なごみの花屋さん

花好き親父、ラッキーフラワーの写真館です。
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ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ館 (閉館) 2015.01.10

2015年01月10日 | 黒田官兵衛ゆかり

2014年1月12日にオープンした【ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ館閉館】が入館者60万人を達成し、

2015年1月10日午後4時30分入場を締め切り、午後5時に閉館しました。

最後に関係者一同と観客も一緒になり勝ちどきを挙げドラマ館の成功を祝いました。











子供達にはアーモンドラスクのお菓子が配られ、写真はフリーです。



スタッフ一同が入館者のお見送りです。



入館者の最後20人に記念品が贈呈されました。

黒田官兵衛が有岡城の土牢に幽閉 (ひめじの黒田勘兵衛大河ドラマ館) 2014.05.15

2014年05月16日 | 黒田官兵衛ゆかり

大河ドラマ軍師官兵衛は、そろそろ有岡城の荒木村重に捕らえられ土牢に幽閉されるシーンですね。

【ひめじの黒田官兵衛大河ドラマ館】では、官兵衛が有岡城に捕らわれた土牢を体験できます。



土牢の内寸は、奥行き約0.6m・幅約2.5m・高さ約1.6m程の狭さです。



土牢の窓から官兵衛が心の支えとした藤の花が見えます。



ドラマで度々登場する官兵衛の居室です。



残念ながら大河ドラマ館での撮影出来るポイントは、(有岡城の土牢)と(官兵衛の居室)の2ヶ所だけです。



綺麗になった姫路城の天守閣が大分見えてきました。

篠の丸城跡 (山崎の城跡) 宍粟市山崎町 黒田官兵衛ゆかりの地

2014年04月18日 | 黒田官兵衛ゆかり

赤松円心の次男貞範が築城したと伝わる山城(標高324メートル)です。

赤松氏の守護代として最盛期には播磨国西八郡を領した宇野氏の居城長水城の支城となり家臣に守らせます。

宇野氏は毛利氏と通じて、中国地方へ進出した羽柴秀吉と対立します。

天正 8年(1580年)秀吉に攻められ長水城と共に落城。

天正12年(1584年)7月 官兵衛は秀吉から宍粟郡を与えられます。

            山崎は最初に大名(1万石)となった地です。

天正15年(1587年)7月 官兵衛、豊前国に移封されます。



土塁の上に篠の丸城跡の石碑が有ります。

「黒田家譜」によると官兵衛は山崎の城を居城したとありますが、この篠の丸城が山崎の城にあたるのではないかと考えられています。

その城主であった期間はほんの数年で、その時官兵衛は秀吉の軍師としてともに各地を転戦したため、
山崎の地と官兵衛のエピソードは何一つ残っていないそうです。

また官兵衛の次男熊ノ助がここで出生したとも言われています。



主郭(本丸)



主郭からの眺望(千種川)



妙見宮跡


西の堀切



篠の丸城跡立体地図(縄張図)

有岡城跡 (荒木村重) 伊丹市 黒田官兵衛ゆかりの地

2014年04月09日 | 黒田官兵衛ゆかり

南北朝時代に伊丹氏が伊丹城を築城する。

天正2年(1574年)荒木村重が城を落とし大改修し、有岡城と変更。

天正6年(1578年)10月信長から村重突如離反。

           蜂須賀正勝が村重と交渉失敗。

           黒田官兵衛も村重を説得に行くが幽閉される。

           官兵衛は土牢から見える藤の花に励まされ頑張る。

天正7年(1579年)10月有岡城落城、村重毛利方へ逃げる。

           落城の際に官兵衛は有岡城の土牢から救出される。

天正8年(1580年)池田之助が城主になる。




石垣には庭石や墓石まで使われています。

黒田官兵衛はこの近くの土牢に捕らえられていたのでしょうか?

近くに姫路城からの藤ノ木が植えられています。



礎石建物跡



井戸跡



土塁



空堀(傾斜になっているので水は入りませんね。)



岸の砦跡(北曲輪の跡)

猪名野神社境内西側に土塁が残っています。

妻鹿国府山城跡(めがこうやまじょう) 姫路市 ・ 黒田官兵衛ゆかりの地

2014年04月02日 | 黒田官兵衛ゆかり

妻鹿国府山城は姫路市飾磨区妻鹿、市川の河口にあります。

羽柴秀吉の播磨侵攻にあたり黒田職隆(父)と孝高(官兵衛)は、天正5年(1577年)、「天正8年(1580年)ともある」

姫路城を秀吉に譲り、妻鹿国府山城(功山城)に移ったと言われています。



荒神社の参道横に妻鹿城跡への登山口が有ります。

主郭までは20分程で登れます。



馬駆け



経塚跡からは瀬戸内海が見下ろせます。



狼煙(のろし)郭跡 (鍛冶屋) 通称かなくそ



二層の隅櫓(すみやぐら)跡



主郭跡



主郭跡からの眺望、姫路城、広峰山、書写山、土器山、青山古戦場など姫路が見渡せます。



庭園郭



磐座跡(いわくらくあと)






