◇いさざ/今日の俳句◇
◇※第1439号※◇
2013年(平成25年)12月14日(土)
☆彡------☆★☆*------彡☆
■ 12月14日。
○ 四十七士討ち入りの日,忠臣蔵の日。
1702(元禄15)年のこの日、赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げた。
1701(元禄14)年3月、江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央に小刀で切りかかるという事件が起った。
浅野には即日切腹、領地没収という厳しい処置がとられたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となった。
家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、翌年12月14日寅の上刻(現在の暦法では15日午前3時ごろとなるが、
当時は日の出の時間に日附が変わっていたので14日となる)、大石内蔵助の率いる47人が、本所の堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入った。
2時間の戦いの末、浪士側は一人の死者を出さずに吉良の首を取ることができた。
世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方し、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとった。
この事件を題材として、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』等100種にも登る作品が作られ、現在まで語り継がれている。
○ 南極の日。
1911(明治44)年のこの日、ノルウェーの探検家・アムンゼンと4人の隊員が人類で初めて南極点に到達した。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
☆彡------☆★☆*------彡☆
■※今日の俳句※■
時雨きや並びかねたるいさざふね
三上千那
いささ舟比良の初雪孕み来し
松瀬青々
今が旬獲れたるいさざ粒ぞろひ
森田 峠
※ いさざ→いさざ船・いさざ網・いさざ漁。
ハゼ科の淡水魚で、福井県の若狭地方や石川県の穴水町等の河口では、水がぬるむ3月頃になると、産卵のために川を上ってくる小魚「イサザ」の漁が始まる。
イサザは、スズキ目ハゼ科に属する魚で図鑑などに出てくる名前(標準和名)はシロウオ。全長が4cmくらい、腹に斑点があるが全身が透き通ってみえる。生きたイサザを酢醤油などで食べ、その喉ごしを楽しむ「おどり食い」が有名だが、卵とじや揚げ物も美味。
イサザはテント状の網を湖面で上下させる伝統的な「四つ手網漁」や袋網の漁法で水揚げされ、その様子は地元では春の風物詩のひとつとなっている。
イサザが産卵のために上る川は川底のきれいな清流だが、水質の汚濁などで、全国的に良好な生息環境が減ってきていることもあり、北陸のイサザは都市圏の高級料理店でも珍重されている。
【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】
※注「(魚・少)いさざ」の文字は一部の携帯で“文字化け”しますのでやむなく「イサザ・いさざ」と挿入しました。
<和井弘希>
☆彡------☆★☆*------彡☆
※わが友に贈る/名字の言※
【「聖教新聞」2013年(平成25年)12月14日(土)より転載】
※わが友に贈る※
誠実を貫く人は
良き友に恵まれる。
旧交を大切に
新たな出会いを結べ!
友情こそ人生の宝だ。
◇※12月14日※◇
☆彡------☆★☆*------彡☆
◇※名字の言※◇
本年の掉尾を飾る本部幹部会。各地の中継会場に、この一年、自らの使命の舞台で、挑戦を貫いた同志が集った。「広宣流布大誓堂」落成の喜びと相まって、談笑の輪が広がった
▼
SGI研修会で来日し、8日、東京・創価国際友好会館の会場に参加した韓国のある友はその夜、都内の交流座談会へ。初めて参加していた新来の青年に優しく語りかけた。
「幸福の因は外にあるのではなく、あなたの中にあることを知ってください。私はこれからずっと、あなたの幸せを祈っていきます」
▼
人との出会いに何を残すか。とりわけ、相手の命に“幸福の種”を植える仏法対話に際しては、心に届く言葉を残していきたい。
たった一言でも命に植われば、幸福の芽が育つ。異国の青年の未来に思いをはせた、「幸せを祈ります」という誠心誠意の一言は、青年の命に確かな“芽吹き”をもたらすことだろう
▼
池田名誉会長は綴る。「昨日も、今日も、明日も、あの人、この人に、励ましの声をかける。肩を叩き、抱きかかえ、その胸に生命の共鳴音を響かせる。幸福の道を示し、共に歩みを開始する。それが広宣流布だ!」
▼
何かと気ぜわしくなる師走。カレンダーが終わっても、人生は続く。祈り、励ます行動に終わりはない。
(億)
☆彡------☆★☆*------彡☆
◆浩ko・ 編集後記◆
今日も有難う御座います。和井弘希です。皆さまのご健康と無事故をお祈りしております。
【『朝日日本歴史人物事典』の解説】
※ 三上千那 (みかみ・せんな)。
生年:慶安4.4.17(1651.6.5) ・没年:享保8.4.27(1723.5.31)。
江戸前・中期の俳人。名は明式。別号,官山子,千那堂官江,蒲萄坊。近江堅田(滋賀県大津市)の人で,真京本福寺11世住職。
俳諧は大津の江左尚白に学び,貞享2(1685)年は『野ざらし紀行』旅中の松尾芭蕉に入門。以後,近江蕉門の中心人物として,『猿蓑』などで活躍。
しかし芭蕉晩年の風調「かるみ」を理解できず,芭蕉との間に感情的齟齬が生じ,作品の質も落ちていく。
宝永,正徳(1704~16)のころには,親鸞の遺跡巡拝の旅へ赴き,『白馬蹄』『白馬紀行』を著した。<参考文献>尾形仂「三上千那,水田正秀」(明治書院『俳句講座』3巻)
(楠元六男)
、
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます