国立大学職員日記
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国立大学職員日記:記事一覧




>Unknown (マイマイ)
>2012-01-20 20:31:00
>
>すみません、私も質問していいですか。
>
>私は二浪の末に某国立教育大に通っている大学1年生です。
>今の大学に入りたかった理由は教師になることでした。
>しかし、大学に入学すると教育行政の世界に興味を持ちました。
>「入試のためにした苦労はなんだったのか。
>二浪もして教師を目指さないのは現実との諦めでは。
>教育大で二浪は評価されない。」
>と悩んでばかりです。
>
>実際、大学浪人をしたり、全く違った学部(私のように大学に入ってから進路変更をした人)は評価されにくいんですか。
>
>抽象的な質問で本当に申し訳ありませんがよろしくお願いします。

---以下、回答---

>今の大学に入りたかった理由は教師になることでした。
>しかし、大学に入学すると教育行政の世界に興味を持ちました。
>「入試のためにした苦労はなんだったのか。

目的と手段の混合が見られます。「教師になること」だけが入学の理由だったのですか?ただ「教師」という肩書きが欲しかったという話であれば、そりゃあ教師になれないとか、なりにくいとか分かった時点でがっかりするのは仕方ないと思います。しかし他の目的があったのであれば、現在のところで貴方の経歴はなんら正規のルートは外れていないと思います。昨今では高校においてもキャリア教育などがさかんで、恐らく学校では「早い時期に目的をもって進路選択をすること」が良いとされていると思いますが、実は自分はこの方針には少し反対です。大学、特に国立大学が、専門学校やカルチャースクールとその趣旨を異にする一因には、そのカリキュラムにおいて「教養教育」とか「全人教育」とか「リベラルアーツ」の実践を目指しているところがあります。完全に反対ではありませんが、これらは「専門教育」「学部教育」の対義語と考えてください。恐らく貴方は高校時代に「教師になる」という進路を選択し、それのために勉強し(また二浪し)、国立教育大学に入ったのだと思います。この進路を自分は特に否定しませんが、二浪する中で「教師になる」という「手段」があまりにも貴方の中で凝り固まったもの、それ自体が一種の「目的」と言えるようなものになってしまっている可能性があるのではないでしょうか。これは貴方に限らず、受験生の多くにも起こっていることだと思いますし、このような原因の一因には高校等におけるキャリア教育で「早いうちに生徒の進路を確定させて勉強に専念させる」という、本来の趣旨とはやや毛色の異なる先生方の思惑(「管理」という点に力点を置いた思惑)が絡んだ可能性があるのではないかと思っています。大学における「教養教育」というものをどう考えるか、という点についてはまさに一大論点ですが、少なくともそれは「専門家の育成」や「専門知識の獲得」『だけ』を目的とするものでは無いことだけは確かなはずです(それらはむしろ「学部教育」の範疇になります)。貴方に対するアドバイスが私に許されるのなら、私は「学部教育の前にこのような教養教育を、大学が学生に準備している意図をもう少し考えてみるべきです」と言います。また「教養教育」等の私なりの解釈が許されるのなら、「教養教育」の存在意義の一つには「○○の専門家になりたい」と学生が考える前に、もう少し大雑把な目的や動機を学生に「選択」、あるいは既に選択している学生に対してもそれを「広め」且つ「深め」、そしてその目的を強く「動機付ける」ことになると思っています。「大雑把な目的や動機」と書きましたが、これがどんなものかはあまりにテーマが大きすぎてここでは書ききれません。またどこまでを持って「大雑把」とするかも難しいところです。しかしこの点について自分は、それは「人の役に立ちたい」とか「もっとマシな人間になりたい」くらい大雑把であって全く問題ないと思います。「括り」としてはそれくらい大雑把であっても良い、それより重要なのは、その「度合い」です。上にも書きましたが、高校など(大学のキャリアセンターも含む)では自分の進路について具体的・論理的にそれを記述できる生徒が「優秀な生徒」と認められでしょうが、自分からしてみれば「何になりたいか」なんてことはどうでも良いことです。貴方の短いコメントだけでは貴方がどんな人生を歩んできたかは知りえませんが、貴方はこれまでに「人の役に立ちたいのに自分を役立てることが出来ず、人の役に立つどころか人に迷惑をかけてしまった」という経験で涙を流したことがありますか?もちろん、大学1年生でこんな強烈な経験を持っている人間は少ない(というか普通いない。あるいは持っていると思っても、それは社会人になってから経験するものとは度合いが違う)ですが、このような経験に基づいて「二度とこういうことを起こさない」と誓う(泣きながら誓う)意識には、明らかに「教師になりたい」などといったものとは異なった次元の目的意識があるのが分かると思います。このあたりはうまく言葉に出来ませんが、自分が「教養教育」に期待する効果はまさにこのような誓いを、学生に持たせることだと思っています。

長く書きましたが、要するに今貴方に必要なのは、「貴方が今いる状況に関する情報」ではなく、「もっと根源的に貴方を動かしてくれる何か」(それはちょうど森林で道に迷っている人間にとって「今貴方がいるのは○○山の麓の松の林です」という情報よりも「遠方に高い樹木が見つけてそれを頼りに進んで行け」という「知恵」の方が重要なごとく)であり、そして貴方が今しなくてはならないことは、「『貴方を動かしてくれる何かを見つけること』をサボらないこと」です。今「サボる」と表現しましたが、この点について、自分は貴方が「誰も自分のやる気を出させてくれない」と嘆く、自分が最も嫌いなタイプの学生ではないことを祈ります。「放っておけばその内やる気がでるだろう」と考える人間は、「庭を掘れば石油が出るだろう」と考える人間と同じくらい楽天的で愚かだと自分は思っています。もちろん、人生の全ての事柄に当てはまることではありません。週末の散歩にいちいち目的意識を持つ必要がないごとく、楽天的で自由気ままな行為はとても素晴らしいものですし、そのくらい適当な期待でなければ楽しめない事柄も人生には多いと思います。しかし、少なくともわざわざ勉強しないと入れない国立大学へ入学した人間が、「自身の将来」ということを考えるに当たって、「放っておけばその内やる気がでるだろう」「適当にやっていれば誰かが自分のやる気を出させてくれるだろう」「というか金払ってんだからお前ら俺のやる気を出させろよ」なんて考えることは、やっぱり楽天的に過ぎる、主体性が無い、ガキ臭いとしか表現しようがありません。「やる気の発見・維持には膨大なコストがかかるとしても、それは自分自身でやらなくてはならない」という意識は、まだ持っていなければ持ってください。

