私は不敬罪復活論者(同時に姦通罪復活論者)であり、「開かれた皇室」にも反対であるが(つまり開かれる必要なんかないと思っているわけだが)、
それはさておき、山本の行為について仮説を立ててみた。
要は、故意にあれをしでかしたのではないかと。
あれをやれば、否応なくメディアの注目を浴びる。
批判も受ける。もしかしたら、国会議員としての道を絶たれるかもしれない。
だが、世間の注目を浴びれば、手紙の内容すなわち彼の主張せんとするところも世間の注目を浴びることになる。
かりに国会議員の職を失っても、もともと6年後の再選が選挙後に発覚のスキャンダルなどもあり決して楽観視できないのであれば、国会議員のバッジに固執する必要もなく、むしろ評論活動等に活路を見出した方がよい。そのためには”知名度”、”注目度”を保たねばならない。
園遊会参加はそのためには、恰好の機会となりうる。
批判をする側も、あまり批判が過ぎれば、福島に対する思いが足りないだとか、山本の陛下への手紙における主張のすべてが間違っているのか?との批判を受けまねない。
更には批判が陛下に飛び火する可能性もあり、いつまでも山本バッシングは続けられるものではない。
”フクシマ”は政治家やメディアにとって、迂闊なことがいえない厄介なシロモノなのである、沖縄、ヒロシマ・ナガサキ同様。
山本はそれを見越したうえで、議員辞職ないしは6年後再選をしくじった場合の”生き残り”に陛下を利用したのでないのか?
仮にこの仮説が真実であっても、山本自身「その通りでござい」などとは口が裂けてもいうまい。
あるいは山本はよほどのおバカで、自分の行為がこのような下種の勘繰りさえ生み出すなどとは想定すらしていなかったかもしれない。
前者ならば、不敬の極み、万死に値する。選挙運動中の山本の取り巻き連中を考えると、山本の皇室観というのは実に疑わしいものであるから、意外にこの仮説、真実の一部をついているかもしれない。とすれば、山本は決して許されてはならない。
一方、後者であったとしても、やはり不敬の誹りは免れない。バカが社会活動に身を投じること自体、そもそも身の程知らずという”罪”なのである。
それはさておき、山本の行為について仮説を立ててみた。
要は、故意にあれをしでかしたのではないかと。
あれをやれば、否応なくメディアの注目を浴びる。
批判も受ける。もしかしたら、国会議員としての道を絶たれるかもしれない。
だが、世間の注目を浴びれば、手紙の内容すなわち彼の主張せんとするところも世間の注目を浴びることになる。
かりに国会議員の職を失っても、もともと6年後の再選が選挙後に発覚のスキャンダルなどもあり決して楽観視できないのであれば、国会議員のバッジに固執する必要もなく、むしろ評論活動等に活路を見出した方がよい。そのためには”知名度”、”注目度”を保たねばならない。
園遊会参加はそのためには、恰好の機会となりうる。
批判をする側も、あまり批判が過ぎれば、福島に対する思いが足りないだとか、山本の陛下への手紙における主張のすべてが間違っているのか?との批判を受けまねない。
更には批判が陛下に飛び火する可能性もあり、いつまでも山本バッシングは続けられるものではない。
”フクシマ”は政治家やメディアにとって、迂闊なことがいえない厄介なシロモノなのである、沖縄、ヒロシマ・ナガサキ同様。
山本はそれを見越したうえで、議員辞職ないしは6年後再選をしくじった場合の”生き残り”に陛下を利用したのでないのか?
仮にこの仮説が真実であっても、山本自身「その通りでござい」などとは口が裂けてもいうまい。
あるいは山本はよほどのおバカで、自分の行為がこのような下種の勘繰りさえ生み出すなどとは想定すらしていなかったかもしれない。
前者ならば、不敬の極み、万死に値する。選挙運動中の山本の取り巻き連中を考えると、山本の皇室観というのは実に疑わしいものであるから、意外にこの仮説、真実の一部をついているかもしれない。とすれば、山本は決して許されてはならない。
一方、後者であったとしても、やはり不敬の誹りは免れない。バカが社会活動に身を投じること自体、そもそも身の程知らずという”罪”なのである。