![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/83/533211e9745f2e83e5fa7665597036ca.jpg)
史上最強のボクサー
アイアン・マイク・タイソンは、僕が知る限り世界ヘビー級最強のボクサーでした。空前絶後ってことばがあるんですけど、タイソンはまさに
空前にして絶後
でした。そのスピード、そして、その破壊力、あの小柄な肢体からどうしてあのような強烈なパンチが飛び出てくるのか?
ショー小泉さんの言葉を借りれば、タイソンは、
42.195キロのマラソンを100メートルのダッシュで飛び出す
かのような無謀とも思えるような集中力をまさに第1ラウンドから見せるのです。タイソンのボクシングに
様子見
などという文字は存在しないのです。ちょっと目を離していると相手はダウンしているのです。
「えっ?いまパンチは当たったわけ?」
まるでグローブを噛むようにして、顔をガードしながらスウェイして前進していくタイソン、ジリジリと相手は追いつめられ、あっという間にパンチが炸裂してダウンしていくのです。
鳥肌が立つ
ということばを僕はこのとき身をもって味わいました。
タイソンの不道徳
そのタイソンは、何度も監獄へ入っています。レイプ、暴力、あの油の乗り切った時代を、彼は長らく監獄暮らしをしました。私は、wowowの画面からタイソンが消えたことを大変残念に思いました。いえ、何よりアメリカをはじめとした全世界のタイソンファン、アンチタイソンのボクシングファンが実は残念がったことだと思います。それを証明するように、ファイティングマネーが破格でしたが、それだけタイソンに注がれる目は熱かったのです。
そのタイソンが今も書いたように何度となく、警察沙汰を起こし、そのたびに服役し、出所してはリングに立つということを繰り返したのですが、今度の朝青龍とタイソンを比べたときに、
「横綱の品格」
という言葉がもつ、もやもやしたものが何とも重苦しい感じを与えて仕方がなかったのでした。道徳的でなければいけないことはわかります。不道徳よりも道徳を求めることにだれも反対はしないでしょう。しかし、それと芸は違うはずです。それとスポーツの能力とは異なるはずです。
タイソンが不道徳な問題を起こしてリングを去ったとき、多くの人がその勇姿をリングでみることができないことを残念に思ったはずです。そのことと、不道徳を責めることを分離することが、僕にはとても開放感のある感じを与えてくれていたのです。
それはそれ、これはこれ、
そして、再びリングに立ったタイソンに多くのファンは喝采を送ったはずなのです。
それは、勇姿がみることができないことに対する残念さと不道徳な彼の行為を切ってみせることで成立するのです。道徳と切り離して、その力をみることがもたらすあるオープンなイメージと、今回のまるでいじめでもしているかのような日本相撲協会の対応が、朝青龍の精神的な病気と重なってなんとも重苦しい、いじいじしたイメージを与えたように思うのです。
外部へと開く
私は今回の巡業のサボタージュについては、文句なくサボタージュだと思います。なかには、プロスポーツで、巡業というような形でこれだけ長期間、選手を拘束するプロスポーツはない、というようなこともききました。それは、また別の問題です。それはそれでいいのです。で、だったら、巡業が
「契約」
なのだ、という関係がどうしても必要になるのではないか、と思うのです。あくまで契約違反である、という関係が必要に思えるのです。しかし、今回の騒動はまるで部活をさぼった下級生をいじいじと理由を正し、精神的リンチをくわえているように私にはみえてしまったのです。
日本の閉じた会社社会には、外部を入れない、内部でしかわからないという形式が根強くあります。グローバリゼイションを前提にしたら、まったく汎用性のない閉じた形式。それは、とても息苦しく、閉鎖的に見えるのです。
大相撲は部屋別対抗戦という色彩もあり、かならずしも個人戦ではありません。そういう意味での共同体主義をのこしていくことは日本的かも知れない。しかし、外部を入れるならば、外部にみえる契約という関係をきっちり厳正に入れてゆくことが必要です。
じつは、その課題はそっくり私の所属する学校にもいえることです。いやになってしまうくらい。
そうです。私は、ゴタゴタよりもやっぱり朝青龍をみたいんです。一体協会はこのゴタゴタで、朝青龍という売れ筋を売り損ねてどれだけの損失を被ったのか?そう考えると、マネージメントがへたくそだな、と思いますね。
大体、朝青龍だけじゃなくて、相撲協会のすべてが教員同様、世間知らずなんですよ。そこが問題なんです。
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます