考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

生き残る学校

2005年04月30日 | 教育
 内田先生のブログに、少子化時代にいかに大学が生き残りをかけるかのお話があった。

 内田先生のお話は、爆笑しながら読むことが多い。今回は、まず「○クルート」。ここで爆笑した方はあまりいないかもしれないけど、笑ってしまった。「○クルート」とは私個人も勤務校(公立高校)も全くご縁はない。が、将来に目を向ける教員研修の講師が「業者」とはいずこも同じのようで、なんだか笑えた。(それにしても、学校・教育関連業で食べていける人が多いのは、日本が高学歴社会ゆえの相互扶助だね。)で、次のは、もちろんパワーポイントの「ドッボーン」(内田先生、ごめんなさい。)

 「生き残り」問題は、大学だけでなく、高校にだってある。現にいくつかは統廃合がなされている。もっとも、公立高校教員は、この点に関して実に気楽で、関心を持つ人はほとんどいない(だろう)。だって自分が食えなくなる心配が全くない。

 で、偉い人に偉いと言っては失礼に当たるかもしれないが、内田先生は、やっぱり偉い。神戸女学院という立派な学校の行く末を案じるのに、先生はちゃんと「歴史」を鑑み、本来的エートスに立ち返ろうとするからだ。

 やっぱりそうだよね。私が知る多くの人たちは持たない視点だ。

 高校にだってそれぞれ創立の歴史的経緯があって、その地域でその学校が果たすべき役割が決まってくる。時代が変わり人口分布が変わってくれば、役割も確かに変わる。しかし、それなりの歴史と設立の経緯があれば、スクールカラーというモノは、なぜかそう簡単に変化するモノではない。学校は生きているから、その時々でさまざまな問題が出てくる。でも、解決の手段は、歴史を足場に選ぶのがいい。目先の問題解決は、更なる問題を生む。

 公立高校も、もっと考えるといい。ある親が言っていた。「塾の先生が、下手に公立に行くより、私立に行った方がいいと言っていました。」塾が私立から何らかのリベートを貰っている可能性もあるし、がんばっている公立の先生も多いけど、公立はもっと連携して戦略的に考えるといいのにね。(もっともすべては地方公共団体と各校長の手腕次第。一介の平教員がここに綴ったってどうしようもないんだけど。)

 でも、歴史って、軽視されるんだよね。歴史を読むには相当な抽象化が必要なんだろうけれど、これ、なかなか困難な仕事なんだね、きっと。

人間サンゴ虫?説

2005年04月28日 | 物の見方
 サンゴ虫は虫らしいが、互いにくっつきあって生活している。彼らは、お互いの存在に気付いているのだろうか? 生活環境を共にしているのだから、物理的に何らかのやりとりはあるだろうが、意識しているのだろうか。(意識という言葉はやっぱり不適当かな?)
 
 人間は、身体が個別になっている。しかし、社会を作って生活しているから、何らかの繋がりを持っているし、そのことをいつも意識して暮らして生きている。それは分かる。でも、更に、本当は、目には見えないが、もっと違う形態で非常に強く結びつきあっているのではないかなぁ。

 世界的な発見が異なる地域で全く縁のない者によってほぼ同時期になされることがあるらしい。(具体的には忘れた。)テレビでしか知らないが、沖縄の「かみだーり」と呼ばれる巫女のような存在とか。歌を歌っていて、相談に来た人の心の底の悩みを知り、解決の糸口をつかむようだ。大昔を遡れば、神話だって、異民族間で共通の要素がある。ユングの言う個人的無意識から、民族的無意識、人類全部に関わるような無意識と、無意識の種類も多くあるようだが、何か、意識無意識を解いた世界で、それ以上のモノがないのかなぁ。同じような遺伝子と同じような環境があれば、似たような身体が作られ、似たような感性が生じるのだろうと説明がつくのかも知れないが、それ以上のモノはないのかなぁ。人間だって、本当は、自分たちが思っている以上にサンゴ虫のような存在じゃないのかなぁ?普段は気がつかないだけで。

コンビニでいろんなお菓子が100円で売れる理由

2005年04月27日 | 教育
 学校で、まあ、勉強が本当に好きな訳ではない生徒たちに強いて勉めさせていると、私のやっていることは、100円程度でそこそこおいしいお菓子を、誰でもが手軽に自由に楽しんで買って食べることができる「豊かな社会」を築こうとしているのかなぁと感じたりする。

