太田和彦の人生最後の一献は、湯島天神下にある「シンスケ」の暖簾を「くぐるだろう」と自著の「居酒屋味酒欄」で書いている。
さて、ボクはどこへ行くだろうか。いろいろ行きたいところがあって、どれもひとつには絞りきれない。
だが、間違っても居酒屋チェーンで人生最後の1軒を終わらせたくはない。
マヤ文明の暦には、2012年12月21日以降の日にちがないとされており、世界の研究家が「人類最後の日」として持論を展開したといわれる。その、人類最後の日と言われたこの日、ボクは飯田橋の居酒屋チェーンにいた。
ある会合の飲み会だった。
「NIJYU-MARU」という居酒屋チェーンは居酒屋ばかりがひしめく雑居ビルの3階にあった。
何故、多くの人は飲み会の会場に居酒屋チェーンを選ぶのだろうか。
クラス会やちょっと規模が多くなった友人、合コンの類の多くは、この居酒屋チェーンが定番だ。
だから、ボクはこういう会にはすすんでは行かない。だって、ただ飲めればいいだろうというものではないからだ。
もちろん、居酒屋チェーンが全て「しょーもない」というわけではない。だが、「しょーもない」という店が多すぎるのだ。
そんなことを言うんだったらお前が幹事やれよと言うだろう。
ボクは、そんな会を企画したりなどしない。
だって、ボクはいつも気ままに一人で酒を飲みたいのだ。
人類最後の日。厳密には人類最後の夜。
4,000円の飲み放題。ボクが食べたのはフライドポテトと鶏のフライ、白身魚のカルパッチョ、そしてキムチ鍋と〆のうどんにデザートである。
素っ気なく、次々に運ばれる料理に、時間と酒の注文に追われながら、黙々と食べては話すことを強いられる。
あぁ、あと数時間で人類の終末が訪れる。
死んだ後のボクの記録として「最後の居酒屋欄」に「NIJYU-MARU」の文字が記される。そして「最後の酒」には銘柄も分からない麦焼酎が記載され、「最後の酒肴」に「キムチ鍋」が書かれてしまう。それはあまりにも不本意だ。
せめて、「最後の酒」の欄は、決して上等ではなくとも、好きな酒を記して終わりを迎えたい。
「ギネス」は麦焼酎の「兼八」か、それとも日本酒の「開運」のひやおろしか。
しかし、それにつけても、居酒屋チェーンの競争は激しさを増している。その熾烈な競争はもはやなりふり構わずにさえ見えるのは気のせいだろうか。安価なコストと人件費に頼らなければいけない体質を自ら作っている。自らの存在を意味づけするには、居酒屋甲子園という装置が必要であるのも頷ける。
さて、人類が滅ぶ前に、このような居酒屋業界の方がよっぽど危ういのではないかと思っていたら、この店、「NIJYU-MARU」の飯田橋駅前店はその数ヶ月後に閉店した。もし、一流の居酒屋を目指すなら、人生最後の一献の店として選ばれる覚悟が必要なのではないだろうか。それは居酒屋甲子園で叫ばれるような、夢や希望ではないと思う。
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