考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

ある受験参考書

2006年10月31日 | 教育
 人から、「思考訓練の場としての英文解釈」(多田正行著)という本を教えて貰った。たまたま持っている人がいて、貸して貰った。

 まだ数ページだけれど、これ、めちゃ、面白いよ。序文?がまたふるっている。
 最初の方、英文を因数分解のように解釈する。そうそう、私もそんな風にやりましたよ。
 今の英文は、つらつらすいすい読めるが、当時の入試問題は確かにこんな感じだった。やたら、構造がややこしい。
 いやぁ、とっても楽しい♪♪

 もちろん、私は高校時代、こんなのがあるなんて知らなかった。大体、田舎だったものだから、街で一番の本屋でも駿台叢書を扱ってなかった。初めて700選とかを見たのは、浪人中だった。(笑)
 「和文英訳の修業」は現役の時に手にして、これは今も手元にある。でも、あんなにたくさんの練習問題が覚えられなかった。(笑)はい、私は記憶力がありませんから。
 えっ? 英作文用の例文集? 学校で配られた美誠社の「構文150」でした。
 The girl's name reminds me of my bitter but sweet school days. 第1文はでしたっけ。highが入っていたっけ?

 この頃、妙に昔のことを思い出す。年取ったのね。

なぜ学校教育に「文法」がないのかという疑問

2006年10月31日 | 教育
 今の高校の英語は、英語Ⅰ、Ⅱ、リーディング、ライティング、オーラルコミュニケーションⅠ、Ⅱになっている。
 やりにくいなあと思う、というか、「現実」に即していないのは、文法が科目として設定されていないことである。文法は、英語Ⅰ、Ⅱで学ぶことになっているが、はっきり言って極めて不適切である。

 当たり前だけれど、文法というのは、言語の規則性を体系化したものである。それで、「規則性」とは、非常に抽象的な事項で、実は、生徒は理解がしにくい。それで、文法が苦手な生徒は、数学も苦手であることが多い。でも、これは当然予測が付くことである。なぜなら、数学も文法も高度に抽象的と言う点で一致するからだ。

 時々授業で、文法は、数学の公式だと思え、と言っている。公式があり、それに具体的な数字を当てはめるのが数学で、コトバを当てはめるのが文法である。「抽象」という概念において、極めて人間的(新皮質的)思考を行わなければ理解できないのだ。(だから、新皮質が発達していない他の動物は、基本的に言語を持たないし、数の概念も持たないだろう。)

 抽象性の極みとも言える数学を「体系的に教えない」学校はあるか。あるわけないだろう。なのに、現在の学校教育における英語学習では、英語という言語の抽象性としての体系や系統性が無視された教育課程になっている。

 英語Ⅰなどで出てくる文法事項の学習は内容読解と共に行うわけであるが、系統的に纏めるだけの余裕はない。課によって、バラバラに出てくるし、系統性を持って教えようとすると、教科書をあちこちバラバラ捲らなければならない。何のための文章かわからなくなるし、せっかくの文章読解が台無しである。

 一つの言語材料を、様々な角度から学んで言語学習とするのは、一見「理想的」である。なぜなら、日常生活上、言語は、読解や文法など、全く分離されていないからである。

 しかし、これは「学問的」とは言えない学び方である。

 なぜなら、あらゆる学問は、「似ている」とか「同じ」あるいは、「違う」から成り立っている。「これとこれはこういう点で似ている、同じである」或いは、「こういった点で異なる」つまり、「分類」することから学問が始まるのではないか。
 「具体」は一つ一つ「違う」。我々の世界に全く同じものは一つとして存在しない。しかし、人間は、違うものを見てその「特徴」を捉え、「似ている」とか「同じ」と判断する。これは、「抽象化」という作業(思考)で、概念化と言う意味で階層的に一段上の段階になる。(入れ子構造と捉えても良いだろう。)養老先生のいう、感覚と抽象の世界を行ったり来たりすることである。私が言えば、個と集団の概念に繋がるものである。
 いずれにしろ、この抽象化がなければ、人間としての証であるような学問は生じない。

 「学問」とは、人間の知的作業である。それは、抽象化ができる人間だからこそできる知的作業で、「これとこれはこの意味において同じ、違う」と判断することに他ならない。
 自分が勉強でも何かの学習でもするときのことを想像すればすぐに思い至るだろう。「これって、あれと同じじゃないか」から、全てが始まるだろう。それで、この作業の得意な人が勉強が得意であるし、学問の世界を新たに切り開くことにもなる。

 言語において、文法こそが正にその作業である。日常使用されている言語材料の個々の「具体」から「規則性」という「抽象」を抜き出す作業で、抜き出されたものが文法である。何故それを学校教育において明確に行わないのか。我々は、母語の習得において、無意識のうちにこの作業を行っている。

