和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

奮迅50/小説「新 ・人間革命」

2013年07月02日 08時19分50秒 | 今日の俳句
    小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2013年 (平成25年)7月2日(火)より転載】


奮迅50(7/2)
山本伸一による川越地区の第一回講義では「佐渡御書」や「聖人御難事」など、御書四編を研鑽した。

 「佐渡御書」の「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」(御書九五六頁)のところでは、こう訴えた。

 「取るに足らない世間のことで大事な命を失う人は多いが、仏法のために、命を捨てようという人はいない。
したがって仏になる人もいないのである――と仰せになっているんです。
つまり、尊い命をなんのために使うのかが大切であり、大聖人は、“仏法のため、広宣流布のために、その命を使いなさい、捧げなさい”と言われている。

 仏法のために命を捧げるといっても、単に、死を意味しているわけではありません。

 わが人生の目的は広宣流布にあると決め、生涯、仏法のために働き、生き抜いていくことが、仏法に命を捧げることになるんです。
それによって自身の境涯革命、人間革命、一生成仏がなされ、最高に充実した、歓喜に満ちた、幸福な人生を生きることができるんです。

 したがって、法華経に『不自惜身命』とありますが、その境地は、決して悲壮感に満ちたものではありません。

 それは、いかなる困難も恐れず、勇気と挑戦の息吹にあふれ、生きていること自体が、楽しくて楽しくてしょうがないという境涯です。
エゴイズムに支配された“小我”ともいうべき自己の殻を破り、仏法という大法に則った“大我”の自分へと蘇生し、最高の自分というものを確立していく大道なんです。

 世間でも『死を先んずる者は必ず生ず』と言われるように、死を覚悟した人は強い。
同様に、広宣流布に一身を捧げようと心を定めるなかにこそ、自分を生かし、本当の自己の輝きを放っていく方途があるんです。

 もともと、私たちは、広宣流布の使命を果たすために生まれてきた地涌の菩薩です。
ゆえに、勇んで弘教に邁進していくなかで、私たちの本領を発揮することができるんです」



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