高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

無学年無学級制のいじめ

2010-08-27 22:26:09 | Voice
無学年無学級制の売りは、いじめがない、というより、いじめが発生しにくい仕組み、構造である、ということになっています。特定の人と一緒の生活をすることがない、そういうストレスからは解放されている、ということになっています。

で、しかし、実際はどうなのでしょうか?私が関係した生徒さんたちは、静岡中央高校と三島長陵高校です。もちろん、教職員の方でもけっこうです。実情を報告していただけるとありがたいです。書き込みをおねがいします。そして、議論ができたらよいと思います。

【参考】無学年無学級制の可能性 3 対人関係のストレスの縮減 


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4 コメント

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どうも (∞∞)
2010-09-05 02:39:46
先生のクイズ大会で司会をやらせて頂いた女です。


先生が言う通り、無学年無学級制の場合「いじめが発生しにくい」です。
でもやはり言葉の通り「いじめが発生しにくい」だけなのです。

私はまだ、学校の一年次の時に同じグループ内でいじめられている人を見ました。
いじめてる人も典型的なジコチュー女というか、誰が見ても「あーコイツ、嫌いだ」と思われるようなタイプ。
そしていじめられている側も典型的ないじめられるタイプ。

何が言いたいかと言いますと…



‘無学年無学級だとしても、自然とグループ(普通学校のクラスの小さい版のようなもの)が出来てしまう‘のです。



自分も一人でご飯を食べたり、映画を見に行くことはありますが
やはり一人よりも二人の方が楽しい時もあります(特定の数名だけですが)

しかし学校内ですと、吟味された相手だけとしか付き合わない!一人弁当しか自分は許さない!というわけにもいかないのです。
もし吟味された相手とご飯を食べていたところに、大嫌いな人が来て「一緒に食べてもいい?」と言われたら
否定は出来ません。
否定が出来ないというのは、吟味された相手の前で格好つけたいというのもあるし、もし同じクラスの人だったら余計断ることは出来ない。
それによって、1、2人しか居なかったところに一人二人と来て、10人ぐらいになってしまったりする。


話は戻り…

自分の居るグループは比較的、オトナ思考の方々が多かったのでいじめられている子のいじめ対策を練ったり、
いじめっ子の過剰な言動について考えたり、またそれの回避法、と色々やっていました。

しかし現実はこう、うまくいくことはあまりないと思うのです。
もしいじめっ子の周りもコドモだった場合、自分を守るためにいじめの助長をし始めるでしょう。
コドモ思考の方々は、それしか自分を守る方法が見つからないのかもしれません。



まあ、なんと言っても最大の原因というのは「グループを作る」ことであって
「お前となんていねーよ!○ね!」と言える人であれば、いじめを受けることも、人と合わせる必要もありません。
しかし人間としてはかなり偏った人物になってしまうと思います…
「三月記」という本の李徴という人になってしまいそうだ。

(参考ページ ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html)

上記の「お前となんて…」を言えたら、私も真の「お一人様に」なれるのかもしれませんが、そんな勇気はありません。




とにかく嫌な相手とも一緒に居るのはスクールライフ(笑)を円滑に進めるための義務であり、
大袈裟に言うと学校内で生き残るための手段なのです。






いじめが授業内で起こらないとしても、よくいる異常にお元気な方々は片っ端から敵意を剥き出しで、少しでも、一瞬でも気に食わない
、からかいがいがありそうな人…それは見た目であったり、言葉の使い方だったり、自分たちよりも目立つ者達で…


もーとにかく、ヒマを潰せる相手がいればなんだっていいのです!


いじめも一種のヒマ潰しに近いのではないでしょうかね。
あとは自慢の種?

いじめることが出来ないと、他のところで主張をし始める粘着質な輩はたくさん居るので
いじめが少なくなったとしても、にぎやかしな行為を始める人が増えそうな気がします。