 終わり。

中年女服装術:私はスーツ派

2005年04月25日 | 生活
 はっきり言って教員ほど「おしゃれ」に(本来)ほど遠い(べき)職業はない。一昨年?、「ミュール」と呼ばれる、サンダル、もっと言えば、昔の「つかっけ」が流行っていたとき、若い先生がヒールの高いミュールをはいて、あろうことか何名もの児童を引率していた。(見るからに小学生を連れていたからには、あれは小学校の先生だろう。)おいおい、走らなきゃいけなくなったとき、どうするの? プロ意識に欠けていると思うよ。

 テレビのコメンテーターもしている(でも、私はほとんど話を聞いていない。)岸本某さんのエッセイに、まあ、ずいぶんと昔の話のようだが、就職しだちの頃だったか、白いブラウスに紺色のスカートを着ていたらお母さんに「学校の先生じゃあるまいし。もっときちんとした格好を、おしゃれをしなさい。」と言われたと書いてあった。
 
 おしゃれに縁遠いのが良いのが悪いのか、よくわからない。しかし、この年になると、ちゃんとしたスーツを着ようと思うと、やたらお金がかかってしようがない。体型の問題が生じてくるし、ある程度年も取ってくると、まあ、多少は投資しないと貧相に見えるようでもある。おしゃれをする必要はないのに、お金がかかるのか、それともかからないのか、この頃私はよくわからない。

 ファッション誌は、それでもよく見る。30代40代対象の雑誌も色々あるが、子育ても終盤にかかった世代の一般的おしゃれは、雑誌を見ると、どうやら若者気取りである。若いコの流行そのものではなくても、何かしらが、うん、混じっている。で、私の感想、どう見ても、彼女たちには(余程の場合を除いて)全く似合っていない。ヘアスタイルもサンダルも。価格で言えばそれなりに高価である。でも、なんとなく、収まっていないというか、だらしがなく見えるというか。ちゃんとした服は「行事服」らしい。もちろん、学校行事用。

 ちょっと前の流行だが、裾が斜めにカッティングされたスカートが美しいと思えない。若いコが遊び半分で着る分には、まあ、そういう場合もあるでしょう。でもね、、。服飾業界の陰謀にまんまと引っかかったようにしか思われない服が多い。

 ちょっと前だが、上記の岸本某さん、生活?ファッション誌のエッセイに、「スーツはダイアナさんよりサッチャーさんの方がよく似合っていた。」と良いことを書いていた。うんうん、わかるわかる。スーツにどんな効果があるのか、私は分析できないが、ある程度、年齢が行ったら、まあ、ワンピース(もしろん、ノースリーブのではない。)でもスーツでも、ちゃんとした格好が断然似合ってくると思う。お金がかかりそうだけど。

 お金がかかるついでを言うなら、年を取った指に似合うのは、立て爪じゃない大きなダイヤ(メレじゃない)だね。日本人なら、案外カラーは、G、Hでいいんじゃないかな?

文科相の謝罪

2005年04月24日 | 教育
「文科相がゆとり世代に謝罪 茨城大付属中で」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050421-00000230-kyodo-soci
 
 だ、そうだが、スクールミーティングというのが、そもそも「教育」から逸脱している。(ついでに言うと、生徒が教師や授業を評価する制度を私は信用しない。)

 権利意識が強く、何よりも自己が先に出る考え方を取る彼らが、もし、訴訟を起こしたらどうするんだろう?「われわれの世代の落ち込みはゆとり教育のせいだ、国家は賠償せよ。」とか何とか言って。

 ふつー、生徒はたくましい。多少理不尽な処遇を受けても、乗り越えていく潜在的能力を持っている。それで、そういう子の方が、長じては能力も伸ばし、人間的にもすばらしく大きくなったりするものだ。逆に、困難にぶつかったときに変に理屈をこねたり同情されたりする子は成長しない。(と、こんなことを書くと、短絡的に「教師は、何をしても許されるのか!」とお考えになる方がみえますがそのあたりは、常識的にご判断ください。)

 今の教育で最も抜け落ちているのが、そこんとこのような気がする。立場を考慮させず義務を伴わせない権利意識とただ目立ちたいだけのプレゼンテーション能力の伸長(←これはテレビ番組の影響が大きい。)がまずかったよね、と思う。

 しかし、若手教員が既にこの世代だからね、困ったモノだ。
 (今日は何も考えてないです。)

傘差し運転の憂鬱

2005年04月23日 | 教育
 雨の日の憂鬱のタネは、傘差し運転。

 どーゆーわけか、(否、理由ははっきりしている。同業者の皆様にはおわかりのことであらう。)ウチのがっこは、校門から、傘差し運転の生徒が堂々と入ってくる。で、追っかけて呼び止める。中には、「おとなだってやってるじゃないか」とふて腐れて食って掛かる生徒がいる。(ホントに「子育て」は手間がかかるぜ。)

