和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

法旗(四十三)小説「新 ・人間革命」

2013年01月24日 07時36分41秒 | 今日の俳句
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2013年 (平成25年)1月24日(木)より転載】


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法旗43(1/24)
 松山支部結成十八周年の記念勤行会が始まった。
勤行、幹部指導のあと、司会者が、「松山支部の草創の功労者に、花束の贈呈があります」と告げた。


 山本伸一は、自ら花束を手にした。
最初に贈られたのは、初代の支部婦人部長を務めた岩田サワであった。
ふくよかな優しい顔立ちのなかに、毅然とした強さを秘めている女性であった。


 松山支部の結成は、伸一が第三代会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)五月三日の本部総会の席上である。
伸一は、東京・両国の日大講堂の壇上で、松山支部の大前進と、支部長・婦人部長になった武田勇蔵と岩田の人生の勝利を願いながら、祝福の拍手を送ったことが忘れられなかった。


 かつて岩田は、“自分の人生は不幸を絵に描いたようだ”と思っていた。
結婚して一女をもうけたが、夫は戦病死した。
以前、看護婦(現在の看護師)をしていた彼女は、幼子を実家に預け、松山の医院に勤めた。


 戦後、数年して多少の蓄えもでき、娘の紀美子と松山で一緒に暮らすことにした。
家は、知り合いが住んでいた家を、ただ同然の家賃で借りることができた。


 洋裁の技術もあった彼女は、家で洋裁の仕事を始めた。
娘と一緒にいるために、自宅でできる仕事を選んだのである。
しかし、母子二人が食べていくことは容易ではなかった。
早朝から深夜まで、働きづめであった。


 五三年(同二十八年)の年末、岩田の体に異変が起こった。
咳、高熱が続いた。病院へ行くと、重度の粟粒結核症と診断された。
当時、結核は治療の難しい病といわれていた。


 入院治療が必要とされたが、結核病棟はいっぱいであった。
また、入院すれば、金銭的にも大きな負担がかかる。
さらに、娘の側にいなければとの強い思いもあり、結局、自宅療養することになった。


 人生は、容赦なく襲って来る宿命の嵐との戦いといえる。
その嵐に勝ち抜く精神の強さを培ってこそ、幸福がある。



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