森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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決められないを口実にした改憲論【一院制導入】
こんな中、国会の二院制をあらためようとする議員たちが改憲案を提出する動きにあることが伝えられました。
衆参両院を統合して「一院制」を目指す超党派の議員連盟に参加する議員が、5年後の2017年に国会を一院制にして、国会議員の定数を500人以内とする憲法の改正案を27日、衆議院に提出しました。
改正案が正式に受理されれば、今の憲法が制定されてから初めてです。
この議員連盟は、国会議員の定数削減や審議の迅速化を図るため、衆参両院を統合して「一院制」にすることを目指しており、衆参両院の憲法審査会で実質的な議論が始まったことを受けて、27日、議員連盟に参加している民主党、自民党などの衆議院議員10人が「一院制」の実現に必要な憲法の改正案を衆議院に提出しました。改正案では、5年後の2017年に憲法を改正して施行し、国会を「一院制」にして国会議員の定数を500人以内にするとしています。
衆議院事務局によりますと、憲法の改正案が国会に提出され、議院運営委員会の了承を得て受理されれば、今の憲法が制定されてから初めてということです。
改正案の提出後、議員連盟の副会長を務める自民党の高村元外務大臣は記者会見し、「ねじれ国会のもと、政治があらゆることを決められないということが国民全体の閉そく感にもつながっており、早く改正案を提出すべきだと考えた」と述べました。
一院制議連 憲法改正案を提出
改憲案はようするに、高村氏のコメントにある「ねじれ国会のもと、政治があらゆることを決められないということが国民全体の閉そく感にもつながっており、早く改正案を提出すべき」という言葉に象徴されているように、国会の現状にたいする批判をいわば逆手にとったような提案だとも受け取れます。
では、はたして今日の国会の停滞は二院制に起因しているのでしょうか。
そうであるのなら、二院制は今にはじまったわけではなく、いわゆる55年体制といわれる時代にももちろん存在していたはず。そのときに国会の停滞や閉塞感が今日と同じように語られてきたのであれば、二院制を犯人に仕立てることも理屈として分からないではありません。が、そんなことはなかった。
こうした停滞の現状をもたらす要因を二院制に求め、衆参二院をあらため一つにしようとする考えを仮に一院制論とよぶとすれば、それは、いわゆる二大政党政治を定着させようとしていたものの、うまく機能していないことを棚上げした議論といわざるをえないでしょう。
換言すると、小選挙区制度をもとに二大政党政治をめざしたが思惑どおりにはいかず、政権交代そのものが政治がかわるという有権者の期待に反した結果、事態は、衆院の多数派が次の参院選で惨敗を繰り返すという衆参の「ねじれ」が常態化することになったわけです。その上での国会審議の停滞を生んだということにほかならないでしょう。だから現状は、二大政党による小選挙区を中心にした選挙制度とも深く結びついていると考えざるをえないでしょう。
この点にあえてふれずに、分かりやすくいえば「決定する」という結論だけを求めるような動きが今回の改憲案提出だといってよいでしょう。
二院制については、
- 立法機能を分割させることで議会の多数派による専横を抑止する
- 慎重審議が可能になる
- 国民の多様な意見や利益を反映できる
決定できる政治ということを片方で橋下氏らが語っていますが、結果的に、改憲案の提出はマッチポンプを具現化したものと指摘せざるをえません。いうまでもなく、そこには、二大政党が機能していいない現状を強権的に打開しようとする意思がみてとれるのではないでしょうか。
国会審議の現状にたいする批判や不満をたてにした、むしろ多数派専横を助長しかねない一院制導入をめざす動きには反対せざるをえません。

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石原「暴力予告発言」は許されない
東京都の石原慎太郎知事(79)が24日、朝日新聞記者に「みんなの前で殴るからな」と鉄拳制裁を予告した。逆鱗(げきりん)に触れたとみられるのは、23日付の朝日新聞夕刊の石原都政を総括した記事。この日、原作や脚本などを担当し、自らも47年ぶりの映画出演となる「青木ヶ原」(来春公開予定)のロケのため、静岡県富士宮市を訪れた石原氏は、取材中の朝日新聞の男性記者に「おい、おまえ、朝日か。この野郎は意地悪いんだよ」などと激怒した。
「みんなの前で殴るからな」―。石原氏が朝日新聞の記事について激怒し、取材していた朝日新聞記者を威圧した。
怒りの発端となったとみられるのは、23日付の朝日新聞夕刊の記事で、見出しは「石原知事 都政飽きた?」。内容は石原氏が取り組んできた執筆活動や尖閣諸島問題、石原新党などを知事周辺の声などを交えながら、4期1年目を総括したもの。都政への関心が薄れているという周囲の見方を伝え、「もともとわがままだけど、さらにわがままになっている」と冷ややかな声も報じている。
石原氏はこの日、映画「青木ヶ原」のロケを静岡県富士宮市のゴルフ場で行った。「6時半に起きたのは、小学校以来だよ」と“早起き”ぶりをアピールし、ゴルフウエアで決め、撮影も順調に終えた。だが、その後の取材で怒りが爆発。朝日新聞記者の質問を遮ると、顔を紅潮させまくしたてた。
慎太郎知事「みんなの前で殴る」朝日新聞記者に“鉄拳制裁”予告
こうした暴力を肯定する発言に真っ先に反応すべきはメディアでしょう。しかも、メディアにたいして発せられた言葉ですから、なおさらです。
権力を傘に恫喝する。もっとも卑劣な行為ではないか。
記事に事実誤認があれば、それを正す手続きはいくらでもあるはず。
メディアの役割の重要な一つが権力のチェックだとすれば、こんな発言を野放しにしてはならないでしょう。この件を新聞各社は今のところ報道していないようです。仮にも都知事たる者が暴力をふるうことを予告するのを(メディアが)黙認することそのものが理解しがたい。これが率直な印象です。
つまるところ、暴言や放言にメディアも鈍感になっている現状があって、その延長の一つとしてこの発言がとらえられているとすれば、それ自体、ジャーナリズムのあり方として深刻な問題ではないでしょうか。そうであるのなら、メディアの質がまず問われる。同時に、それは、政治をこんな低レベルにとどめておくことをも意味します。
暴力を容認することはできません。
即、辞職に追い込まれてもしかたのない内容だといえますし、それだけにメディアには機敏で的確な報道が求められていると思えてなりません。

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問責と看過できない石原・橋下・河村発言
たしかに、問責に値する理由がこの2人の閣僚にはあって、おそらく結果的に政権も辞任やむなしの態度をとる可能性もありうるのではないかと推測されます。
国政では、こうして問責決議にみられるように責任を問われるという手続きがいわば慣習のように現存しています。
田中直紀防衛相、前田武志国土交通相に対する問責決議案がきのう、参院に提出された。
田中氏には、安全保障の基礎知識がまったくない。地方選挙で特定候補への支援を求めた国交相名の文書は違法だ。そんな理由で自民党などが出した。あすにも可決される見通しだ。
またまた問責である。いまや国会の年中行事のようだ。
私たちは問責決議の乱発と、決議後に審議を拒む政争を繰り返し批判してきた。国会の劣化を象徴し、政治不信を膨らませるからだ。この考えはいまも変わらない。
そのうえで、今回はあえて田中、前田両氏ともみずから辞任することを求める。
田中氏の「素人」ぶりは、国会答弁から明らかだ。PKO部隊が展開している国名さえ誤る田中氏が、国民や自衛隊員の生命や安全に責任を負えるのか。
政府が検討する武器使用基準の緩和など、憲法にからむ問題を任せるには心もとない。普天間など沖縄の基地問題で米国と渡り合い、県民の信頼を回復することも望めそうにない。
前田氏の文書は、今月の岐阜県下呂市長選の告示前、地元建設業協会などに送られた。観光振興の支援を約束しつつ、特定候補への「ご指導、ご鞭撻(べんたつ)」を求めていた。これは公職選挙法が禁じる公務員の地位利用や事前運動にあたらないのか。
前田氏は文書に目を通さずに署名したという。だが軽率だったで通じるだろうか。旧態依然の職権をかさにきた圧力そのものではないのか。
この事態を招いた最大の責任は野田首相にある。
………
問責決議提出―2閣僚は辞すべきだ
しかし、最近思うのは、では地方政治において平たくいえば好き勝手なことをいっても具体的に何事もなかったかのように平然としている例に事欠かないように思われます。好き勝手なことといいましたが、首長が差別的発言やこれまでの歴史認識に反するような発言をしたというのに、問責もない、メディアもそれを報じはしても追及する姿勢を堅持できないという現状にあるのではないかと感じるのです。たしかに、地方自治体の議会にも首長に対する不信任決議を行う権限はありますが、出席議員の4分の3以上の賛成という具合に成立要件が厳しい上、不信任決議を受けた首長は議会解散により対抗することができるという条件の違い(また法的拘束力のない過半数による決議)があるとはいえ、釈然としないものが残ります。
- 河村名古屋市長の南京事件に関する発言「通常の戦闘行為はあったが、一般人への虐殺行為はなかったと聞いている」
- 橋下大阪市長の度重なる北朝鮮を侮辱するような発言「偉そうに民意をバカにする輩ほど北朝鮮では獄中行きだ!」
