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魔界への誘い・京に伝わる魔界伝説その35
壮絶な血の海となった、京の木屋町高瀬川
鴨川の西に平行して流れる高瀬川は、
皆さんご存知のように豪商 角倉了以、素庵父子によって
江戸時代のはじめに二条大橋の禊川(みそぎがわ)から取水して、
伏見まで運河として開削されました。
その起こりは秀吉が力を注いだ方広寺大仏殿の再建のために
資材を運搬するのが目的でした。
そして、舟での流通が盛んになって、木屋町が生まれた、
もとは「 樵木町 (きりきまち)」といっていたが、
川沿いに木材の倉庫が軒を連ねたことから
「 木屋町 」と呼ばれるようになりました。
高瀬舟で渡ってきた旅人のために旅籠や料理屋が増え、
現在の盛り場に発展していった。
高瀬川沿いにある「 紙屋町 」「 鍋屋町 」など、
物流で扱っていた品物を意味する町名も多い。
高瀬川の起点となる「 一之舟入町 」に舟溜の名残が見え、
今も酒樽を積んだ高瀬舟が浮かんでいます。
この辺り一帯に角倉家の邸があった。
その後山縣有朋の別邸となり姿を変えるが、
木屋町通りに見える石垣は当時のままだそうです。
いかに隆盛を極めたか、石の面が当時を物語っています。
その通りの並びに、
長州藩の桂小五郎が恋人 「 磯松 」と暮らした「 磯松 」がありますが、
幕末の志士が闊歩した通りなのです。
高瀬川沿いには「 象山先生遭難之碑 」
「 大村益次郎御遭難之碑 」が並んで建っています。
佐久間象山は、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らの師にあたり、
東西の学問を修めた有名な人です。
木屋町の自宅を出たすぐそばで暗殺された。
今からわずか100年余り前に「 木屋町 」は殺人の舞台だったのです。
其れゆえか、三条から二条にかけて、
京の繁華街でありながら木屋町のこの辺りはひときわ闇が暗いし、
とても静かです。
高瀬川畔の石碑の記憶がそうさせているに違いないようなのです。
今回はここまで・・
続きは次回に・・
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