自動車問題研究会という集まりがある。
自動車のアフターマーケット業界の記者があつまって、その時宜に沿った様々な自動車にまつわる問題を討論し、情報を共有しようというものだ。
既に180回近く開催され、歴史も古い集まりなのだが、わたしが参加させてもらうようになってからは、飲み会的要素が強くなっている。今は研究会と飲み会の会場は別々だが、4年くらい前までは中野坂上の「サンバレー」というスナックが会場となり、研究会終了後はすぐさまそこでカラオケが始まるという有様だった。
2年くらい前から協賛する業界団体の拠点が西新宿に移ってからは、会は少し引き締まってきた。だが、研究会が終わった後の飲み会は相変わらずだ。
この日も、その自動車問題研究会があり、わたしはいそいそと現場へ出かけた。
だが、会場には15分前に着いてしまったので、久々に「酒呑地蔵」に行ってお参りしようと思い立った。
「酒呑地蔵」とは今から2年くらい前に偶然見つけた社である。その日もわたしはその業界団体を訪れ取材していたのだが、お昼休みになり、わたしはその時間を利用して近所の散策に出てみることにした。驚いたのは、その業界団体の建物がある渋谷区本町近辺には、かつて小川が流れていた形跡があるのを発見したのだ。恐らく現在は地下に流しているようで、今はすっかりコンクリートで蓋がされ、小道になっているのである。その小道が珍しく、わたしは上流、つまり杉並区の方までのぼってみたのだ。途中、橋がかかっていた形跡を見つけては、間違いなく昔はここに川があったことを確信し、夢中になって更に行ってみるとはたして小さな社に出たのであった。
「何だろう」と思って近づいてみた。
「酒呑地蔵」と書かれており、社の奥には確かに一体の地蔵が鎮座していた。
そして、社の中にはこのような一文が添えられており、同所の由縁を書き記していた。
「この地蔵は、江戸時代の宝永5年(1708年)にたてられ、別名を子育(こそだて)地蔵ともいわれますが、つぎのようないい伝えがあります。むかし、四谷伝馬町に住む中村瀬平という者は、故あって(中略)家を出て幡ヶ谷村の農家に雇われて農作業や子守りなど一生懸命に働いたといわれています。瀬平の勤勉さに感心した村人は、31歳になった正月に彼を招いてご馳走したところ、ふだんは飲まない酒によった瀬平は川に落ちて水死しました。瀬平は村人の夢枕に現れて、この村から酒呑を無くすために地蔵を造ってほしいと願ったので、村人たちは早速1基の地蔵を建立し、酒呑地蔵と伝えてきました。」
随分気の毒な人もあるものだ、と思う。
だが、世の中に酒が原因で命を落とす人はごまんといるだろうが、こうして地蔵を建ててもらうということは、余程中村瀬平さんは村人に慕われていたのだろう。また、普段は飲まない酒が原因で命を落としており、瀬平さんとしてもよほど無念だったに違いない。村人の夢枕に出るくらいだから。
さて、酒呑地蔵に関する説明文には書かなかったのだろうが、瀬平さんはかつて流れていたこの川で命を落としたのはほぼ間違いない。この地蔵の場所は遺体が発見された場所なのか、或いはここに架かっている橋で(実際に橋の跡がある)足を滑られたのかは分からないが、とにかくこの場所がなんらかの現場であることはほぼ間違いないだろう。今から300年も昔に(来年は没後300年ですなぁ)おきた出来事に思いを馳せるのも実に不思議なことである。
また、自分も時々酒を飲んでは記憶をなくす経験があるだけに、決して人事には思えないところもある。命を落としてしまった瀬平さんに合掌して研究会の会場に向かったのである。
研究会も終わり、出席した記者らは夜の巷に繰り出した。
行き先は都営大江戸線西新宿駅近くの居酒屋「おいどん」だ。
研究会が現在の体裁になってからというもの、ほとんどの飲み会がここで行われてきた。
かれこれ6~7回はここで飲んでいるはずだが、実はこの店が郷土料理の店であるというのは、今回初めて知った。どうやら鹿児島県の郷土料理屋らしい。
しかし、いつも記者たちが口にするものは、協賛してくれている業界団体の会計で行われている。したがって、ほとんどの場合飲食物を自ら選択できないのだ。