- 石原都知事の中国にたいする発言。領有権を主張する中国の強硬姿勢について「何で日本政府や日本人は反発しないのか。半分宣戦布告みたいなものだ」
いずれも地方政治の首長にちがいはありません。が、大都市といわれる自治体の首長ですから、発言が日本社会に少なからず影響を与えることについては十分心しておいてほしいものです。しかし、この3人はこのように指摘しないといけないことがたびたびあったのではないか。地方政治とはいえ、首長の差別発言や歴史認識が疑われる事態には的確な批判が求められるのではないでしょうか。そして、差別や事実誤認にたいしては批判されてしかるべきという国民的な認識を共有できる社会であってほしいと思えます。
そのために、メディアの果たす役割は大きいはずで、地方政治におけるこうした甘さを生む背景の一端はメディアの姿勢にもあるように思えてなりません。
先にあげた3人の首長の発言は、いずれも当該国との関係を悪化させることはあっても、友好な関係を築く上で役割を果たしうるようなものではけっしてありません。本来であれば、後者に値するような発言が期待できる首長をこそ私たち有権者は選びたいところでしょうが。
その意味では、しばしば報道され問題となっている事態をふまえても、この3人についてはすでに失言・舌禍の領域を通り越しているのではないかと疑いたくなるところです。この現状はあらためられなければなりません。
いわゆるヘイトスピーチといわれる発言にかかわる首長には少なくとも責任が問われるものという世論をつくりあげるための努力が、一方では有権者にも求められてもいると考えたいものです。

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無責任な税金ムダ使い-都知事「尖閣」発言
東京都の石原慎太郎知事は16日午後(日本時間17日未明)、ワシントン市内のシンクタンクで講演し、「日本人が日本の国土を守るため、東京都が尖閣諸島を購入することにした」と述べ、尖閣諸島の魚釣島、北小島、南小島を個人所有する地権者と交渉を開始したことを明らかにした。
代理人を通じて詰めの交渉を続けているといい、基本的な売買の合意はすでに得ているもようだ。購入後は、沖縄県や石垣市に共同所有を提案する考え。
石原知事によると、売買交渉は昨年末に開始。山東昭子参院議員を通じて地権者の埼玉県在住の男性と会談する機会があり、男性が「東京都が買ってくれるのなら売ります」と話したという。
………
東京都が尖閣諸島購入へ ワシントンで石原知事が明言 「日本人が日本の国土を守る」
すでに地権者と交渉しているとか。しかし、買い取るにしても、出ていくのは都民の税金。自分の懐から出すのならともかく、都民が知らぬ間に、税金の使い道を勝手に決めてしまうやり方は、いいかえると税金の私物化に近い。
この都知事の動きを知って、政府も買い上げを言い出すに至っています。
藤村修官房長官は17日の記者会見で、民間人が所有している沖縄県・尖閣諸島の一部の国有化の是非について「今は(国が)お借りしているが、必要ならそういう発想のもとに前に進めることも十分にある」と述べ、政府が今後買い上げを検討する可能性に言及した。
尖閣問題をめぐっては、政府は3月、尖閣諸島の一部に名称を付与したうえで国有財産台帳に登録するなどの措置を実施。民間所有の島についても、所有者への所有継続の意思を確認するなどしていた。一方、東京都の石原慎太郎知事が尖閣諸島の一部を都が購入するとの考えを示したことについて、藤村氏は「都の動きは承知していない。必要があれば情報提供を求めたい」と述べるにとどめた。
尖閣諸島:官房長官、政府買い上げ可能性に言及
何よりも、尖閣諸島を買い取ることによって、外交上の問題として再燃した場合、石原都知事に当事者能力はないはず。まさに無責任のそしりは免れません。買い取りを米国の地でメディアを前に公表するのですから、中国を逆なでするのを自ら選んだとしかいいようがないように思えます。
1970年代以降、中国が同諸島の領有権を主張しはじめ、日中両国間で帰属をめぐって問題化しています。しかし、外交は、事実にもとづき主張すべき点ははっきりと相手に伝え誠実に対処するほか、解決の道はないと思われるところです。
中国の領有権主張は先にふれたようにおよそ40年前くらいからですし、それまでは両国間にこの諸島をめぐってなんの争いもなかったのですから、国際法にしたがえば、最初に占有した国、つまり日本の領有が認められることになるものと思えます。政府に求められるのは、この見地にたって堂々と誠実に中国側に主張し交渉することがまず出発点ではないか。
今回の石原都知事の言動は、この点にてらしても、いたずらに緊張を高める可能性をはらむ一方で、問題解決には何の役にもたたない代物です。
都民不在の無責任きわまりない都知事の言動には、厳しい批判こそがふさわしいのではないでしょうか。

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戦争する国と武器共同開発-三原則破る野田政権
日英間の武器共同開発と生産について合意したのです。
民主党政権は、国会での最大の争点となっている消費税の5%からの税率引き上げに加えて、武器輸出三原則の事実上の棚上げという、これまでの自民党がなしえなかった領域に足を突っ込んだわけで、日本への国際的な信頼を根本から損なうものとなるにちがいないと思えます。
これを、朝日社説がとりあげています。
野田首相と英国のキャメロン首相が先週、日英両国で武器などの防衛装備品の共同開発・生産を始めることで合意した。
戦後日本の防衛政策の柱だった武器輸出三原則が、ずるずると骨抜きになっていく現状に強い危機感を抱く。
私たちは昨年末に野田政権が米国以外との共同開発もできるように三原則をなし崩し的に緩和したときから、こうした事態を懸念してきた。
ここで改めて、日英両政府に対し、最低限、次の二つの項目の順守を求める。
一つめは、第三国への移転に明確な歯止めをかけることだ。これは三原則緩和の前提であり、ゆるがせにはできない。
………
二つめは、殺傷力のある武器の共同開発にはかかわってはならないという点だ。
………
だが、コスト削減といった目先の利益にとらわれ、武器輸出三原則の精神をなおざりにする対応は絶対に許されない。
日英武器開発―平和主義の理念を守れ
すでに昨年末、これまでの三原則を全面的に見直し、日本が欧米諸国などと共同開発・生産した武器を他国に輸出することを認めた新基準を発表していました(参照)。武器輸出三原則は侵略戦争の反省のもと、日本の武器で他国民の命を奪わないという願いがそこに込められたものでしょう。三原則には、当時の三木内閣が1976年2月に「憲法…の精神にのっとり、『武器』の輸出を慎む」と明記したものです。三木首相が衆院予算委(1976.2.27)で政府統一見解として答弁したものは以下のとおりです。
「武器」の輸出については、平和国家としての我が国の立場から、それによって国際紛争等を助長することを回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、その輸出を促進することはしない。
1.三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。
2.三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国
貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
3.武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うもの
とする。
ですから、武器輸出の禁止は戦争そのものを否定した憲法の精神を論拠にした平和的原則であるにもかかわらず、すでにその原則を昨年、骨抜きにし、今回、具体的に戦争をする国イギリスとの共同開発に踏み出したもので、憲法と国会決議(衆・参本会議における「武器輸出問題等に関する決議」、1981年)をないがしろにした暴挙に等しいものだといわざるをえません。
今回の合意により、日本の兵器産業がつくる武器で他国民の命を奪う可能性が生まれたことになります。昨年末の官房長官談話で、武器を他国に輸出することを認めるのが新基準なのに、藤村氏は「平和国家として国際紛争を助長することを回避するとの基本的理念を堅持する」などと成り立たない話をしましたが、いよいよ言葉とはまったく逆に、今回の合意が戦争加担の道を歩むのを明確にしたものだということを厳しく指摘せずにはおれません。
戦争そのものを否定した憲法の精神を尊重するのなら、新基準の撤回以外にありません。

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「ブラック企業」と若者の労働観
話のネタにされているのは若者たち(下記)。けっこう話題にのぼっているようです。
なんでも彼らがネガティブな労働観をもっているとか。それが気に食わないようです。言葉どおりに仮に受け止めたとしても、若者がネガティブにならざるをえないのは、若者たちが萎縮するような、彼らを取り巻く環境を先行世代がつくりあげてきた結果だともいえなくはありません。だから、そう考えると若者たちのネガティブさを指摘する自らに跳ね返ることになるというアイロニーが成立してしまうのではないか。
雇用環境が依然厳しい今日の若者を題材にした、日本社会の現状をリアルに浮き彫りにするようなものであれば歓迎なのですが、有名ブロガーとカリスマファンドマネジャー(以下、カリスマFMと略)のこの対談で語られるのは、先行世代の目線からの単なる若者批判にとどまっているというのが率直な感想でした。その中の一部について。
若い世代でネガティブな労働観が増えている!
