
「♪ゴーゴーゴ~風が泣いている~♪風が~…ルルルル…ルルル~ルル…♪」
三ノ輪の駅を降り、風に任せて昭和通りを南に向かった。
前日、立ち飲み屋を発見できず、この日はそのリベンジのために再び三ノ輪駅を下車したのだった。
向かう先は吉原、そして山谷。
東京に住んでいながら、なかなか足を向けることのない地へ行ってみようと思ったのである。
吉原大門は鬼門を向くが、吉原へは、竜泉町から入ろうと思った。
樋口一葉の名作「たけくらべ」の舞台となった竜泉町を見てみたかったのだ。
「現在の下谷方面から吉原へ通じる幅約二間の狭い、ただ一本の道が、一葉の家の前に延びていた。そのため、人力車の響きや入り乱れる人力車の提灯の灯りが、夕方から午前一時頃まで絶えず、午前三時頃からは今度は帰りの人力車が走り、その喧騒は朝まで続いたという」(福田国士著「地図から消えた『東京の町』より=祥伝社黄金文庫)。
だが、吉原の隣町であったその痕跡を見つけることはなかなか難しい。
その樋口一葉がかつて住んだという旧宅跡の前を通り過ぎた。お歯黒溝に囲まれた吉原とはもう目と鼻の先である。
少し歩くと、その吉原に出た。ソープランドの灯りがチカチカとし、黒服の男どもが店先に立つ以外は閑散としている。
かつて、ここが江戸の不夜城と呼ばれた遊里吉原であることはにわかに信じがたい。色街ではあるのだが、あまりにも人がいないからである。
「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という遊女の哀切とともに江戸文化の発信地でもあったという吉原。
今、その地を目の前にしても、何かそうした実感は沸いてこないのである。
だが、何か強い磁場に引き付けられるようなその力とは何だろう。
ここらあたりを浮遊するおびただしい情念が鎮まることなく行き交っているのだろうか。
男も女のありとあらゆる念が恐らく毎晩浮かんでは消え、そしてまた浮かんでは消えていったのだろう。
今はただ閑散としているその地に、かつて華やかだった江戸の遊郭の残像が実は見えないだけで、実際は今それに触れているのではないかと錯覚しながら、わたしは歩いた。
「東京人」(都市出版)07年3月号の「江戸吉原」特集に寄稿したノンフィクション作家の石井妙子さんは文末をこのように結ぶ。
「吉原は生きている。そして脈打ちながら何かを訴えてくる。土地の思いを足裏に感じ、それらに呼応する自分である限り、私は朽ちた遊郭の跡地に、これからも惹かれ続けるだろう。」
わたしもまたいつかこの町を再訪するときが来るだろう。
吉原大門の交差点を更に北東に進むと、山谷だ。
住所は日本堤となり、少しひなびた町が現れる。
漫画「あしたのジョー」(原作=高森朝雄、作画=ちばてつや)の冒頭はこの山谷から始まる。
「東洋の大都会といわれるマンモス都市東京―その華やかな東京のかたすみに―ある…ほんのかたすみに―吹きすさぶ木枯らしのためにできた道端のほこりっぽい吹きだまりのような、あるいは川の流れがよどんで岸のすぼみに群れ集まる色あせた流木やごみくずのような、そんな町があるのを皆さんはご存じだろうか」
漫画史に燦然と輝く名作はこんなくだりからスタートするのである。
ジョーが流れついた当時の町並みはもはやない。
「泊まり120円」などと掲出された看板も、どてらを着込んだ髭もじゃの男たちも今は昔だ。
しかし、だいぶ近代的な町並みになったとて、今も「1泊2,000円」と書かれた簡易宿泊所は健在である。
辺りは少し薄暗くなってきた。
18時を過ぎ、一仕事終えた男たちは、安酒場でこの日の疲れを癒している。
そこには、1杯100円などと書かれた焼酎を彼らはあおっているのが、少し開いている扉の向こうに見えるのであった。
わたしも余程そこに入って仲間に加わろうと何回思ったことか。
だが、背広を着た男はただの門外漢のように思えた。彼らの安らかなひと時を門外漢が奪ってしまってはいけないと思い、わたしはそそくさとそこを通り過ぎたのだ。
しかし、それにしても立ち飲み屋はいっこうに見つからなかった。