 それでもウチの生徒って、結構、根はまともなのだ。だってね、「それで、あなたは、将来、そういう大人になりたいのか?」と聞くと、まず、間違いなく表情が変わる。何かに気づいてくれる。

 ね、「まとも」でしょ? ←これ、親バカ的発言じゃないからね、念のため。
 

今日の思いつき(4)

2005年04月21日 | 教育
 人間が言語を操り始めたのは、物事を抽象化してみるようになったことと関係する。(だって、言語は抽象化の産物だもの。)人間の特質の一つは、この抽象化の能力を持ち合わせていると見て良いだろう。

 しかし、抽象化してモノを見るというのが、実際のところ、あまねく誰しもが持ち合わせている能力であるとは言い難い。国語の試験で、「これは何のたとえか。」のような「比喩」という、かなり高度な抽象化を問う設問が成立することから、それと知れる。

 人間の不幸は、中途半端な抽象化能力を持ち合わせてしまったことによるのではなかろうか。

 えっ? どういうことって? だから、「今日の思いつき」なんだってば。
 私、まだ、これをもっと言語化してきちんと説明できる能力を持ち合わせていないの。だから、ごめんなさい。
 

能力いろいろ人生いろいろ

2005年04月20日 | 教育
 生徒を見ていると、人間の能力というのはいろいろ、ホントにいろいろだなぁと思う。得意とか不得意と言うより、うん、養老先生に言わせると、昆虫は変異を形態の変化に結びついたが、人間は脳の機能が変化した。見た目は大して違わなくても、やっていることがものすごく違っているのは脳の働きのせいだそうだ(養老先生の表現はこんなんじゃなかったけど。)が、なかなか凄いものだと感心する。

 優等生集団だと、案外、能力差には気づきにくい。だって、みんなが国語も数学も、体育だってよくできちゃう、それで、まともに育っていれば、掃除だのなんだのの公共心だってちゃんとある。人間的にも良くできていて人にだって気配りできるし、ピアノだって弾けたり、何でもできる人っているんだよね。たとえば都道府県一番の進学校の生徒を思い浮かべればすぐ想像がつく。勉強ができる奴は自分のことしか考えないなどと人もいるだろうが、意外とそうでなかったりする。(もちろん、何事にも例外はいる。)

 ところが、二番手進学校にいる子たち、とびっきり能力が高いわけではないがなんとなく能力が高めの子たちだと、これが際だつ。だって、「君はもの凄く数学ができるのに、どうして英語はこんなにダメなんだ?」と聞きたくなるような子にしばしば出会う。(だから2番手のウチに来たわけだが。)また、勉強はそんなにできるわけではないけれどやたら気が利くとか、公共心あふれんばかりだとかいろいろな生徒がそれとはっきりわかる。一番の進学校だと、それくらい、否、それ以上の高い能力の持ち主も多いはずで、そんな優秀な子と競争すれば、やはり2番手の彼らは負けるかもしれない。でも、それでも、なかなかやれる、そんな子が多く二番手進学校にいる。頼もしい存在なのだ。

 超優秀ならば「とりあえず」東大に行っておくとか、東大が無理だったら、まあ、それ相応の旧帝大に行っておくとか、進学トップ層は、とにかく高校卒業後の進路に関してそうとう選択肢が狭い。(しかし、実態としては、旧帝大レベルでも、すでに、どこを選ぶかが将来に臨む上でかなり重要な選択肢になってきている。)学力を上げることを別にすれば、超トップ層の進路相談はラクだろうなぁ。

 ところが、ふつーに近くなればなるほど、選択肢が多くなる。(これは、結婚相手についても同様のことが言えるだろう。)大学選択も、偏差値で選ぶほか、(当たり前だが)その子の得手不得手、試験に対する潜在能力を見極め、配点で選んだりとか、もう、さまざま。

 それに、学力以外でも、能力や志向や嗜好も含めて、ホントに様々。卒業生だが、在学時はいつも「会計係」をしていた子がいた。絶対に間違えないし、信頼がおける抜群の仕事ぶりだった。この子はお金にさわるのが好きだった。だから、大学に入ってからはレジのアルバイトが楽しくて仕方がないと言っていた。お金に関する能力が高いと言えよう。(内田樹先生は、お金の計算能力はそんなに高くないようだ。いつだったか彼のブログで読んだ。)

