考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「政治と学問は食い合わせ」

2011年03月31日 | 教育
 養老先生の大言論Ⅱを読んでいたら、政治と学問は食い合わせという表現が出てきた。
 そうだよなぁと思う。だって、政治は人間関係、相対性を基盤にする。しかし、学問は、絶対性に準拠する。学問とは、普遍という抽象を求める世界観だから、「普遍」であるからには、絶対性を伴わなければウソになる。
 その政治にしても、「学」をつけて「政治学」にすれば抽象たる普遍を求める世界だから、政治と政治学も食い合わせになのだろう。

教科書とノートと1冊の辞書があれば

2011年03月30日 | 教育
 ひどく被災した子供たちと学校を見てふと思った。「避難所にいる子供たちに、私は何の勉強を教えることができるか。」
 私は、おそらく、中学生には、教科書がなくても、辞書がなくても、英語の必須の文法事項と多少の英語表現を教えることができる。子供たちには、それぞれ1冊のノートと鉛筆と消しゴムがあれば十分である。
 高校生には、何か、それなりの英語の本1冊と辞書が自分にあれば、子供たちにはノートがあれば、十分に教えることができると思う。難しい本だと、辞書を引いても私にはわからない表現や文などがあるだろうが、そんなのは、みんなで一緒に考えればいい。英語そのものが持つ「基本」に即して考えさえすればそのうちにわかってくるのではないかと思う。
 何かを教えることができるとは、全体像から体系的に把握していて、かみ砕いて順序よく放出できることではないかと思う。要は、「テキスト」を作ることができるほど自分がよくわかっているかかもしれないと思った。

戦争の前の雰囲気

2011年03月26日 | 教育
 今の様相は、戦争前の状態じゃないかと思う。
 こんなことを言うと、「戦後生まれのくせに、何を知っているんだ」と批判されそうだ。
 うん、知っている。だって、日本史は学校で勉強をした。もちろん、戦前の雰囲気は、こうこうこういうモノだった、とは習わない。しかし、学校以外でも、長年生きていれば、戦争についてあれこれ見聞きすることが増える。何事においても、さまざまな事象を学べば、そこから「立ち上ってくる何か」が見えてくるものではないかと思う。これは、数学の基本問題をやっていると、やがて、応用問題ができるようになるのと同じだと思う。英語の基本例文を数多く学ぶと、難解な英文が読めるようになるのと同じだと思う。
 歴史として学ぶのは、羅列的な事項が多い。しかし、羅列は羅列にとどまらない。「戦前の雰囲気」も、学校で習ったことと、それ以外に知ったことを元に考えると、たぶん、こうした様相ではないかと思うのである。

学校という平常

2011年03月18日 | 教育
 「模試の仕事をやってましたけど。」
 「こんなときに模試?」

 学校は、子供には「平常」が大事だ。子供は、自分が、刻々と変化する故、置かれるべき環境はroutineであるべきだろう。でないと、おそらく、「足場」を失ってきちんと成長ができなくなるのではないか?
 それゆえ、学校や学校の先生は、変化を求め、変化を生み出す「世間」から異端視され、批判される。
 「学校」というところは、「子供という異質な存在」の抱くところだから、価値観が異なるのである。
 子供たちは、大人になるために、大人とは異なる価値観と世界で暮らさなければならない。「豊かな大人」になるために、まだ生きることになれていない子供たちには「日常生活」という「安全な(=頑張って乗り越える)危険」が与えられなければならない。
 学校は、あくまでも、平常時の平和を保つのが本来の仕事であろうと思う。

twitterで「疎開」を広めたら?

2011年03月16日 | 教育
 どこの府県にも、宿泊施設を持つ研修センターや、青少年センター、自然の家といった施設があるだろう。ベッドも給食施設も風呂も、研修用の部屋や講堂等もあるはずだ。
 そこに、被災地の子供たちを疎開させたらどうか? (予約が入っていたら、「キャンセル」してもらう。それどころじゃないだろ、って。)
 子供たちに「寮生活」を送ってもらう。現地から先生も来てもらう。「ふるさとの言葉」で話せる大人がいるといないで、子供の安心感は異なろう。
 費用の基本は義援金等の寄付金とする。
 「市営住宅」などだと家族ぐるみになる。とにかく、子供だけでも、避難所生活は避けさせたいと思うのが人情であろう。
 「経済的なメリット」として、「義援金が出した地元にそのまま落ちる」点が挙げられる。
 どこの府県が、一番乗りで名乗りを上げるか?