どうすれば「やる気を発見でき、維持できるか」という点について、自分なりのアドバイスします。この点について、書店に行けば関連の書籍には事欠かないでしょう。それらを読むこともやはり有益です。そういう本を探し、買い、読むという行為は、貴方が「やる気を出そう」としていることの表れですので、何もしていないよりははるかに大きな前進だと思います。しかし「書店に行ってそれ関連の本を探せ」という前に、自分は「貴方が昔小学校あたりで教わったことを思い出し、実践しなおしてみる」ことの方が、手っ取り早く、効率的で、なによりも正当な方法だと思います。ここでいう「昔小学校あたりで教わったこと」は、要するに「早寝早起き」とか「三食バランスの良い食生活を取る」とか「毎日たっぷりと寝る」とか「毎日適度に運動する」とかです。貴方はこういうアドバイスを鼻で笑うかも知れません。しかし、「やる気」とは完全に精神的なものではなく、脳みそという臓器に起こる化学的な現象であることを考えると、こういった基本的なことは啓蒙書を読むよりもはるかに有益であり、また効果が期待できると思います。貴方は国立大学に入学するために二浪したと書いています。その間の生活習慣、また現在の生活習慣は、貴方が自身の健全な精神と肉体を育むために最もベストなものであると言えますか?あるいは貴方の生活習慣があなたの悩みを増大させている可能性が全くないと言えるでしょうか?「大学生になったのに遊ばないのはおかしい」という考えは、まぁあるでしょうし、大学4年間全てを小学校の夏休みみたく過ごせというつもりはありません。しかし、自分は「大学生は遊んでナンボ」という風潮は、正直あまり好きではありません。貴方がコンビニ弁当を食べながら深夜に睡眠時間を削って遊ぶ行為は、貴方に訪れたかも知れないチャンス、貴方に貴方の将来を決定的に与えてくれ、そのやる気を強く引き出させてくれたかもしれないチャンスを逃がし続けている可能性があります。また少なくとも、それらは悩んでいる時にする行為ではありません。人は悩むと、それを解消するために普段よりもむしろ積極的にいろいろなことをしたがりますが、そういう行為の末に借金を重ねたり鯨飲馬食で健康を害したり、またアルコールやニコチンの依存症になるケースだってあります。これはもちろん極端な事例ですが、悩みの不安解消に遊び呆け学業を疎かにしてしまう、あるいは友達と愚痴って一時的な不安を解消して問題の根本的な解決を図ろうとしない、友人や恋人に精神的に強く依存してしまう、くらいのことなら充分に起こりえるでしょう。悩みを解消するために、最も適切な行為を取ることは非常に難しく、なんとなくやった行為がそれに該当するなんてことは宝くじに当たるくらい幸運なことだ考える方が安全です。また貴方は大学1年生ということですが、浪人生活の2年間と、新しく始まった大学生活の1年目が重なり、怠惰な生活習慣が貴方の心身が本来持つ可能性(陳腐な言い方ですが、本当にそれは「無限の可能性」です)を潰していないか、もう一度よく考えてみてください。不安になる気持ちは分かりますが、そういう時こそ、充分な休養をとることが肝要です。自分も一時期、残業が重なって心身を割りと深く病んだ時期がありました。その経験を通して、自分が最も痛感したのは、「人間はその基本設計を離れた生活を取っている限り、最善のコンディションを維持するのは不可能なのだ」ということです。また「やる気」の発見・維持には、もちろん精神的なことも欠かせません。ここらへんはまさに、いわゆる「啓蒙書」と呼ばれるものが活躍する分野ですが、この「啓蒙書」は、書店にそのコーナーとして置かれているようなものだけではないことも、やはりお伝えしたいと思います。やはり古臭く、使い古された方法ですが、自分は人生とか将来とかやる気とかを考えるにあたって読むべき最良の本は、故事とか古典とか純文学とか、やはり小学校やら高校やらの教科書に載っていそうなもので充分だと思います。この点について、自分も自身の大学生活を振り返れば「もっと読んでおくべきだった」とか、あるいは「足りなかったとしても、それでも人並み以上には読んでいたからこそ、自分は自分の望む進路をある程度勝ち取ることが出来た」とも、思っています。また現在においても、自分は大学生活でもっと読んでおくべきだったという反省に基づいて、本を読み続けています。参考までに読んだ時期と題名を下に書きます。自分にも、貴方と同じように将来に悩んだ時期があったことを覚えておいてください。そして、そういう場面を乗り越える際に、小説中の登場人物が助けてくれたことは冗談ではなく何度もあります。また、古典的な名著とは時代が変わっても読まれるものです。貴方の将来への不安は、貴方が将来接しなければならない「社会」に対する不安でもあるでしょう。その「社会」の構成員が若いときに読んでいたものを読むという行為は、貴方が将来出て行かなければならない社会の仕組みを考える上でも、有益であると思います。加えて、古典的名著は古今東西を通して読まれるものです。読んでみれば分かりますが、意外と外国の、それも何百年も前に書かれた小説であっても、書いてることなんて現在我々がやっていることと大して変わりません(だからこそ、古典は今でも読まれるのですが)。このことを知る行為は非常に重要です。貴方が日本における平成の現在で何をすべきかを知るためには、まず人類が過去何百年間で何を目指してきたかを知ってください。そういう「根っこ」が地中深ければ深いほど、新芽がよく育つ、また適切な方向に育つ、そして迷わずに育つというものです。読みすぎない範囲であれば「啓蒙書」もOKです。今自分の手元には、「生きる勇気がわく言葉」(夏村波夫 著 KAWADE夢文庫 1997年初版)という文庫本があります。別にこれ自体は特別な名著でもなんでもなく、よくある「名言集」です。しかし、自分はなぜかこの本がひどく気に入り、高校受験から今の今まで常に本棚においておき、そして「まず確実に最低でも100回」は通読しました。勉強が進まなかったり、つらい時期があると、ひたすら読み返して自分の方向性が間違っていないことを確認し、やる気を奮い起こしていろんなことに挑戦してきました。そして読んでみれば分かりますが、こういう名言集に載っている言葉は、多くの場合で古典的名著を記した文豪などの言葉です。このことからも、古い書物を読むこと、それも名言集という「抜粋」ではなく、原作それ自体に触れることは非常に有益であり、貴方を奮い起こさせるものであることが分かると思います。また自分は本ばっかり読んでますが、スポーツとか旅行とかゼミの飲み会とか、もっとフィジカルな方面を通してこういうことを身に着ける方法もたくさんあるはずです。自分は生憎そういうのが苦手なので下手なアドバイスは出来ませんが、とにかく古くからやられている行為、続いていること、昔の人もやっていたことには一定の意味があるはずです。そういうものに盲従することもまた危険ですが、少なくとも将来に悩む大学生の貴方に勧めるものとして、これ以上に最良のものはないと信じています。

以下は参考資料です。結局、貴方の状況が「評価されるのかどうか」については自分には分かりませんし、アドバイスのしようもありません。ただ、貴方に「評価されますよ」とか「評価されませんよ」とか答えても、貴方の状況は何一つ変わらない気がしたので、質問の内容にはありませんでしたが上のように回答します。「評価されますよ」とかいう優しい言葉は、貴方の友達にでもかけてもらってください。以上本件、役に立てば幸いです。


