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千年の古都のタイムトンネル
京都の歴史 その壱百五拾弐
鳥羽離宮には寝殿 と 仏教施設が混在していた。
こうした 御所には、
それぞれ上皇たちの御願による 寺院が付属していた。
養和三年 ( 1101 ) に、
白河上皇によって南殿に 証金剛院がまず建立され
その後 鳥羽上皇によって 泉殿に 成菩提院、
北殿に 勝光明院、
東殿に 安楽寿院、
田中殿には 金剛心院 がそれぞれ建てられています。
こうして鳥羽は、
住宅である 寝殿と
仏教施設の堂舎 が混じる独特の景観を持つようになった。
離宮内の 殿舎 や 堂舎の前には広大な池が広がり、
それらは水路でつながっていたので、
舟で殿舎間を行き来が出来たようです。
そして鳥羽院全体としては、
北と南にそれぞれ出入りの門があったという。
鳥羽殿の建物や寺院は、
そののち 後白河上皇、
さらには院政を引き継いだ 後鳥羽上皇 によっても、
修造が加えられたり、
新御所が建築されたりする。
こうして 鳥羽殿 は鎌倉時代の末までは 離宮として機能していたらしい。
しかし、
南北朝の内乱以降、
次第に 殿舎と 堂舎は見捨てられるようになり、
現在、
その跡を留めるものは、
幾つかの 天皇陵と
城南宮 ( 歴史上は 城南寺としてその名が見える )、
安楽寿院 などしかない。
現在の 安楽寿院は、
江戸時代のはじめに再興されたものですが、
もとは保延三年 ( 1137 )、
鳥羽天皇 の立願によって 東殿の中に建てられたもので、
それはこの場所に天皇の墓所を作るのが目的てあったらしい。
すなわち、
それ以前の
白河上皇の墓所として 証金剛院に三重の塔が建立されたのに倣って、
寺院内に 鳥羽天皇の墓として三重の塔 が立てられた。
これが「 本御塔 」です。
今回はここまで・・

続きは次回に・・

電話かFAXで、メールでお気軽に・・
E-mail Kyoto-ee@gaia.eonet.ne.jp
URL kyoto-estate.com
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必ずや立ち上がってくれると・信じてる。
5年10年掛かるかも知れないけれど・
ずっと・ずっと・応援してる・
みんなでがんばろう!! 日本
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京都の歴史 その壱百五拾弐
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それぞれ上皇たちの御願による 寺院が付属していた。
養和三年 ( 1101 ) に、
白河上皇によって南殿に 証金剛院がまず建立され
その後 鳥羽上皇によって 泉殿に 成菩提院、
北殿に 勝光明院、
東殿に 安楽寿院、
田中殿には 金剛心院 がそれぞれ建てられています。
こうして鳥羽は、
住宅である 寝殿と
仏教施設の堂舎 が混じる独特の景観を持つようになった。
離宮内の 殿舎 や 堂舎の前には広大な池が広がり、
それらは水路でつながっていたので、
舟で殿舎間を行き来が出来たようです。
そして鳥羽院全体としては、
北と南にそれぞれ出入りの門があったという。
鳥羽殿の建物や寺院は、
そののち 後白河上皇、
さらには院政を引き継いだ 後鳥羽上皇 によっても、
修造が加えられたり、
新御所が建築されたりする。
こうして 鳥羽殿 は鎌倉時代の末までは 離宮として機能していたらしい。
しかし、
南北朝の内乱以降、
次第に 殿舎と 堂舎は見捨てられるようになり、
現在、
その跡を留めるものは、
幾つかの 天皇陵と
城南宮 ( 歴史上は 城南寺としてその名が見える )、
安楽寿院 などしかない。
現在の 安楽寿院は、
江戸時代のはじめに再興されたものですが、
もとは保延三年 ( 1137 )、
鳥羽天皇 の立願によって 東殿の中に建てられたもので、
それはこの場所に天皇の墓所を作るのが目的てあったらしい。
すなわち、
それ以前の
白河上皇の墓所として 証金剛院に三重の塔が建立されたのに倣って、
寺院内に 鳥羽天皇の墓として三重の塔 が立てられた。
これが「 本御塔 」です。
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