天正2年(1574)4月、羽生城救援に失敗した上杉謙信が、
再び関東に出陣するのは10月に入ってからだった。
重い腰をようやく上げたという感は否めない。
その間、羽生城との連絡は続いていた。
謙信も孤立無援状態の羽生城を気にかけていたらしい。
同年6月、厩橋まで使者を出している。
羽生からは“小安隠岐守”という使者が、
謙信のもとへ向かっていた。
情報を伝えるのと共に、出陣要請をしたのだろう。
これに対し、謙信は油断ないよう羽生の地を守ることを伝えた。
そして、羽生城将らの忠信は、
筆先で書き表すことはできないと述べている(『歴代古案』)
同年7月、北条氏政が厩橋へ出陣したとの情報を聞いた謙信は、
先発隊を関東へ向かわせた。
そしてもし氏政が上州に陣を取るのであれば、
この春の鬱憤を晴らすだろうと、羽生城将らに書き送った(『歴代古案』)
その書状に書き記された城将の名は、
木戸伊豆守(忠朝)、同右衛門太夫(重朝)、菅原左衛門佐(為繁)である。
ここで改めて整理をすると、
“木戸忠朝”は羽生城主、
“木戸重朝”はその嫡子である。
そして、“菅原為繁”は、忠朝の兄“広田直繁”の子であり、
元亀2年(1571)頃まで越後に在府していた。
実は、忠朝と重朝は7月26日付の謙信からの書状を最後に、
歴史から名前を消す。
現在のところ、その後の彼の消息は不明と言わざるを得ない。
天正2年の度重なる戦で戦死したとも、
あるいは生きる望みを失って自害したとも言われている。
もし戦死したとすれば、
忠朝にかわって菅原為繁が指揮を執ったのだろう。
同年10月、いよいよ関東へ出陣した謙信は為繁に宛てて、
引き続き羽生城が破られないよう防備を固めておくよう伝えている(『歴代古案』)
(続く)
※画像は夜闇に包まれた羽生の町。
再び関東に出陣するのは10月に入ってからだった。
重い腰をようやく上げたという感は否めない。
その間、羽生城との連絡は続いていた。
謙信も孤立無援状態の羽生城を気にかけていたらしい。
同年6月、厩橋まで使者を出している。
羽生からは“小安隠岐守”という使者が、
謙信のもとへ向かっていた。
情報を伝えるのと共に、出陣要請をしたのだろう。
これに対し、謙信は油断ないよう羽生の地を守ることを伝えた。
そして、羽生城将らの忠信は、
筆先で書き表すことはできないと述べている(『歴代古案』)
同年7月、北条氏政が厩橋へ出陣したとの情報を聞いた謙信は、
先発隊を関東へ向かわせた。
そしてもし氏政が上州に陣を取るのであれば、
この春の鬱憤を晴らすだろうと、羽生城将らに書き送った(『歴代古案』)
その書状に書き記された城将の名は、
木戸伊豆守(忠朝)、同右衛門太夫(重朝)、菅原左衛門佐(為繁)である。
ここで改めて整理をすると、
“木戸忠朝”は羽生城主、
“木戸重朝”はその嫡子である。
そして、“菅原為繁”は、忠朝の兄“広田直繁”の子であり、
元亀2年(1571)頃まで越後に在府していた。
実は、忠朝と重朝は7月26日付の謙信からの書状を最後に、
歴史から名前を消す。
現在のところ、その後の彼の消息は不明と言わざるを得ない。
天正2年の度重なる戦で戦死したとも、
あるいは生きる望みを失って自害したとも言われている。
もし戦死したとすれば、
忠朝にかわって菅原為繁が指揮を執ったのだろう。
同年10月、いよいよ関東へ出陣した謙信は為繁に宛てて、
引き続き羽生城が破られないよう防備を固めておくよう伝えている(『歴代古案』)
(続く)
※画像は夜闇に包まれた羽生の町。
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