いつも決まってテーブルに供されるものは恐らく「宴会コース」なのだろう。
はじめに「刺身5点盛り」が出てきて、サラダが出てくる。
ビールについて少し触れておこう。
生ビールはビアマグで出てくる。
銘柄はサントリーのモルツだ。
ただし、このビアマグ、いささか小さい。
生ビール(中)の値段がいくらするのか分からないが、この点は不満が残る。
C整振のS東さんは「まどろっこしい」と言って、大ジョッキを頼んだ。大ジョッキは普通にガラスのものなのだが、こっちが中ジョッキに見える。ビールに関しては同店はケチ臭い。
矢継ぎ早に料理は出てくるが、印象は薄い。
何故なら、宴会コースに郷土料理らしきものがないからだ。
しかし、その中でいつも「おいしいナ」と思うものがある。
それは「ごぼうチップス」だ。
ごぼうを薄切りして揚げたものだが、これが実にビールによくあう。
ビールを一通り飲むと、焼酎タイムが訪れる。
同店は鹿児島県の郷土料理のお店だから、本格焼酎なんてお手の物だろうが、宴会コースにはそれは含まれないのだろう。汎用の麦焼酎がボトルで出てくる。
それをT整振のW田さんがロックや水割りを作ってくれるのだ。
料理の種類や値段、或いはお酒の種類など今回はお店のガイドブック的な情報を読者諸兄に的確にお伝えすることはできなかった。
だが、「酒呑地蔵」にお参りしたことで、すっきり酒を飲むことができ、それを今回の居酒屋放浪気に記しておこうと思って同店を掲載した次第である。
恐らく、自動車問題研究会が続く限り、同店を訪れることになるだろうから、もう少し違ったアプローチで次は同店のことを書こうと思う。
それと同時に、酒呑みで記憶をよくなくす方は一度「酒呑地蔵」に参拝することをお勧めする。
我々がいつ同じ境遇になるか分からず、命を落とした先人を思うことでわたしたちの決してよくない酒癖について反省をうながすためにも。
それが、中村瀬平さんの枕元に立った理由でもあるのだから。
自動車のアフターマーケット業界の記者があつまって、その時宜に沿った様々な自動車にまつわる問題を討論し、情報を共有しようというものだ。
既に180回近く開催され、歴史も古い集まりなのだが、わたしが参加させてもらうようになってからは、飲み会的要素が強くなっている。今は研究会と飲み会の会場は別々だが、4年くらい前までは中野坂上の「サンバレー」というスナックが会場となり、研究会終了後はすぐさまそこでカラオケが始まるという有様だった。
2年くらい前から協賛する業界団体の拠点が西新宿に移ってからは、会は少し引き締まってきた。だが、研究会が終わった後の飲み会は相変わらずだ。
この日も、その自動車問題研究会があり、わたしはいそいそと現場へ出かけた。
だが、会場には15分前に着いてしまったので、久々に「酒呑地蔵」に行ってお参りしようと思い立った。
「酒呑地蔵」とは今から2年くらい前に偶然見つけた社である。その日もわたしはその業界団体を訪れ取材していたのだが、お昼休みになり、わたしはその時間を利用して近所の散策に出てみることにした。驚いたのは、その業界団体の建物がある渋谷区本町近辺には、かつて小川が流れていた形跡があるのを発見したのだ。恐らく現在は地下に流しているようで、今はすっかりコンクリートで蓋がされ、小道になっているのである。その小道が珍しく、わたしは上流、つまり杉並区の方までのぼってみたのだ。途中、橋がかかっていた形跡を見つけては、間違いなく昔はここに川があったことを確信し、夢中になって更に行ってみるとはたして小さな社に出たのであった。
「何だろう」と思って近づいてみた。
「酒呑地蔵」と書かれており、社の奥には確かに一体の地蔵が鎮座していた。
そして、社の中にはこのような一文が添えられており、同所の由縁を書き記していた。
「この地蔵は、江戸時代の宝永5年(1708年)にたてられ、別名を子育(こそだて)地蔵ともいわれますが、つぎのようないい伝えがあります。むかし、四谷伝馬町に住む中村瀬平という者は、故あって(中略)家を出て幡ヶ谷村の農家に雇われて農作業や子守りなど一生懸命に働いたといわれています。瀬平の勤勉さに感心した村人は、31歳になった正月に彼を招いてご馳走したところ、ふだんは飲まない酒によった瀬平は川に落ちて水死しました。瀬平は村人の夢枕に現れて、この村から酒呑を無くすために地蔵を造ってほしいと願ったので、村人たちは早速1基の地蔵を建立し、酒呑地蔵と伝えてきました。」
