和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

革心61/小説「新・人間革命」

2015年07月10日 07時54分12秒 | 新・人間革命
【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 7月10日(金)より転載】

【革心61】

 山本伸一は、李先念副主席の話に、思わず身を乗り出していた。
 「大事なご意見です。それで、留学生の数は、何人ぐらいをお考えでしょうか」
 「留学生は数百にとどまらず数千、いや、一万人ほどになるかもしれません」
 「それは、日本だけの数でしょうか」
 「そうです。日本が受け入れてくださるのであれば、送りたいと思っています」
 「大賛成です。尽力させていただきます」
 文化大革命の間、知識人や学生は地方に追いやられ、十分な高等教育がなされなかった。十年余にわたる“文革”の嵐は、ようやく収まりはしたが、「四つの現代化」に取り組むにあたって、深刻な人材不足に直面していた。伸一は、今こそ日本は、中国からの留学生を全面的に支援し、教育交流を実施する大事な時を迎えていると思った。
 ――日中の留学生交流の歴史は遠く、遥か千四百年前にさかのぼる。日本は、遣隋使、遣唐使として大陸に使節を派遣し、国際情勢や文化を学んだ。また、清朝末期から中華民国の時代にあたる、明治の後期から日中戦争の開戦まで、今度は、日本が、中国から多くの留学生を受け入れた。多い時には、一万人近い留学生が来日したという。
 終戦、そして、中華人民共和国の成立を経て、再び日本が正式に中国の留学生を迎えたのは、一九七五年(昭和五十年)のことであった。創価大学が、国交正常化後、初となる六人の留学生を受け入れたのである。 
 もし、李先念副主席の言葉が実現すれば、史上三度目の日中留学生交流の高潮期を迎えることになる。日本への留学は、中国の国家建設に役立つだけではない。青年たちが信頼に結ばれれば、政治や経済が困難な局面を迎えても、時流に流されない友情を育む、万代の友誼の土台となるにちがいない。
 そのためには、留学の制度を整えることはもとより、受け入れる日本人も、また、留学生も、さまざまな違いを超えて、“友”として接していこうとする心をもつことである。                         
      

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