書き手の人生が垣間見える
言葉は思考である--かねがねそう考えている。
同じ言葉でも喋っている言葉より書いている言葉(文章)の方が相手のことがよく分かる。
それは時に人格や性格さえも窺わせる。
これが小説等になると登場人物に対する書き手の感情までが見えてくる(ことがある)。
それ故に引き込まれるように読み進んで行ったり、逆に途中で投げ出したくなるものもある。
瀬戸内晴美の「美は乱調にあり」は後者に近い本だった。最初に断っておくが、ここで言っているのは瀬戸内寂聴氏のことではない。まだ寂聴になる前の瀬戸内晴美が書いた文章である。
彼女が「美は乱調にあり」で大杉栄と関わる伊藤野枝の半生を書いたのは44歳の時。
当時、彼女は伝記小説と言われる分野ではすでに「田村俊子」「かの子繚乱」を書いていたが、「美は乱調にあり」は書き出しからして少し変わっていた。少し変わっていたというのは、一般的な伝記小説には見られない、執筆時の現代の取材過程に触れる所から入っているからだ。
それはさておき、作者は小説の主人公にあまり好意的な印象を持っていないように感じ取れた。
中にはそうした小説もあるが、途中から主人公への愛が感じられるようになるものが多い。
だが、この作品に限って言えば、一貫して伊藤野枝への軽蔑、嫌悪感が作者に巣くっているようで、それが読者である私の心を苛立たせた。
こういう場合は大概、途中で読むのをやめ放り出すのだが、それもなく読み終えたのは伊藤野枝への関心の方が勝ったからかもしれない。
例えば書き出しに近い部分で伊藤野枝について次のように書いている。
「彼女の幼稚な詩や、固い文書で綴られた主観的な感想文や、小説以前の『小説らしきもの』に、何の魅力を感じることもなかった」
「どうひいき目に見ても(略)野枝の文学的才能は大成したとはいえない。後には小説も翻訳も評論も一応ものしているし、文筆で結構稼いでいるけれども、彼女を一人前の作家と呼ぶには最後まであまりにお粗末な作品しか残していない」
こうした手厳しい表現は最後まで緩むことがないが、手厳しいのは伊藤野枝の才能に対してだけではない。
むしろ、その生き方、大杉栄をめぐる三角四角関係を嫌悪している作者を感じる。
それは潔癖症から来る嫌悪感というものではない。むしろ自分と同じものを見る嫌悪感である。
小説には作者の主観が入り込み、それが登場人物に反映される。時には色濃く、時にはさり気なく。
そういう意味では「美は乱調にあり」の伊藤野枝は瀬戸内晴美そのものである。
彼女がこれを執筆している当時、彼女自身が野枝と同じような生活を送っていた。
激しい不倫関係、三角関係の中に身を置きながら、執筆していたのである。
その思いが、自分に似た野枝の文学的才能や男との関係に厳しい目を向けさせていたのではないか。
その後、作家、瀬戸内晴美が出した結論は出家して男断ちをすることだった。
両著ともに30~40年前に書かれた作品である。だからこそ、その後の作者の人生と照らし合わせて面白い(失礼)。
猪瀬直樹、瀬戸内晴美両氏の「二度目の仕事」はかなり対極に位置したように感じられる。
前者は「二度目の仕事」をしなければ文壇でさらに高い評価を得ていたに違いない。
たしかに物書きで得られる収入は「二度目の仕事」で得られた収入に比べるとはるかに少なかったかもしれない。
杉田女史は「欲もあるわね。物欲、案外深いでしょ」と忠告したが、彼にあったのは物欲というより名誉欲ではなかったか。それとも両方だろうか。
物欲、名誉欲を持つこと自体は悪いことではない。
問題は「分を知る」かどうかで、そのことを彼はかつてヒーローだった人たちのその後の人生をインタビューすることで明らかにしてきたはずだが、人間やはり自分のことは見えなくなるものらしい。それだけに「足るを知る」ことが大事だろう。
後者は仏門に帰依することでそれまでの愛欲の生活に別れを告げ、物質的には質素でも精神の充足を感じる生活を送り、より人々に知られる存在になっている。
人間は欲深いもので、一つ手に入れればもう一つ欲しがり、それが手に入ればさらに欲しくなる。かくして欲は際限なく膨らみ続ける。
強欲資本主義と言われる所以だ。バブル経済が崩壊しても、ブラックマンデーに襲われても、喉元過ぎれば何とやらで、しばらくすればまた欲しがる。
我々は一体どこへ行くのか、どこへ行こうとしているのかーー。
