栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

司法が揺れる~「世論」に迎合し始めた司法の現場

2010-04-30 17:46:59 | 視点
 最近、司法の現場がおかしい。
 司法は本来、厳正に独立性を堅持しなければならない。ところが、このところマスコミ迎合ともいえる態度を示す例が垣間見えるし、裁判における争点の事前整備手続きが行われ、事件の奥に潜む背景が明らかにされないまま結審する例が増えつつある。
 ともに冤罪を生みかねないし、事件の背景に踏み込めない裁判は似たような犯罪の防止にも役立たない。

 中でも問題は「推定無罪」の原則が最近崩れつつあることだ。マスメディアの報道は明らかに「推定有罪」で行われ、そのマスメディア報道により市民感情が司法の捜査段階から「推定有罪」に導かれ、さらにマスメディアがそれを「世論」として報じることで、より大きな「世論」が形成され、さらにマスメディアが「推定有罪」を煽るという循環の構図ができつつある。
 その顕著な例が「松本サリン事件」である。マスメディアの加熱報道の中で河野さんが犯人扱いされ、一歩間違えば冤罪を生んだ可能性があった。しかし、あの事件の反省はその後も生かされることなく、マスメディアは次の「獲物」を追い求め、危険な「世論」の誘導に走っているのは憂慮すべき問題である。

 さらに憂慮すべきなのは、「推定無罪」の原則が崩れつつあり、大衆裁判が行われる傾向が出ていることだ。しかし、その危険性を指摘する大きな声が司法に関係する人間から出てこないのは憂慮すべきことで、その方が問題である。
一体、司法の現場はいまどうなっているのか。

 例えば小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる収支報告書虚偽記入事件での検察、さらに今回の検察審査会の対応に至ってははなはだおかしい。
 一部の司法関係者から収支報告書虚偽記入問題で小沢氏の起訴まで持っていくのはおかしいとする意見はあったものの、マスメディアはまるで疑獄事件ででもあるかのような報道を連日繰り返し、「世論」を誘導していった。マスメディアによる「推定有罪」報道による世論形成といえるだろう。

 ちょっと横道にそれるが、最近気になっているのが「説明責任」という言葉。小泉政権時代の「自己責任」という言葉によるバッシングと似ており、最近は「説明責任」のオンパレードだ。本来、「説明をして欲しい」「説明した方がいいのではないか」というべきところでさえ「責任」を押し付けようとしている現象に、集団主義的な危険な兆候を感じる。本来、責任とは利害関係が発生している関係者の間で生じるものであるはず。それなのに何を勘違いしているのか誰にでも「説明」を求めようとする。

 さて、話を本題に戻そう。
司法の独立性が揺らいでいる好例として、先述の「陸山会」の土地購入をめぐる収支報告書虚偽記入事件に対する小沢氏の関与で検察審査会が出した議決の問題を取り上げたい。
 検察審査会の今回の議決には次のような問題点がある。なぜ、マスメディアはこの点を敢えて取り上げようとしないのか不思議である。

 1.検察審査会の審議日程が従来に比べ異例といえるほどの速さで行われたのはなぜか。
 鳩山首相の問題でもそうだったが、明らかに今回の審議日程は速すぎる。計8回審議が行われたというが、集中審議はその時の雰囲気に影響されやすい欠点がある。しかも審議会のメンバーは全員がプロの司法関係者とは限らない。というより、その逆である。司法改革で法律関係文書が徐々に分かりやすくなりつつあるとはいえ、一般国民にとっては難しい専門用語の羅列であることはいまだ変わりはない。その専門用語で書かれた検察の大量資料を素人が短期間に読み、理解し、判断を下すことが果たしてできるだろうか。

 2.議決の中で小沢氏を「絶対権力者」と断言しているが、根拠も示さずにこうした言葉を法的な文書で乱暴に使われることが許されるのか。
 この点はとても大きな問題だと思う。
公的な一般的な文書でも根拠もなく、このような言葉を使うことは許されないことである。いわんや司法関係の公的な文書である。そもそもこのような言葉を使用して書く議決文自体の適格性こそ問題にすべきだろう。

 他にもいくつかの問題があるが、総じていえることは、今回の検察審査会の議決は先に結論ありきで決められた、あるいはその時の「世論」で決められたと考えざるを得ない。
 もし、そうしたことを許すなら、法の独立性はなくなり、法は時の権力、大衆権力の手先に堕してしまう。今後は公平・公正な裁判は期待できなくなり、冤罪が生まれる危険性が増えるだろう。そうしたことをふせぐためにも、法はあくまで厳正に解釈し、適用すべきだろう。
 最近、一部マスメディア、政治家の間でも混同が見られるが、法的な問題と道義的な問題、政治的な問題は別物である。道義的な問題を法的な問題と同一視し、それでもって論じるのは明らかにおかしい。にもかかわらず、こうした混同が最近、各所で見られる。

 重ねていうが、検察審査会に一般市民感覚が求められているということと、道義的な問題と法的な問題を同一視して論じたり、「世論」に迎合して非論理的な言葉を乱暴に使って断ずることは別である。それを「あえて」使う手法にはとても危険なものを感じる。
 こうしたことは親小沢、反小沢というようなこととは関係なく、客観的に論じられるべきだろう。

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