↑これ、教員や公務員などだったら、かなりの数の人が思いつくアイディアだと思うんだけど。
 どなたか、twitterなどで、このアイディアを広めてください。

追記:
 host3.shugiin.go.jpさんが、読みに来てくれてました。
 これって、衆議院?
 だったら、西日本の各府県、及び、教育委員会等に、何らかの問い合わせをしたらいかがでしょう。
 今どきなので、センターなどは民間に委託され、独立採算?になっているところもあるでしょうが、なんらかの手立ては打てないかしら?
 と、思いました。


頼りになるのは自分の感性

2011年03月10日 | 教育
 プロフェッショナル仕事の流儀で、岐阜の古田等さんという中華料理人が出ていた。失礼ながら、岐阜の田舎で、しかも、有名店で修行を積んだ方でない。しかし、自分の創意工夫で三つ星シェフ唸らせる料理を作る。新しい伝統、定番料理を作ることを目標をする。
 この人の生き方は、一見、そう簡単にできることと思われないかもしれない。一般的には、有名店で大勢の見習いの一人として苦労して修行を積む方がずっと普通のことに思われるだろう。現に古田さんも、自分が有名店で修行を積んでいないことをコンプレックスに感じていた。しかし、私は、逆だと思う。彼のやっていることは、形式はどうであれ、料理の基本を踏まえていさえすれば、誰でもができる、できるというより、目指せることではないかと思う。
 この方が創作料理で頭角を現したのは、自分の味覚や自分の料理の体験で自分の料理を作ったからだ。郡上の生まれ故郷で、豊かな味覚で育った経験が大きい。料理人を目指す基本はそれしかないのだろう。以前、三国清三も北海道の豊かな味覚で育った経験を話していた。味覚という感性を持ち合わせていることが重要だろう。
 古田さんがよりどころにするのは、子供の頃の地元の料理、母の手による地元の味である。母の料理は中華ではない。しかし、自分が作る中華であっても、「味覚」という基本に変わりはない。彼の成功は、自分の味覚という感性を基盤に努力を重ねたことだ。中華の基本は、若くして出前から何から何まで修行をした店で得たのだろうが、それ以降は、まるっきりの自分の感性を頼りに努力している。
 私が「誰でもができる」「誰でもが目指せる」と思うのは、しっかりとした自分の感性があればできるということだ。ただ、大事なのが自分の感性、古田さんの場合なら、自分の味覚を持っていたということがわかる。どんなに有名な料理店で修行を積んだとしても、自分自身の味覚といった料理人としての基盤がなければ芽は出ない。
 重要なのは、基盤たる感性だということだ。(努力はその上になる。)

 ここで、一般化して考える。
 イチローがなぜ記録を打ち立てることができるのかは、自分の感性を基盤に基本を重視して鍛錬しているからではないか。いかなる職業においても、一流という人、一流でなくても、幾ばくか抜きんでて通用できている人に共通するのは、こうした基本だろうと思う。
 この点で、自分の身に引き寄せて考えると、学校の勉強でも、生徒自身に基盤たる感性を身につけさせることが子供のなすべき学習だろうと思う。料理人の基盤が味覚なら、勉強をさせるための基盤が何であるか。
 私が確実に言えると思うのは、今どきの子供は、この基盤たる感性を身につけずに、高校に入学してきているという事実である。教える側が、あまりにも鈍感ではないかと思ってやまない。
 かつ、言えば、この「鈍感さ」が何に由来するかは、「点数」とか「点数による客観的な評価」に毒されていることだ。大いなる誤解は、点を客観だとする見方である。点は、あくまでも、何らかの尺度に乗ったもので、尺度とは、人が決めるものだ。その人が何に基づいて尺度を決めるかと言えば、「人の感性」としか言いようがなかろう。精密機械を作るのは、人の感性である。決して機械ではないのに似ている。

