立ち飲みラリー東西線編に出向くのは2年ぶりか。
何ども書くが、立ち飲みラリーという文字通り酔狂なことを始めた動機とは、震災が起きて帰宅困難になった際に家まで歩いて帰る「北区MAP」なるものに触発され、当時自宅のあった浦安まで歩きながら、そのついでに立ち飲み屋に立ち寄って帰ろうという考えからである。
その震災がまさか本当に起こるとはゆめゆめ思ってもいなかったのだが、こうして震災から約3週間が経とうとしてる中、うずうずと東西線に乗ってしまったのは、やはり帰巣本能によるものなのかと思ってしまうのである。
南砂町にて下車し、東へと歩く。
かつて、わたしは東陽町から自宅の浦安まで帰ったことがある。
自転車を盗み、警察に捕まって、夜中の葛西橋通りをひたすら歩いたのである。もう20年近くも前の話である。
それから時が経ち、今やわざわざ葛西橋通りまで出なくてもいいルートが開通した(といっても7年前の話であるが)。
清砂大橋の開通である。
これによって、西葛西までの距離は大幅に短縮された。
その清砂大橋を渡ってみる。これがなかなか恐ろしい光景なのである。この当時の東京は余震もガンガン来ており、しかもこの日は強風で橋が確実に揺れている。橋の全長1,317m(東京都内で川にかかる橋としては2番目に長い)をわたるまでの長いことといったら。
そして、橋の下を覗くと、その高さにまた目が眩みそうになるし。
そうはいいながらも無事に橋を渡り、いよいよ西葛西へ。
28歳から3年間、かつてわたしが住んだ街、西葛西。
懐かしき西葛西に久しぶりに足を踏み入れたのである。
とりあえず、駅の方へ。
メキシカン料理の有名店「エルトリート」を過ぎ、懐かしの駅に。
駅の南口の木には相変わらず、ムクドリの大群が住んでいるようだ。この南口といえば、かつて布施博さんが暴漢に襲われたところ。
そんなことを思い出しながら、南口の駅の周辺を散策した。
かつて、わたしが住んでいた頃、立ち飲み屋などは皆無だった。あってもよさそうな雰囲気の街である。わたしがこの街を去って、ちょうど10年、立ち飲み屋の一軒くらいできただろうとタカをくくっていたが、南口周辺には見当たらない。
次に向かったのが、駅のアーケードである。東西1000mのアーケード街にも見当たらない。
駅の西側にある、ちょっとした歓楽街にもなく、北側の団地のほうまで足を伸ばしたが、いっこうに立ち飲み屋は見つからなかった。
最後の手段と思い、かつてわたしが住んでいた方向に歩きだし、最悪の場合は、近所にあった酒屋でビールを買って立ち飲みすればいいかと思ったが、その店は既になく、その変わり、水道関連のショールームの店にとって変わっていた。
わたしは、絶望した。
立ち飲みラリーをスタートさせて7年。
一度も立ち飲みのたすきを絶やしたことはない。まさかこの古巣でそれが潰えてしまうなど、考えたくもなかった。
その後も延々と店を探し続けること1時間。とうとう探し出すことはなく、座り飲みで帰ろうと決心したのだった。
訪問した店は駅のアーケードで一際大きな暖簾が目立っていた「野焼」という店。
暖簾が大衆居酒屋っぽくて、つい引き寄せられてしまったのである。
店に入り、カウンターに腰掛けた。
テーブル席は既にいっぱいで、カウンターにはわたしと同じ一人飲みの男性がいる。
まずは、瓶ビールをもらった。
ビールはサッポロの黒ラベル。
つまみに「煮込み」を頼んだが、「今日は終わっちゃった」と断られた。
気を取り直して「もつ焼き」を頼もうと「シロ」「ハツ」「皮」(各90円)を頼むのだが、これも「ない」という。
この頃から、震災の影響による物流の滞りがみられるようになって、どうやらこの店も仕入れが難しくなってきているような気配が漂っている。
しかし、頼みたいものがないというのは辛い。
店員のおばさんに「何がありますか?」と逆にわたしが尋ねると、「そうねぇ」と考える仕草をして、「空豆焼き」(1つ80円)を進めてきた。
だが、このチョイスが失敗の始まりだった。
この「空豆焼き」が延々30分も待たされることになったのだ。
その間、わたしは、お通しの「ほうれん草のおひたし」をチビチビと食べる羽目になったのだ。
でも、オヤジさんの手際は最悪だった。
とにかく、モタモタと遅いのだ。
結局、これ以上この店に居ても、何のプラスにならないと考え、これ以上店を利することもないし、と店を後にしたのだった。
何ども書くが、立ち飲みラリーという文字通り酔狂なことを始めた動機とは、震災が起きて帰宅困難になった際に家まで歩いて帰る「北区MAP」なるものに触発され、当時自宅のあった浦安まで歩きながら、そのついでに立ち飲み屋に立ち寄って帰ろうという考えからである。