黒田職隆廟所(法名:黒田宗円・官兵衛の父)が妻鹿国府山城を少し南に行った所に有ります。

上月城 二度落城の悲劇 (赤松政範)・(尼子勝久・山中鹿介) 佐用町上月・ 黒田官兵衛ゆかりの地

2014年03月28日 | 黒田官兵衛ゆかり

【上月城本丸跡と赤松政範の石碑】

上月城は、戦乱の世、東の織田・西の毛利のはざまで、半年間で二度落城した城です。

秀吉は1577年(天正5年)11月27日福原城(佐用城)を攻略し、翌日に上月城(赤松政範)を取り囲みます。

備前・宇喜多氏が援軍に来ますが、散々打ち負かして撤退させます。

12月3日に城内に攻め込みます。

城兵の首をすべてはね、城内の女こども約二百人を磔と串刺しにして国境にならべるなど凄惨な結末をむかえます。

これが一度目の落城です。

 この時上月城主の妻は官兵衛の妻・光の姉だったといわれています。

妻の姉がいる城攻めに先陣を務めた官兵衛の心境はいかばかりだったでしょう。

(後年、上月城主の妻の墓は九州福岡に実在することから、戦いの合間に縁者により救出されたものと思われます。)


 次に、上月城は尼子勝久を主とする山中鹿介らが入ります。

しかし、1578年(天正6年)4月、毛利方約三万の軍勢によって取り囲まれてしまいます。

秀吉や荒木村重などの援軍は、高倉山城に陣を置きますが降着状態が続きます。

 時を同じくして播磨の別所長治(三木城)が突如織田に背いて毛利氏に付きます。

これらの対応に苦慮した織田氏は、上月城救援をあきらめ、三木城別所氏攻略に集中します。

孤立無援となった上月城はついに7月4日二度目の落城となります。




上月城跡登山口



堀切跡



上月城からの眺め(千種川)



尼子勝久・山中鹿介・上月城戦没者などの供養碑。



三木城 (別所長治) 三木市 黒田官兵衛ゆかりの地

2014年03月26日 | 黒田官兵衛ゆかり

【三木城天守跡】

天正6年(1578年) 3月 五代目城主別所長治のとき、信長から離反したため秀吉が三木城を攻める。

               高砂の梶原氏と明石の明石氏も離反。

            4月 官兵衛、別所氏の救援にきた毛利勢を加古川の別府で撃退。

           10月 有岡城の荒木村重が突如離反。
              
               蜂須賀正勝が村重と交渉失敗。

               官兵衛も小寺政職にそそのかされ村重を説得に行くが幽閉される。

天正7年(1579年)11月 有岡城落城。(村重は毛利方へ逃げる。)  

天正8年(1580年) 1月17日 三木城落城。(別所一族自刀)


【別所長治 辞世の碑】

「今はただうらみも あらじ諸人のいのちに かはる我身とおもへば」

秀吉は籠城する三木城をなかなか落とせなかったので、城を包囲し兵糧攻めにする。

約1年8ヶ月城内では餓死者が続出し、天正8年1月17日長治は城兵の命と引き替えに一族と自刀し、三木城を開城。

この合戦が【三木の干殺し】です。





 天守跡横に別所長治の石像があります。


 かんかん井戸


 本丸跡からの夕景、長治もこんな夕日を見ていたんでしょうか?


 三木城包囲の秀吉軍武将配置図


 三木城想像図 (下田勉氏の原図を元に作成されたもの)


「荒木村重が餅を食らう 」 黒田官兵衛ゆかり

2014年02月27日 | 黒田官兵衛ゆかり

荒木村重像(伊丹市立博物館所蔵) 伊丹市教育委員会事務局のパンフレットより。

「荒木村重錦絵図」は19世紀半ばの筆だそうです。

『太平記英雄伝』によると村重が織田信長に拝謁した時に、「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、
それがしに切り取りを申し付ければ身命を賭して鎮め申す」と言上した。

これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭の盛っている皿に向けて饅頭を突き刺し「食してみろ」
と村重の目の前に突き刺した。

周りにいたもには青ざめましたが、村重は、「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、
それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、摂津を村重に任せたという、その時の絵図です。




荒木村重像(伊丹市立博物館所蔵) 伊丹市教育委員会事務局のパンフレットより。

置塩城 (赤松氏) 姫路市夢前町宮置 黒田官兵衛ゆかりの地

2014年02月22日 | 黒田官兵衛ゆかり

 (置塩城本丸跡)

1469年赤松政則が築城し本城とした。

天正5年(1577年)5代赤松則房の時、秀吉の中国攻めで降伏。

秀吉が中国攻めの拠点として姫路城を築城する際、置塩城を廃城として解体し資材として使用。

なお現存する姫路城の「との門」はこの時移築されたものと言われている。



置塩城は置塩山(通称:城山)標高370メートルの山城です。






南曲輪群



やっと18丁、登山口からここまで約40分です。



茶室跡



二の丸北曲輪群



二の丸の石垣



二の丸跡



本丸南曲輪群



本丸からの眺望(夢前川)







