カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

さじ状爪のニーたん

2014-06-22 19:06:13 | 本日の患者さん
20年前に胃の全的手術を受けたニーたん。
職場のストレスが原因で胃潰瘍になったとおっしゃる。

ダンピング症候群などを克服して、食事にも気をつけ、ジョギングを日課として、80歳、まずまずの健康状態を保っておられる。

ただ最近、手指の何本かの爪の様子がおかしい。
ピンクであるはずの爪の色が灰黒色に、膨らんでいるはずの爪がスプーン状にえぐれている。
徐々に進行しているとおっしゃる。
胃摘出手術を受けた者の後遺症の一つらしい。

心配性のニーたん、(だからこそ胃潰瘍になってしまったのだが)当然、それらの知識はある。

ビタミンB12の不足には人一倍気を使っていたいたのだが、、、。
なかなかに生き物の体は、一度こじれるとその扱いが難しい、、、。


胃を取ると、時間をかけて腸がその働きを代行してくれる、と単純に思い込んでいた徳さん。
生半可な知識は事実を歪める、という一例ですな、、、。


なんでも、胃酸には血液の成分である鉄を吸収するのを手助けする能力が備わっているという。
その働きを援助するのが、ビタミンB12。
胃にはビタミンB12を吸収する能力が備わっていたということだ。
という事らしい。



本日のおまけ

『差別と日本人』と言う本を読んで、今まで知らなかったある事件の存在を知った。
関東大震災時の、虐殺の一例だ。
共同体に危機意識が襲うと、日常ただの人々がこんな狂気に陥る。
『福田村事件』という。
以下、ネットから。



『福田村事件』恩讐超え、真相究明へ

 関東大震災の直後、デマが飛び交う首都周辺で、六千人を超える朝鮮人とともに、六十人近い日本人が虐殺された。その中に、県人が含まれていたことは、あまり知られていない。売薬行商で千葉を訪れていた女性や幼児を含む九十人が、自警団という名の普通の人々になぶられ、利根川に沈められた。現場の地名を取って「福田村事件」という。彼らは、なぜ死ななければならなかったのか。七十七年という時を経て、ようやく事の真相をただそうという組織が、千葉、香川両県で立ち上がった。今回は、差別が生んだ悲劇と言われる同事件の過去と今を追う。
「今生きる者の役目」香川の動きに千葉呼応

心に刻む会
 その場所はありふれた閑静な田園地帯だった。七月二日午前八時半。生い茂るケヤキの並木からセミの鳴き声が聞こえていた。
 解放同盟千葉県連合会や同県人権啓発センターが中心となった「福田村事件を心に刻む会」の設立総会が野田市の福田公民館で開かれるのに合わせ、香川から参加した県人権研究所の喜岡淳事務局長に同行、事件の現場を歩いた。

 ●現場へ
 あの日早朝、一行は約十二キロ先の福田村にある三ツ堀の渡しを目指して宿を出た。重い荷物を積んだ大八車を引いての移動。四時間程度はかかったと推定できる。一行はやっとの思いで渡し場近くの香取神社に到着し、休憩を取った。そして悲劇は起こった―。
 渦中の神社は当時と同じ場所にひっそりとたたずんでいた。入り口には数人が腰掛けて休んだ鳥居。コケむした姿が歳月の流れを伝えていた。生い茂る木立は涼しげな木陰をつくる。あの日と同じように。
 神社前の細い道を下るとほどなく利根川の河原に出た。襲われた一行が無我夢中で走って逃げた道だ。殺害現場となった渡し場は今はなく、河原は一面のゴルフ場。水神さんを祭った小さなほこらが、かつて渡し場だったことを静かに語りかける。どこにでもある河川敷の風景だった。

