千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

明治三十八年追山馴し

投稿の題名見てピンとくる人は相当、山笠通ですね。
今回は「博多の明治記」からの歴史ばちょこっと紹介しますね。
「山笠を狂わせた雷鳴」編

今でちゃそうやばってん山笠の時期は梅雨の末期で大雨が降りやすい時期。
突然の豪雨やらも珍しゅうありまっせん。おいしゃんの当番の時も
十三日はスタート前から大雨で山見せのあとの櫛田入の稽古の境内は
雨で川のごとなっとりましたもんね。

昔もおんなじで、明治三十八年の追山馴しも午前中から曇りで
午後三時ころからは益々暗くなり今にも土砂降りになるか?てな天気
一番山が定刻の三時五十九分に櫛田入
次に控える二番山、今か今かと後押しも力が入り太鼓の音ば待つばかり・・

気負いこんで待ち構えた途端

ド~ン

山は怒涛の如く舁出したばってんが
太鼓は太鼓でも「雷様の太鼓」やったとです。
山留係の勘違いで「留め竿」ばあげたとがいかんかった
気が付けば定刻の一分前やった

青ざめた山留係は逃げ出して姿は不明。

気負いこんだ三番山も勝手に二番山ば追いかけて舁出したとです。
三番が万行寺ば曲がったとば見計ろうて四番も舁きだし
もう後続の山も時間も間隔も太鼓も関係なし
五番も六番もそれに続きます。
※当時は山笠建てるとは六流で前年の一番山は能当番ば務めよりました。

そげんなったら山に出よるもんはわかりまっしょ?
そう承天寺までは入り軒で引き返してくるけん後山はガチ会いますもんね
一番山が承天寺から出てくるまで五本の山が数珠つなぎで壮観な図やったげな。

この後西町の坂で三番山恵比須流の顔役、喧嘩壮兵衛と言われる蓮池荘兵衛が
一番山の前に立ちはだかって阻止しました。
喧嘩っぱやい連中やけん話し合いもくそも無うて
つかみ合いの乱闘騒ぎ。

氏子総代の太田太兵衛さんらが間に入って双方ば収め、やっとやっとのことで
話し合いば進めた結果、三番山の提唱で「二番は各流に謝罪すべし」
ていうことになったばってんが二番は

「なんがもんかい一番には申し訳無う謝罪はするばってん」

「三番以下は勝手に定刻無視しとっちゃろうもん謝るもんかい!」

翌十三日の夕刻には二番山は自分たちで勝手に奉納山ば解き崩したげなです。
そして「もうこれからさき山は作らん!」て宣言して嘯いた・・・と。
それでも「氏神様には相すまぬ」て言う反省もあって
当初は流町内に「作り物」ば飾って奉納の意味ば表したらしい。

ばってんこれも二、三年でやめ大正二年になって「能当番」だけば
昭和四十年頃まで引き受けました。

それが「幻の福神流(魚町流)」です。
そいけん松囃子は今でも福神流は当番で毎年参加しとります。
旧町、西門町、中小路町、上魚町、中魚町、下魚町、上店屋町、下店屋町、古小路町が
福神流の構成です。

風神雷神はじめ荒ぶる神ば表象するお櫛田さん、
福の神様とは相性の悪かとかも知れまっせんね・・・・・

ちなみにこの年の大黒流は
五番、標題「金鵄の弓」 当番上洲崎町やったです。

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