 外国語の学習においても、無意識に行われることが理想とされるようだが、それは、特別な才能を持った人だけができることであろう。凡人には無理な話である。
 もし、凡人にでもできるなら、外国語学習において「文法」という概念そのものが生まれなかったであろうというものだ。「文法」が存在するのは、必要とされてきたからではないのか。

 「文法」という具体から抽象を抜き出した「規則」の数々を高等学校の教育課程で、一つの科目として系統的に纏めずに教え「ない」状況にあるのは、人間の抽象思考の基盤を捨てたようなものではないか。これは、人間の学問に対する姿勢を否定することに相通じるだろう。

 生徒は文法を嫌う。それは数学を嫌うのと同じ理由である。「抽象化」が難しいからである。しかし、文法という抽象化作業を学習せずに、どうして人間独自の営みである「勉強(学問)」が可能であるのか、甚だしく疑問に思う。


追悼:粟谷菊生師の能

2006年10月29日 | 能楽
 菊生さんが亡くなったらしい。知らなかった。毎月取っている能楽情報誌で知った。
 数年前から、多少の事情で能を見ることをほとんどしていない。かつて、私は菊生さんの能を謡を楽しみにしていた。胸がときめく能であり、謡であった。

 粟谷菊生の能は、「情」に溢れた能だった。私が見ていたときでも既に70代で、細かいことが気になる人や見慣れない人には、少々鑑賞が難しかったかもしれない。彼の能は「見せる能」というより「感じさせてくれる能」だった。だから、こちらも心で見る。

 能の詞章は決まり切ったもので、誰が謡っても文言は同じである。しかし、それが粟谷菊生という人物を通すと、登場人物の心情が滲み出てきていた。能の主人公の思いは深い。彼らは容易には表現しきれない感情を抱いて登場する。粟谷菊生は、人がみな過去を背負い、情を持った存在であることを知らしめてくれた。人情の機微を肉声を通して、身体の僅かな動きを通して醸し出すのに長けていたから、彼が演じる人物は、自分の気持ちの喜びも悲しみも、深くありのままに享受しているかのように思われた。人間が生きている、或いは生きていたとは、こういうことなのだと感じさせてくれた能だった。
 能には、「地謡」という斉唱隊がいる。そのリーダーを地頭と言うが、粟谷菊生が地頭の地謡は、詞章が聞き取れなくても謡っている内容が伝わってきた。人間は普通、文言で理解をする。しかし、粟谷菊生が謡っていたのはただの文言でなかった。声の響きそのものが心情を表す「言葉」になっていた。ちょうど音楽が心情を表すかのように。

 粟谷菊生は、人間が好きで好きで堪らない人だっただろう。人なつっこい笑顔で、ロビーを見所(能楽堂の観客席)を歩き回る姿をしばしば目にした。老いたお弟子さんを大切にし、若い学生さんを恐い顔で叱っているのを見たこともある。
 そんな人柄が能に出ていた。

 ミーハーな私は、能の感想を書いてファンレターを出したことがある。気さくな人柄に甘えて、能楽堂で声を掛けたこともある。はがきも出した。喜んでくださったようだった。感想文の手紙には一度お返事をくださった。(筆まめらしい。)「能狂い ちょっと変な人 大好きです」とあった。大切な宝である。

 粟谷菊生の能と謡は、「心で感じる能」だった。
 ご冥福をお祈りする。

選択種目・科目(と能力):追記修正色々あり

2006年10月28日 | 教育
 体育の授業で、バレーボールとバスケットボール、いずれかを自由に選択させると、バスケットを選ぶ生徒の運動能力の方が高い。

 音楽を選択する生徒はにぎやかである。書道選択者のクラスは、落ち着きがあってなかなか良い雰囲気である場合と、ただぐずぐずしている場合など、学校によって違いがあるようだ。

 世界史と日本史は、「次元」が違うようである。日本史は、一本の線が延びるような2次元。しかるに世界史は、3次元。平面の2次元に時間の1次元が加わったモノ。だから、平面と時間軸の両方を同時に処理できる能力がないとなかなか理解しにくいようである。

 未履修問題が「表面化」した。今のところ他の人が言ってないようなことを書こうかな。(と言って、そんなに熱心にいろいろ読んでいるわけではない。余り読んでいないと言った方が良いかな?)
 