■読書記録
※もともとこれでなんかエントリー作ろうと思ってたのですが、機会がないのでここで載せます。★は今の貴方の状況に鑑み、お勧めです。

(学生時代)「羅生門」(芥川龍之介 著)
(学生時代)「鼻」(芥川龍之介 著)
(学生時代)「芋粥」(芥川龍之介 著)
(学生時代)「杜子春」(芥川龍之介 著)
(学生時代)「トロツコ」(芥川龍之介 著)
(学生時代)「砂の女」(阿部公房 著)
(学生時代)「他人の顔」(阿部公房 著)
(学生時代)「或る女」(有島 武郎 著)
(学生時代)「生れ出づる悩み」(有島 武郎 著)
(学生時代)「小さき者へ」(有島 武郎 著)
(学生時代)「蒼氓」(石川達三 著)★
(学生時代)「青年は荒野をめざす」(五木寛之 著)★
(学生時代)「あすなろ物語」(井上 靖 著)★
(学生時代)「あした来る人」(井上 靖 著)
(学生時代)「氷壁」(井上 靖 著)
(学生時代)「しろばんば 」(井上 靖 著)★
(学生時代)「黒い雨」(井伏 鱒二 著)
(学生時代)「海と毒薬」(遠藤 周作 著)
(学生時代)「沈黙」(遠藤 周作 著)
(学生時代)「個人的な体験」(大江健三郎 著)
(学生時代)「野火」(大岡昇平 著)
(学生時代)「何でも見てやろう」(小田実 著)★
(学生時代)「檸檬」(梶井基次郎 著)
(学生時代)「伊豆の踊子」(川端康成 著)
(学生時代)「千羽鶴」(川端康成 著)
(学生時代)「恩讐の彼方に」(菊池寛 著)
(学生時代)「どくとるマンボウ航海記」(北杜夫 著)
(学生時代)「武蔵野」(国木田独歩 著)
(学生時代)「非凡人」(国木田独歩 著)★
(学生時代)「おとうと」(幸田文 著)
(学生時代)「蟹工船」(小林多喜二 著)
(学生時代)「考へるヒント」(小林秀雄 著)
(学生時代)「暗夜行路」(志賀直哉 著)
(学生時代)「城の崎にて」(志賀直哉 著)
(学生時代)「小僧の神様」(志賀直哉 著)
(学生時代)「竜馬がゆく」(司馬遼太郎 著)
(学生時代)「眠狂四郎無頼控」(柴田錬三郎 著)
(学生時代)「生活の探求」(島木健作 著)★
(学生時代)「男子の本懐」(城山三郎 著)
(学生時代)「官僚たちの夏」(城山三郎 著)★
(学生時代)「落日燃ゆ」(城山三郎 著)
(学生時代)「ホワイトアウト」(真保裕一 著)
(学生時代)「奇跡の人」(真保裕一 著)
(学生時代)「走れメロス」(太宰治 著)
(学生時代)「パンドラの匣」(太宰治 著)
(学生時代)「人間失格」(太宰治 著)
(学生時代)「痴人の愛」(谷崎潤一郎 著)
(学生時代)「蒲団」(田山花袋 著)
(学生時代)「田舎教師」(田山花袋 著)
(学生時代)「坊っちゃん」(夏目漱石 著)
(学生時代)「三四郎」(夏目漱石 著)
(学生時代)「門」(夏目漱石 著)
(学生時代)「こゝろ」(夏目漱石 著)
(学生時代)「吾輩は猫である」(夏目漱石 著)
(学生時代)「孤高の人」(新田次郎 著)★
(学生時代)「真空地帯」(野間宏 著)
(学生時代)「たそがれ清兵衛」(藤沢周平 著)
(学生時代)「点と線」(松本清張 著)
(学生時代)「ゼロの焦点」(松本清張 著)
(学生時代)「塩狩峠」(三浦綾子 著)
(学生時代)「泥流地帯」(三浦綾子 著)
(学生時代)「潮騒」(三島由紀夫 著)
(学生時代)「金閣寺」(三島由紀夫 著)
(学生時代)「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治 著)
(学生時代)「風の又三郎」(宮沢賢治 著)
(学生時代)「注文の多い料理店」(宮沢賢治 著)
(学生時代)「人質カノン」(宮部みゆき 著)
(学生時代)「春の夢」(宮本輝 著)
(学生時代)「友情」(武者小路実篤 著)
(学生時代)「真理先生」(武者小路実篤 著)
(学生時代)「ぼくは勉強ができない」(山田詠美 著)
(学生時代)「さぶ」(山本周五郎 著)
(学生時代)「路傍の石」(山本有三 著)★
(学生時代)「宮本武蔵」(吉川英治 著)
(学生時代)「車輪の下」(ヘルマン・ヘッセ 著)
(学生時代)「戦争と平和」(レフ・トルストイ 著)
(学生時代)「罪と罰」(フョードル・ドストエフスキー 著)
(学生時代)「星の王子さま」(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 著)
(学生時代)「赤と黒」(スタンダール 著)
(学生時代)「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(J・D・サリンジャー 著)
(学生時代)「老人と海」(アーネスト・ヘミングウェイ 著)
(1)平成19年11月15日~平成20年03月18日「チボー家の人々」(マルタン・デュ・ガール 著)★ただし長い
(2)平成20年04月08日~平成20年05月11日「カラマーゾフの兄弟」(フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 著)
(3)平成20年05月18日「悲しみよこんにちは」(フランソワーズ・サガン 著)
(4)平成20年05月26日~平成20年06月01日「オン・ザ・ロード」(ジャック・ケルアック 著)★
(5)平成20年06月01日~平成20年06月07日「城」(フランツ・カフカ 著)
(6)平成20年06月13日~平成20年06月30日「ロリータ」(ウラジーミル・ナブコフ 著)
(7)平成20年07月14日~平成20年07月23日「黒い時計の旅」(スティーヴ・エリクソン 著)
(8)平成20年07月27日~平成20年08月16日「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ 著)
(9)平成20年08月17日~平成20年09月03日「百年の孤独」(ガブリエル・ガルシア=マルケス 著)
(10)平成20年09月07日~平成20年09月08日「赤と黒」(スタンダール 著)
(11)平成20年09月23日~平成20年09月27日「審判」(フランツ・カフカ 著)
(12)平成20年10月03日~平成20年10月10日「狭き門」(アンドレ・ジッド 著)
(13)平成20年10月11日~平成20年11月03日「白鯨」(ハーマン・メルヴィル 著)
(14)平成20年11月04日~平成20年11月12日「エマ」(ジェイン・オースティン 著)
(15)平成20年11月15日~平成20年12月22日「モンテ・クリスト伯」(アレクサンドル・デュマ 著)
(16)平成20年12月30日~平成21年01月05日「怒りの葡萄」(ジョン・スタインベック 著)
(17)平成21年01月10日~平成21年01月17日「1984年」(ジョージ・オーウェル 著)
(18)平成21年01月18日~平成21年02月13日「ユリシーズ」(ジェイムズ・ジョイス 著)
(19)平成21年02月17日~平成21年02月24日「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ 著)
(20)平成21年03月01日~平成21年03月19日「響きと怒り」(ウィリアム・フォークナー 著)
(21)平成21年03月29日~平成21年04月04日「高慢と偏見」(ジェイン・オースティン 著)
(22)平成21年04月04日~平成21年05月16日「失われたときを求めて【断念】」(マルセル・プルースト 著)
(23)平成21年05月17日~平成21年05月23日「ゴリオ爺さん」(オノレ・ド・バルザック 著)
(24)平成21年05月24日~平成21年05月30日「冬の夜一人の旅人が」(イタロ・カルヴィーノ 著)
(25)平成21年05月30日~平成21年05月31日「緋文字」(ナサニエル・ホーソーン 著)
(26)平成21年06月06日~平成21年06月20日「アンナ・カレーニナ」(レフ・ニクラエヴィチ・トルストイ 著)
(27)平成21年06月21日「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク 著)
(28)平成21年06月21日「変身」(フランツ・カフカ 著)
(29)平成21年06月28日~平成21年07月05日「八月の光」(ウィリアム・フォークナー 著)
(30)平成21年07月05日「田園交響楽」(アンドレ・ジッド 著)
(31)平成21年07月10日「人形の家」(ヘンリク・イプセン 著)
(32)平成21年07月11日「グレート・ギャッツビー」(スコット・フィッツジェラルド 著)
(33)平成21年07月12日「椿姫」(アレクサンドル・デュマ・フィス 著)
(34)平成21年07月18日~平成21年07月24日「夜の果てへの旅」(ルイ=フェルディナン・セリーヌ 著)
(35)平成21年07月25日~平成21年07月26日「ハックルベリイ・フィンの冒険」(マーク・トウェイン 著)
(36)平成21年08月01日~平成21年08月15日「ボヴァリー夫人」(ギュスターヴ・フローベール 著)
(37)平成21年11月03日~平成21年11月14日「かくも悲しい話を…」(フォード・マドックス・フォード 著)
(38)平成21年11月15日~平成21年12月30日「虚栄の市」(ウィリアム・メイクピース・サッカリー 著)
(39)平成22年**年**日~平成22年**年**日「官僚たちの夏【再読】」(城山三郎 著)
(40)平成22年**年**日~平成22年**年**日「燃えよ剣」(司馬遼太郎 著)
(41)平成22年**年**日~平成22年**年**日「蝉しぐれ」(藤沢周平 著)
(42)平成22年**年**日~平成22年**年**日「さぶ【再読】」(山本周五郎 著)
(43)平成22年**年**日~平成22年**年**日「孤高の人【再読】」(新田次郎 著)
(44)平成22年**年**日~平成22年**年**日「栄光の岩壁」(新田次郎 著)
(45)平成22年**年**日~平成22年**年**日「長い坂」(山本周五郎 著)★★★
(46)平成22年**年**日~平成22年**年**日「樅ノ木は残った」(山本周五郎 著)★
(47)平成22年**年**日~平成22年**年**日「虚空遍歴」(山本周五郎 著)
(48)平成22年**年**日~平成22年**年**日「白い巨塔」(山崎豊子 著)
(49)平成22年**年**日~平成22年**年**日「シャドー81」(ルシアン・ネイハム 著)
(50)平成22年**年**日~平成22年**年**日「そして誰もいなくなった」(アガサ・クリスティ 著)
(51)平成22年11月28日~平成22年12月9日「鼻/外套/査察官」(ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ 著)
(52)平成22年12月11日~平成23年1月3日「魔の山」(トーマス・マン 著)
(53)平成23年1月8日~平成23年1月20日「大いなる遺産」(チャールズ・ディケンズ 著)
(54)平成23年1月20日「賢い血」(フラナリー・オコナー 著)
(55)平成23年1月22日~平成23年1月23日「チャタレイ夫人の恋人(完訳)」(D・H・ロレンス 著)
(56)平成23年1月28日~平成23年2月6日「風と共に去りぬ」(マーガレット・ミッチェル 著)★
(57)平成23年2月10日~平成23年2月20日「悪霊」(ドストエフスキー 著)
(58)平成23年2月20日「日々の泡」(ボリス・ヴィアン 著)
(59)平成23年3月6日~平成23年4月9日「アレクサンドリア四重奏」(ロレンス・ダレル 著)
(60)平成23年4月16日「ガリヴァ旅行記」
(61)平成23年6月11日「夜間飛行」
(62)平成23年6月20日~平成23年6月26日「冷血」
(63)平成23年7月3日~平成23年7月24日「人間の絆」
(64)平成23年7月30日「日の名残り」
(65)平成23年8月6日「女の一生」
(66)平成23年10月6日「若者は皆悲しい【断念】」
(67)平成23年10月16日~平成23年10月17日「沈黙の春」
(68)平成23年11月3日~平成23年11月5日「ペスト」★
(69)平成23年11月6日~平成23年11月12日「嘔吐」
(70)平成23年11月20日「かもめ」
(71)平成23年11月23日~11/29下巻発行マチ「アブサロム!アブサロム!」
(72)平成23年12月1日~平成23年12月29日「ドン・キホーテ」
(73)平成24年1月2日~平成24年1月17日「トリストラム シャンディ」