何のための変革か

2011年03月09日 | 教育
 教育に関する改革というか変革が良いか悪いかについて議論するとき、かなりの割合で忘れられているのが、そのことが子供の成長に与するかどうかという観点ではないかと思ったりする。
 こうした根本的な議論抜きで、公正かどうかとか、時代の流れに即しているかどうかとか、今後の世界がどうのこうのとかが先に立って、最も肝心な子供の成長にいかなる影響を与えるかどうかが忘れられているような気がしてならないのだが、いかがだろうか。
 この問題は、相対性と絶対性の尺度で考えるとわかりやすいが、かなりの人の判断は「他人と自分を比べてどうか」という相対的な比較で行い、自分自身がかなう限りの能力のどの程度まで伸びたかどうかという観点では量らない。(ちょっと関係ないけれど、伸びる子は、こんなはずでなかったのに、自分はもっとできなければならなかったのに、と、絶対的な力量の伸び代を求める。)しかし、本来の教育の目的は、ある子供の能力を他の子供の能力より卓越的なものにさせることが目的で行うわけではない。結果的に、ある子供の方が他の子供より能力が伸長することはあるが、あくまでも結果に過ぎない。他の子供もいちように伸ばして初めて、「特別な子供」が出てくるに過ぎない。「いや、今の時代は、優れた資質を持つ子供の能力を伸ばすことが求められる」と反論する人は必ずいると思う。しかし、その「優れた資質を持つ子供」をどのように選び出すのか。他の子供の資質を伸ばして初めて、ある特定の子供の資質の方が他の子供より優れていると言うことがわかるだけの話ではないか。ここにおいて、「どの子供も能力の限りにおいて伸ばす」という絶対的な尺度の前提なしに、優れた資質の子を選び出すことは決してできない。
 教育に関してさまざまな論じられているものの、何を前提に、何を目的にするのかという根本に関わる議論を私は聞いたことがない。非常に多くの人は、何か、「わざ見ないふりをしている、わざと隠そうとしている」ようにしか思われない。
 不思議でしようがないのだが。

読みにくい文章ですみません

2011年03月08日 | 教育
 そんなに昔でない過去の文章をいくつか読んだら読みにくくてしようがない。このブログ、人気がないはずだ。(笑)
 ブログを始めて1,2年だったことの文章が一番読みやすいかもしれない。よく推敲していたからだ。でも、ここ2,3年は、ろくに推敲もせずUPし、UPした後でも推敲していない。書き急いでいるのも多い。読みにくいはずである。言いたいことがいっぱいあっでも、言語化するにはものすごく時間がかかる。ひたすら、時間がかかる。その時間がない。その結果、文章が荒れる。荒れた文章を書くと、荒れた文章しか書けなくなるのではないかと思う。この頃、まともな文章が書きづらい。日頃、いい加減にしか書いていないからだろう。
 それでも、小論文の指導はラクである。難関校の指導ではないからだろうが、課題文や生徒の文章を読んで、なぜ、私は、こんなにすぐに「わかる」のだろう、と思えてくる。ありがたいことである。

養老先生はやっぱり面白い♪

2011年03月04日 | 教育
 養老孟司の大言論を読んでいる。すごいタイトルである。
 養老先生を読んでいるとわくわくする。養老先生は、知識を与えてくれるというより、考え方を教えてくれるから、私は好きだ。
 知識を多く持つことはすばらしい。持った知識をそのまま利用できるのである場合、知識は非常に有用である。こうした意味での知識は、初等教育の「読み書きそろばん」である。知識重視の考え方は、小学生の勉強と本質的に変わらない。「役に立つ」は「そのまま利用できる」とほぼ同意であろう。
 この意味で、養老先生は、解剖の知識を与えてくれるのではなく、解剖の方法を教えてくれる。いったん「メス」の使い方を覚えれば、何でも自分で切り取ることができる。切り取る対象は、新鮮な材料が、自分の周りにいくらでころがっている。私は、人から教えてもらう知識を利用することより、自分の「メス」で意のままにあたりにあるものについて考える方が断然好きであるし、面白いと思っている。
 だから、生徒には自分で考える方法を教えてやりたいと思っている。
 英語という教科の場合、教科の特殊性に関わろうが、「メス」よりも、具体的な知識、単語でも熟語でも、文化に関するものでも、「知識」を与えてやることが授業の主眼になることが多い。それはある。しかし、知識そのものは、なにも教師が直に教えてやらなくても構わないだろう。生徒に必要なのは、ちょっとした着眼点である。見る対象は、生徒それぞれで良い。見方さえきちんとしていれば、生徒は自分で知識を吸収できる。彼らの周りには「英文」という知識の種がいくらでも転がっているのだから。

子供に目的意識を持たせるな

2011年03月02日 | 教育
 今の子供たちは、合目的的でないと、行動しない。しかも、その目的が本人の納得がいくものでないと、行動する理由にならない。手段は、問題にしない。目的達成が目的だから、結果さえ良ければよいと言う考え方を取りがちになる。
 と言うことはどういうことかというと、勉強をしない、ということである。
 目的を持たせ、目的遂行を重視する教育は、間違っている。