 斜に構えて、あくまでも斜に構えて、くだらなく「個」レベルで見る。
 と、タネを蒔いた人はよほど面白くないことがあったのか、と邪推する。まさに報道している人や「それはいけない」と言っている関係者の中に、この「恩恵」にあずかって無事志望大学に合格し、立派なそーゆーところに就職できた人がいるはずだ。本人ではなくても、子弟、親類縁者にいるはずだ、きっといる。気が付いていないか、知らないフリをしている可能性がある。

 あ、でも、↑こんなことを書いたからと言って、私がこの件に関して、どうのこうの、とは思わないでね。

 これ、決して単純な問題じゃないです。単純に「わかりやすく」考えると、必ず間違える。ま、もう、間違え掛かっているとも思う。生徒が可哀想とか、補習をどうのこうのと、現実の「個」のレベルで捉えて解決を図り、今回限りの問題として「チャンチャン」で終わらせてはいけない。

 理想は、「全部する」に限る。
 体育も保健も家庭科も芸術も大事だ。社会は、日本史も世界史も、地理も政治経済も倫理も全部大事だ。理科だって、物理も生物も化学も地学も大事だ。
 学校教育は、全部すればいいのである。全部、必修にすればいいのである。現代社会は、複雑である。それくらい勉強していい。情報科の必修化というのは、実は個人的には解せないが、現代社会の「家庭科」として必要だと言うならすればいい。
 また、内田先生が中央公論に書いていたけれど、「公教育というプラットホーム」だったっけ? 公教育には「共有するモノ」が必要なのだ。この視点は、私が「個と集団」で考える特性に重なる。集団は、烏合の衆ではない。必ず何らかの共通点を持つ。それが教育の観点で捉えられるのが公教育、学校制度であり必修科目である。(追記:だから、教育特区は邪道であると私は考えるし、地方自治体によって学制や教育課程が異なるとしたら、地方自治体は日本国から独立する方向を考えるべきである。あるいは国が崩壊しようとしていると見るべきだろう。)
 
 で、大事なのは、それに見合うだけの時間を確保させることだ。これが決定的に足りないのが今回の騒動の直接的な原因の一つである。(でも、もちろんそれだけの問題では決してない。)
 まあ、土曜日、かつては半ドン(←懐かしいコトバ)だったが、必要性から言って、ちゃんと必修させるなら土曜日も一日中だね。必修科目を増やしたら、拘束時間も増やすことである。学校は6日制。で、休みは日曜だけ。
 昔の人は、自営業者は、みんなそうやって働いていただろう。無休も多かっただろうな。人間は生き物なのだから、基本的に休みなんてないのが現実に即しているはずだなのだ。でも、きっと1日1日の労働は、人と世間話をしたり、今日はヒマだからと気の合うお客さんと一緒に遊びに行ったり、遊びと仕事が結びつき、縛りはゆるかったはずだ。無休でめいっぱいには働けない。
 英語も数学も国語も理科も社会も全部する。その中に体育でも家庭科でも情報でも実技教科が入れば、気分が変わってなかなか良いモノだ。理科の実験も楽しいよね。
 
 入試との関連で少し考える。週5日制以前から行っていたのは、入試が原因である。
 入試科目の多寡は、生徒によってはかなり影響する。かつての共通一次では社会科2科目理科2科目が科せられた。しかし、現場から多すぎる、負担である、と言う声が上がって、1科目に減ってきた。たぶん、そうだったと思う。生徒が音を上げるのだ。で、教員はそれを聞き入れる。理由は、「やりきれない」というものである。

 多くの教科を学習するのも「能力」であるが、上記の考えは、「やりきる」つまり、「できなければならない」という暗黙の了解を前提としている。「出来ないものは仕方がない」という考え方がない。例えば社会でも理科でも1科目なら理解できてできるようになるかもしれないが、2科目理解しようとするとどっちも理解できない、という危惧であり、実際にそのようなことはあるだろう。

 しかし、問題の根幹に、試験科目は「履修済み」「単位の認定済み」であることが忘れられている。履修すれば、大抵の学校では試験を受け、単位の認定を受ける。定期テストがあるのはだからだ。理解できていなければ定期テストだってできるわけないじゃないか。1科目100点満点のテストでも、2科目合わせて110点で良いじゃないか。30点+80点で、何故いけないのか。1科目であったとしても90点はなかなか取れまい。しかし、40点+50点であれば、それで90点になる。1科目で90点より、40点+50点の2科目90点の方が、広く知識を身に付ける、という公教育としての価値があるだろう。(ちなみにこの計算方法は、「働くお母さん」がする計算である。仕事70点+母親業70点で、100点を軽く超える。母親業100点満点は無理である。)
 ちなみに、共通一次以前、Ⅰ期校Ⅱ期校時代に高校生活を送った人は、社会は地理、日本史、世界史、倫理社会、政治経済、理科は生物(地学)、化学、物理と、ほとんど全部やっている。授業はぎりぎりまで教科書を使って行い、受験に間に合わず、日本史などはしばしば「後は教科書を読んでおけ」だった。でも、それで受験した。みんなそんなものだと思っていた。それでまた、当時は、地理で受験をするのはちょっとね、という意識を高校生が持っていた。試験科目として課しているところが(今もそうだけど)少なかったのかもしれないが。で、わざ技大変な日本史や世界史を取っていた。(地理は1年生で履修し、3年では世界史日本史などだったからでもあろう。)

