和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

師走/今日の俳句 ≪第.1632号≫

2014年12月25日 07時05分26秒 | 今日の俳句

■<2014年(平成26年)12月25日(木)>■


     ◆一丸となり復興“倍速”へ◆
    
 
【公明新聞:2014年12月24日(水)付】
https://www.komei.or.jp/news/detail/20141224_15829


【写真】福島復興加速化会議で決意を述べる真山氏=23日 福島・郡山市


    公明への期待に応え抜く

    党福島県本部が新出発

    若松、浜田、真山氏出席


 公明党福島県本部(甚野源次郎代表=県議)は23日、福島県郡山市で福島復興加速化会議を開き、衆院選比例東北ブロックで“悲願の2議席”を成し遂げた勢いのままに、震災と原発事故からの復興・再生をスピードアップさせ、被災者の期待に応えていくことを固く誓い合った。

 会合には、党福島県東日本大震災復興加速化本部の若松謙維議長(参院議員)、浜田昌良復興副大臣(公明党)、衆院選で初当選した真山祐一衆院議員、県本部所属の議員らが出席した。

 冒頭、甚野代表は「わが福島県から若松参院議員、真山衆院議員の2人の国会議員が誕生した」と強調。震災から3年9カ月がたった今も、約12万人が県内外に避難している状況を重く受け止め、「『公明の旗ここにあり』との闘いで、復興を倍加して進めたい」と力を込めた。

 次いで当選の御礼に立った真山氏は、全町避難中の浪江町民が暮らす二本松市の仮設住宅でいち早く懇談会を開いたことを報告。復興へ、地域の課題解決へ「福島中を、東北中を駆け巡り、現場の声を国政に届けていく」と決意を述べた。

 浜田副大臣は、(1)除染で出た汚染土などを保管する中間貯蔵施設の建設(2)避難区域が設定された12市町村の将来像の検討(3)仮設住宅の延長期間(4)全町民が避難している楢葉町の避難指示解除―など、福島再生へ乗り越えなければならない七つの問題があると説明。「被災者に寄り添い、一つ一つの課題に立ち向かっていく」と力説した。

 若松議長は、福島担当の国会議員12人と引き続き連携を深めながら、今回の衆院選で得た「2倍の力」で復興の“倍速”に向けて「県本部の議員が結束して現場の声を実現していこう」と訴えた。




     ※今日の俳句※


  

  うすうすと紺のぼりたる師走空
         飯田龍太


  日暮里へ師走のみちのつゞきけり
         久保田万太郎
  

  メモ書きを忘れて走る師走かな 
         鏡山千恵子


※ 師走・極月・臘月・春待月。

※so-net
 【「さらまわしさんのブログ」より転載】
http://saramawasi-poem.blog.so-net.ne.jp/


   【師走時間 [短詩]2014-12-04 10:27 】

  師走の時の流れは早く

  刻む秒針加速するよう

  刻々過ぎ行く戻らぬ時間

  悔いを残さず大切に

  時計見つめてそう想う

  生かされ生きるこの命

  鼓動も時を刻んでる

  今日一日の重さ感じて

  今の歩幅で歩みたい

  寒い季節の冬なれど

  感謝の心捧げるならば

  寒さも力に変わると信じて


■さらまわしさんのプロフィール
 私は、1960年代後前半に8カ月の未熟児で生まれました。体重は1320グラムだったと聞いています。現在の医療では問題なく成長出来る体重ですが、当時はかなり危険な状態だったと思います。
 その為、「脳性マヒ」と言う障がいが残ってしまいました。この障がいは、運動神経の未発達が原因で身体全体の力のコントロールが上手く出来ず、手足の緊張や震えなどの状態(アテトーゼと言います)があり、言語にも多少影響が出ています。歩くことも出来ないので、電動車いすでの生活です。
 現在は妻と娘の3人暮らしで、あとペットのワンコ(パピヨン「チョコと言う名前です」)がいます。「家族だぞ!」と吠えまくっている男の子です。




     ※わが友に贈る※
【聖教新聞:2014年12月25日(木)付】


  弘教への挑戦の中で

  わが境涯は開かれる。

  創価班・牙城会の

  大学校生よ 頑張れ!

  今こそ飛躍のときだ。


      2014年12月25日



     ※名字の言※
【聖教新聞:2014年12月25日(木)付】


夏目漱石の私信5通が、文豪ゆかりの東京・新宿区に寄贈された。正岡子規宛てのはがきが4通と、もう1通が、新たに見つかった未公開書簡。面識のない学生が「漱石論」を英語で演説し、その原稿を送ったことへの返礼と見られる



日付は明治42年(1909年)12月10日。手紙には「私の作物から一種の感化を受けてそれがあなたの処世上もしくは思想上に役に立ってゐるなら甚だ嬉しい」「あなたの手紙を読んで多大の愉快を感じた」等とあり、自分の小説が若い読者に役立ったことを素直に喜んでいる



この年、漱石は“面倒で死にたくなる”と日記に記すほどの重い胃病に苦しみ、仕事も多忙を極めた。その文豪に、一青年の手紙がこれほどの喜びを与えたことに、新鮮な感動を覚える



多忙で個性派ぞろいの文士と付き合ってきた。編集者の大庭登氏。彼等を説得する「殺し文句」があったという。それは「読者が待っています」の一言だった(『文士あの日あの時』』第三文明社)



自分の文を読む人の反応ほど、最もうれしく、最も怖いものはない。文豪でなくとも、文を書く全ての人に共通の心理だろう。今、年賀状書きと格闘する人も多いはず。文は人なり、心なり。思いを込めた分だけ相手に伝わる。心の労を惜しむまい。(潔)



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