栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

社会の内向き化がもたらす危険性(2)~想像力の欠如と犯罪抑止力の低下

2016-07-30 14:53:01 | 視点
内界の拡大による境界の消滅

 社会の内向き化は最初は内のもの・ことを外に持ち出すことから始まった。
つまり内の外への拡大であり、どこでも自分がいる場所・空間を内と認識する内界の外在化である。
そしてそれは内と外との境界の消滅を意味し、このことが我々が住んでいる社会のみならず世界に大きな変化をもたらしつつあることは注意を要するし危険でもある。
しかし、それにどれほど多くの人が気付いているだろうか。

 大きな変化は常に小さな変化、取るに足らないような変化として最初現れる--。
社会の内向き化も最初は自分の好きなことを外に持ち出す、屋内でしていたことを屋外でもするというような現象として現れた。
例えばウォークマンで歩きながら音楽を聞いたり、携帯電話でどこでも大声で電話したり、自家用車内で化粧をする等の行為として。
 こうした行為に違和感を感じていたのは大人達(古い世代の人達と言い換えてもいい)だが、次第に彼ら自身も波に呑まれていき、内の世界を外に拡大していき、車内で化粧をする程度のことにはほとんど違和感がなくなりつつあり、なんの臆面もなく行い出している。
さすがにまだ公共交通機関内でそういうことをする大人は数少ないが、近い将来それもなくなるかもしれない。

かくして内界の拡大はどんどん進み、内と外との境界が消滅しつつある。
あらゆるものは一度消滅しかけると加速度的に進んでいくが、境界も例外ではない。
例えば壁が壊れたことで、善きにつけ悪しきにつけ、それまでの社会の秩序、道徳といったものまでもが一緒に壊れていくように、音を立てて、いや音もなく境界が消えていき、内界の外在化が加速度的に進んでいる。
そう、それはあらゆるものを呑み込み、さらに拡大しているのだ。
 このことは他者と自者(己)の区別をも消滅していき、他を自の境界内部に取り込んでいくことで、自つまり内の境界が外に拡大している。

 内と外の境界の消滅は内界の外在化だが、あらゆるベクトルは逆に内に向かう。
内界の拡大だからベクトルは外に向かっていると考えるかもしれないが、その逆だ。
本来、外にあるものを内に取り込むことで、内側が膨れ、自然に拡大しているわけで、積極的に外界を侵略しているわけではない。
 例えばいつも自分がいる空間、マイスペースを外に持ち出しているだけで、そこが車内だったり、バスや電車だったりするだけだから、それを外とする認識がない。
外界ではなくマイスペースとの認識だから、車内やバス、電車の中で化粧をするのは自分の部屋で化粧をしているのと同じであり、そこには何ら違和感がない(と彼らは感じている)。
かくして内はどんどん広がっている。

想像力の欠如と犯罪抑止力の低下

 内界の拡大は我が儘と不寛容の拡大を生む。
人はマイスペース内では我が儘を通すことができる。
例えば食事をしてもしなくても、何を食べようと、何時に寝ようと自分の意のままだ。
 インターネットに接続しさえすれば、自室に籠っていても外界の情報は入手できるし、ピザでも丼ものでも食べられる。
生身の異性と付き合うのは金も時間もかかるし、会話するために相手と話を合わせなければならないが、ネットの中の世界には幼顔で体だけはグラマラスな女性(少女と言ってもいいような)がビキニ姿やミニスカート姿で微笑みかけてくるし、ヌードやSex写真は溢れ、果ては人妻の浮気話、不倫話がこれでもかというほど載っている。

 早い話、ネットの中の社会はなんでもあり状態で、日常的にそうした社会に接していれば、それが現実、女性とはそうしたものだ、と思い込んでくるだろう。
ましてや生身の異性と交際した経験が少なければ。
かくして歪な女性観を持つことになる。

 彼らにとってはネットの中の社会こそが「ホンモノ」で、現実世界は「リアル」という「仮装」社会である。
ここではバーチャルとリアリティの逆転現象が起きていると同時に、「現実」世界と「仮装」世界という構図が出来上がっている。
 つまり彼らは「現実(実際はバーチャル)」世界の住人であり、この世では仮装して生きているという意識構造の中にある。
 これは現実と仮想現実の逆転認識というより、境界の消滅からくる「現実」認識である。
2つの世界の境界が消滅したことによる不連続の連続認識と言ってもいいだろう。

 犯罪を考えることと、それを実行することとの間には大きな壁がある。
一度や二度ぐらい、伴侶や親の首を絞めたいと思った人はいるに違いない。
だが、そう思うことと、実際の行動に移すこととの間には大きな壁があり、ほとんどの人はそれを行動に移すことはない。
そこに抑止力が働くからだ。

 では、何が抑止力となるのか。
想像力である。
その行為を行った後のこと、後に起きる様々なことを想像することで人は思いとどまれるのである。
私にしても、怒りに任せて相手を殴ってやろうかと考えたことは一度や二度ならずある。
そんな時、決まって頭に浮かぶのは翌日の新聞紙面だ。
こんなこと(ちょっとした暴力沙汰とかセクハラ)で新聞に名前が載るのは嫌だ、と思う。
だから思いとどまる。
しかし、想像力が欠如していると、この抑止力が働かない。

 最近、両親、家族を惨殺する犯罪が目に付くが、両親がいなくなれば嫌な小言を言われたり怒られたりしなくて済むから、せいせいする、これで嫌なことがなくなったと感じるのかもしれないが、その後に待っていることを想像すれば冷静にならざるをえないだろう。
 家族がいなくなれば、その後の長い人生を自分一人で過ごさなければならなくなる。
その時、生活(費)はどうするのか、どこに住むのか、周りからどんな視線を注がれるのか、今後一人で本当に生きていけるのか・・・。
ちょっと思いを巡らすだけで抑止力になるはず。

 想像力は人間が持っている素晴らしい能力の一つで、ほかの生物と異なる点である。
想像力を駆使することで我々人間は数々の技術、製品を生み出してもきた。
それなのにいつから想像力をなくし始めたのだろうか。

 想像力の欠如と社会のデジタ化は無関係ではない。
コンピューターの普及が情報の汎用化を進め、携帯端末の普及で消滅スピードは加速度的に増していった。
いまや想像とか思考は検索という言葉に変わり、人々は考えるより手っ取り早く検索するようになっている。
掌の中にある小さなツールが万能の神であり、「これさえあれば、なにもいらない」だ。


 ☆全文は「まぐまぐ」内の下記「栗野的視点」ページから
  http://archives.mag2.com/0000138716/20160724230919000.html


 「栗野的視点」はリエゾン九州のHPにも収録しています。









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