 ●温度差
 「正直言って、千葉と香川とではかなりの温度差があります」。一行が泊まっていた中野台の宿場跡を案内してくれた千葉県人権啓発センターの市川正広副理事長は、移動中の車内で率直な心情を吐露した。
 加害者側の苦しい立場は想像に難くない。「時代背景と異様な群衆心理」という逃げ道があるとはいえ、殺人犯を出したという過去は触れられたくない汚点。「望んで寝た子を起こす人はいないでしょう」。市川さんが地元の難しい空気を代弁する。
 「でも、被害者と加害者という立場の違いだけではないですよ」。解放同盟千葉県連合会の鎌田行平事務局長によると、千葉には被差別は少なく、行政の動きも鈍い。「人権問題が社会問題として認知されていない」という。
 「刻む会」の設立総会にあたり、事務局は事前に地元のマスコミに案内を出した。しかし当日、取材に訪れる社はなかった。

 ●元村長
 設立総会は順調に進み、七月下旬に香川を訪問することなどが決まった。意見交換に移ると、最前列に座っていた老人の手が静かに挙がった。新村勝雄さん。昭和二十二年から三十二年の合併まで福田村村長を務め、後に野田市長。事件当時は五歳の子供だった。
 「個人としてですが、被害に遭われた香川の方々に心からおわび申し上げます。事件の真相究明は今を生きる私たちの役目。地元の一人として最大限の努力をしたい」。声を震わせながら語った新村さん。ひと際大きな拍手が会場を包んだ。
 しかし、気になる言葉があった。「個人として」。地元の空気を如実に伝える一言。「本来なら地元がこぞっておわびすべきだが、そうなっていない」。新村さんはそう付け加えた。

 ●一里塚
 「加害者の糾弾が目的ではない」。香川側の代表として登壇した喜岡さんはこの一点を強調した。「たまたま福田村で発生したが、差別や偏見が蓄積されればどこで起きても不思議ではない。真相究明への取り組みを通じ、千葉と香川が互いに人権先進地を競うぐらいになればいい」。
 「悔しい死に方をしたご先祖様が、千葉と香川をつなぐいい縁を与えてくれたと考えたい」。千葉側からは鎌田さんが訴えた。「痛みを伴う作業にはなるが、今回の取り組みをきっかけに千葉から差別をなくす運動の輪を広げよう」。
 「言葉が違う」と鳴らされた半鐘。「違う目」で見られる理不尽との闘い。「差別が今なお続いている現実をどう受け止め、私たちは何をすべきなのか。真剣に考えていきたい」。設立総会の最後、刻む会の代表に就く吉川アイさんの叫びが会場に染み渡った。



差別が生んだ悲劇 妊婦や幼児ら9人虐殺

一行が休憩を取った香取神社。数人が腰を下ろした鳥居は当時の面影を伝える「生き証人」だ=千葉県野田市三ツ堀
一行が休憩を取った香取神社。数人が腰を下ろした鳥居は当時の面影を伝える「生き証人」だ=千葉県野田市三ツ堀
概要と経緯
 惨劇は、大正十二年九月六日に起きた。関東大震災から六日目。一帯には戒厳令がしかれ、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などという流言が飛び交っていた。  舞台は、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)。香川からの売薬行商の一団が地元民に襲われ、女性、子供を含む五家族十五人のうち九人が惨殺された。今なら香川側でも大騒ぎになる事件だが、歴史のやみに沈む。「福田村事件」だ。