■啓蒙書について
生きる勇気がわく言葉
http://books.livedoor.com/item/706683
自助論 スマイルズの世界的名著
http://books.livedoor.com/item/354706

■文中で触れた「人間の基本的設計」について
孤独の科学
http://books.livedoor.com/item/3746487
ネットの書き込み:人類の肉体の基本設計
http://2chcopipe.com/archives/51742751.html

※その他、自分はネットでちょっとでも「やる気」を出してくれるものを見つけると画像データだろうが動画データだろうかHTMLだろうか、全てブックマークするなり保存するなりしてます。

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>御相談です。。。 (スヌーピー)
>
>2012-01-18 23:19:13
>
>初めまして、いつも貴重なお話を興味深く拝読させていただいております。
>
>現在出身大学でパート職員として今年から勤務をしております。
>前職を辞め、少しでも大学という環境で経験を積みたいと思い現職に就きました。
>
>私の大学では内部登用制度があるのですが、年に1回、また1年以上の勤務が条件となっています。
>
>内部登用試験を待たずに、今年度の国立大学職員採用試験を受けることは可能でしょうか?
>受験資格を満たしているのですが、既に志望大学でパートの勤務をしており、職場の方にも親切にして頂いているので、私の勝手でご迷惑をお掛けしたくありません。
>また、勤務してすぐにその様な試験を受けるというのはいささか横柄ではないのかとも感じております。
>
>本来ならば内部登用試験を受けるべきとは思うのですが、その試験まで1年半待たなければならず、(必ず受かるという保証もありませんので)なるべくチャンスを増やし、そして早く正規職員の方と同様に働き、力を付けていきたいという焦りとジレンマを感じております。

>既に常勤職員として勤務されている管理人様にアドバイス頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
>駄文失礼いたしました。



Re:スヌーピーさん (管理人)

2012-01-20 01:17:58

国立大学職員採用試験の受験資格を満たしているのであれば、内部登用試験を待たずに職員採用試験を受けることは可能なはずです。可能なはずというか、内部登用試験を受ける可能性があるからといって職員採用試験を認めないのはさすがに問題があると思います。また「本来ならば内部登用試験を受けるべき」とありますが、個人的にはむしろ職員採用試験こそ受けるべきだと思います。内部登用試験制度を否定するつもりはありませんが、実施状況や採用過程が正規の職員採用試験に比べほとんど公表されておらず、これによって実施する大学の裁量の余地が大きいと思われる内部登用試験制度は、それ自体の存在意義はあるでしょうが、公平な競争という観点、特に法人化したとは言え、国立大学職員の基本給与が運営費交付金という公的資金から支出される事実に照らしすとやはり無視できない、ある一定の条件を満たす人間であれば誰にでも挑戦でき、またその競争方法が公表され、またその競争方法が採用する側の裁量的意思によらない筆記試験等のような試験結果に一定程度客観性の強い要素を持つ試験により採用を決めるべきとする観点からすると、内部登用試験制度は、確かに事前の勤務形態の確認も無しにいきなり正規職員として雇用する正規の職員採用試験制度に比べて優秀な職員を効率的に採用できる利点はあるとも思われますが、それでも少なくとも正規の職員採用試験制度が現在のような形で存在している状態においては、非常勤職員として一度雇用された人間がその経年により新規卒業者等と比べて正規の職員採用試験にて採用に到る可能性が低いことを考慮に入れ行われる、正規の職員採用試験の補完的な制度だと、個人的には考えます(文が長ぇ!)。もちろんこれ(制度それ自体の意味等)については異論もあるでしょうが、それでも少なくとも、内部登用試験も受けられるがあえて正規の職員採用試験を受けたいと望む非常勤がいるのであれば、正規の職員採用試験を勧めるべきであると個人的には考えます。

パート職員の契約期間中に試験を受け、また途中で正規職員として採用しなおされるためにパート職員としての勤務が疎かになることを懸念する気持ちも理解できます。これについては特に、パート職員の方が結ぶ労働契約が「有期雇用契約」という、原則として「労働者は契約期間中に勝手に契約を解除できない性質(有期労働契約の拘束効果)」のものであるという法律上の理屈からも説明できます(一方で正規職員は「無期雇用契約」であり、これについては労働者はいついかなる時でも退職の申し出をすることができます)。しかしこのことを考慮に入れてもやはり、自分は正規の職員採用試験を受験することをお勧めします。その理由として第一に、非常勤職員が正規職員に雇用されることにより得られる労働者側の利益は、国立大学がその雇用する非常勤職員が契約期間途中で契約を解除された時に受ける損害に比べ、社会情勢的に優先されるべきと考えられても致し方ないと思うからです。特にこれは、もし正規職員として採用する大学が非常勤職員の時と同じであった場合には、いっそう大学側の受ける損害は少なくなると考えられますし、事実一般として有期労働契約として雇われた非常勤職員やパート職員(多くは事務補助などを行うさほど重要ではない職位にあった非常勤職員)が一身上の理由で辞める多くの場合において大学側がそれによって被った損害を請求するという事実がほとんど無いことからも、是認されると思います。第二はもう少し実際的な理由です。第一の理由でも少し述べましたが、昨今の経済状況は決して労働者と使用者が対等な立場にあって契約を交わすという、法律の理屈を考える上で前提となる限りなく理想的な状態にある訳ではありません。現に非正規職員と正規職員の給与格差や、雇用それ自体の確保が大きな問題となっている今日において、非常勤職員は必ずしも自ら望んで有期雇用契約を結んだ訳ではなく、正規職員としての労働契約(多くの場合でそれは無期雇用を内容とするものですが)までの「つなぎ」として非常勤職員としての労働契約を結んでいる実態は否定できないと思います。このような状況において、非常勤職員から正規職員への雇用の機会がある場合に、前者の労働契約期間の未満を理由に後者の機会を狭めることが果たして本当に正義に合致するかといえば、これは例え法律上の観点から考えても結論は一つに固まらないと思います。

