和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

人材城(四十)小説「新 ・人間革命」

2012年05月26日 14時17分25秒 | 今日の俳句
    小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2012年 (平成24年)5月26日(土)より転載】
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人材城40(5/26)
 一九二〇年(大正九年)六月、三笠尋常小学校、同夜学校の校長に就任した牧口常三郎は、同時に住居も、家族と共に学校内にある官舎に移した。

 彼には、名門校の校長になりたいなどという願望は、全くなかった。最も不幸な、大変な生活環境のなかに生きる児童に、教育の光を送ることこそ、教育者の使命であると考えていたからである。 三笠小は、壊れた窓ガラスを厚紙で塞ぎ、風の侵入を防いでいるような、施設の補修も十分にできない恵まれぬ小学校であった。

 しかし、牧口は、満身に情熱をたぎらせ、児童のために心血を注いだ。当時の三笠小は、「十五学級約八百人の児童が三部に分かれて教授を受けている。即ち四年以下が午前と午後とに、五、六年は全部夜間にということになっていて、授業時間は二十一時乃至二十四時である」(注1=2面、以下同じ)とある。

 授業は、なんと午前零時まで行われていたのだ。校長の牧口が、校内にある官舎で暮らしたのは、まさに二十四時間、児童のために尽くそうと覚悟していたからだ。

 また、保護者についても、次のように記述されている。

 「父兄は悉く労働者階級というのだから、教育よりも食うことという念慮が強い。
したがって児童の大部分はそれ相応の労働に従事せねばならない。そして多少の賃銭を得て活計を助けているのである。
こういう状態だから出席歩合なども、平均七五・三五という低率である。
彼等のうち、六ケ年も学校に出すというのはいい部類だ。中には全然之を避けようとする、若しくは避けなければならぬ余儀ない事情の者もある」(注2) 
牧口は、ここでも児童の家を訪ね、子どもを学校に通わせるように、親を説得して回った。児童の将来のために、学ぶことの大切さを力説した。
聞く耳をもたない親たちも、牧口の慈愛に満ちた真剣な訴えに、遂には登校させることを約束するのだ。
真心を込めた情熱の対話こそ、事態を打開する直道である。

※ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1、2・佐藤柏葉著「東京市の小学校を観る(二)」(『北海道教育』大正十年七月所収)=現代表記に改めた。 



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