乱読、精読、速読、熟読、多読・・・と、本の読み方は人それぞれだろう。さて、私はと言えば、まず乱読、多読、速読とは程遠く、かと言って精読、熟読でもなく、強いて言えば遅読。とにかく読むのが遅い(小説の類は別にして)。そして最も得意とするのが積読(つんどく)だ。
書棚に並んでいる本は書店の棚みたいなもので、およそ3分の1ぐらいは読み終えてない。中には20年近く表紙を開けた形跡すらない本もあるからムダに空間を占拠させていると言われても仕方がない。これはいかんと考え直し読書に専念、ではなく、極力本を買わないようにして10年余りがたつ。それでも本は増える。
すぐ読みもしない本をなぜ買うのかと言われそうだが、それには学生時代の経験が影響している。書店で興味を引く本を見つけても、その時すぐ買わず(買えず)に後日、書店に出かけて買おうとすると、目当ての本が書店から消えていたということが何度かあった。やがて、書店は本を約3か月で返本するということを知った。以来、本は出合ったチャンスを逃すと二度と手に入らないと思うようになり、本との出合いを大切にし、極力すぐ買うようにした。
しかし、買った本をすぐ読むわけでもない。とりあえず手元に置くことが優先で、読むのはいつでもできると安心してしまう。かくして何か月も、いやどうかすると何年もそのまま書棚に鎮座したままという本が出てくる。「軍靴の響き」(半村良著)もそんな1冊だった。
この1、2か月、なぜか半村良が気になっていた。氏の作品の中では「妖星伝」が好きだったが、作中で地球のことを「あまりにも命が満ち満ちた、宇宙では稀有な妖星」というような表現があり、妙に納得したものだ。
地球上に住んでいる我々は動植物の生命が満ち溢れたこの星の状態こそが普通と思っているが、宇宙から見れば稀有な存在であり、異常である。
多数だと思っていたものが、逆に少数どころか希少稀有な存在だったということを知ることは非常に重要なことだ。
なぜなら、希少なものが多数になることは絶対ないからである。希少なものはすでに消滅の過程に入っているから希少であり、待っているのは消滅だけで、後はいかに生きながらえるか、そのためにどういう方法を取り得るかだけだ。
間違っても自らの死期を早める方法は取るべきではないだろう。にもかかわらず、この星の一部の生物は「万物の長」と自らを称し、他の生物に対し傲慢に振る舞い、挙句にはこの星そのものの寿命を縮める行為さえ行っている。
このまま進めばこの星諸共消滅するか、この星上の傲慢な生物を排除し、せめてこの星を守ろうとする自然の摂理が働くかのどちらかだろう。
私は神の存在を認めるものではないが、「時代の意志」があると考えている。アダム・スミスの「見えざる市場の手」よりはもっと確かな存在として。そしていま、「時代の意志」が少しずつ動き始めているのではないかと感じている。この星を破滅から救うために、愚かな種を廃し、新たな種にこの星の未来を託そうと考えているのではないかと。
それはともかく、1972年に半村良が著した「軍靴の響き」をいま私が手にしたのは偶然でも、たまたまでもなく、必然の出合い、本に呼ばれたような気がしている。
1972年といえばまだ70年安保騒動の余韻が燻っていた頃だ。その頃この本を読んでも、当時の現実を小説化したものという印象しか持たなかったに違いない。それから時は45年も過ぎ、当時の若者は作中の島田、飯岡老人に近い年齢に差し掛かっている。そしていま、まるでデジャブ(既視感)のようなものを感じているはずだ。
井上ひさしも「吉里吉里人」(1981年)で似たようなことを書いたが、ともに中心になって動くのは若者よりは老人というのはなぜだろう。
いま彼らのような危機感を持った作家はいない。安保関連法案が成立し、「軍靴の響き」が現実になったというのに。