 ●方言が発端
 事件を掘り起こした元高校教諭石井雍大さんらの研究成果を基に、悲劇を再現すると―。  残暑が厳しい日だった。荷車に薬や日用品を積み、幼児を乗せた一行が、福田村三ツ堀の利根川の渡し場に近い香取神社に着いたのは、午前十時ごろ。
 大人たちは、既に玉の汗をかいていた。渡し場まで後二百メートル。団長が渡し賃の交渉を終えるまで、団員は休憩を取る。足の不自由な夫婦と一歳の乳児ら六人は、鳥居の元に腰を下ろし、ほかの九人は十五メートルほど離れた雑貨屋の前にいた。
 この十五メートルの差が生死を分ける。渡し賃の交渉過程で異変が起きた。「言葉が変」「朝鮮人じゃないか」。半鐘が鳴る。生存者の証言によると、駐在所の巡査を先頭に、自警団が「ウンカのごとく」集まったという。
 「どこから来た」。一行は抗弁する。「四国から」「日本人じゃ」。言い訳するほど「聞き慣れぬ言葉」に不審が募る。巡査が本署の指示を仰ぎに場を離れたのが悲劇の始まりだった。
 鳥居組は「逃げ隠れしない。十分に調べて」という態度だったが、雑貨屋組は抵抗の姿勢を示したのだろう。「やっちまえ」の怒号とともに惨劇の幕が開く。

 ●死者10人説も
 事件は凄惨(せいさん)を極めた。自警団のとび口が団長の頭に飛び、川に逃れ赤子を抱き上げて命ごいをする母親を竹やりが襲う。泳いで逃げる者は、船で追われ、日本刀で切られた。発砲もあったという。
 殺されたのは、二十歳代の夫婦二組と二歳から六歳までの子供三人、そして二十四歳と十八歳の青年の計九人。母親の一人は妊婦。「死者は十人」とする研究者もいる。近辺で続発した虐殺の中でも、最も悲惨な事件となった。
 鳥居の側にいた六人にも危険が迫った。全員、針金などで縛られ、川べりに連行される。投げ込まれる寸前、馬で駆け付けた野田署の警官に保護された。土壇場の救出劇だった。

 ●村ぐるみ
 現場は福田村だったが、襲ったのは同村と隣の田中村(現柏市)の自警団だった。「田中村の者が扇動した」との証言もあり、石井さんは「正確には福田・田中村事件だ」という。
 無論、襲った側も無傷では済まない。八人が殺人罪で逮捕され、三年から十年の懲役刑となる。が、大正天皇の崩御、昭和天皇の即位に伴う恩赦で、全員、間もなく釈放される。
 背景には、彼らを保護する時代の空気があった。取り調べの検事は「彼らに悪意はない。ごく軽い刑を求めたい」と新聞に語り、村は弁護料を村費で負担。村民は義援金を集めたり、農作業を手伝うなどして留守家族を助けた。
 犯人は村の「代表」の扱いだった。事実、中心人物の一人は、出所後、村長になり、合併後は市議も務めたという。
 こうした千葉側の雰囲気は、事件をタブー視する空気を醸し、香川側の地元村や県も、なぜか「事件はなかった」かのように扱う。こうして九人の死は、近親者の胸の中にしまわれた。

 ●差別の視点
 「差別の本質を明らかにする事件だ」。研究者の努力で浮かび上がった事件の輪郭に敏感に反応した団体がある。解放同盟県連三豊ブロック連絡協議会(中嶋忠勇議長)と県人権研究所だ。
 行商の一行は、全員が三豊郡内の被差別の出身者だった。「誤認殺人かどうかは別にして、怪しければ排除していいという考えがあったのでは」「県や村がなかったことのように扱ったのは、差別ではなかったか」という疑念が生じたからだ。
 両団体は現地視察を重ねて知見を集める一方、行政にも呼び掛けて三月、真相を究明する調査会を発足させた。この二日、千葉側が設立した「心に刻む会」は、これに呼応する組織。
 事件発生から七十七年目にして、ようやく被害者、加害者双方が心を通わせるテーブルができた。これからは、双方が共同してどこまで真実を発掘できるか。そして、遺骨も墓もないという被害者の慰霊をどう実現するかが、焦点となる。



インタビュー 県歴史教育者協議会会長・石井雍大さん


いしい・ようだい 昭和32年から36年間、高校で教べんをとる傍ら、県内戦後史の発掘に努めた。平成5年、坂出高を最後に勇退。近現代史専攻。著書に「香川の戦後史発掘」など。坂出市在住、66歳。
目に見える慰霊急げ