 また、もう一つ根底に、「受験勉強は授業と違う」という考え方があるのも問題だ。(ウチの学校でもしばしば公の場で語られるのを聞く。信じられない話だが。)しかし、授業でやったことはそのまま受験に繋がるものである。授業をちゃんと受けて、しっかりと復習をすれば、それでセンター試験の何割かは取れるだろう。(ま、私は英語だからそんなこと言っちゃうのかな?)受験勉強をしていない高校2年生でも、ちゃんと勉強をしている生徒は、平均点を軽く超える点を取る。日頃からちゃんとやればいいのである。やる気と能力の問題である。
 こう書くと、できる人は良いが、できない生徒は可哀想だ、と返ってくる。「すぐに忘れてしまうから、思い出させる時間が必要だ」という論である。しかし、これも、やる気と能力と問題にすぎない。「そんな、たまらん。」と、反論されそうである。「時間があればできるかもしれないのに。」と言われそうであるが、この考えの根拠を検討しよう。

 根底にあるのは、「やりきれないのはいけないことだ」という考え方である。が何故やりきれないのが悪いのか。仕方がないだけじゃないか。

 試験は「相対評価」である。能力に即したところを受けるだろう。他の受験生も似たような成績の者が集まってくる。だったら、「25点+60点」「70点+10点」という競争の仕方で受験をすればいいのである。「80点+90点」の人は、きっと違う大学を受けるだけの話だ。
 やってもわからないのは、できないのは、或いは、それだけの時間的余裕がなくてできないのも、「仕方がない」のである。それが能力の限界か、自分の「天井」なのだから、それでいいじゃないか、しかたがないよ。
 しかし、とまた反論されそうだ。「でも、70点+10点の生徒が、もしも1科目70点で勝負できるなら、70点+60点の生徒と競争できるではないか、それだけ大学の選択範囲が広がるではないか。」
 数学や英語ならよくある話である。高校入試で言えば、ウチの学校が正にそういう学校である。全部できる生徒はトップ校に行く。全体的にちょっと弱かったり、1教科弱かったりする生徒の集まりである。で、それが何だというのだ。それはそういう能力だから、仕方がないし、それはそれでいいじゃないか。2番手のウチのどこが悪いというのだ。ウチはウチで頑張ればいいだけの話である。大学だって同じだろう。で、それでまた、一応、この科目選択は、理科とか社会科の話のつもりで書いている。私は、物理ができなかったが、やはり、それはそれだけ能力が低い、それだけの話。物理も化学も生物もできる人と、私は勝負ができない。アタマが悪いのだから、しようがないじゃないか。

 しかし、「できないものは仕方がない」を言うと、必ず「そんな殺生な。わからなかったら可哀想ではないか」「わかるのが勉強だろうに」という声が上がる。この非常に常識的な考え方が諸悪の根源であると私は考える。

 いつも書いていることだが、「わかるのが良いことだ」という「幻想」が根強いのである。
 だから、「できないものは仕方がない」と言うと嫌がられる。「ひどい、あなたの判断は人間的じゃない。やっても成果が出なかったら可哀想じゃないか。」と言われる。
 しかし私にはその理由がわからない。そう言っている人たちは、そんなによくものが「わかっている」のか。自分のやったことの全てが成果に繋がったとでも言うのか。人間が誰でも無限に「できる」ようになると思っているのか。それで、「やらないことが可哀想だ」とは思わないのか。

 根底に、「点数絶対主義尺度」という価値観があるのだ(と私は見る)。100点や90点が取れればそれで「良くできる」と判断する価値観である。
 私はひねていたから、生徒の時、たとえ自分が90点でも、問題がもっと難しくなれば、50点だったかもしれないという可能性を常に意識していたし、足りない10点分は能力がないと思っていた。間違いは間違いだもの。大事なのは、100点を取れたとしても、「わかっているとは限らない」という認識の仕方である。
 なぜなら、「まだ先がある」からだ。
 90点でも100点でも取れて満足するのは、「100点が終点、これで終わり」だと思っているからである。しかし、間違いである。まだまだ続く途中でしかない。だから、30点であろうと50点であろうと、90点であろうと、「途上」と言う意味では同じなのである。それなのに、90点取れればそれで良いと満足する。これが間違いである。100点とっても、それで良いわけではない。だから、逆に言えば、30点にも大きな価値があるのだ。