暗闇はひそかにやって来る。抜き足、差し足、忍び足で背後からやって来るから気付きにくい。しかも一見それらしき論理を掲げ、時には高らかに、勇ましく迫って来る。
ありもしない「現実」、起こりもしない「現実」を極論で提示する手法はヒトラーが得意としたやり方。人はぬるま湯と極論に弱い。そんなことは起こりはしない、という希望的観測に流れ、懸念する声を心配性だと退ける。ああ、本当に心配性なのだろうか。「ゆでガエル」になってから、もっと早く気付いておけば、と後悔しても遅い。そうなる前に一見居心地がいい、いまの環境から抜け出さなければならない。半村良は「軍靴の響き」でそう警鐘を鳴らしている。
「最近の男たちの間に、制服や兵器に対する人気が爆発的に高まっている理由が、なんとなく判るような気がしていた。セクシーなのだ。平和に飽きた人間の心をわき立たせる何かがあるのだ。絶対服従という軍隊のルールさえもが、禁欲的なかっこよさにつながっている」
作中で侑子はそう感じていた。男達はなぜ戦争が好きなのか、と自問しながら。
80-90年代によく語られた言葉がある。「日本(人)は平和ボケ」「韓国の若者と日本の若者の違いは徴兵制があるかないかだ。日本も徴兵制を導入し、若い奴を鍛えた方がいい」等々。当時、30代後半の人間ですら、こう言うのを聞いて内心驚いた記憶があるが、彼らは自分が徴兵される年齢をすでに過ぎていたから言えたのではないか。他人事(ひとごと)として。その彼らもいまでは20歳前後の子供を持つ親になっている。いまでも同じことを言うのだろうか。同じ気持ちなのだろうか。
人にはないものねだりの傾向がある。戦争をしたことがない世代に戦争志向が強かったり、「武闘」の経験がない世代ほど「武闘」したがる。戦争の愚かさや武闘の愚かさ、バカらしさは経験したものなら皆感じている(はず)。「平和ボケ」で結構、平和がいいじゃないか。そう思いませんか。そんなことを感じさせてくれた半村良の書だった。
書棚に並んでいる本は書店の棚みたいなもので、およそ3分の1ぐらいは読み終えてない。中には20年近く表紙を開けた形跡すらない本もあるからムダに空間を占拠させていると言われても仕方がない。これはいかんと考え直し読書に専念、ではなく、極力本を買わないようにして10年余りがたつ。それでも本は増える。
すぐ読みもしない本をなぜ買うのかと言われそうだが、それには学生時代の経験が影響している。書店で興味を引く本を見つけても、その時すぐ買わず(買えず)に後日、書店に出かけて買おうとすると、目当ての本が書店から消えていたということが何度かあった。やがて、書店は本を約3か月で返本するということを知った。以来、本は出合ったチャンスを逃すと二度と手に入らないと思うようになり、本との出合いを大切にし、極力すぐ買うようにした。
しかし、買った本をすぐ読むわけでもない。とりあえず手元に置くことが優先で、読むのはいつでもできると安心してしまう。かくして何か月も、いやどうかすると何年もそのまま書棚に鎮座したままという本が出てくる。「軍靴の響き」(半村良著)もそんな1冊だった。
完本 妖星伝(1)鬼道の巻・外道の巻 (祥伝社文庫) | |
半村良 | |
祥伝社 |
この1、2か月、なぜか半村良が気になっていた。氏の作品の中では「妖星伝」が好きだったが、作中で地球のことを「あまりにも命が満ち満ちた、宇宙では稀有な妖星」というような表現があり、妙に納得したものだ。
地球上に住んでいる我々は動植物の生命が満ち溢れたこの星の状態こそが普通と思っているが、宇宙から見れば稀有な存在であり、異常である。
多数だと思っていたものが、逆に少数どころか希少稀有な存在だったということを知ることは非常に重要なことだ。
