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魔界への誘い・京に伝わる魔界伝説
道真が降りたった登天石
その一条下り松に延暦寺の僧、法性房尊意が住んでいたという。
この僧は道真の学問( 仏教 )の先生でした。
道真の怨霊が全開の頃、法性房尊意が宮中に呼ばれ、
比叡山を下りて鴨川へ渡ろうとしたときのことです、
氾濫していた鴨川の流れが2つに割れて水底の巌が顕わになった。
その石の上に道真が現われたのです。
法性房導意が道真を諌めたところ、
道真は天に昇り、荒れ狂う鴨川の流れはピタリと静まったと言う。
その登天石を、尊意は自宅に持ち帰って祀った。
それが醍醐天皇の勅命で
火難水難除けの社として祀られた水火天満宮の始まりなのです。
移転した現在も、
境内には「 道真 」が降臨した登天石が安置されています。
その並びに、
「 これより洛中荷馬口付のもの乗へからす 」と
注意を促した旧い石碑が建っています。
これはつまり、
ここから都に入るので、
馬を降りて繫いで荷を曳かなければならない・という標識なのです。
江戸時代、
ここは堀川通りの端にあたり、
洛中と洛外区切るラインでした。
藤原氏が怒れる天神に都の警備を頼んで以来、
時代は移り変われど、
都の境界線に道真は祀られたのでした。
堀川紫明の交差点から堀川通を南に 少し行くと左側に水火天満宮と呼ばれる小さな神社があります。 地元では「水火(すいか)の天神さん」と呼んで親しまれ、 観光客が訪れることも希な地元の神社です。 この地は天台宗の僧、法正坊尊意僧正の 屋敷跡とも云われます。 その神社には登天石(とうてんせき)と云われる ミカン箱よりちょっと大きいかと云うぐらいの 石が鎮座し祀られています。 この石は道真が立った石と伝わります。 この道真とはそう菅原道真です。 天満宮だし菅原道真とくれば学問の神様と相場は決まっていますが、 京ではもう一つ菅原道真には怨霊と云うイメージもつきまといます。 |
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閃光が走り轟音がとどろく生きた心地もしない天変、 そんなとき人々は道真の祟りだと恐れたのでした。 その背景にはいつの世も変わらぬ権力争い、 覇権争いが見え隠れします。 日本史のおさらいです、 藤原氏の台頭を恐れた宇多天皇は右大臣に道真を重用、 この時の左大臣は藤原時平でした。 宇多天皇が譲位して醍醐天皇の世になった折、 時平は何かと物言う道真を嫌悪していたのでしょう。 政治のプロとして隆盛を極めつつある藤原氏と 学問の粋で功績はあったものの政治には疎い道真、 両者の覇権争いの中で起こったのが 時平の讒言による道真の太宰府への左遷でした。 類は道真の四人の子供も及び、 それぞれ土佐、駿河、飛騨、播磨へと流されてしまいます。 そして道真は流されて二年後の延喜三年(903年)に 五十九歳の生涯を閉じます。 その道真の不遇に世人の同情は集まり、 天変地異が相次ぐと人々は道真の怨霊が 成せる業だと妄想したのでした。 |
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その脅威に不安を抱いた醍醐天皇は 法正坊尊意僧正をして祈祷を命じたの でした。雷鳴とどろく大雨の中、都へと 急ぐ法正坊尊意僧正が賀茂川に差しか かった折、みるみる水位は上がり土手を 越えて町中に流れ込む事態、 法正坊尊意僧正は平静を装い数珠を取り だし祈りを捧げたのでした。さすれば にわかに水位は下がり、水の流れが 二つに分かれた先には石の上に立つ 愛弟子であった道真の姿があったと云い ます。 やがて道真は尾を引いて雲の中に消え、 雷鳴も大雨も瞬時に止んだと云います。 法正坊尊意僧正はその石を持ち帰り 霊を弔ったと伝わります。今に伝わる 登天石はそのような伝説が残る石です。 天満宮と云えば梅ですが、水火天満宮 では梅の印象はなく、春になれば、 数本のなかなか綺麗な枝垂れ桜が目に 止まります。 |
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続きは次回に・・
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