 「受験の教科数が多いと対処できないから少なくした方が良い」という考え方の根底には、「点を取るのが良いことだ」という意識があるから、20点や30点の勉強は、不十分だから0点と変わりないと考え、「なくても良い」「必要がない」「無理だ」になってしまうのである。80点や90点の価値しか認めない了見の狭い考え方である。

 言いたいのは、テストの点が良かったとしても、ちっとも「できる」わけではないということである。悪くても、無意味ではない、ということである。
 繰り返しになるが、20点も90点も「途上」と言う意味で同じである。勉強とは、そもそも「これで終わり」がないのである。小学校の1+1=2が、難しい高等数学に繋がるのである。その視点を忘れてはならない。
 でも、ふつーは、テストができれば「頭が良い」とか、「良くできる」と見る。私もそういうコトバを使うが、でも、上記の理由で、たぶん、認識の仕方が「常識」と異なる。が、この「常識」は、大局観を欠くから出てくる考え方だと思うのだ。

 更に、この「常識」が生じる理由を考える。
 具体的には、なぜ「受験の教科数が多いと対処できない」という考えるかの理由は、とにかく「わからない状態に耐えられない」からである。

 自分が20点の理解で試験を受けること、或いは教員が生徒にその状態で受けさせることに耐えられないのである。(教員の場合は、自分の教授能力を問われる気がするのだ、たぶん。)
 しかし、模試を見よ。記述式だと平均35点で偏差値50である。それでも、みんな平気で受験するではないか。模試と入試は違うと言うだろう。しかし、受験者は同じである。(ちなみに、模試で余りこういうことを感じないのは、「偏差値」しか見ていないからである。偏差値60というと結構良い方である。しかし、点数は、60点あるかないか、とか。しかし、40点分の理解が足りていない、と見る人はまずいない。)

 わからなければ開き直ればよい、というのでは決してないが、「自分がわからないということを受け入れること」が重要なのである。「どこまでわかっていて、どこからわかっていないのかを区別すること」が大事なのである。「途上にいる」というのは、そういうことではないか。単なる知識の多寡の問題ではないのだ。自分でわかること、わからないことの区別が大事なのだ。でないと、次に進むべき方向が見えないではないか。それが勉強である。そのためには、「わからない」がわからなければならない。「全てわかったつもり」になってはいけないのである。だから、20点でも、30点でも90点と同様に価値があり、100点だったからと言って安心できない、自分で「ここで終わり」と線を引いてはいけないことである。まして教員は線を引いてやってはいけない。「君はここまでで良いよ」は厳禁である。一見愛情あるコトバに見えても、これは人間の能力に対する冒涜である。あくまでも、「ここまではわかったね。じゃあ、次はこれだよ。」である。生徒は、自分で「自分はここまではわかったが、これ以上はどうしてもわからない。」と、自分の能力を知るのである。この姿勢は、一流の研究者と何ら変わらない。「勉強をする」と言うことに関して、小学1年生も一流の研究者も、本質的にやっていることは同じなのである。その意味で、プロとアマチュアの区別はなく、この姿勢が、おそらく子どもが成長する上での人格の陶冶に繋がるだろう。
 で、勉強をする教科数は多いほど価値があるのである。(ベクトルで言うと、軸が、次元が増えることに繋がるからである。)

 それで、私が上記うだうだ書いたことは、考え方の原点として書いた。だから、実行に即していると思わない。だって、私の考えと対立するのが「常識」だから、私は「多数決」という非常に民主的な判断に負けるのである。(学校でもしばしばそうだが。)
 が、まあ、現状で日本の高校に真面目に授業と勉強をさせたかったら、入試科目を増やすのが、一番手っ取り早い方法です。保健も家庭科も入試科目にしたらいい。教科書レベルで良いからさ。みんな8割とって、他の教科のスタートラインに並べる試験。配点は少なくて良いと思うけど。マークシート式日本版バカロレアを目指す? 保健と家庭科は高校2年で受けさせるとか。(日本の学校の単位認定を信用しないという姿勢ですね。)
 
 終わり。


制服という記号

2006年10月28日 | 教育
 生徒がぶうぶう文句を言いたそうにするが、この頃、制服は記号だ、だから、改変するな、と言うことにしている。
 例えば夏の制服を思い浮かべよう。真っ白である。そこに、墨でも絵の具でもがべたぁっと付いたとする。そんなとき、どう言うか。
 「この制服、もう着れないよ~」であろう。

