
妻と子供たちが帰ってきた。もう「今晩はどの店に行こうかな」と思案することもない。毎日毎晩の居酒屋通いだったせいか、家に帰っての妻の手料理がやけにおいしい。
そうやって、2、3日ほど平穏な日々を過ごしていると、元同僚のヨッスィーから連絡が入った。
何か急用が出来たらしく、「近々会いたい」という。その様子にただならぬ状況を察知したため、翌日新橋にて会うことにした。
もう、居酒屋には行くこともあるまいと思ったが、それも僅か6日しか続かなかったのである。
さて、どこに行こうか。いいアイデアはない。
わたしの好きな店なら新橋にたくさんあるが、どこもものすごい熱気でまともに話しが聞けないところばかりだ。
例えば、「やきとん まこちゃん」。
店は騒々しくて、テーブル席で対面しても相手の声などほとんど聞こえないことしばしばだ。
そこで、「ニュー新橋ビル」の地下に行ってみることにした。
静かな居酒屋なら充分見つかるはずだ。
「ニュー新橋ビル」。
まなこ壁を思わすその壁面がとにかく強烈な印象を与えるその姿は異形といってもいい。
新橋駅西側の顔である。
かつてはここに都内でも最大の闇市があったと言われている。
「東京裏路地<懐>食紀行」(ブラボー川上、藤木TDC著=ちくま文庫)には新橋の闇市の様子が克明に記されている。
「戦争末期わが国の敗戦色濃くなり、たび重なる鬼畜米軍の空襲を受けていたこの一帯、火災による延焼被害を少なくするために『建物疎開』と申しまして、駅周辺などの建築物を自ら解体、いわば火除よけの空き地を作っとったのであります。その空き地が広大だったのと、帝都の商業の中心地・銀座のお隣という立地が幸いし(中略)即席の露店で商売が始められたのであります。
それが地元との大親分・カッパの松こと松田義一親分の仕切りのもとに巨大マーケットとしてまとめ上げられまして、ここに戦後史に名を轟かす『新生マーケット』の誕生とあいなったのでした」
更にブラボー川上氏はニュー新橋ビルを「酒飲みサラリーマンの聖地だからね。飲み屋にピンサロにパチンコ、それにマッサージから薬局まで、飲む・打つ・買う・癒す、全部あるからね。ビル自体が闇市そのままだよ」と評する。
一方、橋本健二先生の「居酒屋ほろ酔い考現学」(毎日新聞社)には1950年の「火災保険特殊地図」に記録された新橋西口の闇市飲食店街と、現在のニュー新橋ビルの地下飲食店街とを比較する図まで掲載して、当時の闇市が、そのままそっくる今も息づいている様子を記している。
そのニュー新橋ビルの地階に降りていくと、本当にそこは全て飲食店。ほとんどは居酒屋だ。
だが、おどろおどろしい伏魔殿のようなイメージはない。
とりあえず、ビルのフロアをぐるりと一周してみた。
だが、コレだ!と思えるお店はない。
そこで、一番熱心に客引きをしていた「居酒屋 まつり」に入ることにした。
決めては若い女性店員の熱心な客引きだ。
お店は15坪程度の小さなお店。
そこにあまり機能的とはいえないカウンターとテーブル席(席数20席弱)が縦に並ぶ。
我々はそれぞれ大きな荷物を抱えていたため、4人掛けのテーブルに案内された。
まずはビール。
実は、この日ヨッスィーの重大発表があったため、飲み物や酒肴を記録することができなかった。そのためビール・の銘柄、値段、酒肴もどんなものを頼んだか、分からない。
生ビールを頼んだのだが、やけに値段が高かった覚えがある。
ビルのテナント料がどんだけonされているんだろうと思ったほどだ。
ヨッスィーの重大発表というのはグループ会社へ自ら転籍を申し入れたということだった。
わたしが、ヨッスィーの会社を退いてはや6年。それ以来、彼は編集長として会社の先頭を走り続けていた。
そこには、複雑な事情が横たわっていた。
わたしは、ただただ彼の言葉に耳を傾けていただけであった。
こうして2人で杯を傾けていると、思い起こすのは約10年前の渋谷でのこと。
