和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

法旗(四十四)小説「新 ・人間革命」

2013年01月25日 12時08分43秒 | 今日の俳句
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2013年(平成25年)1月25日(金)より転載】


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法旗44(1/25)
 粟粒結核症で自宅療養を続ける岩田サワの蓄えは、次第に底を突き始めた。


 “これから、どうなってしまうのか……”


 病の床にあって、“不安”の闇に怯えながら、身の不運を呪った。
“不安”は、やがて、“絶望”の淵へと彼女を追いやっていった。


 “死んだ方がましだ……”


 病院に薬をもらいに行った帰り道、線路の上に立った。
やがて、彼方に列車が見えた。


 “楽になれる……”。
しかし、その刹那、娘の紀美子の顔が頭をよぎった。
 “あの子は、どうなるの……”


 線路を飛び出した。
死ねなかった。
脇道にしゃがみ込んだ。
その傍らを、ガタゴトと列車が通り過ぎて行った。
咳き込み、泣きながら、よろけるようにして家に着いた。


 希望を失うことは、人生の光を失うことだ。信仰とは、心に、その希望の灯をともし、歓喜の炎へと燃え上がらせていくことである。
 岩田が粟粒結核症と診断された翌一九五四年(昭和二十九年)の春、紀美子は中学校に入った。
制服を買うこともできず、サワが自分で縫った。
しかし、セーラー服に入る線は皆とは違う布地になった。
家には、同じ布がなかったからである。


 米など買えないため、紀美子の弁当は、主食も、おかずも、ジャガイモだった。
紀美子は、友だちに、弁当を見られるのがいやだった。
「いつもイモだね」と言われる前に先手を打った。
「私は、おイモが大好きなの」と言って、明るく笑うようにした。


 赤貧――その言葉は、自分たちのためにあるように、岩田サワには感じられた。


 この年の六月、彼女の看護婦養成所時代の友人が大阪から訪ねて来た。
この友人は、かつては病弱で、暗い感じであったが、見違えるように元気になり、はつらつとしていた。


 友人は学会員であった。
自分が健康になれた根本的な力は、信心にあると言うのだ。


 岩田も、彼女も、同じ看護の道を歩いていた仲間である。
その友人が、医学ではなく、宗教を力説することに驚きを覚えた。



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