お金儲けは悪だと洗脳され、会社ギライが多い日本人
まず、カリスマFMがこういいだします。この認識ははたして確かなものなのでしょうか。
感じることなんですが、日本の大学生は最近、すごく保守的になっていて、海外に出ていくどころか、ベンチャー企業や小さい企業よりも大企業に就職したい、さらには地方公務員になりたいという志向が強まっています。
その背景には、「会社嫌い」、さらには「労働嫌い」の思想が広まっていると思うんです。「働くことによる社会的な充足感」をすごく否定する雰囲気が広がっている。なるべく働かない方がいいという……。
僕が言っているのは、一所懸命働くことを是とする会社を、一律に「ブラック企業」とか呼ぶ風潮に対する疑問です。それは、「労働というのは、ストレスと時間とをお金に換えている」というような考え方であって、今、こうした労働に対するすごくネガティブな価値観が急速に広がっている気がするんです。
これって、ものすごく古びたマルクス主義じゃないですか。資本者(ママ)家がいて、労働者を搾取しているという価値観。働くということは、時間とストレスの代償としてお金をもらうことだから、なるべく労働時間は少ないほうがいいし、残業はない方がいい。でも、そうした考えの人は、働くことの充足感があまりないんです。そして、彼らは変に理論武装していて、こちらが働くことの充足感を伝えようとすると、「資本主義をうまく働かせるために、そういう幻想を振りまこうとしているんだ」と反論してくる。
これに応えるブロガーの発言が逆の意味で出色。
たしかに、私も『蟹工船』が流行るとか、びっくりしました。彼らがまき散らしているのは、まさにマルクス主義的な「資本家と労働者は対立している」という階級闘争史観ですよね。
あえていっておくと、引き合いに出されているマルクス主義に賛成であろうとなかろうと、科学的な根拠があるとはとうてい思えないこうした言説を、著名だとされる2人が恥ずかし気もなく語ることが許される日本社会をこそ疑ってしかるべきなのかもしれません。若者を批判するにせよ、もっと丁寧な分析方法があるだろうにと思わずにはいられません。まったく主観的な思い込みから出発しているとも思えるような対談でした。
たとえば、このように。たしかに、最近、労災認定が決まったワタミの過労死事件での若者の反応はすばやかったし、批判は相当なものでした。カリスマFMはワタミを弁護するかのようにこうのべています。
一所懸命働くことを是とする会社を、一律に「ブラック企業」とか呼ぶ風潮に対する疑問です
いいかえると、カリスマFMのいわんとするところはこうなるでしょう。
一所懸命働くことを是とする会社は、必ずしも「ブラック企業」ではない
しかし、この命題が正しいものだとすれば、論理的には対偶の関係である以下の命題もまた正しくなければなりません。
「ブラック企業」は(必ず)「一所懸命働くことを是としない会社」である
けれど、これは、世間の「ブラック企業」の理解とはまったく異なるように思えます。死ぬほど働かせるのが結果的にも「ブラック企業」だったのです。
だいいち、「ブラック」といわれてきた企業とは、労働者に不当な賃金支払いを強いたり、不法な長時間労働をさせる事実にもとづいた呼称ではないでしょうか。その限りで「ブラック企業」は告発されてしかるべきだと思えます。もちろん「一所懸命働くこと」を是とするか否かが「ブラック企業」であるかそうでないかを分けるモノサシではありません。ただ、働く労働者の扱いがいわば常識とはけた違いに外れた実態にあるから「ブラック」だと呼ばれ、その限りで若者たちの批判は正しかったと彼ら2人には考えてほしいものです。
マルクスによれば、そもそも自分の労働力を売って働いている以上、この文脈にそっていえば搾取がそこにあるとなるのでしょう。が、それはブラック企業であろうとなかろうと同じこと。「ブラック」はあえていえば搾取の程度が法外である、これです。しかし、若者たちの批判は、マルクスに賛同するしないにかかわらず、同じ働く身としてのまさに搾取された結果の死に至った無念さへの共感ではなかったのか。
『蟹工船』が流行るとか、びっくりしました。彼らがまき散らしているのは、まさにマルクス主義的な「資本家と労働者は対立している」という階級闘争史観です
労働時間は少ないほうがいいし、残業はない方がいい。でも、そうした考えの人は、働くことの充足感があまりないんです。そして、彼らは変に理論武装していて、こちらが働くことの充足感を伝えようとすると、「資本主義をうまく働かせるために、そういう幻想を振りまこうとしているんだ」と反論してくる
でも、これが事実ならば、いったい西欧諸国はどうなるのでしょうか。日本よりはるかに労働時間管理は社会として徹底しているように思えます。この論脈でいえば、西欧の企業と労働者はいびつな労働観で凝り固まっていて、西欧社会はそれに埋もれたものだということになってしまうでしょう。
『蟹工船』が話題をよんだのは、派遣切りをはじめ非正規雇用の実態が社会的に暴かれたときでした。それは、まさに大企業を主に労働者を好き勝手に、いいかえるとまるでモノのように使い捨てる日常が批判の的になったわけです。その文脈でそれよりむろんずっと以前の働く者の姿を描いた『蟹工船』が参照され読まれたのではなかったでしょうか。なにもマルクス信奉者がふえたり、あるいはマルクスがあがめられたりという現象は起きなかったはず。対談者2人の危機感とも受け取れるような発想がどこにその源がるのか、私には分かりかねますが、現代の日本社会のつがんだ雇用環境が露わになることへの極度の恐怖というものがどこかにあるのでしょうか。
若者は、彼らを取り巻く環境に直接的には責任を負いようがまったくありません。人の考え方はいうまでもなく社会と無関係にあるのではなく、常に周りの影響を受けるでしょう。おそらくネガティブな労働観だと決めつけられても、若者たちは、それをどう受け取ってよいのか戸惑うに違いありません。
社会と断絶したところに若者たちはいるわけがないのですから、若者たちは目の前の社会をみて自分の働き方を自分で選択しているはず。ですから彼らをを語るのであれば、まず社会のあり方に眼をむけるのを避けては、とらえられるものも見逃してしまうのではないか。2人の対談には、その社会のあり方にほとんど関心はなく、若者と社会とは切り離されたままで語られているからこそ、違法な行為にも鈍感にならざるをえない。したがって、法外な残業に耐えるのが「一所懸命働くこと」だといわんばかりの主張が口にされるのではないか。
そんな主張と、仮に法外な残業はいやだという若者の訴えのどちらをとるのか問われれば、いうまでもなく後者を私はとります。たとえば労基法という若者を守る最低限の社会的ルールさえ守ろうとしない企業にそもそも正義などありえないでしょうから。

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解任劇の間も助成金という税金が飛んでいく
考えるのは、2つの不合理。そもそも政党の体をなしていないものが存在しているという不合理。極論かもしれませんが、党首を選任するルールすらも明確でないことが、この解任劇で露呈してしまったようにみえます。もう一つは、この間の、ほとんど国民の利益とは無縁なところでの党内の分裂さわぎの間にも政党助成金という名の国民の税金が支払われているという不合理。まったく釈然としません。
たまたま弱小の国民新党のドタバタでこの2つの不合理を実感したわけですが、しかし、大なり小なり、このような不合理というものは助成金をうけとっている他の政党にも共通して存在しているのではないか。助成金を受け取っているということは、その部分だけをみれば国家で管理されているようなものだから、国民の利益に結びつかない政党の動向は、税金の無駄遣いと判断されても理にかなっているともいえる。ですから、(国民に直接関係のない)いざこざに誰が税金を支払うものかといわれても仕方がありません。でも、半年ごとに支払われていくのですから納得がいかない気持ちがあとを引きます。
ましてや、この助成金なるものが一人ひとりが支持しようとしまいと一律250円という単価が決められ支払われるという、思想・信条の自由を保障している憲法にも反するようなしくみになっているのですから、いっそう不満がつのっても当たり前ではないでしょうか。