以上は「理屈(屁理屈?)」です。ここからは個人的な経験やら感想に基づく話です。

まず最初に、非常勤職員をやりながら正規職員の採用試験や公務員試験の勉強をしている人はたくさんいます。というか、非常勤職員をやりながら勉強して国立大学職員になった人もたくさんいます。このあたりは特に国立大学職員であり、国家公務員試験群の中では採用数が多いために割と採用が簡単だという事情もあってか、前職に非常勤がある人は他の省庁や団体に比べて特に多いような気がします。自分がざっと思いつく範囲でも、1年目部署で先輩だった職員と同期の1人と同じ時期に就活をしていた知り合いは皆市役所の非常勤職員をしながら公務員試験をして採用された人ですし、中にはニートを数年やってから採用された人もいます。また自分の4年目の部署で非常勤職員をしていた方が、昨年の秋に正規職員として雇われたという、今回のスヌーピーさんの事例とかなり同じパターンもあります(自分の大学は内部登用試験制度を持っていないので、この方は正規の職員採用試験の勉強をして採用された方です)。全員が全員このパターンではなく、この他にも民間経験者がいたり大学院を途中で退学して入ってくる人がいたりし、もちろん新卒や第二新卒あたりで入ってくる人も大勢います。が、それでもともかく、「非常勤をやりながら勉強して正規になった」組は一定数いますし、「国立大学の非常勤職員をやりながら勉強して正規職員になった」人も現に自分の知る範囲で一例ある訳ですので、これは決してやってやれないような、特殊なことではないと思います。

また正規職員になるとは言え、パート職員途中で仕事を辞められて嫌な顔されないかと、あるいは迷惑が掛からないか、という点ですが、これはやはり一定程度には嫌な顔もされますし迷惑も掛かります。上でも書きましたが、どんな事情があるにせよ、有期労働契約を結んだ以上はその途中で契約を解約することには一定程度の非難はあり得るからです。これに関するアドバイスははなぴんさんへのコメントとさほど変わりません。まず「嫌な顔をされる」「迷惑がかかる」ということですが、これはあくまでゼロでないという意味であって、限りなくゼロに近い範囲でしか起こりえない可能性もあります。また多少起こったとしても、この程度は1週間もたてば多くの場合で頭は冷めるはずです。部署にもよりけりでしょうが、非常勤職員が途中で辞めるなんてことはよくある話です。ひどい場合だと採用3日目で「もう辞めたい」ときて、ついでに「採用されたことになると手続きが面倒臭いので、やっぱり採用されなかったことにしてほしい」なんて言ってくるのもあります(これは直接経験しました)。ここまでひどいのはさすがに数年に一回あるかないか、部署によっては一度も無くてもおかしくないレベルですが、こんな話でも1ヶ月たてば飲み会の笑い話です。ましてや非常勤だけど正規職員になりたいから試験勉強をし、もしうかったら正規職員として入りなおしたい、という言ってくる職員は「嫌な顔をされる」どころか大いに励まされる可能性だってあります。国立大学職員、あるいは公務員、あるいは民間全般に限らず、割とそういう浪花節が好きな人は、特に長のつく役職を長年やっている中には結構たくさんいるはずです。それでもやはり迷惑が気にかかるというのであれば、やはりそれは「諦めろ」と助言します。諦めて現在のパート職員の任期を満了した後に正規職員採用試験に挑戦するか、あるいは内部登用試験に挑戦するのがいいと思います。はなぴんさんのところでも書きましたが、試験は受験者が主体的に受けるものであって、「条件が整わないから」と思うのであれば受験しないのも全くの自由です。逆に試験を受けると決めたのであれば、その時点で「条件が整わないから」は既に言い訳に出来ません。試験を受ける以上、整わない条件は自らの手で整えるべきです。スヌーピーさんは「職場の方に親切にしていただいているので迷惑は掛けたくない」と書いており、具体的な状況がどのようなものかは自分には分かりませんが、事情を説明し、職場の方の同意を得た上で、業務引継ぎなどを早めに行って、職場の方に極力迷惑を掛けないよう努力する方法があるはずです。その上でも迷惑が掛かってしまうとしても、その迷惑は迷惑として残しておけばいいと思います。これは「少しくらいの迷惑は残しても良い」というよりかは、「何もかもスッキリと片付けてしまうと非の打ち所が無くなってしまうから、後で途中退職を恨む人達が陰口を言いやすいように、少しくらいは迷惑っぽいところも残しておこう」と考えてください。陰口なんて言ってる人達には案外楽しいものなんですから、迷惑を掛けた代償として、その迷惑を非難できる余地を残しておけば、それでその件はある意味円満に終わると思います。

長々書きましたが、あくまでこれはスヌーピーさんが任期途中で正規職員を目指す場合の、個人的な感想です。短くまとめれば「パート職員の任期をキッチリ満了してから挑戦するのももちろん立派だと思いますが、あまり他人やら勤務先国立大学やらにかかる迷惑ばかりを考えて行動を差し控えるのもどうかと思います。つきましてはご自身に、不都合も迷惑も全て飲み込んだ上で国立大学職員採用試験に挑戦できる「意思」があるのか、それをまず確認してみることをお勧めします」という感じです。試験に際して必要な情報はこのブログに載せてあるつもりなので、ご利用いただければ幸いです。

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エントリーを作るつもりでは無かったのですが、コメントへの回答を書いていたらあまりに長くなりすぎたり図を引用したりする必要が出たため、エントリーにしてみました。まぁ一つ「ソクラテス・メソッド」だと思って読んでください。奇しくも今日は「成人の日」ですし、若い人向けのメッセージということで。


>Unknown (はなぴん)
>2012-01-09 02:34:41

>こんばんは。
>突然ですが、質問があります。

>私は私大の1回生ですが国立大学職員になりたいと思っています。

>国立大学職員になられた方のサイトを回って見ますと
>自分が進学した国立大学の事務職員になっている人が大半でした。

>やはり、私大出身だと影響するんでしょうか。
>よろしくお願いします。


確かに最近は国立大学出身者が国立大学職員になる例が増えているかもしれません。しかし、仮にこのような事実があったとしても、これはどちらかというと大学職員や公務員の高学歴化の結果として起こっていることだと思います。「私大出身だから取らない」という訳ではなく、「点数の高い受験者を集めてみたら国立大出身が多かった」ということです。

例えるならこの場合の私大出身者は「小学校の1年1組と1年2組でテストをしたら、上位10名に入っている生徒の数が1組の方が多かった」という状況における、2組の生徒の立ち位置、といったところでしょうか。こういう状況において「自分が2組にいることがテストの点数、特に上位10位に入れる点数を取れるかどうかにどう影響するか」を考えてみてください。科学的にどう考えるのかが正しいのかは知りませんが、自分なんぞは「影響などありえない。なぜなら自分が上位10位にまず間違いなく入れる点数を取れる分だけ勉強すればこの問題は解決する。要するにこれは『自分がどれだけやれるか』の『個人戦』の話であって、どの組に属しているかという事実は自分の勉強時間に何の影響も与えないからだ」と考えます。考えますというか、実際にこの考えを高校受験から実行してきた結果が今の状況です。