東急の映画館の裏で飲んだヨッスィーはひどく落ち込んでいた。
当時、彼は会社に入社して1年足らず、右も左も分からないまま仕事をしてきた中で、どうやら大きな壁にぶつかっていた。
その壁がどういうものか、痛いほど分かっていたわたしは自分の立場を曝け出して彼と話した。
そうか、もうあれから10年も経つのだ。
わたしは生ビールを2杯ほど飲み、酎ハイを注文した。
ヨッスィーも同じように酎ハイを頼んだ。
気がつけば店の中は満員になっていた。
我々が腰かけていた4人掛けのテーブルも分割して2人の客を迎え入れた。
感心するのは、若い女性店員。
二人とも、歳の頃は20歳そこそこ。
注文などの受け答えもハキハキとし、てきぱきと働いている。
目立つのは彼女らの服装。
ミニスカートにフリフリのエプロンをしている(写真)。
客からは「○○ちゃ~ん」という声をかける男性サラリーマン客がけっこう多く、もしかして彼女らをお目当てに通う客もいるのではないかと想像できる。
手作り料理を標榜するだけにつまみはいずれもおいしかったと記憶している。
だが、料金の高かったこと。
確か生ビールを4杯、酎ハイ各4杯、そしてつまみを4品ほど頼み、勘定すると、わたしは「だいたい6,000円だろう」と思っていたが、8,000円以上の会計だった。
店員さんへのサービス料も含まれているのかと勘繰りたくなった。
何しろ、彼女らはお店の写真の撮影をお願いすると、わざわざ店頭に出て、記念写真のようにフレームに入ってくれたからである。
店を出て、新橋の町を歩く。
〆は「大島ラーメン」だ。
決断を下したヨッスィーの顔は晴れ晴れとしていた。
そんな彼の様子を見て、「羨ましいナ」と思った。
そうやって、2、3日ほど平穏な日々を過ごしていると、元同僚のヨッスィーから連絡が入った。
何か急用が出来たらしく、「近々会いたい」という。その様子にただならぬ状況を察知したため、翌日新橋にて会うことにした。
もう、居酒屋には行くこともあるまいと思ったが、それも僅か6日しか続かなかったのである。
さて、どこに行こうか。いいアイデアはない。
わたしの好きな店なら新橋にたくさんあるが、どこもものすごい熱気でまともに話しが聞けないところばかりだ。
例えば、「やきとん まこちゃん」。
店は騒々しくて、テーブル席で対面しても相手の声などほとんど聞こえないことしばしばだ。
そこで、「ニュー新橋ビル」の地下に行ってみることにした。
静かな居酒屋なら充分見つかるはずだ。
「ニュー新橋ビル」。
まなこ壁を思わすその壁面がとにかく強烈な印象を与えるその姿は異形といってもいい。
新橋駅西側の顔である。
かつてはここに都内でも最大の闇市があったと言われている。
「東京裏路地<懐>食紀行」(ブラボー川上、藤木TDC著=ちくま文庫)には新橋の闇市の様子が克明に記されている。
「戦争末期わが国の敗戦色濃くなり、たび重なる鬼畜米軍の空襲を受けていたこの一帯、火災による延焼被害を少なくするために『建物疎開』と申しまして、駅周辺などの建築物を自ら解体、いわば火除よけの空き地を作っとったのであります。その空き地が広大だったのと、帝都の商業の中心地・銀座のお隣という立地が幸いし(中略)即席の露店で商売が始められたのであります。
それが地元との大親分・カッパの松こと松田義一親分の仕切りのもとに巨大マーケットとしてまとめ上げられまして、ここに戦後史に名を轟かす『新生マーケット』の誕生とあいなったのでした」
更にブラボー川上氏はニュー新橋ビルを「酒飲みサラリーマンの聖地だからね。飲み屋にピンサロにパチンコ、それにマッサージから薬局まで、飲む・打つ・買う・癒す、全部あるからね。ビル自体が闇市そのままだよ」と評する。