 勉強に戻るが、理系クラスで、途中でへばって数Ⅲを諦める生徒も出てくる中、数Ⅲをひたすら計算力で最後まで頑張った生徒がいた。一概に数学といっても様々な能力が要求されると思うが、何人かは、とにかく「与えられた計算をする能力」が優れている様子で理系にいた。応用問題は苦手だが、とにかく与えられた計算はできるのだ。ウチの場合、意外にそういう子がいる。養老先生は、計算能力は人間独特のものだおっしゃるが、独自的な能力が傑出していると考えれば、そういう能力の持ち主の存在がよく理解できる。

 もっと抽象化した能力になるが、読み書きテスト成績は大したことはないが、聞き話す能力の高い子がいた。ペーパーが苦手で、わかっていることも筆記試験になるとできない様子だが、口頭試問だとよくできるという不思議な生徒である。記憶力も良かった。一度言ったことは忘れなかった。また、よく似たタイプだが、自分の考えを文章にさせるとすぐに詰まってしまうが、討論形式で意見発表をさせると次から次へと中身のあることを言う生徒がいた。しゃべっているとどんどん頭が回転して良い考えが発展的に浮かんでくるのだそうだ。

 テストは読み書き能力を調べるので、聞き話す能力の方が高い生徒には不利な試験形式である。だから2番手校には意外に聞き話す能力の高い生徒がいるのだろう。で、一般的に言って、社会で表立って有能なのは、聞き話す能力の高い人間だったりする。

 社会全体の構成を考えると、もの凄くアタマの良い、何でもできる人間は、そんなに数は要らないはずだ。もちろん、その人たちはその十二分な能力を生かしてやっていくべきだろうが、二番手は、それこそ数の上でも相当たくさんいるはずだし、能力だってかなり高いわけだから、それぞれが得意な分野でやっていけば、かなりのセンまで行くんじゃないかと思う。でも、ウチを見ていると、(ヨソでも似たようなモノだと思うが)豊かな才能をまだ十分に開発していない気はするし、本人たちも(親も)無自覚のようで、まったく惜しいことだと思う。

「ほめて、ほめて」の子供たち

2005年04月17日 | 教育
 「ほめるな」伊藤進著(講談社現代新書)を読んだ。簡単に、ホントに簡単にまとめると、ほめる教育は、内発的動機付けを損なうから止めろ、インタラクティブな教育にしろ、と言う内容。
 
 著者の意図のすべてがよくわかったわけではないが、「内発的動機付けを損なうからほめるな」のほうは、「あ、やっぱり。」の感あり。インタラクティブの方は、意図がどこまでがそうなのか、家庭などの個別教育と学校という集団教育の場を著者がどのようにとらえているかわからないから何とも言えない。

 で、「あ、やっぱり。」の方。

 このごろの子は、ホントに「褒められたがる」。面接で、進路相談も関わって、「う~ん、国語が悪いねぇ」とでも言えば、「でも、先生、ほらほら、今度は数学が良かったでしょ?」と良かったところを指摘する。で、数学が良くても、国語がこれではねぇ。。」とか言っても、ご本人、なんで数学が良いのに国語が悪いと言われなきゃいけねえんだ、とさぞご不満なご様子である。

 1つの科目(模試でも何でも)だけが良い子がいた。同じ教科の他の科目はだめ、他の教科もだめ。(ここで、だめ、というのは、本人の進路希望が叶う段階に至っていないという意味である。)学年が進んでも傾向は変わらない様子だった。ある日、聞いてみた。「テストが返っていたとき、○がついているところばかり見ていない? ×がついているところをしっかり復習をしていないんじゃない?」そしたら、案の定、自分の答案の良かったところだけを眺めて、できなかったところは気にしない。そう、全く気にならないようなのだ。可哀想だが、この子は、おそらく、一生、進歩というものをしないだろう。

 怖いのは、どの子も性根は悪くない、良い子だということだ。小学校の時から、きっと先生の言うことをよく聞いていたはずだ。それがこの結果を生んでいる。

 一人二人ではない。ほとんどみんながそうである。で、褒められないと「やる気にならない。」「もっとやる気になるように言ってくれ。」なんという人任せ。知的能力で言ったら、かなり上位の子供たちである。大人になりかかった子供たちである。本の著者は大学の先生だから、今時の大学生もそうらしいので、しょーがないといえばしょーがないが、そうとも言ってられないだろうにねぇ。

 私は古典的な「先生」をやっていると思う。だから生徒に安易に同意しない。それでも、それでも、ついつい妥協せざるを得ない時がある。「あー、これじゃぁ、正しいことが伝わらない、でも、今の時代、しょうようがないのかな」と思いながら。