随分気の毒な人もあるものだ、と思う。
だが、世の中に酒が原因で命を落とす人はごまんといるだろうが、こうして地蔵を建ててもらうということは、余程中村瀬平さんは村人に慕われていたのだろう。また、普段は飲まない酒が原因で命を落としており、瀬平さんとしてもよほど無念だったに違いない。村人の夢枕に出るくらいだから。
さて、酒呑地蔵に関する説明文には書かなかったのだろうが、瀬平さんはかつて流れていたこの川で命を落としたのはほぼ間違いない。この地蔵の場所は遺体が発見された場所なのか、或いはここに架かっている橋で(実際に橋の跡がある)足を滑られたのかは分からないが、とにかくこの場所がなんらかの現場であることはほぼ間違いないだろう。今から300年も昔に(来年は没後300年ですなぁ)おきた出来事に思いを馳せるのも実に不思議なことである。
また、自分も時々酒を飲んでは記憶をなくす経験があるだけに、決して人事には思えないところもある。命を落としてしまった瀬平さんに合掌して研究会の会場に向かったのである。
研究会も終わり、出席した記者らは夜の巷に繰り出した。
行き先は都営大江戸線西新宿駅近くの居酒屋「おいどん」だ。
研究会が現在の体裁になってからというもの、ほとんどの飲み会がここで行われてきた。
かれこれ6~7回はここで飲んでいるはずだが、実はこの店が郷土料理の店であるというのは、今回初めて知った。どうやら鹿児島県の郷土料理屋らしい。
しかし、いつも記者たちが口にするものは、協賛してくれている業界団体の会計で行われている。したがって、ほとんどの場合飲食物を自ら選択できないのだ。
いつも決まってテーブルに供されるものは恐らく「宴会コース」なのだろう。
はじめに「刺身5点盛り」が出てきて、サラダが出てくる。
ビールについて少し触れておこう。
生ビールはビアマグで出てくる。
銘柄はサントリーのモルツだ。
ただし、このビアマグ、いささか小さい。
生ビール(中)の値段がいくらするのか分からないが、この点は不満が残る。
C整振のS東さんは「まどろっこしい」と言って、大ジョッキを頼んだ。大ジョッキは普通にガラスのものなのだが、こっちが中ジョッキに見える。ビールに関しては同店はケチ臭い。
矢継ぎ早に料理は出てくるが、印象は薄い。
何故なら、宴会コースに郷土料理らしきものがないからだ。
しかし、その中でいつも「おいしいナ」と思うものがある。
それは「ごぼうチップス」だ。
ごぼうを薄切りして揚げたものだが、これが実にビールによくあう。
ビールを一通り飲むと、焼酎タイムが訪れる。
同店は鹿児島県の郷土料理のお店だから、本格焼酎なんてお手の物だろうが、宴会コースにはそれは含まれないのだろう。汎用の麦焼酎がボトルで出てくる。
それをT整振のW田さんがロックや水割りを作ってくれるのだ。
料理の種類や値段、或いはお酒の種類など今回はお店のガイドブック的な情報を読者諸兄に的確にお伝えすることはできなかった。
だが、「酒呑地蔵」にお参りしたことで、すっきり酒を飲むことができ、それを今回の居酒屋放浪気に記しておこうと思って同店を掲載した次第である。
恐らく、自動車問題研究会が続く限り、同店を訪れることになるだろうから、もう少し違ったアプローチで次は同店のことを書こうと思う。
それと同時に、酒呑みで記憶をよくなくす方は一度「酒呑地蔵」に参拝することをお勧めする。
我々がいつ同じ境遇になるか分からず、命を落とした先人を思うことでわたしたちの決してよくない酒癖について反省をうながすためにも。
それが、中村瀬平さんの枕元に立った理由でもあるのだから。
驚きです、っていうか嬉しいです。
これは拝みにいかないと。
教えてくださって、ありがとうございます♪
是非、霊を鎮めてください。
場所は、渋谷区本町5丁目。失われた川と言われる神田川の支流沿いです。