一方、橋本健二先生の「居酒屋ほろ酔い考現学」(毎日新聞社)には1950年の「火災保険特殊地図」に記録された新橋西口の闇市飲食店街と、現在のニュー新橋ビルの地下飲食店街とを比較する図まで掲載して、当時の闇市が、そのままそっくる今も息づいている様子を記している。
そのニュー新橋ビルの地階に降りていくと、本当にそこは全て飲食店。ほとんどは居酒屋だ。
だが、おどろおどろしい伏魔殿のようなイメージはない。
とりあえず、ビルのフロアをぐるりと一周してみた。
だが、コレだ!と思えるお店はない。
そこで、一番熱心に客引きをしていた「居酒屋 まつり」に入ることにした。
決めては若い女性店員の熱心な客引きだ。
お店は15坪程度の小さなお店。
そこにあまり機能的とはいえないカウンターとテーブル席(席数20席弱)が縦に並ぶ。
我々はそれぞれ大きな荷物を抱えていたため、4人掛けのテーブルに案内された。
まずはビール。
実は、この日ヨッスィーの重大発表があったため、飲み物や酒肴を記録することができなかった。そのためビール・の銘柄、値段、酒肴もどんなものを頼んだか、分からない。
生ビールを頼んだのだが、やけに値段が高かった覚えがある。
ビルのテナント料がどんだけonされているんだろうと思ったほどだ。
ヨッスィーの重大発表というのはグループ会社へ自ら転籍を申し入れたということだった。
わたしが、ヨッスィーの会社を退いてはや6年。それ以来、彼は編集長として会社の先頭を走り続けていた。
そこには、複雑な事情が横たわっていた。
わたしは、ただただ彼の言葉に耳を傾けていただけであった。
こうして2人で杯を傾けていると、思い起こすのは約10年前の渋谷でのこと。
東急の映画館の裏で飲んだヨッスィーはひどく落ち込んでいた。
当時、彼は会社に入社して1年足らず、右も左も分からないまま仕事をしてきた中で、どうやら大きな壁にぶつかっていた。
その壁がどういうものか、痛いほど分かっていたわたしは自分の立場を曝け出して彼と話した。
そうか、もうあれから10年も経つのだ。
わたしは生ビールを2杯ほど飲み、酎ハイを注文した。
ヨッスィーも同じように酎ハイを頼んだ。
気がつけば店の中は満員になっていた。
我々が腰かけていた4人掛けのテーブルも分割して2人の客を迎え入れた。
感心するのは、若い女性店員。
二人とも、歳の頃は20歳そこそこ。
注文などの受け答えもハキハキとし、てきぱきと働いている。
目立つのは彼女らの服装。
ミニスカートにフリフリのエプロンをしている(写真)。
客からは「○○ちゃ~ん」という声をかける男性サラリーマン客がけっこう多く、もしかして彼女らをお目当てに通う客もいるのではないかと想像できる。
手作り料理を標榜するだけにつまみはいずれもおいしかったと記憶している。
だが、料金の高かったこと。
確か生ビールを4杯、酎ハイ各4杯、そしてつまみを4品ほど頼み、勘定すると、わたしは「だいたい6,000円だろう」と思っていたが、8,000円以上の会計だった。
店員さんへのサービス料も含まれているのかと勘繰りたくなった。
何しろ、彼女らはお店の写真の撮影をお願いすると、わざわざ店頭に出て、記念写真のようにフレームに入ってくれたからである。
店を出て、新橋の町を歩く。
〆は「大島ラーメン」だ。
決断を下したヨッスィーの顔は晴れ晴れとしていた。
そんな彼の様子を見て、「羨ましいナ」と思った。
しかし、貧打ですね もう少し打って欲しいです。
それと、結構、予想スタメン当りますね
素晴らしい仕事をしていると思います。
わたしはせっかちなので早く結果を求めてしまうのですが、苦節4年目で大きなみのりになったと思います。
>結構、予想スタメン当りますね
いやいや、パーフェクトはまだ一回だけですよ。
予想とわたしの希望がごっちゃになってなかなか決まらないです。
このまま、行ってほしいです。
若鯉よ、もっともっと出て鯉!って感じです。
緒方選手が盗塁を決めた場面見て、おめさんちょっとウルウルしてただろ。