国家管理の助成金といいましたが、管理にはほどとおいのもこの制度の実態。国会議員数が5人以上若しくは国政選挙での得票率が2%以上(この場合は最低1人の国会議員が必要)というゆるい要件を満たせば国民新党の場合、約4億円(2011年実績、下記に2011年度各党の助成(交付)額)が入るというもの。ですから、年末には毎年といっていいほど政党の離合集散が話題にのぼるわけでもあります。分裂劇の背後には、この金をめぐる駆け引きもどうやらあるようにみえて仕方がありません。
民主党 | 168億2588万円 |
自民党 | 101億1468万円 |
公明党 | 22億7534万円 |
みんなの党 | 11億1630万円 |
社民党 | 7億6230万円 |
国民新党 | 3億9571万円 |
たちあがれ日本 | 1億9659万円 |
新党改革 | 1億1941万円 |
新党日本 | 1億3574万円 |
今回のような解任劇のような税金の空費にかぎらず、不祥事や汚職にかかわったとしても議員辞職しないかぎり助成金は所属政党に入ってくるという制度です。政党助成金のスタートは、企業・団体などから政党・政治団体への政治献金を制限する政治資金規正法の改定にともなうもので、いわば制限する代償としてはじまったものです。
しかし、企業・団体からの献金が形をかえていまなお存在し形骸化している以上、政党助成金そのものについて見直す価値はすくなくありません。
関連エントリ;
議員定数削減と「わが身を切る」ということ

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雇用保護には程遠い労働者派遣法改定
法案は、結局のところ自公との協議をへて、抜け道が指摘されていた政府案ですら原形をとどめないようなものに置き換えられたわけで、これではいわゆる派遣切りをなくすには程遠い内容だといわざるをえないと思います。
新聞メディアでは朝日が社説(4月2日)でとりあげました。もう一つ、読売の記事をあげると、実に平板な内容で、しかも着眼点が相当にずれているような印象をもちます。おそらく政府のレクチャーを受けそのまま記事にしたのではないかと疑いたくなるような水準だともいえるでしょう。
派遣労働者の保護を目的とした改正労働者派遣法が28日午前の参院本会議で、民主、自民、公明3党などの賛成多数で可決、成立した。
派遣料金の不透明さが派遣労働者の低賃金につながっているとして、派遣会社に手数料割合(マージン率)の公開を義務づけることが柱だ。同法は公布後、半年以内に施行される。
政府は2008年秋のリーマン・ショック後の「派遣切り」への対応として、10年の通常国会に改正案を提出した。しかし、ねじれ国会で審議が難航し、民主党は自民、公明両党に譲歩し、昨年11月に大幅修正で3党が合意していた。
改正法は、派遣労働者の待遇改善のため、派遣会社が派遣料金と賃金の差額の比率をインターネットなどで公開するよう義務づける。また、派遣先企業が契約期間を超えて働かせるなど違法な派遣があった場合には、派遣先企業が直接雇用しているとみなし、社員に登用させる「みなし雇用制度」を法施行3年後に導入する。(2012年3月28日12時14分 読売新聞)
マージン率公開義務づけ…改正派遣法が成立
たしかにマージン率の公開がうたわれたことにちがいはありません。が、働く者のおよそ3人に1人が非正規雇用で、収入も250万円以下が圧倒的で生きづらさを実感している者が少なくないといわれる現実をみつめるならば、これをどう脱却するのか、そのために、メディアは事実を伝え、情報を共有し、その上で改善の提案を率先して示し、国民とともに考えるくらいのことはやってほしいものです。
一方の朝日は社説でとりあげている点でも読売とは姿勢のちがいを感じます。
主張は、つぎのくだりにあるでしょう。
求められているのは、雇用形態にかかわらず、非正社員が正社員に比べ不当に扱われないようにする横断的な政策である。
年金や税を、働き方に左右されない制度に改める。希望する人には教育や訓練の機会を増やす。専門性や仕事ぶりを客観的に評価する仕組みを、社会として整える。正社員にも多様な働き方を認める。
規制強化だけでは雇用増につながらない。多少コストがかかっても、非正社員のやる気を引き出せば、人材の確保や生産性向上の面でプラスだ。企業側もそんな視点を持ってほしい。
先に派遣切りをなくすには程遠い内容だといいましたが、それは以下の点にあると思えます。
- 製造業・登録型派遣の原則禁止(政府案)を削除し、現行の原則自由化と変わらない内容に変わったこと
- 違法派遣があった場合のみなし規定(派遣先が直接雇用を申し込んだものとする)が先送りされたこと
この点で、朝日の社説では、
有期の契約社員が5年を超えて同じ職場で働く場合、本人が希望すれば6年目からは無期雇用に転換することを企業に義務づける。
だが、5年を前に契約を打ち切る「雇い止め」が相次ぐのではないかと懸念されている。更新時に半年あいだを置けば、前の期間は通算しないですむ「抜け道」も用意された
と、抜け穴についてふれてはいるものの、肝心のたとえば原則自由化に等しい内容にあえて着目していないのは画竜点睛を欠くようなものです。
日本では、非正規だから処遇は低いというのがいわば常識みたいに理解されていますが、他国、たとえば韓国と比べてもこれは日本独特のものであるといわれています。その上しばしば、正規の雇用と非正規の雇用という、あるいは雇用保護か解雇規制の緩和かという二項対立のようにとらえて論じるものも少なくありません。たとえば、正規を解雇しやすくすれば正規の雇用が増え、非正規化に歯止めがかかるなどのように、正規の雇用保護が非正規の現状を生んでいるかのように説かれたりします。しかし、現実には、日本の労働者
保護の指標は、総合ではOECD諸国の中位ほど、有期契約の規制ではもっともゆるい部類に入るという実情が報告されています(参照)。ですから、雇用の保護もけっして高くはないのに非正規の比率が高いのが日本の特徴でしょう。
つまるところ、同一労働同一賃金の原則を確立させ、正規と非正規の均等な待遇を確立することが、労働者にとっても日本社会全体にとっても利益であって、緊急でかつ必要な課題となっているのではないでしょうか。今回の改定では、大半の非正規労働者を規制の対象から外れてしまうわけで雇用保護には程遠く、製造業・登録型派遣の禁止をふくめ抜本改正を強く求めていかなければ、非正規雇用労働者の処遇改善にはつながらないのではないかと思えます。

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首相のその一言 震災に何でも回収するなよ
だからでしょうか、こんな支離滅裂な発言になってしまうのは。
野田佳彦首相は22日、民主党主催の「学生インターンシップ」に参加した大学生ら約30人と首相官邸で懇談した。同席者によると、首相は学生時代に新自由クラブでボランティア活動をしたことを披露し、「アルバイトやインターンシップをいろいろ経験することは良いと思う」と強調。一方、学生からは「国家公務員の新規採用が抑制されるのは心配だ」と就職に悩む率直な声も出た。これに対し、首相は「大震災の痛みを国民皆で分かち合おうという(ことで)、全体の話の中で理解してもらいたい」と説明したという。 (2012/03/22-16:48)
「震災の痛み分かち合おう」=公務員採用減、学生に説明-野田首相
就職できない学生が少なくない割合にのぼることがしばしば伝えられる昨今ですが、首相の言葉を聞き、その場にいあわせた学生たちは将来の展望なぞ、もうほとんど描けないと実感したにちがいありません。記事によれば、「大震災の痛みを国民皆で分かち合おうという(ことで)、全体の話の中で理解してもらいたい」というのですから、ふざけるなと気色ばんでも当然なくらいの発言だと思えます。
新卒にとっては公務員の採用枠が削られるという不安な状況を震災に回収してしまおうという話。震災になんでも回収すれば、わが日本ではそれぞれが痛みを引き受けてくれて、景気低迷のしわ寄せをくう学生たちも厳しさを内に仕舞い込んでくれると思ったのでしょうか。
国家公務員の人員削減はいうまでもなく消費税増税論議の中ででてきた話。もちろんこの野田首相の発言は欺瞞に満ちたものではあるのですが、ここでたちどまって考えなければなりません。