山谷に来ればうじゃうじゃとあるだろう、と思ったアテはものの見事に外れたのだった。
わたしは、偶然見つけた銭湯で一風呂浴び、帰り際に番台のおばちゃんに尋ねた。
「このあたりに立ち飲み屋はありますか?」
するとおばちゃんは、少し思案するように顔を上に向け、やがて意外なことを言うのであった。
「もう、どこもかしこもなくなってしまったわ」。
「そんなはずはないだろう」と半ば半信半疑に思いながら、わたしは風呂屋を後にしたのだった。
リベンジの立ち飲みラリー。
だが、どうやらこの山谷にも立ち飲み屋はないようだった。
やはり、99年に店をたたんだ伝説の立ち飲み屋「世界本店」と共に山谷の立ち飲みもすっかり姿を消したというのか。
わたしは、重い足取りのまま、その「世界本店」があった泪橋へと向かったのであった。
泪橋。
江戸3大刑場の一つだった小塚原刑場は現在の南千住駅にあったとされる。処刑のため刑場へ向かう罪人が江戸市中から引っ立てられるときに渡ったのが泪橋だったという。見送りの人との今生の別れがその橋であり、罪人も見送りの家人もそこで涙したことが橋の名の由来といれている。
今はもう川もなく、橋もない。
ただ、交差点の名称として残るのみである。
もっとも、当の川の橋はもう少し北に行った南千住駅方向にあったといい、厳密にはその交差点に橋がかかてっていたわけではなかったようだ。
ともあれ、その交差点は現在の荒川区と台東区の区境であり、かつて存在した山谷という町の境目でもあった。
したがって、山谷の表玄関である。
その交差点の山谷側の角に、かつて「焼酎の売り上げ日本一」と言われた立ち飲み屋があったのだという。それが「世界本店」である。「カップ酒だけで1日に700本は売れていた」とある方のネット記事を読んだことがある(現在はその記事は削除され、見ることはできない)。
店は99年に閉店し、今は「セブンイレブン台東日本堤2丁目店」として営業している。
店主の方のインタビューが数年前の東京新聞に掲載されていたことがあった。
「店を閉めたのは時代の流れ」といった回答だったと記憶しているが、未だにワンカップは「よく売れる」と言っていたと記憶している。
そのセブンイレブンに差し掛かり、わたしは店を見上げた。
往時の繁盛振りを今や見ることはできない。
だが、南千住駅方面から続々と仕事帰りの労働者がドヤに帰還を果たし、酒と乾き物のつまみを求め、買って店を出る様子は今も昔もそう変わらないのではないかと、わたしはセブンイレブンで買ったキリン「一番絞り」を飲みながらそう思った。
山谷の労働者も高齢化に晒されているという。
今、60歳を迎える労働者も今年連載から40周年を迎えた「あしたのジョー」を貪って読んだことだろう。
ドヤ街に流れ着いたジョーが、ボクシングによってその存在が肯定されていく。 それは、社会と対峙する対立の存在だったが、矢吹丈は既成の概念を打ち破るひとつの象徴として、ドヤの希望の星だったことだろう。
少年鑑別所を出所したジョーとマンモス西は、丹下段平が建てた掘っ立て小屋のジムで本格的なボクシングの道を歩みだす。
その掘っ立て小屋を建てた場所が、泪橋のたもとなのである。

ドヤに流れ着いた多くの労働者がこの泪橋交差点の角に佇む立ち飲み屋で明日を夢見ながら酒を酌み交わしていたことだろう。ジョーを自分の姿に重ねながら…。
物語の中で白木葉子は「あした」についてこう科白する。
「『すばらしいあした』はきょうという日をきれいごとだけ…お体裁だけととのえて過ごしていては永久にやってこないわ。血にまみれ汗や泥にまみれキズだらけになって…しかも他人には変人扱いされるきょうという日があってこそ…ほ、ほんとうのあしたは…」。
わたしは、350mlの「一番絞り」を飲み干すと店を後にした。
「♪ゴーゴーゴ~風が泣いている~♪風が~…ルルルル…ルルル~ルル…♪」
ドヤに辿りついた際、ジョーが口ずさんだ即興の唄を口にしながら…。
三ノ輪の駅を降り、風に任せて昭和通りを南に向かった。
前日、立ち飲み屋を発見できず、この日はそのリベンジのために再び三ノ輪駅を下車したのだった。
向かう先は吉原、そして山谷。
