会社の有る駅で下車、改札を出て何時もの通勤道に向かおうと
駅中を歩いているとふっと杖を突いて駅の改札口を入ろうと
しているご老人が目に留まった。
まさしく車椅子生活になる前の母の姿を思い出す光景に。
ご老人の行き先は私の想像の域を超えないものでしょうが
病院に行かれるのではと思った。
電車で一駅行けば大学病院など多数の大きな病院が
ある地域なのでそう感じたが
ご老人をヘルプする人なく一人で足を一歩一歩地に付けて
ゆっくりと歩いているお姿が母の姿と同じであった。
母も付き添う者もいなくて何時も一人で大学病院に
通院していた事を思い出し胸が熱くなった。
母が大腸がんで入院した時は父も自宅でベットに
横たわる日々だったので姉と交替で新横浜~新大阪と私の
遠距離介護の日々の続く始まりだった。
母が退院してまもなくして突然姉は倒れそのまま
両親のことを案じながら54歳の若さで
私に一言の言葉も残さずに逝った。
その様な突然の哀しみを現実として受け止めるには
みな時間が掛かった。
病を克服した矢先の最愛の娘の死に直面して両親の
哀しみは想像を絶する事だったでしょう
私は元気でリーダーで両親をしっかりとヘルプしていてくれた
姉の存在の大きさに亡くして初めて思い知らされた。
仕事を持ちながらの毎月の関西への遠距離介護は
私には大きな負担となっていた。
でも最期まで自分は病を持ちながら両親の介護をして
くれた姉に対しても心を残して息絶えた姉を思うと
弱音は吐けなかった。叱咤激励しつつ~
でも私が母の元にいる時間には限りがあり一週間余りの期間しか
無理であった。仕事を持つ身を嘆いた
私のいけない間の母の通院はきっと今朝見かけたご老人の
様に不自由な足で杖を突きつつ足の痛みをこらえて
病院に通っていたんだと思うと今更ながら無性に仕事を辞めてでも
寂しく不安な生活を送らせることはなかったのでは
後悔の念と申し訳なかったと心から思った。
最期には介護も難しい状況になり施設に入所して
認知症と診断され子供のようになって可愛いかった母
遠距離介護で疲れた私は母に優しい言葉も掛けて
やる余裕さえ無くしイライラして怒ってばかりいた。
お母さん今ならもっと優しく出来たのに
「ごめんね」「有難う」も素直に云えなかった私。
親孝行したいのに気がつくのが遅かったね。
お母さんと同じ人を見て改めて一人で頑張った事を思うと悲しい
今になって改めて知る母の愛
最期は子供のようになり何もお話が出来なかったね。
もっと早くに母の心にきずいていたら母とゆっくりと
語り合えたのにね。
心行くまで甘えられたのにね。
今年は新盆だった。
今朝見かけたご老人のこれから先の残された人生が
穏やかで安らぎの有る日々で合っていただきたいと心から願い
改札口を入られエレベーターを乗られる後姿を
見送った。