そもそも、消費税増税をやるのならその前にまず身を切れという議論がたしかにありました。そして少なくない人がこれに形の上であれ賛成していた状況でした。ようするに歳出の削減の余地がもっとあるだろう、それさえせずに増税を押し付けるとは何事だという道筋がメディアも後押しししてつくられてきたわけです。その論脈のなかで公務員人件費削減、人員削減も出てきたのですから、まずわが身を切れという世論形成にいわば乗せられた人たちは、その結果がこんな形で学生たちにもはねかえってくるなどとは、おそらく想像だにしなかったのかもしれません。
だから、もっと経費削減しろという立場をとっていたのに、この公務員人員削減は許せないという意見では整合がないのは自明のことです。
消費税増税の条件として歳出削減しろという議論は結局、公務員人員削減だけでなく、公務員給与カットという形にかわり、おそらくは、賃金が減るのだから消費・購買力を低下させ、新卒の雇用環境をかえるわけで、その意味では日本の経済全体に影響を及ぼすものだともいえるでしょう。
まあ、政府は世論のお墨付きを得て、それを逆手にとって人員削減も給与削減もできてしまうという、おいしい結果となったのはなんとも皮肉なのではないでしょうか。
でも、しかし、それでもなお、首相の発言は横におくわけにはいきません。
発言は、ほとんど景気回復のための方策をもちえないことの表明でもありますし、そこに国のかじとりを預かるトップとしての自信や誇りというものをみじんも感じないのは情けないかぎりです。そろそろ先行きがはっきりしだしたので、もう消費税増税をただ一つの「業績」として残そうという、これとてどうなるのか分からないのにかわりませんが、増税以外はもうすでに捨象してしまったと思えるある種の諦観がそこにあらわれているともいってよいでしょう。
痛みを分かち合うというのは、ようするに消費税増税とともに現状の困難をそのまま黙って受け容れよということの異なる表現なのでしょうから。もちろん、その言葉には被災者もふくまれるでしょうし、その意味では何でも軽軽に震災にこうしてかこつけることは、二重に被災者を愚弄するものだといわれてもしかたがありません。
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子どもに冷房は要らない。厳しさに耐えよ・・・
この蒸し暑さというものは、少なくとも東アジアに位置する国に住む人でないとなかなか分からないもののようです。
だから、窓をあけて風をとる。こんな程度の工夫にもならないことくらい、日本では誰でもやることです。でも、同じ日本に長年、住んでいて他にたとえようのないこの日本の暑さを知っていながら、むしろそれに耐えることが美徳だと考える首長がいる。全国にはほとんど自分にしか分からない、理解不能な理屈を仕立てあげ、他人に痛みを押しつけることを少しも恥じない首長がどうもあちこちにいるようです。
航空自衛隊入間基地のそばにある所沢市立狭山ケ丘中学校の防音対策工事を兼ねたエアコン設置工事について、藤本正人市長が「必要ない」として新年度予算に計上せず、防衛省の防音工事補助金を辞退していたことが、21日までに分かった。昨年末から市議会で問題として取り上げられてきたほか、地元中学校の父母や後援会も「納得がいかない」と説明を求めている。
工事は市の防音学校施設計画に基づき、同中の防音とエアコン設置を2010年度と12年度の2カ年で、総事業費は1億4242万円で実施する予定だった。しかし藤本市長は、昨年12月の市議会定例議会の一般質問で、平井明美市議(共産)に「扇風機で十分。子どもたちにエアコンは必要ない」と答弁した。
防衛省は05年、今後の防音対策は夏季のエアコン設置工事を実施すると変更。所沢市も06年から、防音校舎には除湿工事を進め、同中も設計予算はすでに議決されて完了している。
藤本市長は開会中の3月定例議会でも、福原浩昭市議(公明)の質問に「暑いからエアコンを単純に与えるのではなく、子どもに厳しい環境で努力してもらうことも必要」と答弁。熟慮の末、予算を計上しないことを決断したという。
「子どもに冷房不要」 所沢市長が補助辞退
こんな首長の「英断」をまともにうけとらざるをえない子どもたちがなんとも気の毒でたまりません。「扇風機で十分。子どもたちにエアコンは必要ない」と答弁したそうです。しかし、物理的にいっても、扇風機が温度を下げる機能をもっているわけがないのですし、ただ、室内の空気を撹拌するにすぎません。記事が取り上げている学校は、防音校舎とされていますから、室温は夏の場合、けっこう高いものとみなさなければなりません。扇風機ならば、高い室温の教室の空気をただかき回すだけですから生徒たちが涼しいと感じるわけがありません。いくらかでも温度の低い空気を扇風機が撹拌してくれるから暑いところも涼しく感じるのですから。
ともかく、「子どもに厳しい環境で努力してもらう」というのが首長の主張。一昔前に私たちが抱いた感覚を呼び覚まされた思いがします。あの小泉は、国民の生活に直接、影響を与える政策をすすめるのに際し、痛みはともなうものだといってはばかりませんでしたが、それとこの所沢市長のいった言葉は相通じるものがあるでしょう。
こうして、厳しさを他に求める際に、あたかも当たり前だという人物は案外、自分自身がそうした痛みから解放されていたり、無縁であったりする環境にあったのではないかと想像します。ほんとうにその苦痛を知っている者であれば、同じ苦しみを他人にさせることはまず考えないでしょう。むしろ、とるべき態度は、それをどうしたら避けることができるか、経験を踏まえた者であるのならば、そこにこそ経験者としての意気を感じるのではないのか。人間には、他の動物とは異なって、高い能力をもつ頭脳があるのですから。
小泉も、この所沢市長もですから、高い知能をもつ人間としての、そして苦痛の経験者としての要件を欠いているはずと考えなくもありません。
生徒たちは勉強するのが本分。行政は子供たちが学べるように配慮し、環境をつくるのが仕事でしょう。考えてみればただちに推測できるように、汗がとめどなく流れるような蒸し暑い教室で学習に専念できるかどうか。それどころではなく暑い、暑すぎるという肉体的苦痛は精神的苦痛を呼び起こし、教員の話などはまったく耳に入らず、授業に集中などできなくなるはずです。
そもそも基地の近くに学校が存在するという現実をほんとうはまず問うべきでしょうが、だからこそ防衛省の補助金はいわば地域対策、基地と現に共存させるための代替物としてあるのでしょうから、補助金を辞退する理由はまったく見当たりません。
市長は、熟慮の末、予算を計上しないことを決断したということです。ですが、自らもつ頭脳をつかえない人物に熟慮といわれても、それをはき違えているのではないかとさえ思えます。
最近でも、企業の中には社員を自衛隊に体験入隊をさせるところがあるように聞きます。所沢市長の厳しさを求める姿勢は、ちょうどこの社員に入隊を体験させるという光景とかわりはありません。こうして厳しさを求めるということは、その背景に、過酷な労働実態があったり、あるいは劣悪な学習環境があったりするものです。伝えられるところによれば、野田首相が若者の雇用環境の悪化を前に、こう語ったそうです。
野田佳彦首相は22日、民主党主催の「学生インターンシップ」に参加した大学生ら約30人と首相官邸で懇談した。同席者によると、首相は学生時代に新自由クラブでボランティア活動をしたことを披露し、「アルバイトやインターンシップをいろいろ経験することは良いと思う」と強調。一方、学生からは「国家公務員の新規採用が抑制されるのは心配だ」と就職に悩む率直な声も出た。これに対し、首相は「大震災の痛みを国民皆で分かち合おうという(ことで)、全体の話の中で理解してもらいたい」と説明したという。 (2012/03/22-16:48)
「震災の痛み分かち合おう」=公務員採用減、学生に説明-野田首相
これもまた、同類です。ようするに、厳しさに耐えよというとき、それを強調することによって、現実から人の眼をそらそうという、現実を隠ぺいしようとするための方便にすぎないということでしょう。
それでも所沢市長のとった態度は説明しがたいところがあります。もらえるものならもらっておけば何も不都合はなかったのではないか。
もしかしたら、補助金をもらうということ自体に、彼は心が痛むのかもしれませんし、もらうことが首長としての矜持にもとると考えたというのは読み過ぎというものでしょうか。
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名前売ってもうけます-泉佐野市の商い