東京に住んでいながら、なかなか足を向けることのない地へ行ってみようと思ったのである。
吉原大門は鬼門を向くが、吉原へは、竜泉町から入ろうと思った。
樋口一葉の名作「たけくらべ」の舞台となった竜泉町を見てみたかったのだ。
「現在の下谷方面から吉原へ通じる幅約二間の狭い、ただ一本の道が、一葉の家の前に延びていた。そのため、人力車の響きや入り乱れる人力車の提灯の灯りが、夕方から午前一時頃まで絶えず、午前三時頃からは今度は帰りの人力車が走り、その喧騒は朝まで続いたという」(福田国士著「地図から消えた『東京の町』より=祥伝社黄金文庫)。
だが、吉原の隣町であったその痕跡を見つけることはなかなか難しい。
その樋口一葉がかつて住んだという旧宅跡の前を通り過ぎた。お歯黒溝に囲まれた吉原とはもう目と鼻の先である。
少し歩くと、その吉原に出た。ソープランドの灯りがチカチカとし、黒服の男どもが店先に立つ以外は閑散としている。
かつて、ここが江戸の不夜城と呼ばれた遊里吉原であることはにわかに信じがたい。色街ではあるのだが、あまりにも人がいないからである。
「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という遊女の哀切とともに江戸文化の発信地でもあったという吉原。
今、その地を目の前にしても、何かそうした実感は沸いてこないのである。
だが、何か強い磁場に引き付けられるようなその力とは何だろう。
ここらあたりを浮遊するおびただしい情念が鎮まることなく行き交っているのだろうか。
男も女のありとあらゆる念が恐らく毎晩浮かんでは消え、そしてまた浮かんでは消えていったのだろう。
今はただ閑散としているその地に、かつて華やかだった江戸の遊郭の残像が実は見えないだけで、実際は今それに触れているのではないかと錯覚しながら、わたしは歩いた。
「東京人」(都市出版)07年3月号の「江戸吉原」特集に寄稿したノンフィクション作家の石井妙子さんは文末をこのように結ぶ。
「吉原は生きている。そして脈打ちながら何かを訴えてくる。土地の思いを足裏に感じ、それらに呼応する自分である限り、私は朽ちた遊郭の跡地に、これからも惹かれ続けるだろう。」
わたしもまたいつかこの町を再訪するときが来るだろう。
吉原大門の交差点を更に北東に進むと、山谷だ。
住所は日本堤となり、少しひなびた町が現れる。
漫画「あしたのジョー」(原作=高森朝雄、作画=ちばてつや)の冒頭はこの山谷から始まる。
「東洋の大都会といわれるマンモス都市東京―その華やかな東京のかたすみに―ある…ほんのかたすみに―吹きすさぶ木枯らしのためにできた道端のほこりっぽい吹きだまりのような、あるいは川の流れがよどんで岸のすぼみに群れ集まる色あせた流木やごみくずのような、そんな町があるのを皆さんはご存じだろうか」
漫画史に燦然と輝く名作はこんなくだりからスタートするのである。
ジョーが流れついた当時の町並みはもはやない。
「泊まり120円」などと掲出された看板も、どてらを着込んだ髭もじゃの男たちも今は昔だ。
しかし、だいぶ近代的な町並みになったとて、今も「1泊2,000円」と書かれた簡易宿泊所は健在である。
辺りは少し薄暗くなってきた。
18時を過ぎ、一仕事終えた男たちは、安酒場でこの日の疲れを癒している。
そこには、1杯100円などと書かれた焼酎を彼らはあおっているのが、少し開いている扉の向こうに見えるのであった。
わたしも余程そこに入って仲間に加わろうと何回思ったことか。
だが、背広を着た男はただの門外漢のように思えた。彼らの安らかなひと時を門外漢が奪ってしまってはいけないと思い、わたしはそそくさとそこを通り過ぎたのだ。
しかし、それにしても立ち飲み屋はいっこうに見つからなかった。
山谷に来ればうじゃうじゃとあるだろう、と思ったアテはものの見事に外れたのだった。
わたしは、偶然見つけた銭湯で一風呂浴び、帰り際に番台のおばちゃんに尋ねた。
「このあたりに立ち飲み屋はありますか?」
するとおばちゃんは、少し思案するように顔を上に向け、やがて意外なことを言うのであった。
