監督 イ・チュンニョル 出演 チェ・ウォンギュン イ・サムスン
ドキュメンタリー映画。2009年公開。
* * *
89歳の76歳の夫婦が牛を飼っている。この牛は平均15年の寿命というのにもう40年も生きている。
耕作用の牛で、荷車をひき、田を耕し、今まで夫婦が8人の子供を育て独立させる手助けをしてきた。
だがもう年で、診察に来た獣医にあと一年くらいだ言われる。
口やかましいおばあさんは、牛の草が汚染されると農薬を使わないおじいさんに、追いかけるように感高い声で小言とを言い続けている。「そんな牛は売って若い牛にしよう」「農薬を撒かないから草がはびこる私はこれでずっと苦労してきた」
と、草を引きながらも小言が尽きることがない。
おじいさんは決心して牛の市に行って売ろうとするが、誰も買い手がつかない。牛が引く荷車に乗って、首につけた鈴の音を聞きながら、夕日が落ちていく夕暮れの道を帰ってくる。
牛はとうとう動かなくなってしまう。おじいさんとおばあさんはじっとうずくまったままで別れの時を迎える。
牛は雪の降る日、山すそに埋めこんもりと土を盛って墓にした。おじいさんは牛の鈴を両手に持ってうずくまっている。
* * *
子供の頃こんな風景は身近にあった。
春に梅が咲いた道を牛が引いたおじいさんの荷車が帰ってくる。
薄紫の三つ葉つつじの花がうす雲のように見える山すそで、鋤を引いている牛とおじいさん。畑ではいざった形で後ろ向きに畝を作るおじいさん。そのそばで寝そべって草をかんでいる牛。
足の悪いおじいさんは体を支えるのに両手に杖を突いている。杖を横において、這うようにして牛の草を刈り、大きな束をしょいこに乗せて運んでくる。夕方になると小枝を集めた薪を乗せてくる。
広々とした畑の中を遠くから荷車を引いた牛が、ゆっくりよろよろと、一歩ずつ踏ん張って近づいてくる。
おじいさんの古いトランジスターラジオが歌ったり話したりしている。
稲刈りは二人ではもう無理だとおじいさんは言う、そこに息子が手配したバインダーがきた。
できたお米を一袋ずつ分けて「子供の数だけあるかね」とおばあさんが言っている。
昔、三ちゃん農業といった、兼業農家とも言うが、近くの畑などは高齢の夫婦がえんどう豆の垣を作ったり、枝豆を植えたりしている。
近くにいる子供は日曜日に手伝いに来たり来なかったり、でも子供たちが食べる米だけは作ると言っている。
私が子供の頃は、家の横に牛小屋も馬小屋もあった。鶏舎に卵を取りに行ったこともある。
田の草取りも泥まみれで子供まで手伝っていた。
今は機械化されてしまったが、この映画のような暮らしがまだ目に残っている。
足の不自由なおじいさんが自分の年に照らし合わせ、苦労をともにした牛との絆が切れないでいる。
静かに流れていく一日一日の暮らしが、この映画のように淡々と進んでいると、形は違っても、こういった人生のあり方に、しみじみと心が静まっていく。
年末年始の特別番組が騒がしい、くだらないことで騒いでも、一日は埋まる。
楽しいこと、便利なことを求めて日々暮らしていくのが豊かなことのようには思える。
でもこの映画のように貧しく、手を汚して暮らす生き方を頑固に守り続けている、何もない変化のない日常こそ平安と言うものではないかと感じる。
韓国のこんな映画はとても身近に感じる、胸が一杯になって泣けた。
この映画に写っているおじいさんとおばあさんは今も変わりなく暮らしているそうだ。
映 Vol.1
ドキュメンタリー映画。2009年公開。
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89歳の76歳の夫婦が牛を飼っている。この牛は平均15年の寿命というのにもう40年も生きている。
耕作用の牛で、荷車をひき、田を耕し、今まで夫婦が8人の子供を育て独立させる手助けをしてきた。
だがもう年で、診察に来た獣医にあと一年くらいだ言われる。
口やかましいおばあさんは、牛の草が汚染されると農薬を使わないおじいさんに、追いかけるように感高い声で小言とを言い続けている。「そんな牛は売って若い牛にしよう」「農薬を撒かないから草がはびこる私はこれでずっと苦労してきた」
と、草を引きながらも小言が尽きることがない。
おじいさんは決心して牛の市に行って売ろうとするが、誰も買い手がつかない。牛が引く荷車に乗って、首につけた鈴の音を聞きながら、夕日が落ちていく夕暮れの道を帰ってくる。
牛はとうとう動かなくなってしまう。おじいさんとおばあさんはじっとうずくまったままで別れの時を迎える。
牛は雪の降る日、山すそに埋めこんもりと土を盛って墓にした。おじいさんは牛の鈴を両手に持ってうずくまっている。
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子供の頃こんな風景は身近にあった。
春に梅が咲いた道を牛が引いたおじいさんの荷車が帰ってくる。
薄紫の三つ葉つつじの花がうす雲のように見える山すそで、鋤を引いている牛とおじいさん。畑ではいざった形で後ろ向きに畝を作るおじいさん。そのそばで寝そべって草をかんでいる牛。
足の悪いおじいさんは体を支えるのに両手に杖を突いている。杖を横において、這うようにして牛の草を刈り、大きな束をしょいこに乗せて運んでくる。夕方になると小枝を集めた薪を乗せてくる。
広々とした畑の中を遠くから荷車を引いた牛が、ゆっくりよろよろと、一歩ずつ踏ん張って近づいてくる。
おじいさんの古いトランジスターラジオが歌ったり話したりしている。
稲刈りは二人ではもう無理だとおじいさんは言う、そこに息子が手配したバインダーがきた。
できたお米を一袋ずつ分けて「子供の数だけあるかね」とおばあさんが言っている。
昔、三ちゃん農業といった、兼業農家とも言うが、近くの畑などは高齢の夫婦がえんどう豆の垣を作ったり、枝豆を植えたりしている。
近くにいる子供は日曜日に手伝いに来たり来なかったり、でも子供たちが食べる米だけは作ると言っている。
私が子供の頃は、家の横に牛小屋も馬小屋もあった。鶏舎に卵を取りに行ったこともある。
田の草取りも泥まみれで子供まで手伝っていた。
今は機械化されてしまったが、この映画のような暮らしがまだ目に残っている。
足の不自由なおじいさんが自分の年に照らし合わせ、苦労をともにした牛との絆が切れないでいる。
静かに流れていく一日一日の暮らしが、この映画のように淡々と進んでいると、形は違っても、こういった人生のあり方に、しみじみと心が静まっていく。
年末年始の特別番組が騒がしい、くだらないことで騒いでも、一日は埋まる。
楽しいこと、便利なことを求めて日々暮らしていくのが豊かなことのようには思える。
でもこの映画のように貧しく、手を汚して暮らす生き方を頑固に守り続けている、何もない変化のない日常こそ平安と言うものではないかと感じる。
韓国のこんな映画はとても身近に感じる、胸が一杯になって泣けた。
この映画に写っているおじいさんとおばあさんは今も変わりなく暮らしているそうだ。
映 Vol.1
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