段々、異常にお元気な方々の悪口になってしまいそうなのでやめときます。
色々と支離滅裂なところもあるかもしれませんが、なんとなーく察して下さい。


ではでは。
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さまざまな論点があるねえ! (Kimura Masaji)
2010-09-05 12:40:22
■∞∞さん、コメントありがとうございます。
なんか、もう、自己紹介だけで、だれだかわかってしまって(笑)、特定できちゃうので、なるべく多くの人に開かれたレスにしたいと思います。■こういうことをやっていて思うのですけど、こういうやりとりも、努力しないと、閉じきりになっちゃって、ほかの人が入ってこれないようになっちゃうんです。どうか、北海道のあなた(笑)、沖縄のあなた(笑)、いえいえ韓国のあなた(笑)、コメントを書きたいと思われたら、遠慮せず、直に入ってきてください。■さて、ときどき、
「ブログみてますよ、全然更新しないんですね」
っていわれるんですけど、なかなか学校がはじまるとむずかしいのです。ですが、すこしづつ、アップしていこうと思っています。そのときに、やっぱり、月並みですけど、ぜひ、多くの人にコメントをいただきたいと思っています。■さて、∞∞さんのコメントは大変多くの論点があって、少し僕のほうで、感じたこと、気付いたことを小分けのコメントとして分けて書きます。
返信する
無学年無学級制のいじめのおこりにくさについて (Kimura Masaji)
2010-09-05 21:30:21
>先生が言う通り、無学年無学級制の場合「いじめが発生しにくい」です。
でもやはり言葉の通り「いじめが発生しにくい」だけなのです。

すごく、このフレーズがショッキングなんですね。ちょっと、うかがいたいのは、例の必履修ってあるじゃないですか。つまり、とらなければならない、っていう、∞∞さんは、もう、ほとんど必履修がないですよねえ。選択がおおくなりますよね。それって、とても、人間関係を拘束しないのではないか、と僕はみているんです。もちろん、昼の食事とかの人間関係の問題は、これとは関係ないと思います。で、しかし、授業が始まってしまえば、けっこう、人間関係で、いやでもいっしょというのは、少ないように見えるんですけど、そういうことはいえるのかなあ。■長陵高校は、部というコースを強調しています。でも、3年で卒業しようと思えば、部というコースの制約をははずさないと単位が74単位という卒業条件に達しませんね。すると、いつも、同じクラスということは起こりにくくなる。それって、お書きになられた「いじめが発生しにくいだけ」なんでしょうかねえ。私は学年制クラス一斉授業の集団主義に比べたらとても集団の同調圧力――いっしょにやろうね、という圧力――は緩和されると思っているんですけどね、どうでしょうね。
返信する
同調圧力と排除の同時性 (Kimura Masaji)
2010-09-06 00:19:56
∞∞さんのコメントでもう一点考えさせられたことがあります。それは、

>学校内ですと、吟味された相手だけとしか付き合わない!一人弁当しか自分は許さない!というわけにもいかないのです。
もし吟味された相手とご飯を食べていたところに、大嫌いな人が来て「一緒に食べてもいい?」と言われたら
否定は出来ません。
否定が出来ないというのは、吟味された相手の前で格好つけたいというのもあるし、もし同じクラスの人だったら余計断ることは出来ない。
それによって、1、2人しか居なかったところに一人二人と来て、10人ぐらいになってしまったりする。

というところですね。
∞∞さんのいうとおり、「グループを作る」ことがいじめのすべての原因です。根源といっていいんです。■ところで、上のあなたの文章では、大嫌いな人が「入れて」ってきたときに、「否定できない」というように書かれていますが、「いいでしょ?」という同調圧力が加わってくるときの微妙な対応が問題として書かれています。■というのも、同調圧力には、同時に、排除の力が発生しているからなんです。同調圧力には応じないと、その裏側の排除が牙をむくようになっているのです。だから、応じなければいけないんです。同調圧力って、いやだっていえないんです。つまり、否定したら、排除されるんです。■だから、同調圧力のゲームって、ある意味、排除する人を探している、排除される人間かそうでないか、を点検するゲームだって考えていいんだと思うのです。そして、現に、排除される人間が出現する。絶対にいるんです。というか、いると思っているから、そして、それが自分であるかどうか分からないから、いやいやいっしょに同じことをするんですよ。■その線はいったい、どこでどうやってひかれるのか?だれが引くのか?その線が見えた時、そして、その線の安全地帯にあなたが入っていると思った時、その線の外へとはじき出された人を、たぶん、あなたの意志のいかんにかかわらず、排除することになる、これがいじめゲームのルールなんじゃないか、と思うのです。■最初にもどると、すると、「入れて」って嫌われている人が入ろうとしてきたとき、そして、「ためらう人」がいたとき、ためらった人は、排除しているのか、排除されているのか、どっちなのか、ってことなんですね。あれっ??何を言おうとするかわかるかしらん?
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