「もう、どこもかしこもなくなってしまったわ」。
「そんなはずはないだろう」と半ば半信半疑に思いながら、わたしは風呂屋を後にしたのだった。
リベンジの立ち飲みラリー。
だが、どうやらこの山谷にも立ち飲み屋はないようだった。
やはり、99年に店をたたんだ伝説の立ち飲み屋「世界本店」と共に山谷の立ち飲みもすっかり姿を消したというのか。
わたしは、重い足取りのまま、その「世界本店」があった泪橋へと向かったのであった。
泪橋。
江戸3大刑場の一つだった小塚原刑場は現在の南千住駅にあったとされる。処刑のため刑場へ向かう罪人が江戸市中から引っ立てられるときに渡ったのが泪橋だったという。見送りの人との今生の別れがその橋であり、罪人も見送りの家人もそこで涙したことが橋の名の由来といれている。
今はもう川もなく、橋もない。
ただ、交差点の名称として残るのみである。
もっとも、当の川の橋はもう少し北に行った南千住駅方向にあったといい、厳密にはその交差点に橋がかかてっていたわけではなかったようだ。
ともあれ、その交差点は現在の荒川区と台東区の区境であり、かつて存在した山谷という町の境目でもあった。
したがって、山谷の表玄関である。
その交差点の山谷側の角に、かつて「焼酎の売り上げ日本一」と言われた立ち飲み屋があったのだという。それが「世界本店」である。「カップ酒だけで1日に700本は売れていた」とある方のネット記事を読んだことがある(現在はその記事は削除され、見ることはできない)。
店は99年に閉店し、今は「セブンイレブン台東日本堤2丁目店」として営業している。
店主の方のインタビューが数年前の東京新聞に掲載されていたことがあった。
「店を閉めたのは時代の流れ」といった回答だったと記憶しているが、未だにワンカップは「よく売れる」と言っていたと記憶している。
そのセブンイレブンに差し掛かり、わたしは店を見上げた。
往時の繁盛振りを今や見ることはできない。
だが、南千住駅方面から続々と仕事帰りの労働者がドヤに帰還を果たし、酒と乾き物のつまみを求め、買って店を出る様子は今も昔もそう変わらないのではないかと、わたしはセブンイレブンで買ったキリン「一番絞り」を飲みながらそう思った。
山谷の労働者も高齢化に晒されているという。
今、60歳を迎える労働者も今年連載から40周年を迎えた「あしたのジョー」を貪って読んだことだろう。
ドヤ街に流れ着いたジョーが、ボクシングによってその存在が肯定されていく。 それは、社会と対峙する対立の存在だったが、矢吹丈は既成の概念を打ち破るひとつの象徴として、ドヤの希望の星だったことだろう。
少年鑑別所を出所したジョーとマンモス西は、丹下段平が建てた掘っ立て小屋のジムで本格的なボクシングの道を歩みだす。
その掘っ立て小屋を建てた場所が、泪橋のたもとなのである。

ドヤに流れ着いた多くの労働者がこの泪橋交差点の角に佇む立ち飲み屋で明日を夢見ながら酒を酌み交わしていたことだろう。ジョーを自分の姿に重ねながら…。
物語の中で白木葉子は「あした」についてこう科白する。
「『すばらしいあした』はきょうという日をきれいごとだけ…お体裁だけととのえて過ごしていては永久にやってこないわ。血にまみれ汗や泥にまみれキズだらけになって…しかも他人には変人扱いされるきょうという日があってこそ…ほ、ほんとうのあしたは…」。
わたしは、350mlの「一番絞り」を飲み干すと店を後にした。
「♪ゴーゴーゴ~風が泣いている~♪風が~…ルルルル…ルルル~ルル…♪」
ドヤに辿りついた際、ジョーが口ずさんだ即興の唄を口にしながら…。
そんなこと追及してなんになるの。
ジョーはあの時死んだんだ、とアタシは思ったけどなぁ。
当ブログでも、それについて書いたことがありました。
ゲストのちばてつや先生が『ジョーには明日がある。だから死んでいないと思います』と話していました。
ジョーがあの後、どうなったか、原稿を書かれていた先生もわからないということなんですね。
でも、こうしてジョーがまた話題になるということは、ジョーはしっかりと僕らの心の中に生きているともいえますね。