国立大学職員採用試験に限らず、各種問題対応においては統計上で確かにある要素を持つ人間がその問題を解決する志向にある場合が多いですが、それと「自分がそれを達成できるか」とは別問題だと考えた方がよいです。もちろん、問題解決のためにある要素を持つことが必須である場合にはその要素も持たなければなりませんが、少なくとも国立大学職員の採用試験においては出身大学の態様(国公私立のいずれ出身か)に「必須」はありません。とは言え、「出身大学が国立か私立か」という点がその受験者が採用される可能性に「全く完全に何の影響も与えていない」とも、自分は考えていません。「全く完全に何の影響も与えていない」とは言いませんが、「ほぼ無視できるレベルにある」と考えています。「全く完全に何の影響も与えていないとは言えないがほぼ無視できるレベルにある」というのは、例えば「A国立大学の職員採用試験において、A国立大学出身の受験者は他の受験者よりも少し有利で、さらに国立大学出身の受験者も私大出身の受験者よりも少し有利で、さらに4年制大学出身の受験者は4年未満制大学出身の受験者よりも少し有利である」等ということがあり得るが、あり得る上でも「自分の出身大学に関係なくA国立大学に採用されることは出来る」ということです。

より具体的に話せば、国立大学職員採用試験は大きく「筆記試験」と「面接試験」に分かれます。まず「筆記試験」について、出身大学態様の影響は皆無です。「面接試験」の内、特に「グループディスカッション」や「集団面接」のような対応方法それ自体を問うような場合も、出身大学態様の影響は皆無です(私大出身者が筆記試験の点数を減点されたり、グループディスカッションにおいて私大出身者の話時間が国立大出身者のそれよりも短く設定される、なんてことはあり得ないからです)。出身大学態様の影響がありうるのは最終の「個別面接試験(他面接試験中にある「個別面接試験」の要素を持つ部分も然り)」の人物評価等の中における「最終学歴」中の「学校歴」部分です(「学歴」と「学校歴」の区別はつけるようにしてください。「4年制大学卒業」などが「学歴」で、「国立A大学B学部卒業」とか「私立C大学D学部卒業」とかが「学校歴」です)。自分は先に「全く完全に何の影響も与えていないとは言えないがほぼ無視できるレベルにある」と書きましたが、まさにこの通りに、自分は国立大学採用試験における受験者の「学校歴」は「必ず面接者の目が通される」という意味において『全く完全に何の影響もない』とは言えませんが、「それを問われるのが全試験中のごく一部であり、それを補うチャンスが余りある」という意味においては『ほぼ無視できるレベルにある』と考えている訳です。

とは言えもちろん、はなぴんさんを始め「出身大学の態様」やそれ以外(例えば民間出身だったり大学院卒業であること)に大きな懸念を持つ気持ちも分かります。上のように書きましたが、例えば面接者が異常に母校愛の強い人間であったり、国立大学出身以外を軽視する態度が強かった場合などには、それはもはや「無視できるレベル」を超えるのではないか、と思うだろうからです。

この点については2つの立場から説明します。

1つは国立大学に限らず、公務員試験の面接試験に当たっては、必ず複数の職員による評価が行われるため、異常にバイアスのかかった評価はその影響を全く排除することは出来ないまでも、複数評価という中においてその影響がかなり軽減する、という点です。ちなみにこの「異常なバイアス」は受験者(あるいは私大出身)にとって必ずしも不利なものとは限りません。さきほど「国立大学出身以外を軽視する態度が強かった場合」と書きましたが、正直に言うとこれの逆の場合、つまり「私大出身を優遇する」というバイアスがかかることが大いにあり得ます。一番最初に最近は国立大学出身者が増えた、と書きましたが、逆に言うと昔は私立大出身者の割合が今より多かったのです。さらに言うと、採用試験の面接は多くの場合で係長~課長補佐の職員が複数評価に加わりますが、少なくとも自分の大学におけるこのあたりの職員層はほとんど私立大出身者です。要するに「A国立大学の職員採用試験の面接官をしていたBさんはC私立大学出身であったため、C私立大学出身者を少し優遇して評価してしまった」なんてことは、「A国立大学の職員採用試験でA国立大学出身者を優遇して評価する」という事象と比べてなんら遜色なく起こりうる可能性がある、ということです。あるいはもっと言えば、「D地方のE高校出身の面接官が同高校出身の受験者をつい高く評価してしまう」なんてこともあり得ます。つまり、「複数評価」はそれ自体がバイアスを軽減させるとともに、逆のベクトルを持つバイアスによって中和されるか、全く別方向のバイアスによって威力が軽減する可能性もあるわけです。複数評価が「良くも悪くも平均に近づくやり方」と言われるのはこのあたりが原因でしょう。

出身大学態様に懸念を持つことへの対策のもう1つについては、「諦めろ」ということです。最初に書きますが、完全に公正明大な試験なんてものはこの世には存在しません。センター試験でさえも機械の読み取りミスが起こりうる可能性が完全に排除できませんし、例えば試験会場の蛍光灯の明かりが0.1ルクス違っただけでも、科学的には違う結果を生む可能性を否定できません。もちろんそういう試験において、なるべく条件に合致するように受験者に平等な環境を提供することは実施者の義務です。ですから自分も、少なくとも業務中は「諦めろ」なんて言葉を吐けません。しかし、自身もかつて受験者であり、また一応にもそれに成功した立場から言わせてもらうと、「完全に平等で公正明大な評価方法が確立されていないから勉強する気がおきません」などという態度はまるで幼稚園児の駄々のように「未熟」に映ります。そしてここでいう「未熟」とは「主体性の欠如」のことです。

「主体性の欠如」というものがどのようなものか、自分も完全に体得している訳ではありませんが、学生時代にこれを理解する人間もまたかなり少ないでしょう。一つ例を挙げます。自分はこのブログを作り、よく受験者の方から質問を受けます。質問には2通りがあります。①「○○ですが合格できるでしょうか」類型と②「合格したいんですが何をすれば良いでしょうか」類型です。そして自分が基本的に「この質問者には主体性が欠如しているのでは無いか」と疑うのは①類型です(質問文の類型というよりも、質問者の頭の中の類型と書いたほうが良いかもしれません。①の文章で持って②の態度を持つ人もたくさいんいるからです)。①類型について主体性が欠如していると考えるのは、①類型に対して「それでは合格できません」と答えたら「じゃあ辞めます」とか「何で受からせてくれないんですが」とか怒り出しかねないからです。国立大学職員採用試験は受験者の自発的意思によって行うもので、当然日本の全国民には「その試験のために勉強する義務」も無ければ「試験に合格する権利」もありません。受かる可能性に勉強するために費やす費用を考慮して、それでも受験しようとする人間がその自発的意思に基づいて受験するのが本来のあり方であり、主体性のあるやり方と言えます。早い話が、①類型は心のどこかで「私はこの試験を受験したいからあなたは私を合格させなさい」と考えていることが感じ取れる人、とも言えます。一方で②類型のほうはまだ「試験に合格すること」「試験に合格する方法を探すこと」を自己責任でやっている、と感じることの出来るタイプです。後でも述べることですが、②類型の方が粘り強さやコミュニケーション能力を感じることも出来ます。「主体性なんて無くてもいいじゃないか」という意見も大いに有りです。「船頭多くて~」ともいいますし、①類型で物事がうまくいく場合も多々あるでしょう。自分は①類型の存在が駄目とか無駄とかは考えません。ただ、自分の所属する国立大学の職員にはなってもらいたくないし、仕事の上でもあまり関わりたくない、というだけです。