 現実的には、そんな制服であっても袖を通して「着る」ことができる。しかし、それで街の中を歩いたり、学校内をうろうろするには気が引けるだろう。なぜなら、「記号」の形が崩れたからである。物理的に着ることができないわけではないけれど、社会的記号として役割を果たせないのだ。汚れた衣類は、それだけで「社会性」という記号を失ってしまうのだ。同時に、制服という、より下位に位置する概念においても記号性も失われるのだ。

 人間が自然の存在、個として感覚世界を生きる存在なら、袖が通せれば「着る」ことができる。しかし、抽象世界に属する「社会」(共同体でも何でも良いが)という視点で見ると、衣類にはこのような「記号」としての働きが強い。それで、墨や絵の具はそれを壊すのである。

 よって、制服は改竄すべきではないのである。

 眠い。

私の高校3年の時間割

2006年10月26日 | 教育
 年齢不詳でやってるから(笑)、でも、大体ばれてるようにも思うから、書いてしまおう。3年次の生徒手帳が出てきて、中を見たら時間割があった。

 1234567
月G日化世国古
火日R化古体数英
水日化古数G政H
木化体日クR国世
金数政世R日漢日
土G体国数数

たぶん、7限の英、世、日 土曜5限の数は、課外学習。しかし、当時は授業と全く同じ扱いだった。Hは、ホームルーム。クは、必修クラブ。学年を解いての活動。何だったかな?「古典を読む会」に入ったことがあるが、3年だったのかな?2年だったのかな? 何かの紀行文を読んで、それぞれが担当箇所を決め、解説の冊子を作った。40余名のうち数名のがもの凄く面白かった。私は日榮社のあんちょこを写した。とても困ってイヤだったから覚えている。(笑)

Gは、英語の文法。先生は覚えている。英作文みたいなのを黒板に書いてやった気がする。凄く力のある先生だった。難しかった。Rは、ラッセルの幸福論を読んだ。英語ってのは、こういう文章なのだとなるほどと思って読んだ。とても良かった。

日本史は、これだけやって、それでもギリギリ、戦後はやったのかな?
化学を4時間もやってるけど、そのうち2時間は生物ではなかったのかな?? それとも自分でやったのかな? 化学は2年でもやっている。2人の先生に習ったことは覚えている。

現国(現代文)を3時間もやっているので驚く。1月頃でも教科書の小林秀雄などを読んだ気がする。当時難解だと言われたようだがそうでもないと思った。言いたいことがぐるぐる何度も書かれている。
古典は、源氏とかもあっただろうが、覚えていない。教科書では評論を読んだ。まどろっこしかった。風姿花伝は、なんでこんなハウツーものを高校生に読ませるんだと思った。多分3年の時だったと思うが。

政経は、受験科目でなかったから先生が遠慮していた。需要曲線とか供給曲線を習った。定期テストがむちゃくちゃ簡単。私は勉強したからよくできた。(笑)

数学は全然覚えていない。先生も覚えていない。でも、授業は真面目に受けたはず。自分で勉強をしたという感じが強かったのかな。

3年の時間割は、実技教科が体育しかないから私は辛かった。家庭科とか保健とか芸術が好きだったんだもん。さぼったわけではないけど息抜きになった。
3年は7限まであったから自分で勉強をする時間が取りにくく、ペースが崩れた。(だから、3年次はぱっとしなかったのかな?)課外学習の分の予習もあるから、予習は増える、家庭学習時間はとりにくい、息抜きはないの、三重苦でした。まあ、結局はあまり能力がなかったってことね。

今日は授業をしました

2006年10月26日 | 教育
 って、毎日してますが。
 今日は、あるクラスで、1時間に数行しか進まなかった。でも、生徒はけっこう乗ってくれた気がする。大した授業じゃない。(そもそも私の授業だからね・笑)

 Not only A but Bという表現があるが、主語になるとき、動詞はBに呼応する。教科書にそんな文があり、前回に訳したとき、うっかりこのことを言わなかった。Aが複数名詞で、Bが単数名詞。動詞はhasである。(この教科書は、受験英語に関して、なんて行き届いているのかと感心する・笑)
 で、生徒に、「ねぇねぇ、この動詞、なんでhasになってるんだろ? Haveでないのはなんでだと思う?」と聞いてみた。しかし返事がない。「Hasってことは、主語はどういうこと? 主語は何のはず?」と聞いたが、なかなか返事が返ってこない。追加質問なども加えて何人目かでやっと、「三単現」が出てきて、それで、「主語は単数のはず」がやっと出てきた。「単数のはず、ってことは、どういうこと? 主語と動詞の関係で何が推測できる?」と聞くけど、答えてくれない。で、「じゃあ、Aが単数でBが複数だったらhas、haveどっちになりそう?」などと計4通り書いて、動詞はhaveかhasのどちらになりそうかを考えさせる。「理科の実験で仮説をたてるでしょ?あれと同じだよ」って。