大阪泉佐野市が財政破たん寸前という状況に直面し、いわば苦肉の策として検討している最中だとか。
財政破綻一歩手前の大阪府泉佐野市は、新たな歳入確保策として、企業から広告料をもらう代わりに市の名称を企業名や商品名に変更する自治体名の命名権(ネーミングライツ)売却に乗り出すことを決めた。
契約期間は1~5年で、国内外の企業を対象に6月から11月末まで募集、広告額は企業から提案してもらう。名称変更は市議会過半数の賛成で可能だが、市民からの反発も予想される。
自治体名の命名権が売却されるケースは総務省でも「聞いたことがない」(市町村体制整備課)という。
計画では、市の名称のほか、香川県の「うどん県」のような愛称の命名権も売却。また、市役所庁舎や、市道の通称も売却対象とし、市職員が着用する制服などへの企業広告も募る。企業の誘致による、雇用創出や税収アップも期待している。
(2012年3月22日07時48分 読売新聞
市の名前、売ります…破綻寸前の泉佐野、反発も
命名権というものを企業に売りつけ、それによって収入を得ようというわけです。自治体が企業などに所有施設の名称権を売却し、契約金額で安定した収入増を図るシステムであるネーミングライツは、すでに自治体の所有施設の名称権を売却した例はすでにあるようで、たとえば大阪府立体育会館の愛称が「ボディメーカー コロシアム」になる予定だといわれているそうです。
けれど、自治体の名称そのものを売ろうとするのは泉佐野市がはじめて。多額の借金を抱える同市は、市の名称のほかに、市の愛称、市庁舎等所有施設の愛称、市道の通称を売り渡すほか、市の職員の制服にも企業名を入れるという念を入れた計画を明らかにしました。市はもちろん、職員も企業の宣伝塔の役割を果たすのです。
こうなると、恥も外聞も捨て去って、とにもかくにも収入を得たいという露骨さだけが私たちには鼻をつくような気もします。その上、今の段階では市民に伝えられているとは思いがたい。市にすれば、早期健全化団体としてすでに2年前に指定されているわけですから、財政破たんの寸前状況にかわりなく、選ぶべくして選んだ選択肢ということなのかもしれませんが、いずれにせよ波紋をよびそうです。
名前、つまり固有名というものは、学説では、けっして(それにそって示される個体の)性質の記述に還元することはできないとされているようです。どういうことかというと、「泉佐野市」(という名前)は、大阪府・泉南地域に位置する、人口が10万人で、現市長は千代松大耕で、関西空港本社の所在地で、といったアイデンティティにかかかわる諸性質の記述に置き換えることができないということです。これは、以上の性質が仮に失われたとしても、泉佐野市は泉佐野市にかわりはないことでも分かります。
だから、名前というものは、つきつめると個体にとっての余剰とも表現できるかもしれません。こういった名前の性質もたぶんに反映しているのではないかとさえ思われる市の判断ですが、そもそも今日の多額の借金を抱える引き金になったのが関西空港開港を当て込んだ大型開発の目算がはずれたことが要因の一つになっているようです。まあ、かんくうができたからといって世の中の景気というものが泉南をよけていくわけでありませんから、まさに景気の低迷が市を直撃し税収が伸びない事態にみまわれた。そして、ついに、2009年度に早期健全化団体に指定されたというわけです。
ですから、この経過から判断してみても、今回の市の「決断」が二の舞になる可能性だってある。過去の目算はずれから市はいったい何を学んだのでしょうか。
もともと企業がネーミングライツに乗ってくるのは、いうまでもなく宣伝効果を見込めるからにほかなりません。だから人の眼にふれる立地条件をもつことが不可欠です。ならば、泉佐野市は、同市の計画が計画倒れになったくらいですから、景気低迷に耐えうるだけの潜在的な力が同市にはあると考えるわけにはいかない。なので仮にこの話にのる企業があったとしてもその企業はリスクは覚悟しなければなりません。どれほどの企業が集まるのか皆目分かりませんが、市の思い通りに事が運ぶかどうか、疑問の残るところです。
何より、地方自治体がこうした自治体の名称そのものを売りに出す行為に正当性がはたしてあるのでしょうか。ましてや住民が知らないところで話がすすむとすれば、地方自治、あるいは住民自治の精神はなきに等しいといってよいのでしょう。
大阪府もどうも泉佐野市の現状についてはお手上げを宣言しているもようです。何しろ府自体も橋下知事時代でもさらに借金がふえつづけているわけですし、同市の援助まで手が回らない事態にある。
こうした自治体の財政ひっ迫の要因に、例の平成の大合併の名のもとでの自治体再編があることは論をまちません。その結果、国から配分されてきた地方交付税がカットされつづけ、地方に行き渡らなくなり、新たな借金を抱え込んだ地方自治体は少なくないことにも着目しないといけないように思えます。
おそらく名称がかわることにともなう行政上の手続きの変更は少なくないでしょう。当然、多額の経費がともないますから歳出も逆にふえるというこだって予測されます。生徒たちもこのように不自由になるかもしれません。泉佐野市立○○小学校から突然、、たとえばかんくう市立○○小学校(これはないでしょうね)、キューピー市立○○中学校なんて変更がありうるのですから。現在、泉佐野市にこうして所在する企業だけでなく、場合によっては他から参入することもまた可能でしょうし。
こうした泉佐野市の「決断」がでてくるのは、憲法と地方自治法の精神はどこかに忘れたかのような、地方主権や地方分権を賞揚する方向が明確になって、いわば自己責任論の自治体版のような状況にすら今日の日本があるということの証左なのでしょう。ようするに自己責任論は、裏をかえすと社会的無責任論にほかならないのですから。国も府もあえて関心を示さない。
この商売の決算ははたしてどうなるのでしょうか。市名売却が現実のものになっても赤字を出さないよう願うばかりですが、むしろ困るのはただ、そこにすむ住民のみなさんという何とも受け容れがたい結果に連なっていく可能性も捨てきれません。
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切り捨てるためなら何でもやる/何もやらない
法廷に似た小さな一室に、裁判官役の委員3人が並ぶ。委員は「労働問題に関する識見を有する学識経験者」と法に定められており、任命には国会の同意も必要とされている。
だが、清水に対する質疑は当初予定の10分を大幅に超えて1時間以上に及んだものの、その大半はSEに対して理解がないとしか思えない内容だったという。
労働保険審査会は“狭き門”で知られる。労災を逆転認定したケースは、平成22年度で2・2%にすぎないのだが、棄却という裁決を下された大多数の中には、さまざまな事情から、その先にある行政訴訟をあきらめざるを得なかった過労死遺族がいることも確かだ。
【karoshi過労死の国・日本 第3部(4)若者に迫る危機】
たしかに、申請があったものすべてを内容も確認せずにフリーパスで認めるというわけにはいかないことくらいは誰でも承知しているはず。しかし、労災申請が医師のサインを前提にされている以上、労災事故としての要件をあらかじめ満たしていると考えることに一理もないとはいいきれないでしょう。
記事が紹介するように、労災申請は、事故現場から関係が近い順でたどると、労働者が勤務する会社のある労働基準監督署、都道府県労働局、労働保険審査会の3つの段階を経て確定する場合だってある。第一段階の労基署に申請して認められればそれでよしなのですが、認められない場合はつぎの都道府県労働局に不服を申し立てる、それでも却下され納得がいかなければ労働保険審査会行きとなります。
記事が伝えている最初の事例は、この労働保険審査会の審査の態度についてふれています。結論からいえば申請者の申請をまともに取り扱おうとしない審査会の姿、すなわち厚労省の姿勢がそこにみてとれます。まあ、一蹴するという態度そのものでしかありません。しかも、申請者周辺の感想であきらかなように、現場から遠いとしかいいようのない審査委員たちの無理解にもほどがあります。結局、労災認定というものは段階を経るにしたがって、門戸を閉ざす姿勢で貫かれていること、別のいい方をすれば政府に近づけば近づくほど、認定率が低くなるということでしょう。それでは、不服請求、再審査という手段に委ねざるをえない申請者の思いとは正反対に、認定の壁をいっそう段階をおって厚くしているに等しいといわざるをえません。