なぜなら、希少なものが多数になることは絶対ないからである。希少なものはすでに消滅の過程に入っているから希少であり、待っているのは消滅だけで、後はいかに生きながらえるか、そのためにどういう方法を取り得るかだけだ。
間違っても自らの死期を早める方法は取るべきではないだろう。にもかかわらず、この星の一部の生物は「万物の長」と自らを称し、他の生物に対し傲慢に振る舞い、挙句にはこの星そのものの寿命を縮める行為さえ行っている。
このまま進めばこの星諸共消滅するか、この星上の傲慢な生物を排除し、せめてこの星を守ろうとする自然の摂理が働くかのどちらかだろう。
私は神の存在を認めるものではないが、「時代の意志」があると考えている。アダム・スミスの「見えざる市場の手」よりはもっと確かな存在として。そしていま、「時代の意志」が少しずつ動き始めているのではないかと感じている。この星を破滅から救うために、愚かな種を廃し、新たな種にこの星の未来を託そうと考えているのではないかと。
それはともかく、1972年に半村良が著した「軍靴の響き」をいま私が手にしたのは偶然でも、たまたまでもなく、必然の出合い、本に呼ばれたような気がしている。
1972年といえばまだ70年安保騒動の余韻が燻っていた頃だ。その頃この本を読んでも、当時の現実を小説化したものという印象しか持たなかったに違いない。それから時は45年も過ぎ、当時の若者は作中の島田、飯岡老人に近い年齢に差し掛かっている。そしていま、まるでデジャブ(既視感)のようなものを感じているはずだ。
井上ひさしも「吉里吉里人」(1981年)で似たようなことを書いたが、ともに中心になって動くのは若者よりは老人というのはなぜだろう。
いま彼らのような危機感を持った作家はいない。安保関連法案が成立し、「軍靴の響き」が現実になったというのに。
暗闇はひそかにやって来る。抜き足、差し足、忍び足で背後からやって来るから気付きにくい。しかも一見それらしき論理を掲げ、時には高らかに、勇ましく迫って来る。
ありもしない「現実」、起こりもしない「現実」を極論で提示する手法はヒトラーが得意としたやり方。人はぬるま湯と極論に弱い。そんなことは起こりはしない、という希望的観測に流れ、懸念する声を心配性だと退ける。ああ、本当に心配性なのだろうか。「ゆでガエル」になってから、もっと早く気付いておけば、と後悔しても遅い。そうなる前に一見居心地がいい、いまの環境から抜け出さなければならない。半村良は「軍靴の響き」でそう警鐘を鳴らしている。
軍靴の響き (角川文庫) | |
半村 良 | |
KADOKAWA / 角川書店 |
「最近の男たちの間に、制服や兵器に対する人気が爆発的に高まっている理由が、なんとなく判るような気がしていた。セクシーなのだ。平和に飽きた人間の心をわき立たせる何かがあるのだ。絶対服従という軍隊のルールさえもが、禁欲的なかっこよさにつながっている」
作中で侑子はそう感じていた。男達はなぜ戦争が好きなのか、と自問しながら。
80-90年代によく語られた言葉がある。「日本(人)は平和ボケ」「韓国の若者と日本の若者の違いは徴兵制があるかないかだ。日本も徴兵制を導入し、若い奴を鍛えた方がいい」等々。当時、30代後半の人間ですら、こう言うのを聞いて内心驚いた記憶があるが、彼らは自分が徴兵される年齢をすでに過ぎていたから言えたのではないか。他人事(ひとごと)として。その彼らもいまでは20歳前後の子供を持つ親になっている。いまでも同じことを言うのだろうか。同じ気持ちなのだろうか。
人にはないものねだりの傾向がある。戦争をしたことがない世代に戦争志向が強かったり、「武闘」の経験がない世代ほど「武闘」したがる。戦争の愚かさや武闘の愚かさ、バカらしさは経験したものなら皆感じている(はず)。「平和ボケ」で結構、平和がいいじゃないか。そう思いませんか。そんなことを感じさせてくれた半村良の書だった。