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さすら碑 003 - 河合継之助の夢の跡 -「長岡城本丸跡」(長岡市大手通り)

2023-08-15 11:55:27 | さすら碑

同行の部長と長岡駅に戻ると、部長はたばこを吸いに行った。その喫煙所の近くをうろうろしていると、一本の支柱があった。「長岡城本丸跡」とあり、城主牧野氏の家紋、牧野柏が彫られている。現在の長岡駅ロータリーのすぐ近く。しかし、堀や石垣などの類はなく、城はもはや跡形もない。この碑がなければ、全くもって、この地がかつて長岡城だったということには気づかないだろう。そうか、ここが戊辰戦争の北越戦争で河合継之助が死守しようと激戦を繰り広げた長岡城跡か。

一昨年、司馬遼太郎さん原作の「峠」が映画化され、河合は再評価されつつある。石高7万4千石の小藩が新政府軍を相手に一泡も二泡も吹かせたのは河合継之助の手腕だろう。司馬さんが小説の材にしたということは、間違いなく歴史のキーマンだったからとも思う。

新政府軍に対し、長岡藩の中立を訴え、新政府軍と旧幕府軍の調停を申し立てたのがどこまで本気だったかは分からない。東北諸藩の同盟が反恭順の姿勢で前のめりになる中、対等な調停に持ち込める可能性は低いように思うからだ。

河合がその談判を訴えたのが小千谷に軍を進めていた新政府軍、土佐藩士の岩村精一郎。24歳の若造は傲岸不遜な態度で河合に相対したという。一度会談は決裂したものの、翌日再度河合が談判に臨んでいるところをみれば、河合はやはり本気だったのかとも思ったりする。

その後の北越戦争での両者の戦いは今更書くまでもない。圧倒的数的不利な奥羽越列藩同盟が3ヶ月にわたり新政府軍を苦しめたことは官軍にとって、大きな汚点となったはずだ。小千谷会談で、岩村と同席していたという肥後藩士の米田虎雄は「多くの兵を小藩の長岡に集中し、悪戦苦闘することになった。その間、前後7回の激戦において官軍が勝利したのは、ただの1回にすぎない」と語ったという(出典:東洋経済)。

Wikipedia によると、奥羽越列藩同盟の死者1,140人に対し、新政府軍1,080人と、ほぼ互角に渡り合った。一度落城した長岡城を再度奪還した河合。もし、銃弾を受けず、そのまま河合が指揮を続けていたら、戦争の行方はどうなっていたか。戦いの趨勢は変わらなかったと思うが、山縣有朋に赤っ恥をかかせることはおおいにあったのではないかと思う。

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