労働の現場では最近、話題をよんだワタミをまつまでもなく、過労死予備軍を抱えている実態は少なくないようですし、たとえば残業があっても申請をさせないような職場の環境をつくりあげてしまっている企業が横行しているのは容易に判断できることです。
前例にないことはやらない前例踏襲主義、ようは労災認定を認めまいと新しいことに何も着手しないで従来の立場を崩さないやり方そのものが、社会保障をお題目に消費税を引き上げようとする姿勢の欺瞞というものを裏側から証明するものでしょう。まあ、これを改善するには、さしあたり労働の現場に近くて、幾分かでも現場のことが分かる労基署の職員を増やし、実態をよく把握し、労災申請を十分に吟味できる体制をつくるのがいちばんの近道に思えますが、それとて今の政府の言いぐさから推し量ると、予算がともなうものは慎重にと体よく断られそうな気がします。
これとは逆に、切り捨てるためには何でもやる、どんなに些細なことでも見つけ出し、断る理由にするという態度もまた行政のあり方としてあるようです。前者を仮に不作為の態度、あるいはそれに近い態度だとすれば、後者は、積極的介入ともよべそうなものです。
大阪府が朝鮮学校への補助金を見送ることを決めたそうです。その理由はなんとも不可解なものです。「支給の要件とする『朝鮮総連と一線を画す』点が確認できなかった」とは、これ如何。
大阪府は19日、朝鮮初中級学校への補助金支給について、支給の要件とする「朝鮮総連と一線を画す」点が確認できなかったとして、2011年度分の支給を見送る方針を決めた。19日午後に発表した。
補助金をめぐっては、府議会の一部が故金正日総書記らの肖像画を各校の職員室に掲示している点を問題視。朝鮮学校各校を運営する学校法人・大阪朝鮮学園は今月、肖像画を外し、府に2011年度分の補助金約8100万円の支給を申請した。府は支給要件を満たすか調査し、府議会に補正予算案を提案することにしていた。
しかし、16日の府議会質疑で、全国の朝鮮学校の児童生徒らが1~2月に訪朝したことが指摘され、府が事実関係を確認。同学園側は「訪朝団は学校が募集したものでなく、支給要件に反しない」と主張したが、府は学園側が訪朝団の案内文を生徒に配った点などを問題視し、補助金の補正予算案提出を見送ると決めた。
朝鮮学校への補助金見送り 大阪府、訪朝団案内を問題視
そもそも総連と一線を画すという「ルール」自体がおかしいのですが、訪朝団案内を問題にしたとか。この府知事は、このエントリで「ルール」を理解していない人物として批判しましたが、憲法が一義的だと理解できない人にルールを語ってほしくないものです。
ようするに橋下とタッグを組むこの人物は、補助金をだしたくないだけの話。そのためには、理由はどんなことでも可というわけです。
苦しむのは過労死で倒れた人とその家族。そして補助金で運営をしてきた朝鮮学校とその生徒。申請を受けるか否か、補助するか否か決定するのは国と自治体です。それを受ける側という意味で弱者である立場の者にたいしてならは、時には何もやらず、時には何をやってでも切り捨てる方向に力が動くということです。
しかし、一方で、消費税を増税するといいながらたとえば大企業向けの輸出戻し税には手をつけなかったり、ムダはいらないといいながら自分たちが要請した顧問や参与は増員した上に報酬もあげるという事実をつきつけられたら、われわれの腹の虫はちっともおさまるはずがありません。
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社内ニートという調整弁
-ployment or Training)とは、教育も、労働も、職業訓練も受けない状態にあることを指すのでしょうが、すでに企業に在籍していながらニート状態にある労働者が多数にのぼるということを伝えた記事を目にしました。
内閣府の最新の調査によると、昨年9月の時点で全雇用者の8.5%、465万人ものサラリーマンが会社に行っても仕事がない、社内ニート状態にあるそうだ。これはいわゆる「窓際族」だけを指すのではなく、最近は若手社員にも増えている現象だという。
「若い社内ニートが増えた原因のひとつとして、企業に社員を育てる余裕がなくなったことがあげられます」というのは、人材コンサルタントの常見陽平氏。「以前は、入社した社員には一から十まで仕事を教えるのが基本でした。しかし、近年は採用しても育てるまでの時間も余裕もない。即戦力採用、OJTなどと言えば聞こえがいいですが、仕事をひとりで覚えられる人以外にとっては実質的には放置でしかなく、結果、いつまでも仕事をもらえないというケースも多いようです」
【社内ニート】職場で仕事のないサラリーマンが465万人もいる!
ただし、社内ニートという名称が熟しているわけではありません。調べてみたところ、この記事がふれる内閣府の調査とは、「日本経済2011-2012-震災からの復興と対外面のリスク-」という昨年12月に発表された文書です。
そこでは、雇用保蔵率(下図にその推移)に言及していて、それがこの記事のもとになっているようです。ただ、内閣府はつぎのようにのべているだけであって、記事のようにその構成、中高年なのか、若手なのかについてはふれていません。したがって、「『窓際族』だけを指すのではなく、最近は若手社員にも増えている現象」というのはいわば記事独自の表現ともいえます。
企業部門の稼働率から考えられる最適な雇用者数と実際の雇用者数を比較すると、その差(「雇用保蔵者数」)は、リーマンショック後の 2009 年第1四半期(348 万人程度、雇用者の約 33%)に比べれば大幅に改善(2011 年第3四半期は 172 万人程度、雇用者の約 17%)しているが、80 年から 2010 年の長期平均(約9%)に比べると、生産水準の低さに起因する過剰感が残っている(第1-1-8図(2))。生産の持ち直しには緩さがみられることから、雇用者数の回復テンポも緩く、賃金面での改善も進んでいない。
それにしても465万人ということは、全雇用者数は約5470万人といわれているなかでその8.5%という少なくない比率です。この465万人は、企業からみると平たくいえば余剰人員であるのはまちがいないでしょう。だって、マルクスによれば自らの労働力を商品として資本家に売るものである以上、その商品が商品として資本家が使えていない状態にあるということですから。過去にさかのぼれば、干すという言葉があるように、仕事を与えず、精神的な苦痛を与えることでいわば死、つまり退職の意思を労働者が表明するまで待つという手法がたとえれば労務管理のマニュアル化された時代もあったように思います。この干すというのが、依然、現在にも生きているということの証左といってもよいのかもしれません。ようするに、社内ニートという言葉で表現される人たちが一つは、リストラ予備軍として位置づけられているということです。
企業側からすると、景気の後退した局面での対応策であって、ようはスキルをもった人材を社内に確保しておくことによって、景気が回復したとき、需要が伸びた局面ですかさず対応するための方策と考えているのかもしれません。が、そうであっても依然、彼らの将来はみえない、不安定な立場におかれていることにかわりはありません。
ようは、労働者は雇用調整の一つのコマとして社内で「放置」されているというわけです。
こういう見方があるのかもしれません。働かずに賃金が得られれば、いい身分じゃないか、と。しかし、これに安住する人がまったくないとはいいきれないとはいえ、まあ自分のスキルが発揮できず、悶々と毎日を過ごす苦痛は他に表現しようのないものではなかろうか、とも思えるのです。労働者は労働者としての矜持があるのです。だから、別の言葉でいえば、労働者は飼い殺しを強いられるともいえるのでしょう。
結局、企業が労働者を調整弁として使える前提には、それでも利益が見込めるからにほかならないでしょう。損益で赤字が予想されるのなら、「働いていない」労働者を抱えておくわけにはいかない。そんな暢気な企業はそもそも企業として成り立ちえないのではないでしょうか。逆にいえば、経営計画は利益確保を前提に組み立てられるものであるはずです。
