、いずれも論者の価値観を逸脱した作品は作品にあらずといわんばかりの、非常に断定的かつ攻撃的な論調であり、多様性を重視する現代の価値観では到底容認できるものではなかろう。
個人的には、細江英公氏が1970年代にオリジナルプリントの重要性を説き、作家自身が個展などを通じてオリジナルプリントを販売する道を拓こうとした際、当時のアサヒカメラが誌上で執拗な攻撃を加え、せっかく育ちかけたオリジナルプリント市場の芽を摘んだという悲劇に(また『provoke』においても、神話性解体の観点からオリジナルプリントの販売を批判していた)、現代まで影響を及ぼす特別な痛ましさを感じる。



これは、価値体系が溶解したといっても過言ではない現代芸術の世界において、よりいっそう熾烈なものとなるのだが、とりわけ1990年代以降は評論が作品価格をダイレクトに左右することが増えたため、作家自身にも作品と同様かそれ以上の熱心さで制作理論を構築することが求められるようになったといえよう。
ただ、制作理論を無視した現代美術に対する価値判断は、おうおうにして勝手な作品解題や単なる感想の羅列に陥ってしまうため、それならば制作理論に重きを置く方が、作家自身が関与している分まだマシということにもなろう。確かに、あえて作家の意図とは異なる文脈から作品を解題したり、純粋に感じたことを表現することも重要といえなくも無い。
しかし、異なる視点からの作品解題は単なるこじつけとなることも多いし、特にフロイトがはじめた精神分析的解題のこじつけぶりは、いささか目に余るものがあるといわざるを得ないし(まぁ、最近も精神科医や脳科学者による美術評が人気を博しているけどね)、ソンタグもあれこれ言いたくなろうというものだ。ましてやただの感想となるとモットひどく、感じたままという口実で「罵詈雑言を並べたてただけ」の文章が実に多いが、そんな代物ですら時として影響力を持つというのが悲しいところだ。



まぁ、こんな調子だから現代美術愛好者は自分なりの意見を熱心に語ろうとするのだが、いかんせん現代美術の領域はやたらと広大で、オタクにすらなりえないまま「ただ評論家や作家の言葉をパッチワークしただけの文章」が大量増殖するという有様だ。ひどいのになると、他人の文章をつぎはぎ的に引用しておきながら、キーワードをピックアップして「○○という言葉は自分の観点から自己流に使っている」とか断り書きして、他者の反批評をかわそうとする姑息な輩までいる。
こんなんじゃ、いつまでたっても評論家のやりたい放題だと思うけど、これは本当の意味で「ファンの資質や能力」に依拠する問題だから、自業自得の自己責任ってことになっちゃうだろうな。



まぁ、オタク評論でメディア露出度の高い帽子お化けこと唐沢俊一氏からして「盗用疑惑に平身低頭」という有様だから(からから文だなこりゃ)、あんまりオタクの世界を持ち上げるのもどうかとは思うんだけど、それでも宣伝や評論に騙されにくいという点においてのみ、少なくともオタクの方がまだ健全だとは思うよ。



健全といっても、大阪のおばちゃんぐらいには、だけどね。



丸山トシカズ 展
会場: ミュゼF
スケジュール: 2007年06月04日 ~ 2007年06月09日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469



スティーブン・バーコヴィッツ 展
会場: 表参道画廊
スケジュール: 2007年06月04日 ~ 2007年06月09日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-17-3 アーク・アトリウム B02
電話: 03-5775-2469 ファックス: 03-5775-2469


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