小説「新・人間革命」
【「聖教新聞」 2014年(平成26年)1月14日(火)より転載】
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正義10(1/14)
「仏教の極意たる『妙法』が万民必然の生活法則たることを、科学的に実験証明しよう」――それが、牧口常三郎の企図であった。そして、妙法は、「数万の正証反証(幸不幸)の累積によつて、単なる哲学的なる抽象概念としての真理たるに留まらず、生活の実相に表はれる生活力の限りなき源泉」(注2)であることを実証したのである。
つまり、日蓮大聖人の仏法は、「百発百中の生活法則たることが何れにも何人にも証明し得ることゝなつた」のだ。
「一切は現証には如かず」(御書一二七九頁)である。広宣流布実現への力は、百万言の理論よりも、一つの実証にこそある。
さらに、牧口は、こう述べている。
「失礼ながら僧侶方の大概は御妙判と称して御書やお経文によつて説明はして下さるが、現証によつて証明して下さらないのを遺憾とする。しかも川向ひの火事を視るが如く真理論でやるが、日常生活に親密の関係の価値論でそれをやらないから無上最大の御法も十分に判らう筈がない」
実生活において悩み苦しむ人に徹して関わろうとせず、苦悩を乗り越える道が仏法にあることを、大確信をもって訴えられぬ僧侶への、鋭い指摘といってよい。
また、彼は、仏法の法理の上から、魔が競い起こらぬ宗門の信心の在り方に疑問を投げかけている。本当の信心があれば、魔は怒濤のごとく競い起こるものであるからだ。
「日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問はねばなるまい。そして魔が起らないで、人を指導してゐるのは『悪道に人をつかはす獄卒』でないか。然らば魔が起るか起らないかで信者と行者の区別がわかるではないか」
宗門も含め、日本の仏教各派が宗論を回避し、教えの高低浅深を問うことなく、もたれ合っていた時代のなかで牧口は、宗教の検証に着手し、宗教革命の烽火を上げたのである。それは、宗教が人間の幸・不幸を決するとの強い確信からであった。
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