和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

共 戦(四十三)新・人間革命

2012年01月06日 12時00分38秒 | 今日の俳句
  新・人間革命

【「聖教新聞」平成24年1月5日(木)より転載】
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共戦43(1/5)
 五月二十日午後、晴天のもと、山口文化会館では開館記念勤行会が行われた。
 勤行会で山本伸一は、二十年前の山口開拓指導に触れながら、懇談的に話を進めた。
 「山口開拓指導は、戸田先生から、直接、指示を受け、私が指揮を執った戦いでした。
 当時、山口県の広宣流布は、他地域と比べて、著しく遅れていた。戸田先生は、昭和三十一年(一九五六年)の九月初め、私を呼ばれ、広宣流布の飛躍の転機をつくるために、『山口県で指導・折伏の旋風を起こしてみないか』と言われました。
 私は、即座に、お答えしました。
 『はい! やらせていただきます』
 その師弟の呼吸から、あの大闘争は始まったんです」
 伸一は、山口県に縁故者がいる全国の各支部員に、開拓指導への参加を呼びかけた。共戦42(1/4)
 山本 当時の会員には、生活の苦しい人も少なくなかったが、陸続と、勇んで名乗りをあげてくれた。
 派遣隊は、まさに、民衆によって組織された“広布の奇兵隊”であった。
 「室長と一緒に戦いまっせ! どこへでも飛んで行きまっせ!」と、意気軒昂の関西の友もいた。
 皆が、広宣流布に生きることを、最高の誉れとしていた。そこに、人生の至高の価値があることを、熟知していたのである。
 戸田城聖と伸一の師弟の魂の結合、さらに、伸一を中心とした同志の結合――それが、あの山口開拓指導の大勝利を打ち立てたのだ。
 伸一は、懐かしそうに、当時を回顧しながら、語っていった。
 「山口は私にとって、大切な広布開拓の故郷です。二十年前、拠点となる会館は一つもなく、各地に点在する会員も、皆、貧しかった。しかし、今や、こうして、立派な文化会館も誕生し、山口創価学会は、盤石な布陣が整いました。二十年前に、皆さんと共に蒔いた種子は、山口の各地で花開き、そして今、見事に実を結んだんです」


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