千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

江戸時代でも福岡で山舁

博多風土記、明治記からもうちょっとさかのぼってみてみます。

江戸時代も博多にゃぁ流行り病、特に疱瘡(天然痘)が多かったげな。
長崎に近い・・て書いちゃあばってんやっぱそげな病気は
外国から入って来よったとでっしょうね。

疱瘡退散のために山ば舁回ったて言う記録が「博多津要録」の
宝暦九年(1759年)6月15日の頁にあります。

6本の山が櫛田入りした後に少し小ぶりの山が三本舁入れた。
鰯町下、対馬小路と対馬小路下はもやい(共同)で、それに浜口町浜

三本は津中ば舁回ったてあります。

流とは別に町で勝手に山作ったっちゃね。

これば奉行所が見て「届け出もせんで」て年行司が呼びつけられて
こっぴどく怒られたらしい。

なんか昔はおおらかやね、ルール以外の山のことが良う出てきます。
明治時代は金の無かけん山台だけで舁回ったていう記録もありますもんね。

また享保二年(1717年)武士の町福岡部でも山舁いたらしい。
やっぱり流行り病ば鎮めるためやったらしいばってんが
山の舁かたのわからんけん、博多のもんば雇うて舁回ったてあります。

これみて奉行所は博多の町人ば雇うことば禁止したげな。
そん時の記録には「諸士子供が疱瘡立願」とあるけん
福岡藩士が関係しとったぅちゃろうて言うことです。
武士が町人の助けば受けるとはままならんて言うことでっしょうね。

今年も愈々明日から山の始まります。

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