 考えて予測してよ、などと言ってるうちに、クラス中が、なんだなんだとこっちを向いた。相談もさせた。生徒も結構楽しそうだった。なんやかんやこの予測で20分以上?を使ったと思うけれど、自分で勉強が出来るようになるためには、自分でこーゆーことに気がつかないといけないのだ。(というか、私はそうやって自分で勉強をした。)「聞いて覚えるだけ」は勉強でない。自分で気が付くことが大切である。まあ、そんなことも言いながら、進度は全然進まなかったが、まあ、それなりに充実してた気はするが。

 しかし、である。

 今までもよく思ったことだが、この子たちは、中学校で、一体どんな勉強をしてきたのだろう。「これこれを覚えなさい」「はい」しか、やってないんじゃないのか。とにかく、自分で考えることをしたがらない。チャレンジ精神がない。注意力散漫。(こんなんじゃ、勉強なんてできるようになりっこない。)
 自分で考えろ、自分で。で、気が付け。気が付くようになれ。


人は誰でも芸術家(かなり変更)

2006年10月25日 | 教育
 陳腐なタイトルだなぁ。。(笑)

 養老先生が、何かに、摂取カロリーか何かから言って、人が生き延びてきたのは、食べ物だけでないと書いていた。もっと違う何か精神性のようなモノがあったからではないかということを書いておられた。(いつものごとく、正確な言葉を覚えていない。)

 下級社会において、女は歌って踊ると、何かに書いてあった。(これは養老先生ではない。)

 さもありなん。

 今の子どもは、歌って踊るのが大好きである。ひと頃ほど、ピアノ熱はないのに(ピアノを弾ける生徒の割合は減っている。)、音楽熱が冷めないのは、ある程度の衣食が足りて、人間が生き延びる原動力だったであろうと(私が予測する)祭祀熱?、つまりは「歌って踊る」才能にこうこうと火が点り始めたのではないのかな。食べ物が乏しくても生き延びたのは、宗教性や「遊び」に関連する「歌って踊る」エネルギーがあったからではないのかな。余裕があるから「歌って踊る」のではなく、(養老先生がおっしゃることのように)そもそも人間が生きる原動力が「歌って踊る」欲望だったわけで、だから、ヒマができてたら益々やりたくなってきたのが、「歌って踊る」ことなのだ。

 社会が豊かになってくると、「見て楽しむ」芸術的要素も高まる。(要は、人間はそもそもが遊び人だということである。)高校の教科書でさえ、ぴかぴかカラーである。紙質も良くなければできまい。カラーのインクもなければできまい。それで、これが一体誰のためのモノかというと、「作る大人の楽しみ(換言すれば、仕事)」で、使う子どものためのモノではないのである。紙を作る大人、インクを作る大人、デザインする大人の仕事という楽しみだったのである。

 で、こんなにつるりとした「きれいな」本で勉強をした生徒が、古い黴くさい資料に興味を示すのだろうか?という大いなる疑問を持つが、以下のような考え方もあるだろう。 
 見た目が悪い資料に興味を示すのは、ごく最近、ここ100年、200年の趣味の問題でしかない、きっと。歴史を紐解くには、歴史の積み重ねが必要で、書いたモノの伝統は、せいぜいでここ数百年でしかない。よって、汚くてカビが生え、虫食いだらけの古文書を有り難がるのも、ここ数百年の趣味なのである。長い長い人間の歴史から見れば、それこそ、歌って踊って神に祈りつつ生き延びてきた太古の祖先から見れば、「ついこの間」である。
 だから、古の物品を有り難がる趣味を持つ人間の歴史も、非常に浅いモノである。

 だから、ぴかぴかのカラー教科書の存在は、しようがないないのである。だって、人が「今」を生き延びるのを目的にするのが、大昔からの「芸術」の役割だったのだろうから。だから、今の大人がせっせと知恵を絞って、紙とインクと労力をふんだんに使って教科書を作るというその作業そのものが、一種の「芸術」で、多くの人が生きていくための生きがいと糧になるのである。人は、そんな風にでも芸術を使って、今も生きているのである、きっと。

 女の子が「おしゃれ」にうつつを抜かすのも、しようがないのである。
 なるほど。

邪道(?)の進路指導

2006年10月24日 | 教育
 とってもアタマが良さそうで、研究者向きじゃないかと思う女子がいるが、たぶん親御さんや親戚は大学に行っていないと思う。本人は、大学に行く気はあまりない。というか、大学に行くのは、実業のための「資格」を取るためだと思っている節がある。(世間一般でもその傾向はあるだろうが。)だから、大学で自分がしたいと思うことはないし、など、大学進学にはやや消極的。かつ、なかなか器用で、アクセサリー作りやお菓子作り、料理なども好きなようで、卒業後は専門学校へ行って、お菓子職人か料理人になりたいとも言う。たぶん、彼女の身近にあるもので、彼女の興味関心をひくものがそういうものだけだったのだろう。