さて話が逸れましたが「諦めろ」の話です。もしはなぴんさんが①類型であれば、つまり、こちらとしても出来るだけ受験者に対し公正明大な試験環境を準備するつもりで、またある程度合理的にそれを推進したとしても、どうしても「全く完全」にバイアスの掛かっていない試験を準備できない可能性を否定できないことに我慢が出来ないのであれば、試験そのものを諦めて他の人生を探るか、私に逆切れして鬱憤晴らした後で、やはり他の人生を探してください。もし②類型であれば、全てを覚悟の上で、採用試験に合格するための準備を始めてください。自分はその一助をこのブログに準備したつもりです。その場合、「諦めろ」というメッセージは「何もかも都合よく進む人生は諦めて、自らが主体的に動く覚悟を決めなさい」と読み替えてください。

また「主体性の話」は試験に限らず、また国立大学職員を受験するか否かに限らず、はなぽんさんが社会に出るまでは出来れば覚えておいてください。なぜかと言うと、採用する側と採用される側において、この主体性の持ち方に関する考え方に大きな断裂があるからです。以下の画像は「Benesse教育研究開発センター」が発行している「VIEW21(大学版)Vol.1」から引用したものです(リンク先に全ページのPDFファイルがあります。このグラフ以外にも非常に機知に富んだ記事がありますので、よろしければ一読してください)。見た分かるとおり「主体性」について、企業側と学生側に大きな隔たりがあります。また「主体性」「コミュニケーション能力」「粘り強さ」「一般常識」が企業が学生に不足していると思う能力の上位4つです。早い話が「一般常識を持ち、主体的に粘り強くコミュニケーションを図ろうとする学生」を企業は欲している訳です。そしてこれは恐らく国立大学においても全く同様のことだと思われます。試験に関連して言うと、「一般常識」は筆記試験で問います。またその筆記試験で高得点が取れるような勉強は「粘り強さ」と「主体性」を存在を感じさせます。「コミュニケーション能力」は特に面接試験で大いに発揮してください。またここでも「主体性」「粘り強さ」「一般常識」はやはり見られることになると思います。公務員試験はそれをしたからといって上記4要素を必ずしも身につけさせる試験ではありません。つまり「単に点を取る勉強方法」ではこれらのことは身につかないかもしれない、ということです。しかし意識してやっていれば、これらの要素は公務員試験のような無味乾燥と思える課題においてもある程度身に着けることが出来ると思います。全く同じ筋力トレーニングをさせても、ただ筋肉を鍛えるためにしている人間と救助活動等に必要な体を作ろうとしている人間が、人命救助において同じ結果しか出せないはずは無いからです。





以上、長くなりましたが質問の回答です。役立ててくれたら幸いです。

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■はじめに
 今回のエントリーはややローカルな話題です。国家公務員・国立大学職員に支給される手当の中には「地域手当」のように地域によって支給の有無や支給額が変わるものがありますが、寒冷地手当は「北国」あるいは「雪国」限定という、非常に珍しい手当です。寒冷地手当は他にも、他の多くの手当が「一般職の職員の給与に関する法律」(通称「給与法」)にてその支給が根拠付けられている一方で、寒冷地手当だけが「国家公務員の寒冷地手当に関する法律」という全く別の法律が根拠になっているなど、他の手当と扱いが異なる部分があります。
 人によっては一度も支給を受けないような手当ではありますが、寒い地方に暮らしている自分なんぞは親の代から付き合ってきた手当であるため、今回はその寒冷地手当について、暖かい地方に住む人向けにその概要を書いてみたいと思います(後半は自分の地元志向が爆発した文章になるのでご注意ください)。

■そして支給される「石炭3トン」
 寒冷地手当とは簡単にいうと「寒冷積雪地域に勤務する職員に対して支給される、冬期間における暖房用燃料費等の生計費に対する手当」と把握することができ、歴史的には昭和21年頃から支給された「石炭手当」まで遡ることができます。また昭和24年に成立した「国家公務員に対する寒冷地手当及び石炭手当の支給に関する法律」という名称からも分かるとおり、「寒冷地手当」も「石炭手当」とは別に戦後間もなくから支給されているものでした。「寒冷地手当」と「石炭手当」はその支給内容が頻繁に修正された手当ではありますが、基本的に「寒冷地手当」が「俸給・扶養手当の○割」、「石炭手当」は「小売価格で換算した石炭○トン分の金額」という形で支給されました。決して石炭の実物が支給された訳ではありませんが、小題にあるとおり、世帯主に対する石炭手当の支給基準が実際に「石炭3トン分」とかだったりと、現在の支給規定などに慣れている自分などからはなかなかインパクトがある内容となっていた訳です。
 また基本的に「寒冷地手当」は「寒冷地在勤職員」が対象でしたが、「石炭手当」は「北海道在勤職員」限定の手当でした。ただこれについては、「石炭手当」の有無で大して気象条件が違わない北海道南部と青森県等との支給額の格差が問題となり、昭和31年に北海道以外の地域が対象となる「薪炭(しんたん)手当」が新たに創設され、調整が図られました。
 なお、「寒冷地手当」は当初より「俸給」と「扶養手当」がその計算基礎額なっていたのでその家族構成が手当支給額に連動していましたが、「石炭手当」は「世帯主」と「その他」の区分しかなく、「家族持ち」と「独身一人暮らし」が同じ「世帯主」として扱われるという嫌いがありました。このあたりについては昭和36年に改正が行われ、「世帯主」が「扶養親族ある世帯主」と「扶養親族がない世帯主」に分かれ、同時に住んでいる地方(甲・乙・丙)によっても支給額が異なるようになりました。住んでいる地方によって支給額が異なる仕組みは寒冷地手当の級地別支給額の制度などがこれより前にありましたが、今日の原型となる「地域」及び「扶養有無・世帯主であるか否か」で区別する寒冷地手当の制度はほぼこのあたりで出来たと考えて良さそうです。
 その後、寒冷地手当・石炭手当・薪炭手当は昭和39年に一本化されましたが、「寒冷地手当」から移行した「定率額」と「石炭・薪炭手当」から移行した「加算額」(さらに石炭手当分は「北海道加算額」、薪炭手当は「内地加算額」と区別されました)という仕組みは残り、結局結局現在のような形になるのは平成16年まで待たなければなりませんでした。平成16年と言えばごく最近であり、このあたりまで石炭やら薪やらが由来の手当が残っていたこと自体、個人的には非常に面白いとは思うのですが、さすがにそろそろ時代にそぐわなくなってきただろうという判断がやはりされ、寒冷地手当は平成15年に行われた全国的な民間事業所の実態調査に沿って大きく形を変えました。
 歴史的経緯から見る現在の寒冷地手当の大きなポイントは、それが「民間準拠の手当である」ということです。寒冷地手当についてはよく「あれは官主導でそういうものを根付かせようとするのが目的の手当だ」と批判されることがあります。実際、これは否定できなく、参考文献にも次のような記述があります。

この手当は北海道を中心とする寒冷地域の活性化のためにいわば官先行により人材を誘致するという意図もあって議員立法によって制度化されたものであるが、制定後五十年以上経過したじた時点で見てみると、北海道以外の民間企業ではこの種手当は普及していないのではないか、むしろ「官民逆較差」の一つではないかとの批判も生じてきた。
森園幸男・大村厚至(2009)『公務員給与法精義<第4次全訂版>』868頁 学陽書房


 しかし上にも書いたとおり、現在の寒冷地手当は平成15年に実施した調査に基づいて支給しているため、逆にこれを無視するのは民間準拠であるべき国家公務員の給与の原則に反します。よって国家公務員やら国立大学職員やらは寒冷地手当を堂々と受け取っていいはずなんですが、それでもまだちょっと微妙な問題が残っていたりもします。

■寒冷地手当の諸問題
 まず上の調査について、確かに北海道では寒冷地手当等を支給している事業所が80%を超えているのですが、それ以外の地域では支給している事業所の割合がガクッと減ります。次点の青森ですら約25%であり、中には国家公務員では寒冷地手当の支給対象となっているのに、民間事業所でそのような手当を支給しているところが0%だとか、あってもたかだか数%なんてところもあります。



