騒動の理由がよく分からない
なにかよく分からない騒動だった。全聾と言われていた作曲家、佐村河内守氏の曲に関する一連の騒動のことである。
よく分からないのは騒動の背景と、メディアの取り上げ方である。メディアが問題視している点がピンと来ず、最初の時点では何が問題なのかが全くと言っていい程分からなかった。
また自らが佐村河内氏のゴーストライターだったと明かした新垣隆氏の会見を聞いても何を問題にし、何を告発しているのかがいまひとつピンとこなかった。
例えばゴーストライターの存在。これはどの業界でもあることだし、タレント本や芸能人の自伝などは多くがゴーストライターの手によるものだということはよく知られている。
なかには自著の出版記念会見の時に「まだ読んでないからどういうことが書いてあるのか知らない」と悪びれもせず公然と言ってのけた有名な映画俳優(故人)もいたし、自著のほとんどがゴーストライターの手によるものという有名な評論家もいた。
こうしたことは出版界に限らず多くの創作活動の中で、昔からよくある話で、レオナルド・ダ・ヴィンチやレンブラントの絵でも指摘されているし、工房やプロダクションを作り、分業・協業で作っているものも、ある部分では似ている。
つまりゴーストライターの手によるものを自らの名前で世に出したのは間違いとは必ずしも言えないわけで、その点を捕らえて問題視するのは少し無理があるだろう。
もし問題視することができるとすれば、本人の意志に反してゴーストライターにさせられた場合だ。この場合は相手を詐欺罪で訴え、著作権を主張できる。ところが、新垣隆氏は「著作権は放棄したい」「佐村河内氏との共作」と考えていると言っているから、意に反してゴーストライターの立場に甘んじていたわけではなさそうだ。それも18年という長期に渡っているわけだから。
では、何が問題なのか。
(中 略)
週刊誌的になった新聞
視聴者はドラマを好む。他人の不幸は蜜の味と言われるように、幸せな物語より不幸な物語を好む。さらに好まれるのは不幸な運命を乗り越えて成功する物語である。
作り手の側はそんな視聴者を常に意識しながらドラマ(映像に限らず)を作っている。単純な対決より、ありえない対決、簡単に決着が付くものより決着が付き難い対決、五体満足な人間より、障害を持ちながらそれを乗り越えて行く物語を作ろうとする傾向がある。その方が視聴者が感情移入しやすく、視聴者の共感を呼ぶ(視聴率を稼げる)からだ。
しかし、そんな物語がどこにでも、いくらでも転がっているわけではない。それならばと少しばかりの脚色、演出を加えて感動物語を作ろうと
(中 略)
ジャーナリズムは死んだ
とはいえ、にじり寄っていくのは娯楽番組の方で、ドキュメント、報道制作側にはまだ多少なりとも矜持があった。少なくとも比較的最近までは。ところが今回、ドキュメント、報道制作側が結果的に演出に手を貸した(染めたとまでは言わないが)のだから、メディアにとっては一大事のはず。にもかかわらずメディア側の危機感が非常に希薄
(中 略)
ジャーナリズムの復権を
美談は往々にして作り上げられるし、神がかり的な話ほど人は信じやすい。
最初はあり得ないとばかにし、
二度目は半信半疑になり、
三度聞くと信じてしまう。
(以下 略)
☆全文は「まぐまぐ」の下記ページで
http://archive.mag2.com/0000138716/20140224122804000.html
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なにかよく分からない騒動だった。全聾と言われていた作曲家、佐村河内守氏の曲に関する一連の騒動のことである。
よく分からないのは騒動の背景と、メディアの取り上げ方である。メディアが問題視している点がピンと来ず、最初の時点では何が問題なのかが全くと言っていい程分からなかった。
また自らが佐村河内氏のゴーストライターだったと明かした新垣隆氏の会見を聞いても何を問題にし、何を告発しているのかがいまひとつピンとこなかった。
例えばゴーストライターの存在。これはどの業界でもあることだし、タレント本や芸能人の自伝などは多くがゴーストライターの手によるものだということはよく知られている。
なかには自著の出版記念会見の時に「まだ読んでないからどういうことが書いてあるのか知らない」と悪びれもせず公然と言ってのけた有名な映画俳優(故人)もいたし、自著のほとんどがゴーストライターの手によるものという有名な評論家もいた。
こうしたことは出版界に限らず多くの創作活動の中で、昔からよくある話で、レオナルド・ダ・ヴィンチやレンブラントの絵でも指摘されているし、工房やプロダクションを作り、分業・協業で作っているものも、ある部分では似ている。
つまりゴーストライターの手によるものを自らの名前で世に出したのは間違いとは必ずしも言えないわけで、その点を捕らえて問題視するのは少し無理があるだろう。
もし問題視することができるとすれば、本人の意志に反してゴーストライターにさせられた場合だ。この場合は相手を詐欺罪で訴え、著作権を主張できる。ところが、新垣隆氏は「著作権は放棄したい」「佐村河内氏との共作」と考えていると言っているから、意に反してゴーストライターの立場に甘んじていたわけではなさそうだ。それも18年という長期に渡っているわけだから。
では、何が問題なのか。
(中 略)
週刊誌的になった新聞
視聴者はドラマを好む。他人の不幸は蜜の味と言われるように、幸せな物語より不幸な物語を好む。さらに好まれるのは不幸な運命を乗り越えて成功する物語である。
作り手の側はそんな視聴者を常に意識しながらドラマ(映像に限らず)を作っている。単純な対決より、ありえない対決、簡単に決着が付くものより決着が付き難い対決、五体満足な人間より、障害を持ちながらそれを乗り越えて行く物語を作ろうとする傾向がある。その方が視聴者が感情移入しやすく、視聴者の共感を呼ぶ(視聴率を稼げる)からだ。
しかし、そんな物語がどこにでも、いくらでも転がっているわけではない。それならばと少しばかりの脚色、演出を加えて感動物語を作ろうと
(中 略)
ジャーナリズムは死んだ
とはいえ、にじり寄っていくのは娯楽番組の方で、ドキュメント、報道制作側にはまだ多少なりとも矜持があった。少なくとも比較的最近までは。ところが今回、ドキュメント、報道制作側が結果的に演出に手を貸した(染めたとまでは言わないが)のだから、メディアにとっては一大事のはず。にもかかわらずメディア側の危機感が非常に希薄
(中 略)
ジャーナリズムの復権を
美談は往々にして作り上げられるし、神がかり的な話ほど人は信じやすい。
最初はあり得ないとばかにし、
二度目は半信半疑になり、
三度聞くと信じてしまう。
(以下 略)
☆全文は「まぐまぐ」の下記ページで
http://archive.mag2.com/0000138716/20140224122804000.html
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