今「ガラスの街」はニューヨーク三部作の第一作ということで記録されている。
「孤独の発明」「鍵のかかった部屋」「ムーン・パレス」「偶然の音楽」「幻影の書」と読んできて初期の作品を二冊残していたのは、中篇であり初期に書かれたもので、先に読んだ作品で感じた、私の中の名作「孤独の発明」が次の作品がどういう形で書かれたかにも興味があった。
ただ既読の5冊の中には、共通する実態の掴みにくい孤独感はが相変わらず座り込んで在り、それを包むように明晰で分かりやすい言葉が連なっている。
次第にストーリー性が増し、明確な風景の中から物語が立ち上がってきている。そういう傾向に移行したのかと感じたのだが。
ニューヨーク三部作の頃にはまだ主人公の回りは常に現実との境が曖昧で、存在自体も、本人にさえも見えない部分がある。
主人公たちは、その見えない部分を自分中や知り合った人たちに見たり触れたりしてして、鑑に写したように実感を得ようとしている。だがそれも次第に薄れていく。
ストーリーは、夜中の間違い電話が何度も懸かるので、「ポール・オースター?」ときかれ「そうだ」と答えてしまう。
実はダニエル・クインという探偵作家で、ペンネームはウィリアム・ウィルソンでありその陰に隠れていれば、エージェントとは私書箱を通しての付き合いで、顔を出すことがなかった。彼は半月書き、余った時間を自由に暮らしてきた。
間違い電話の主ピーター・スティルマンは子供のころ幽閉されていた過去がある障害者だった、世界に散見する研究対象で、誘拐されて見つかった子供のように、9年間、言葉や光のない部屋で育ち、父親に実験的暴行を受けて、13年間父が捕まっていたとき、今結婚している妻が教育してきた。父親が釈放される日が近いので殺されないように保護して欲しいと言う。
彼は満足に話せない。
---これはいわゆる話すという行為です。そういう呼び方だと思います。言葉が出て宙に飛んでいって、束の間生きて、死ぬ。不思議じゃありませんか---
彼は電話を受けた手前、彼は作中の探偵ワークとはもう架空の者ではなく、いつの間にか一体感を持っていたし、現在の状況は三人の人格が合体したものに感じられた。
--- 探偵とは、全てを見て、全てを聞き、物事や出来事がつくりだす混沌の中を動き回って、これらいっさいをひとつにまとめ意味を与える原理を探し出す存在にほかならない。実際、作家と探偵は入れ替え可能である。---
出所した父親らしい人物を見張り始める。安ホテルに泊まった老人はニューヨークを徘徊する。彼も後ろから歩いていく。何も怪しいそぶりもなく日が過ぎ。ついに彼は接触を試みる。老人は新しい言葉を作り出そうとしていた。彼は老人の意識を確かめるために話しかけるがもう既に過去のハーバードの秀才教授ではなかった。だが彼の知識の片片から生まれる物語は魅力的で、その奇妙な世界を聞きに何度も出会うようになる。
---ポー作品でデュパンはなんと言っているか?「推論者の知性を、相手のそれに同一化させる」ここではそれは、スティルマン父に当てはまる。」おそらくその方がもっとおぞましい。---
父親はかってヘンリー・ダークという名前で、今ここではないかつての楽園を作るために、乱れた言葉を元に戻すことを解く「新バベル論」について書いていた。その小冊子を見つけた。
赤いノートに記録しながらクインの尾行は続いた。
赤い手帳にはその日の出来事を書きながら見張っていたが老人は消えた。ホテルで聞くと投身自殺をしたそうだ。
くクインは依頼者のスティルマン夫婦のところに行くとマンションは誰もいない空室になっていた。
クインはついに、ポール・オースターを訪ねる。彼は全く何も知らなかった。
そして今書いているのは何かといといに答える。
「ドン・キホーテ」論だという。これはセルバンテスの作ではなくアラビアで書かれ、セルバンテスは翻訳されたものを編集したもので、そういうことは事実を語るのに疑いを挟ませない理由だと言った。そしてドンキ・ホーテは物語に魅せられた。しかし原作のアラビア人は登場する四人の組み合わさったものではないか」
クインの部屋は他人が入っていた。彼は依頼者のスティルマンがいた狭い窓にない部屋で眠る。次第に彼が何もかも億劫になり消えた。
オースターのところに来た友人にこの話をすると、友人はクインを心配して探してみたが彼のいた部屋は赤いノートだけが残っていた。
一人でいることは自由だと言うことだが、それが続くとクインはソローの本を探して読んでみたりする。この自由とは違う。
それでも過去にはウィリアム・ウィルソンであり、創作した探偵ワ-クであり、ミステリ作家のダニエル・クインであった。その頃は快い孤独感とともにニューヨークの町を歩いて楽しむことが出来た。
だが、ふと電話に出て見知らないポール・オースターになり、書く事をやめウィリアム・ウィルソンから離れてしまった、そのとき自分と一体であったものを切り離したあとの独り、このクインとは一体何者だろうか。
仕事だと思った老人の追跡が意味のないものになり、町は次第に陰をなくし、それに連れて存在も希薄になる。孤独というものの実感さえ浮かばなくなり生存するということが抜け堕ちてしまう。それがどんな意味があるのかとさえ考えることのないところに入ってしまう。究極の言葉によって形作られるみえない深い悲しみや空虚感が見事に作品になった、珍しい文学的な前衛だという言葉が分かる、初期ポール・オースターの作品だった。
この形式とセルバンテスの部分は少し共通の部分もあるように思うがここまでにする。
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