 ああ、もったいない。(←進学校教員の下品)模試の成績だって、とってもいいんだよ。(易しい旧帝大を狙っていけるほどである。)

 しかし、話を聞くと、「上を狙いたい」から進学校である本校に来た。そのために勉強をしたらしい。

 よし。
 ならば、と・・・ついに言ってしまった。(大学へは、資格のためだけに行くわけではないよ、はもちろん言いましたが、それ以外に。)

 男だったら、旧帝大を狙えと絶対に言う。就職に有利だ、というのがその理由である。しかるに、女の子の人生は、なんだかんだ言って、なかなか一筋縄にはいかないのが現実である。いろいろ左右される部分がやはり大きいのである。
 しかし、実は、女子が「とても良い大学」に行くと、「人生が大きく変わる」ことになる場合がかなりあるのだ。特にこの子の場合は、そうなる可能性が高い。最終的にはお菓子職人や料理人を目指すにしても、高卒でなるのとは全く違う歩み方で、苦労しても(苦労はどんな場合にもつきものであろう)人生を大きく広げてうまくやれる可能性が、かなりの確率で生じるのだ。(まあ、仕事だけが人生ではないということである。)こーゆーことは、男性教員は、まず気が付かないと思うけど。
 えっ? もちろん、本人には気をつけるべき点も含めて(笑)露骨に言いましたよ。


「全体を見る」ってどういうこと?

2006年10月23日 | 教育
 少し前、私は「あなたは全体を見ていない」と批判された。私から見ると、その人の方が全体を見ていないように見える。互いに考えが入れ違い、話が合わない。
 
 この理由が、ずーーーっとわからなかったが、やっと予測が付くレベルまでに至った。

 「全体を見る」とか「俯瞰的」と言うとき、私は鳥瞰図的に全体を上から眺める、というイメージを持つ。このとき、全体の中に含まれる個々の独自的な特性は問題にせず、個々の関係性やそこからぼわーんと浮かび上がってくる「全体像」、個々だけを見ていたのでは見つけることが出来ないものをつかもうという意図でもって行う。

 しかし、例えば、次のように考える人がいることに気が付いた。
 全体とは、個の集合体である。よって、「全体を見る」が、個々の事象、個々の独自的な特性をくまなく見て回る、という見方である。

 この後者の見方は、それぞれの個と同じ地平に立って、見て回る、というイメージである。人間集団においては、「あの人はこういう意見で、その人はそういう意見で」という情報集めで、それぞれの意見の意図や要因、その意見がどういう理由で出てきて、今後何を求めようと、或いは何を目的としているのかを問わずに、表に現れた事項を問題にする。(選挙で、誰が誰に入れたか、みたいなものか。)

 しかし、私は、常に、そこにあるものは、どこに起因し、何を目するのか、を重視する。
 まずは、「集合体」が存在する所以から検討する。なぜなら、集合の成員は、烏合の衆でない限り、なんらかの特性を共通点として持つからである。よって、共有する特性が何であるかをはっきりさせれば、その集合体の特性をつかむことができようものだ。その上で、集合体としてどこに行こうとしているのか、またその集合体を含む更に大きな集合体の有無なども問い、関係性を検討する。また、個々の成員の性質についても、それぞれが何に由来し、どこに向かうのかを検討する。自分では、かなり階層的なものの見方だと思う。

 だから、教育について、学校について考えるときでも、「保護者がこう思っているから」「生徒がこういう気持ちでいるから」だけで、そういった個々の要望を満たすことが良いことだとは決して思わないのだ。
 生徒がそう思うことで彼らが何を意図しているのか、それが時間的社会的空間という全体像の中でどのような位置付けになるのか、「満足」以外に何が生じるか。(保護者についてもなかなか難しいが本来は同様であると思う。)

 しかし、このような見方をする人が意外に少ないことに気が付いた。(気が付くのに時間が掛かった。)私が経験する多くの場合は、階層性を抜きにして同じ地平で表だっている個々の特性を一つ一つくまなくつかむことを「全体を見る」と捉えているようである。そういう捉え方をする人は、私が個々を同じ地平で細かく汲み取らないことを「全体を見ていない、視野が狭い」と評する。それで、私が階層的なものの見方をしていることを理解しない。何故理解しないかという理由は私はよくわからない。

 道理で話が合わないはずである。(笑)