和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

林檎の花/今日の俳句≪No.1533≫

2014年03月27日 07時13分42秒 | 今日の俳句
     ☆林檎の花/今日の俳句☆  

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2014年(平成26年)3月27日(木)


○ 世界演劇の日(World Theatre Day)
 ユネスコの外郭団体である国際演劇協会(ITI)が制定。
1962年のこの日、ITIがパリで第1回シアター・オブ・ネイションズ(諸国民演劇祭)を開催した。

○ さくらの日
 日本さくらの会が1992(平成4)年に制定。
3×9(さくら)=27の語呂合せと、七十二候のひとつ「桜始開」が重なる時期であることから。
日本の歴史や文化、風土と深くかかわってきた桜を通して、日本の自然や文化について関心を深める日。

【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】

○ 赤彦忌
※ 歌人・島木赤彦の1926(大正15)年の忌日。
 「 明治9年12月17日(1876年)~ 昭和1年3月27日(1926年)
 明治大正時代の歌人。本名久保田俊彦,旧姓塚原。別号に山百合,柿の村人,柿蔭山房主人など。長野県諏訪郡上諏訪村(諏訪市)に塚原浅茅・さいの4男として生まれる。
長野尋常師範学校卒業。早くから文学に親しみ,小学校で教鞭をとるかたわら,新体詩や短歌を投稿するようになる。明治36(1903)年には岩本木外らと『比牟呂』を創刊,37年には伊藤左千夫門に入った。
38年に太田水穂と合著で刊行した詩歌集『山上湖上』には彼の新体詩が収められている。41年『アララギ』が創刊されると『比牟呂』をこれに合併,以来赤彦は左千夫門下の有力歌人として活躍することとなる。
大正2(1913)年,中村憲吉と共著の処女歌集『馬鈴薯の花』を出版,その後島木赤彦という筆名を使う。翌年上京,私立淑徳高女の講師をしながら『アララギ』の編集を担当,短歌に専念した。
第2歌集『切火』(1915)のころには主情的な作品が多い。その後は『アララギ』の発行に全力を注ぎ,同人の実質的な指導者となっていく。そのなかで『アララギ』の写実的歌風は確立された。
教育者であった赤彦の言説には教祖的な説得力があり,そのことが『アララギ』勢力を強化拡大すると同時に,反赤彦的な気分を育てることにもなったのだろう。
「写生道」を唱え,歌作における「鍛錬道」を説いた彼は,『氷魚』(1920),『太虚集』(1924),『柿蔭集』(1926)で質実な写生と寂寥感を詠じている。<著作>『赤彦全集』全10巻
(平石典子)

【「朝日日本歴史人物事典」より転載】



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  ■※今日の俳句※■


  
  朝ぼらけ林檎咲く家へ牛乳買ひに
       松本たかし


  花りんご岩木嶺を雲離れざる
       桜庭梵子



  蜂に蜜我等にむすび林檎咲く
       矢島渚男



※ 【蜂に蜜我等にむすび林檎咲く  矢島渚男】
 林檎の花を見たことがない。正確に言えば、見たはずなのだが記憶にない。敗戦後、林檎がまだ貴重品だったころ、山口県で百姓をはじめた父が、京都の「タキイ種苗」あたりから取り寄せたのだろう。
庭に、林檎の種を何粒か蒔いた。一本だけが小学生の背丈ほどにひょろひょろっと生長し、小さな実を一つだけつけた。だから、当然花は咲いたのであり、私が見なかったはずはない。
秋になって、一つの林檎を家族四人で分けて食べた。ひどく固くて酸っぱかった記憶のほうはある。後年、林檎の研究家にこの話をしたら、当時としては林檎生産の南限記録だろうと言われた。
新聞社に知らせれば、絶対に記事になったはずだとも……。作者は信州の人。この春もまた、可憐な林檎の花盛りを堪能されていることだろう。
(清水哲男)


【「『増殖する俳句歳時記』(検索エンジン」より転載】



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※わが友に贈る/名字の言※
【「聖教新聞」2014年(平成26年)3月27日(木)より転載】



 ■※わが友に贈る※■


 新たな出発の時期。
 転出する友に
 心からのエールを!
 転入する友を
 温かく迎えよう!

     3月27日



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   ■※名字の言※■


(3/27)
この冬、大阪・豊中市立中央公民館で開かれた「西村真琴と魯迅展」を見た。公民館には「三義塚」と刻まれた墓石がある。三義は、植物・生物学者の西村が付けたハトの名前である



1932年、第一次上海事変の直後、西村は医療団を率いて上海に渡った。三義里という街で一羽のハトを見つけ、日本に持ち帰って育てた。“子バトが生まれたら、平和の使者として中国へ送ろう”と楽しみにしていたが、三義は落命してしまう



弔う塚が建てられ、西村は自筆の「三義」の絵と共に一首を詠んで、魯迅に送った。「東西 国こそ異へ 子鳩等は 親善あへり 一つ巣箱に」。感激した魯迅は、漢詩「三義塔に題す」を西村に返した。「荒波を渡れば兄弟がいる。会って笑えば恩讐は消える」



同展を訪れ、講演したのが上海魯迅記念館の王?栄館長。68年、非難を恐れず日中国交正常化を提言した池田名誉会長の勇気に触れつつ、「両国の関係が複雑な今こそ、民間の交流を強化し、一緒に荒波を乗り越えていきましょう」と呼びかけた



人間と人間、心と心との間に架けられた橋は容易には崩れない。橋の下で波が渦巻いていても、その橋がある限り、往来は途切れない。先達に学び、受け継ぐべき友好の魂である。  (芯)


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