 ―調査の動機は。
 石井 千葉の友人から、「野田市で間違って殺された日本人の中に香川の人がいたらしい。調べてくれないか」との依頼があったのが、きっかけ。

 ―事実関係はすぐ分かったのか。
 石井 いや、なかなか分からなかった。

 ―手掛かりは。
 石井 被害者のリーダーの氏名が分かった。心当たりのある姓だった。訪ねると、位はいがあり、その裏側に「大正十二年、千葉県ニ於テ震災ニ遭遇シ三堀渡場ニテ惨死ス」とあった。遺族の聞き取りなどから生存者も分かった。

 ―生存者がいたのか。
 石井 いた。が、関係者は高齢。調査はリミットだった。聞き取りができたのは、事件当時二十二歳だったFさんと十四歳だったOさん。Fさんは、手記をしたためていた。B4ほどの和紙四枚に。

 ―それは大きい。
 石井 真相解明の力になった。手記の内容とOさんの証言が一致したし。

 ―手記はなぜ。
 石井 千葉地裁で始まった裁判の裏取り。事件の一カ月ほど後、丸亀区裁検事局に呼ばれ、調書を取られた。そのメモだ。

 ―事件は再現できたか。
 石井 歴史は事実の積み重ね。書類や裁判記録など一切ない中で、生存者の追跡と当時の新聞、一般的な朝鮮人虐殺関係の資料で歴史を構築した。ノンフィクション程度にはなった。

 ―結果について。
 石井 事件の大きさにがく然とした。

 ―地元に伝わらなかったのは被害者側も語りたがらなかったからではないか。
 石井 私の聞き取りからは、そういう印象は受けなかった。

 ―被害を言い募るのが普通だが。
 石井 みぞうの天災に、朝鮮人騒動。それに巻き込まれた。「しようがない」と思っていたようだ。

 ―被害者の証言か。
 石井 ひどい話だが、間違われたのはしようがないと。当時の人権意識には、限界があった。

 ―九人も殺害された。大ニュースだ。関東周辺では報道されたのに、香川には伝わらなかった。被害者が被差別出身だったことと関係はないか。
 石井 それは、後で分かったこと。事件当時、千葉側にその認識はなかった。

 ―震災後の全国の被害調査で、県は事件はなかったかのように扱っている。差別が見えないか。
 石井 地元の村長は、地区の人が行商に行っていることを知っていた。県から報告を求められた際、調べる必要はあった。

 ―差別で事件が起きたのではないが、その後の処理は問題だと。
 石井 彼らが行商せざるを得なかったところに既に差別があり、事件後、報告なり慰霊なり、アクションを起こさなければならないのに、していない。

 ―事件への一定の認知ができ、双方でなんとかしようという所にはきた。
 石井 これは大きい。解放同盟の中嶋さんらがこの話を聞き「放っておけん」と立ち上がったことは、評価している。

 ―事件が社会的に認識されることの意味は。
 石井 差別に別の要素が絡まると、殺人にまで至る恐怖。もう一つは、国家がデマを流し、虐殺までさせてしまう怖さ。先日も石原東京都知事の三国人発言があり、今日的問題だ。

 ―今後の運動について。
 石井 まず、福田・田中村の人が謝罪しなければ。彼らはデマに踊らされた被害者でもあるが、手を下した責任は重い。目に見える形で慰霊をしてほしい。さらに、みんながこの事実を知ることも大事だ。

 ―記録を残す必要が。
 石井 記録を残して、学習する。特に、若い人たちに、教育の場でこの事件を教えることが必要だ。それで初めて恩讐(おんしゅう)を超えて理解し合えると思う。

◇黒島一樹、山下淳二が担当しました。

(2000年7月10日四国新聞掲載)




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