言葉は思考である--かねがねそう考えている。
同じ言葉でも喋っている言葉より書いている言葉(文章)の方が相手のことがよく分かる。
それは時に人格や性格さえも窺わせる。
これが小説等になると登場人物に対する書き手の感情までが見えてくる(ことがある)。
それ故に引き込まれるように読み進んで行ったり、逆に途中で投げ出したくなるものもある。
瀬戸内晴美の「美は乱調にあり」は後者に近い本だった。最初に断っておくが、ここで言っているのは瀬戸内寂聴氏のことではない。まだ寂聴になる前の瀬戸内晴美が書いた文章である。
彼女が「美は乱調にあり」で大杉栄と関わる伊藤野枝の半生を書いたのは44歳の時。
当時、彼女は伝記小説と言われる分野ではすでに「田村俊子」「かの子繚乱」を書いていたが、「美は乱調にあり」は書き出しからして少し変わっていた。少し変わっていたというのは、一般的な伝記小説には見られない、執筆時の現代の取材過程に触れる所から入っているからだ。
それはさておき、作者は小説の主人公にあまり好意的な印象を持っていないように感じ取れた。
中にはそうした小説もあるが、途中から主人公への愛が感じられるようになるものが多い。
だが、この作品に限って言えば、一貫して伊藤野枝への軽蔑、嫌悪感が作者に巣くっているようで、それが読者である私の心を苛立たせた。
こういう場合は大概、途中で読むのをやめ放り出すのだが、それもなく読み終えたのは伊藤野枝への関心の方が勝ったからかもしれない。
例えば書き出しに近い部分で伊藤野枝について次のように書いている。
「彼女の幼稚な詩や、固い文書で綴られた主観的な感想文や、小説以前の『小説らしきもの』に、何の魅力を感じることもなかった」
「どうひいき目に見ても(略)野枝の文学的才能は大成したとはいえない。後には小説も翻訳も評論も一応ものしているし、文筆で結構稼いでいるけれども、彼女を一人前の作家と呼ぶには最後まであまりにお粗末な作品しか残していない」
こうした手厳しい表現は最後まで緩むことがないが、手厳しいのは伊藤野枝の才能に対してだけではない。
むしろ、その生き方、大杉栄をめぐる三角四角関係を嫌悪している作者を感じる。
それは潔癖症から来る嫌悪感というものではない。むしろ自分と同じものを見る嫌悪感である。
小説には作者の主観が入り込み、それが登場人物に反映される。時には色濃く、時にはさり気なく。
そういう意味では「美は乱調にあり」の伊藤野枝は瀬戸内晴美そのものである。
彼女がこれを執筆している当時、彼女自身が野枝と同じような生活を送っていた。
激しい不倫関係、三角関係の中に身を置きながら、執筆していたのである。
その思いが、自分に似た野枝の文学的才能や男との関係に厳しい目を向けさせていたのではないか。
その後、作家、瀬戸内晴美が出した結論は出家して男断ちをすることだった。
両著ともに30~40年前に書かれた作品である。だからこそ、その後の作者の人生と照らし合わせて面白い(失礼)。
猪瀬直樹、瀬戸内晴美両氏の「二度目の仕事」はかなり対極に位置したように感じられる。
前者は「二度目の仕事」をしなければ文壇でさらに高い評価を得ていたに違いない。
たしかに物書きで得られる収入は「二度目の仕事」で得られた収入に比べるとはるかに少なかったかもしれない。
杉田女史は「欲もあるわね。物欲、案外深いでしょ」と忠告したが、彼にあったのは物欲というより名誉欲ではなかったか。それとも両方だろうか。
物欲、名誉欲を持つこと自体は悪いことではない。
問題は「分を知る」かどうかで、そのことを彼はかつてヒーローだった人たちのその後の人生をインタビューすることで明らかにしてきたはずだが、人間やはり自分のことは見えなくなるものらしい。それだけに「足るを知る」ことが大事だろう。
後者は仏門に帰依することでそれまでの愛欲の生活に別れを告げ、物質的には質素でも精神の充足を感じる生活を送り、より人々に知られる存在になっている。
人間は欲深いもので、一つ手に入れればもう一つ欲しがり、それが手に入ればさらに欲しくなる。かくして欲は際限なく膨らみ続ける。
強欲資本主義と言われる所以だ。バブル経済が崩壊しても、ブラックマンデーに襲われても、喉元過ぎれば何とやらで、しばらくすればまた欲しがる。
我々は一体どこへ行くのか、どこへ行こうとしているのかーー。