カリスマ美容外科医v.s.中卒フリーターin 希望格差社会

2005年04月16日 | 教育
 昨夜テレビを付けたら、時給100万のカリスマ美容外科医が出ていた。以前もテレビで見た女医さんで、美容外科医らしく、化粧も衣装もバッチリの金持ちマダムだ。2億数千万の自宅とフェラーリ、彼女は何もかもを努力して手に入れた。2台目になるフェラーリを買う場面でディーラー曰く、「フェラーリと何とか(車の名前)は、成功者の車です。」

 開業医の娘で、医者になれと言われて育ったが、反発。大学は私大芸術学部へ。遊びほうける学生時代を送り、「天国に近い生活」を送ったらしい。医者や資産家の息子と見合いをし、やがて結婚、一児をもうけたが、離婚をし、生活のために医師を目指す。子供は保育園に預けて受験勉強をし、1年後には私大医学部に入学。苦労した研修医時代を送り、やがて美容外科の才能を開花させ現在に至っているようだ。「人生勉強もした。」とは本人の言。

 番組が終わってしばらくしてチャンネルを回したら、NHKで「しゃべり場」をやっていた。しゃべり場は、10代の若者が何かのテーマに沿って議論する番組で、この日はどうやら「学歴」がテーマのようだった。全部詳しく見ていたわけではないが、さっきまで見ていたカリスマ美容外科医とは180度違う現実に心が痛んだ。いじめか何かで高校を中退し、フリーターをしている少女がいた。しっかりとした顔つきで、なかなか好感の持てる子である。彼女は中卒だ。だから、アルバイトか就職か、とにかく、中卒だと言うだけで採用面接すら受けさせてもらえないと言う。親からは、大学へはもともとやれないと言われていたとも言っていた。

 その女の子は、カリスマ女医と同様なゴッドハンドを潜在的に持っていたとしても、彼女は才能を開花できない。なぜならお金持ちのおウチじゃないから大学にも行けない、まして金のかかる医大には行けっこないからだ。カリスマ女医が才能を開花して大成功を納めたのは、まずは私大医学部に入学できる財力があったからだ。(それなりの能力もあったのはあっただろうが。)その女の子とカリスマ女医との際だった違いは、「家庭の財力」というスタートラインだ。

 カリスマ女医は、ものすごく努力もした人だ。そもそも、怠け者は金持ちになれないし、財産を維持することもできない。子供がいたからがんばれたとも思うが、まず重要なのは、成果の出る努力ができる場が与えられることだ。彼女の幸運は、親に財力があったことだ。彼女の努力は、まずは親あっての賜なのだ。
 
 しかも、この女医さんの成功の陰には、お嬢様育ちで一つめの大学で遊び呆けていた経験があるに違いない。お金持ちの何一つ不自由のない子供時代を送った上で、長じて都会の華やかな世界で生活に余裕のある人たちが何を求めているかを体験的に学んだはずだ。それが彼女に時給100万円を支払う金持ち相手の商売を成り立たせる感性的基盤を培ったはずだ。金持ちだったから、金持ち相手の仕事ができる。それが更なる成功を呼ぶ、という構造が見える。 

 その点、フリーターの女の子は極めて不利である。彼女は実のなる努力ができない場所にいる。よほどの幸運が降りかかってこなければ、おそらく将来の成功に繋がる「努力できる場」すら与えられないだろう。最悪の場合は、努力が成功に繋がるという現実すら、知り得ない場にいるのかもしれないのだ。
 
 成功は、何かというと「本人の努力」とされる。確かに、この成功者も大いなる努力をしている。しかし、努力する場が与えられたか(たとえそれが前段階の努力--ここでは大学合格--の成果だったとしても)どうかが、まずは将来の成功を左右してるのだ。

 先日、「希望格差社会」山田昌弘著(筑摩書房)を読んだ。人の幸せをすべて経済的要因に帰している点に若干違和感を覚えたものの、総じては、まったく同感だ。その矢先、テレビを付けたら、まさにその通りの現実を映し出しているように思われて、私は暗澹たる気分に陥った。しゃべり場で、確か斎藤孝さんが、奨学金制度に触れた。が、その子も言っている通り、奨学金だけじゃ全然足りないのだ。依然、高一で退学した子がいた。本人は勉強のせいにしていたが、実際はお金の問題だった。生活のために目先の収入を求めざるを得ず将来の成功が求められなくなるのは、自分の眼前で起こっても、もうどうしようもなかった。