 この点について参考文献は次のようには書いていますが、「民間準拠」という観点からこれで説明しきるのはやや苦しい印象があります。それでも寒冷地手当を支給するのであれば、せめて「全国に支社がある企業」に限定して寒冷地手当等の支給調査を行い、寒冷地手当の支給について全国でバランスを取ることの根拠とするのが良いのではないでしょうか。

民間準拠という基準でみるとこの手当の支給地域は北海道に限定される。しかしながら国家公務員は全国で勤務しており、同じような気象条件の下で一方で寒冷地手当が支給され、他方で支給されないとなると公平性の確保から問題が生ずるので、北海道の寒冷度に匹敵する本州の一部地域(官署)も支給地域に加えることとされている。
森園幸男・大村厚至(2009)『公務員給与法精義<第4次全訂版>』868頁 学陽書房


 また仮に北海道については充分に民間準拠であるとしても、それが本当に科学的データに裏打ちされているのかどうかが判断しにくい、という点もあります。もっともこの点については「国家公務員の寒冷地手当に関する法律」第4条で人事院に寒冷地手当に関する調査研究の権限が与えられており、また過去においても合計で8回の勧告が行われていますので、ある程度の科学的根拠付けはされていると考えて良さそうです。
 ちなみに北海道のデータについては今回自分でも調べてみました。下に並べられている「支給区分」と「平均気温」と「積雪」の各地図がそれです。パッと見る限りにおいては支給区分の設定はそれなりに正しいように思われますが、より厳密に検証するためにはやはり人事院が調査したデータを直接検討したいところです(データは国土地理院「ナショナルアトラス閲覧サービス」の新版日本国勢地図(1990年刊行)より取得)。

    



■寒冷地手当の支給額等
 歴史的経緯や問題点はさておき、その支給内容についてです。
 寒冷地手当の支給額は区分に応じて非常にシンプルにまとめられています。下がその一覧で、これ以外に特に書くことはありません。



 各地域区分や扶養の有無等でどのように支給金額が変わるかについては次のとおりです。区分に応じてある程度連動した金額の上昇率を見せていますが、数字が完全に一致せず、またキリのいい数字にならないのは実態調査に基づいた統計的な金額によって支給額を決定しているためと思われます。



 また各支給額を高い順番に並べると次のようになります。歴史的経緯なんかを見ると北海道中心の手当のようにも思えますが、このようにランク付けしてみると「地域区分」よりも「扶養の有無」「世帯主であるか否か」の方がはるかに支給金額に影響を与えていることが分かります。体感気温的には旭川の一人暮らしよりも本州の家族持ちの方が支給額が高いのは納得できない気がしますが、家族持ちの職員は自身が出勤している間も家に残っている家族が暖房を使う必要があるので、総合的に考えればこのような結果になるのが妥当なのかも知れません。




■おわりに
 という訳で、今回は寒冷地手当に関するエントリーでした。
 支給内容よりも歴史的経緯などが多かったですが、実際この手当はいろいろと時代の流れによって決定した部分が大きい手当だと思います。特に「寒冷地への人材誘致のための手当」なんていかにも昭和臭い感じがします。
 また「寒冷地への人材誘致」とはちょっと話がそれますが、個人的には「寒冷地手当」には「寒い地方への経済援助」的な意味合いも強かったのではないかな、と思うところがあります。「寒い地方だから貧困」という訳ではありませんが、大都市の発展の一方で地方や寒村がやや発展し遅れる、なんていうのはよくある話です。そのような一般論を持ち出さなくとも、戦後日本において北海道地方の開発が急務であったという個別事情もありました。寒冷地手当の源となった法律が「議員立法」であった点も見逃せません。
 仮にそのような意図があったとして、「それでは寒冷地手当はその成果を上げただろうか?」と考えてみることは、ちょうど時代を一区切りする意味においても、とても大事なことだと思います。経済成長時代及びその後もしばらく行われた地方公共事業への多額の税金投入は確かに談合などの不祥事も多く生みましたが、それでも国土の均衡ある発展は地方の人達の人生を豊かにするという一定の成果を上げた、というのが自分の持論です。これと同じく、一時期は手厚くなりすぎた嫌いがあったかも知れませんが、戦後から平成初期の時代にかけて寒冷地域に対し支給された寒冷地手当等は、寒冷地域に住む人達がより快適な生活を送ることを助けたという、一定の使命を果たしたと思っています。
 この考えは何も机上の空論と言う訳ではありません。冒頭にも書きましたが、自分は自分の子供時代に自分の家の暖房費がまさにこの寒冷地手当で賄われていた人間です。またさらに言えば、一人立ちと同時に自身も寒冷地手当を受け取るようになった訳ですから、生まれてこの方寒冷地手当を受け取ることなく冬を越したことがない人間ですらあります。その自分が過去を顧みるに、暖房器具や住居の構造が現代ほど防寒性に優れていなかったあの時代に、寒冷地域に勤務する職員に対して寒冷地手当を支給することは、まず間違いなくその職員の生活水準を向上させたと言える自信があります。さらにこの考えは、自分の住んでいる地域の住民からも同程度の理解を得られるとも考えます。「漁師は海の怖さを知ってこそ一人前」という言葉と同じく、寒冷地域に長く(特に昔から)住んでいる人間であれば、雪や寒さから身を守ることの重要性と、それが出来ることのありがたみは否が応にも身に染みるはずだからです。
 ここで自分が特に言いたいことは、「だから寒冷地手当を縮減してはいけないんだ」ということではありません。それどころか、過去に比べて著しく進歩した暖房器具や住宅構造の変化を鑑みるに、寒冷地手当の縮減は時宜を得た適切な対応であるとすら考えます。つまりここで自分が言いたいことは、寒冷地手当を縮減するという、その意味についてです。
 何度も書いたとおり、寒冷地手当の縮減は暖房器具等の進歩を初めとする、国民の生活水準の向上がその原因となっているはずです(正確には、そのような要因を受けて「民間の寒冷地手当」の支給額が削減され、その次に「民間準拠」で公務員の支給額が削減される、という手順になりますが)。これは要するに、「寒冷地域に住む人達が昔ほど寒冷地手当を受け取らなくても寒冷地以外で住むひとと同じような生活が出来るようになった」という成果を反映しての縮減であり、決して「寒冷地手当は無駄に多かったから縮減する」という理由だけで行われるものではないはずだ、ということです。もっとも、縮減する時には余剰分が必ず「無駄」として扱われるのは仕方ありませんが、ここで言いたいのはそれは「対策が功を奏したからこそ発生した無駄なのだ」ということです。さらには暖房器具の進歩等の科学技術そのものも、地方を含めた国土の発展の効果であると考えられるなら、寒冷地手当はその支給を行ったことによってその支給を過去ほど行わなくても良い状況を作り出したと言う、国家公務員に支給する手当としては最上の結果で縮減が行われたとすら言い得るはずです。
 別にこんな小さな違いをクドクドと説明する必要はないかも知れないんですが、どっかで誰かが(特に手当を受給していた側の人間が)こういうことを書いておかないとまたどっかの馬鹿な襟立て大臣が「寒冷地手当は無駄だったので仕分けします」とか先人の行いに義理を欠くようなことを言い始めかねないので、寒い地方に住む一人の人間として、やっぱり書いておこうと思います。

■(本当の)おわりに
 いろいろあった平成23年もついに終わり、また新しい年を迎えることが出来ました。まぁ、また例年のごとくいろいろある1年だとは思いますが、国家公務員も国立大学職員も結局は乗り越えるしかないと思いますので、悪態つきつき進んでいきましょう。今年も国立大学職員日記をどうぞよろしくお願いいたします。

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