栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

日本のエリート層はなぜ道を誤るのか。(1)

2018-10-29 09:18:56 | 視点

 「好事門を出でず、悪事千里を行く」という諺がある。
本来の意味は、よい評判はなかなか世間に伝わらないが、悪い評判はあっという間に
遠くまで広まるということだが、最近次々に起きる「事件」を考えると、
善行はなかなか伝播しないが、悪事はまたたく間に伝播する、という意味に変えたくなる。

 そう、悪貨は良貨を駆逐する、ではないが、悪事は伝染力が強いのだ。
だから次から次に同じような犯罪が起きる。
しかも最近の「事件」は酸いも甘いも噛み分けている(はずの)世代が起こしているのが特徴だ。

 そして、そこに今まで犯罪から最も遠い距離にいると思われていたエリート層が加わってきたのだから驚く。
それも信じられないようなレベルの「事件」を起こすに至っては開いた口が塞がらない
というか我が耳目を疑ってしまう。

現代の不惑年齢は50代後半

 なぜなのか。考えられる要因はいくつかあるが、そのうちの一つに人生の長さが変わったことが挙げられる。
人生50年と言われた戦国時代から、江戸の泰平期を経て日本人の人生は延び続け、
いまや人生90年、100年時代。皆、長生きになった。

 長生きになったことで何が変わったのかといえば、それまでの尺度が適用できなくなったことだ。
もっとはっきり言えば、それまで絶対年齢だと思っていたのが、相対年齢だったということに気づかされた。

 論語に「三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六〇にして耳順う、
七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」というのがある。
有名な言葉なので誰しも一度ならず見聞きしたことがあるはず。

 実は、ここで言われている年齢は絶対年齢だとずっと思い込んでいた。
だが、そう考えると不都合というか現実と合わないことがあまりにも多くなってきた。
それは孔子が言っている年齢を絶対年齢だと捉えたことから起こった間違いで、
実は相対年齢で考えるべきだと捉え直すとすべてが腑に落ちる。

 少し詳しく説明すると、人生70年時代の40歳は7分の4、数値に直すと0.57だが、
人生90年の40歳なら9分の4で0.44、100年なら100分の4で0.4とどんどん若くなる。
いわゆる8掛け人生、7掛け人生というやつだ。
そうなると孔子が言う不惑の年齢を現代の年齢に換算すると50歳、57歳となる。

 セクハラ問題で辞任した福田淳一財務事務次官の年齢が59歳、
同じくセクハラ問題で更迭された外務省の毛利忠敦ロシア課長が49歳。
そして受託収賄容疑で逮捕された文科省科学技術・学術政策局の佐野太局長が58歳。
(肩書、年齢はいずれも当時のもの、以下同)

 上記3人の官僚はいずれも「アラ不惑」。といっても、「あらっ不惑だったのね」と
言っているわけではないのはお分かりだろう。
アラウンド不惑(不惑前後の年齢)を略したわけだが、「あらっ、不惑だったの?」と驚く方がピッタリかも。

 ともあれ「天命を知る」年齢には程遠く、まだ不惑に達しようかどうしようかと
迷っている年齢であり、精神的に幼い、未発達の人間が多いということだろう。

エリート官僚が陥る闇

 年齢が若返っていると言えば聞こえはいいが、実際は精神年齢の低年齢化が社会全般で進んでいるといえる。
その顕著な例が財務省の福田淳一事務次官のセクハラ発言だ。

 週刊新潮によれば福田淳一事務次官はテレビ朝日の女性記者に対し次のようなセクハラ発言をしている。
「浮気しようね」「胸触っていい?」「手しばっていい?」「手しばられていい?」
「エロくないね、洋服」「好きだからキスしたい。好きだから情報を……」

 断っておくが、これらは懇(ねんご)ろになった相手との会話(一方的発言)ではない。
男女間の関係など一切ない記者に対し、取材中に発せられた言葉なのである。

 常識的に考えて異常である。言葉は悪いが「枕営業」をしろと迫っている風にも聞こえる。
要は権力を笠に着て相手に迫っているわけで、卑怯極まりない。
少なくともエリートと見做される人達が吐く言葉ではないだろう。
権力を笠に着なければ女性1人口説けないのかと思ってしまう。

いずれにしろ良識ある大人の言動ではない。
外観は大人に見えても、中身(精神構造)は幼稚。
成長できないまま歳だけ取った大人が増えている。

 さらに酷いのは当時の発言が録音されていたにもかかわらず、その録音音声を聞かされても
開き直り、認めない態度だ。

 実は逮捕されても犯行を否定し続ける容疑者が多いのも最近の特徴で、
福田事務次官の上記態度もまさにそれである。

 しかも、あろうことか上司に当たる麻生財務大臣までもが、福田淳一事務次官の否定発言を擁護し、
あれは「嵌められたのではないか」という趣旨の発言をしていた。

 麻生氏に関してはかつての首相時代から国語力の弱さを認めているから、
上記のような発言をしたとて驚きはしない。
言葉を大事にせず、言葉の意味をよく知らずに、それで政治家をやっていられるものだと
呆れるばかりだが、構造は福田事務次官も麻生財務相も同じ。
権力を笠に着て自分より弱い立場の者に威圧的に迫る態度は人品の卑しささえ感じる。

 麻生氏についてついでに言えば、この人の辞書には「国民に尽くす」という文字はないだろう。
あるのは「俺」という一人称文字だけだ。

 福田淳一事務次官の上記発言は、少なくとも私にはどうすればそういう言葉が吐けるのだろうと
理解に苦しむが、一つには羞恥心がゼロということだろう。

 では、なぜ羞恥心がないのか。
それは自分が特権階級で、自分の命じることはなんでも可能になると思っているからである。

 事実、財務省という組織の中では彼の言うことは絶対で、部下は命じられれば時間、
場所に関係なく応えてきたのだろう。
だから自分は何を言っても許されると思い込んできたに違いない。

 だが、それは財務省、あるいは霞が関という限られた空間でのことなのだが、
その世界しか知らない人間は、その狭い世界の「常識」が外の広い世界でも通用すると
思い込むことから起きるのが特徴だ。

 文科省の佐野太局長の場合も同じだ。
こちらはセクハラではなく受託収賄容疑。
何が受託収賄かといえば東京医科大学が私立大学研究ブランディング事業の対象校に
選ばれるように便宜を図った(平たく言えば東京医科大に国から3,500万円の補助金が出る)見返りに、
自分の息子を入学させてもらったわけで、金銭の授受ではないが、この行為が受託収賄に当たると疑われた。

 次期事務次官の呼び声が高いエリート官僚が今時珍しい親バカぶりと言えなくもないが、
やはりそこにあるのは自分は特別だと考えるエリート特権意識。
にわか金持ち(成金)がなんでも金の力で思うようになると考える意識と同じ構造だ。

 余談だが本当の上流階級は3代続いてなる。
言い方を変えれば3代続いてやっと上流階級にふさわしい品格が身に付くということらしい。
そういう意味では、1代で成り上がった金持ちやエリートに、そのような品格が
身についてないのは当然で、そこに精神構造の低年齢化と根拠なき特権意識がプラスされたのが
近年のエリート層である。