飛龍の滝 大河ドラマ『軍師官兵衛』のタイトルバック ロケ地 2014.02.16

2014年02月16日 | 黒田官兵衛ゆかり

飛龍の滝は佐用町櫛田にあります。

綺麗な滝ですが、今日は水量が少ないのがちょっと残念ですね。



右上に白で小さく写っているのが飛龍の滝です。(駐車場から)


駐車場から90メートル程上がれば着きます。





このような状態に足場を組み3Dマッピングされ撮影されたようです。(佐用町観光協会の看板より)



3Dマッピングしたものを撮影したらこのようになるようです。   (佐用町観光協会の看板より)


英賀合戦 (三木氏) 黒田官兵衛ゆかりの地

2014年02月07日 | 黒田官兵衛ゆかり

【英賀城本丸跡】

1576年信長と毛利氏は対立関係となり、織田方の小寺氏も必然的に毛利氏と交戦状態となります。

英賀城(三木氏)の後詰(ごづめ)のため毛利軍5000の船団が海路より英賀に上陸します。

官兵衛(小寺軍)はたった500で上陸直後の毛利軍を急襲するため、

近在の農民たちを集めて旗や指物(さしもの)を持たせ大軍に見せかけて敵を攪乱させ撃退します。

官兵衛の自軍を大軍に見せかける奇策が勝利を呼び込みました。




英賀神社



【英賀城土塁】英賀神社境内の北側に土塁が残っています。



司馬遼太郎『播磨灘物語』の石碑が英賀神社本殿の東にあります。

司馬遼太郎の先祖が英賀城の家臣だったらしいです。



英賀城公園が英賀神社の北側にあります。

公園に石垣が作られていますが、何の石垣か説明書が無いので解りません。



英賀城跡には10ヶ所ほど石碑が有るらしいのですが、4ヶ所しか見つかりませんでした。






青山・土器山の合戦(青山古戦場跡) 黒田官兵衛ゆかりの地

2014年02月01日 | 黒田官兵衛ゆかり

今からおよそ450年前の1569年黒田官兵衛(姫路城)と赤松政秀(龍野城)が戦ったのがここ【青山古戦場跡】です。

官兵衛軍は僅か300で土器山〈かわらけやま(今の秩父山・下手野)〉に、

赤松政秀軍はその10倍の3000で小丸山(青山古戦場の東側)に陣取ります。

官兵衛軍は悪戦苦闘した末夜に奇襲攻撃し赤松軍を打ち破り、華々しい勝利を飾ります。

この時英賀城(三木道近)280の援軍や父職隆の援軍もあり勝利したともあり、

青山の合戦と土器山の合戦が一回のものなのか二回に分かれたものなの解りません。

(現在小丸山は造成されゴルフ場と宅地になっています。)



合戦場はこの千石池(戦国池)周辺です。

今の青山ゴルフクラブの10番・18番ホールにあたるそうです。



黒田軍陣地の土器山(秩父山)は青山古戦場から東の菅生川(夢前川)を渡った所にあります。

土器山は船越神社や秩父山公園からのぼれます。



山頂には黒田官兵衛【青山合戦陣地跡】の看板が付いています。



黒田軍陣地跡からの眺望、西に赤松軍陣地(小丸山)や青山古戦場が望めます。

赤松軍は龍野街道の桜峠を越え攻めてきました。


龍野古城(山城)赤松政秀 (黒田官兵衛ゆかりの地)たつの市

2014年01月31日 | 黒田官兵衛ゆかり

龍野古城は(1499年)鶏籠山山頂(標高約200m)に赤松一族が築城し、赤松村秀が初代城主になりました。

1569年2代城主赤松政秀は姫路城を攻めるため龍野街道を進み、土器山で陣取る官兵衛と【青山土器山の合戦】となります。

1577年赤松広英は戦わずして秀吉に城を明け渡します。

1598年山城を取り壊しふもとの現在の城が築かれます。

本丸跡まで30分程で登れます。



土塁


削平地(さくへいち)と石垣(野面石:自然のままに近い石)


二の丸跡


本丸跡


八幡宮に続く(石畳)


八幡宮跡と本丸の石垣(野面石)


本丸からの眺望(揖保川)、この先の海岸には1566年に落城させた室津城(おたつの嫁入り先)があります。


(矢竹)弓矢は戦いに欠かすことの出来ない重要な武器であり、大切に植えられていました。


山裾に再建された(埋門)


山裾に再建された(本丸御殿)


龍神池はこんな感じだったかな?  

私なりに龍野城からの距離、大きさ、見た目など考え探してみました。


志方城跡 (観音寺) 黒田官兵衛ゆかりの地 (加古川市) 

2014年01月28日 | 黒田官兵衛ゆかり

志方城の櫛橋伊定の娘【光てる(幸圓こうえん)】は姫路城の官兵衛に嫁ぎます。

志方城は1492年に築城され、櫛橋氏は播備作三国の財産出納の役を務めます。

1578年羽柴秀吉の攻略にあって落城します。

城主の墓碑を守るため城の本丸跡に禅寺を創建されたのが観音寺です。




左・志方小学校が二の丸跡、右・観音寺の境内が本丸跡です。




観音寺の北側に櫛橋家の累代墓所が祀られています。