予想されるのは、いわゆる窓際族の呼称で、中高年労働者を要らないものとして扱う風潮が労働者の中に持ち込まれると、働く者のなかで対立が起こる。中高年が若手の雇用を妨げているというどこかで聞いたような議論に通じるものが生まれるわけで、そう煽っている言説もまたあるようです(参照)。
上記の記事は、若者でも社内ニートがあることをのべているのですが、そうであるのなら、その若い労働者の未来は霧で覆われた中を歩くようなもので、先がどうなるのかまったく想像ができないものといえそうです。
労働はもちろん、教育も、職業訓練も与えられないというのですから。まあ最近、即戦力を求める動きというものも、こういった背景が一つにあるように思えます。綺麗ごとにすぎないともいえるオン・ザ・ジョブ・トレーニングなんて糞くらえといわざるをえません。

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フツーの生活を認めない人
京都府宇治市のケースワーカーの30代男性職員が生活保護の申請者に対し、妊娠すれば受給をやめることや、母子家庭は異性と同居しないことなどを約束させる誓約書に署名させていたことがわかった。市は、人権を侵害する不当な内容として職員を処分する方針。
誓約書はA4判3枚つづり。生活保護を支給する判定材料の一つにすぎない精神疾患や傷病が確認されない場合は支給打ち切りを受け入れることや、外国籍の申請者を想定して「日本語を理解しないのは自己責任。日本語がわからないという理由で仕事が見つからないなどの言い逃れは認められない」と誓わせる記述もあった。
市によると、職員は今年に入り、市役所の窓口に申請に訪れた高齢夫婦と母子家庭の女性の2世帯にこの誓約書を示し、署名、押印させた。その後、母子家庭の女性が市に誓約書のコピーを求めて発覚した。市は生活保護を申請する際に誓約書の提出は求めていない。職員は「不正受給を防ごうと思って作った」と説明しているという。
「妊娠したら生活保護停止」 宇治市職員、誓約求める
職員のとった行動は批判されてあまりあるものですが、当人が自発的にやったものかどうか、まず疑問に思います。なぜなら、誓約書をとっていた事実はこの一件以外にもあり、「職員は今年に入り、市役所の窓口に申請に訪れた高齢夫婦と母子家庭の女性の2世帯にこの誓約書を示し、署名、押印させた」と記事にあることから、それを市が承知していなかったとは少し理解しがたいように思えます。
それにしても、約束をさせた内容が、住民の福祉を担う部署のものとは到底思えない酷いものであることに驚かされます。
- 妊娠すれば受給をやめること
- 母子家庭は異性と同居しないこと
というのでは、人が人としての通常の生活を営むこと自体を拒むことにほかなりません。この記事に関心を寄せた人であれば、たちまちでは日本国憲法でうたう「健康で文化的な最低限度の生活」とはいったい何なのか、とたとえようのない怒りにも似た感情を抱いても全く不思議ではありません。妊娠すること、異性と同居することは、その範疇の中には入らないのか、そうであるとするのなら、日本で生活をする大多数の人びとはこれを満たさないというとんでもない日本の現状だという結果になってしまうではありませんか。
こう考えると、誓約書をとったことは憲法に反するものいわざるをえないと思います。
しかも、職員のとった言動には上記とは別の問題もはらんでいます。外国籍の申請者への対応で自己責任を持ち出しています。日本語を理解しないのは自己責任だ、とか。乱暴な議論です。
公共的施設、機関では外国語での表示があって当然といえる今日、この現実をどう理解しているのでしょうか。まあ自己責任の強調とは、逆に社会的な責任の隠ぺい、あるいは放棄、つまり社会的無責任を意味する場合が多いように思えます。市役所は公共機関そのものですし、その自覚はどこに消え去ったのか、欠如しているといってまちがいはないようです。
つけくわえると、生活保護法は保護を請求する権利の前提の考え方を無差別平等においていますので、この点で誤りは明らかです。
なぜ、こうなのか。
やはり、政府も自治体も表面では生活保護行政における以前の徹底した「水際作戦」というものを「反省」もし、継続していないと否定してそれを認めませんが、やはり同作戦がまだ生き延びているように率直に思います。あるいは生き延びるようにしているとさえ思わずにいられません。
生活保護費の不正受給が2010年度に約2万5千件(前年度比29%増)、総額は約129億円(同26%増)にのぼったことが、厚生労働省のまとめで分かった。件数、総額ともに過去最悪だった。厚労省が1日、全国の担当課長会議で集計結果を示した。
10年度の生活保護費は総額3兆3300億円で、不正受給分はこの約0.4%にあたる。不正の中で、生活保護を受けられる基準から外れたとして、保護の中止や減額につながったのは約7千件だった。
不正受給の内訳では、働いて得た収入があるのに申告しなかったケースが最も多く43.5%。次いで年金の無申告が27.7%だった。このほか、借金先の消費者金融から過払い金を取り戻せたのに申告していなかった例もあった。
生活保護不正受給、過去最悪の129億円 10年度
こんな記事が伝えられたのは、今月3月1日でした。一部の「不心得」を取り出してこうして報道で流すのは、一つの経験則ともいえるのでしょうが、これから「不正受給]防止を強化するぞという宣言、予兆だと私なんかは理解してきましたし、やはりこの経験則どおりに現実は動いているのではないかと推測するわけです。一部の「不正受給」というものを取り上げて、全体にそのリスクがあるかのように広げるのがいわばこれまでの常套手段でした。したがって、現場、つまり水際の窓口でそれを防止するとい口実が指示され、その結果、今回の誓約書みたいな動きに連動してくるのです。
ようするにこうした福祉事務所の姿勢は、歴史的にみれば、いわゆる123号通知(*)に端を発するのでしょう。それが今でも生活保護行政の根本に存在するのではないかと思わせる今回の事件です。
昨今、孤立死が相次いで伝えられ、日本社会の深刻な一つの断面としてとらえ始められています。
そのなかの一件の、札幌市白石区で40代の姉妹が死亡した事件では、生活保護の申請に3回出向いたものの、断られたことが明らかになっています(40代姉妹死亡:「生活苦しい」区役所に3回相談、リンク切れ)。
おそらくこれも背景は同じだと思えます。
国会では、社会保障と税の一体改革という名で、社会保障のために消費税増税をやると、社会保障がいわば生贄の形にされた格好です。しかし、その社会保障も、給付を削減し負担増も迫るという代物ですから、是非、社会保障と税の一体改革を撤回してほしいものです。
今回の事件は、この政府の姿勢をある意味で忠実に反映したものだといますし、このままであれば、同様の事態が今後、全国にひろがるだろうことは否めないこと教えるのではないでしょうか。
* 昭和56年11月17日厚生省社会局保護課長・監査指導課長通知 社保第123号「生活保護の適正実施の推進について」
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原発事故は組織事故だろ
東京を救ったのは菅首相の判断ではないか
事故調報告が指摘しているのは、局面局面での個人の責任がそれぞれあったということとあわせて、まさに官邸・政府、各省庁、東電などをふくめて緊急時の危機管理にかかわる組織の対応が的確なものであったのか、なかったとしたらどこに要因があるのかを明らかにしたことにあるのではないか。端的にいえば、伝えられる範囲では、指揮系統の混乱をはじめリスクを管理し適切に対応策を決定し、指示し、徹底し、点検するというある意味で初歩的なスキームがほとんど機能していなかったように私は受け止めている。そこに今回事故の第一義的な教訓があるように思う。
この点で、上記の記事をみると、事故調報告書による菅首相(当時)の対応の誤りの指摘にむしろ過剰に反応しすぎて、反対に菅首相の判断を功績して強調するものになっているように思える。たしかに首相の判断はあったはずである。が、あえていえば、これでは、事故の犯人探しの裏返しの言説になってしまう。
以下、coleoの日記;浮游空間(はてな)で公開しています。ご一読いただければこの上、ありません。
菅前首相の功罪を論じてもはじまらない
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