その震災がまさか本当に起こるとはゆめゆめ思ってもいなかったのだが、こうして震災から約3週間が経とうとしてる中、うずうずと東西線に乗ってしまったのは、やはり帰巣本能によるものなのかと思ってしまうのである。
南砂町にて下車し、東へと歩く。
かつて、わたしは東陽町から自宅の浦安まで帰ったことがある。
自転車を盗み、警察に捕まって、夜中の葛西橋通りをひたすら歩いたのである。もう20年近くも前の話である。
それから時が経ち、今やわざわざ葛西橋通りまで出なくてもいいルートが開通した(といっても7年前の話であるが)。
清砂大橋の開通である。
これによって、西葛西までの距離は大幅に短縮された。
その清砂大橋を渡ってみる。これがなかなか恐ろしい光景なのである。この当時の東京は余震もガンガン来ており、しかもこの日は強風で橋が確実に揺れている。橋の全長1,317m(東京都内で川にかかる橋としては2番目に長い)をわたるまでの長いことといったら。
そして、橋の下を覗くと、その高さにまた目が眩みそうになるし。
そうはいいながらも無事に橋を渡り、いよいよ西葛西へ。
28歳から3年間、かつてわたしが住んだ街、西葛西。
懐かしき西葛西に久しぶりに足を踏み入れたのである。
とりあえず、駅の方へ。
メキシカン料理の有名店「エルトリート」を過ぎ、懐かしの駅に。
駅の南口の木には相変わらず、ムクドリの大群が住んでいるようだ。この南口といえば、かつて布施博さんが暴漢に襲われたところ。
そんなことを思い出しながら、南口の駅の周辺を散策した。
かつて、わたしが住んでいた頃、立ち飲み屋などは皆無だった。あってもよさそうな雰囲気の街である。わたしがこの街を去って、ちょうど10年、立ち飲み屋の一軒くらいできただろうとタカをくくっていたが、南口周辺には見当たらない。
次に向かったのが、駅のアーケードである。東西1000mのアーケード街にも見当たらない。
駅の西側にある、ちょっとした歓楽街にもなく、北側の団地のほうまで足を伸ばしたが、いっこうに立ち飲み屋は見つからなかった。
最後の手段と思い、かつてわたしが住んでいた方向に歩きだし、最悪の場合は、近所にあった酒屋でビールを買って立ち飲みすればいいかと思ったが、その店は既になく、その変わり、水道関連のショールームの店にとって変わっていた。
わたしは、絶望した。
立ち飲みラリーをスタートさせて7年。
一度も立ち飲みのたすきを絶やしたことはない。まさかこの古巣でそれが潰えてしまうなど、考えたくもなかった。
その後も延々と店を探し続けること1時間。とうとう探し出すことはなく、座り飲みで帰ろうと決心したのだった。
訪問した店は駅のアーケードで一際大きな暖簾が目立っていた「野焼」という店。
暖簾が大衆居酒屋っぽくて、つい引き寄せられてしまったのである。
店に入り、カウンターに腰掛けた。
テーブル席は既にいっぱいで、カウンターにはわたしと同じ一人飲みの男性がいる。
まずは、瓶ビールをもらった。
ビールはサッポロの黒ラベル。
つまみに「煮込み」を頼んだが、「今日は終わっちゃった」と断られた。
気を取り直して「もつ焼き」を頼もうと「シロ」「ハツ」「皮」(各90円)を頼むのだが、これも「ない」という。
この頃から、震災の影響による物流の滞りがみられるようになって、どうやらこの店も仕入れが難しくなってきているような気配が漂っている。
しかし、頼みたいものがないというのは辛い。
店員のおばさんに「何がありますか?」と逆にわたしが尋ねると、「そうねぇ」と考える仕草をして、「空豆焼き」(1つ80円)を進めてきた。
だが、このチョイスが失敗の始まりだった。
この「空豆焼き」が延々30分も待たされることになったのだ。
その間、わたしは、お通しの「ほうれん草のおひたし」をチビチビと食べる羽目になったのだ。
でも、オヤジさんの手際は最悪だった。
とにかく、モタモタと遅いのだ。
結局、これ以上この店に居ても、何のプラスにならないと考え、これ以上店を利することもないし、と店を後にしたのだった。
江東区に住んでいた頃、葛西臨海公園や、環7を歩いて亀有まで行くのに、西葛西にはよく行きました。
ここより、船堀や新小岩の方が、呑む処が多かった記憶があります。
でも、西葛西には、カレー屋は多くあったような。
本当にお久しぶりです。
お元気そうでなによりです。
今は兵庫県にお住まいですね。
久しぶりにブログを拝見しましたが、しっかりと飲み歩きをなさっているので、安心しました。
確か、でん爺さんと初めてコメントをやりとりしたのも、立ち飲みラリーの東西線編でしたね。
確か、東陽町の「しっかり八兵衛」だったような。
久々に行なった東西線編でまた再会できるのも何かご縁を感じます。
また、お互いにブログの行き来ができれば幸いです。どうぞ、よろしくお願い致します。