考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

テスト前の復習

2007年06月27日 | 教育
 もしも試験前に、授業時間が余ったら、復習をしてやろうかなと思う。
 やり方は、私がどこが大事かを言うのではない。生徒に重要事項を聞くのである。なぜ、そこが大事だと思ったかも言わせる。で、どんどん指名していく。答えられない奴には、何を授業を聞いていたんだぁ~、或いは、自分のアタマで考えろ~と、叱責する。
 よし、決めた。
 ああ、私はなんて優しいのだろう。年取ったのかな。

家庭学習時間を確保させよ(追記ちょっと有り)

2007年06月26日 | 教育
 「家庭学習時間が少ない」「もっと勉強をさせなきゃ」と言いながら、部活は朝練、夕方遅くまでの練習と、彼らが家庭に滞在する時間はどうなっているのだろうか。
 生徒は、喜んで部活動に精を出す。勝ちたいと思い、現に勝ち続ける。成果の上がる指導を受け、練習時間を増やせば、必ず勝てるようになると言って良いようだ。
 それで、学校で過ごす時間が12時間を越える。家庭では、7時間の睡眠と最低限は必要に成るであろう1時間食事と風呂、それに、3時間の家庭学習、これで11時間である。通学時間はどうなるのか。

 良くできる生徒はこれが出来る生徒、或いは、睡眠時間を削る生徒である。そうでない場合は、3時間の全て、或いは、いくらかをさまざまに過ごす。

 平均家庭学習時間が3時間を切って、2時間を切って当然である。予習無しで授業を受けて当然である。予習を前提にした授業が不可能になって当然である。部活動に授業が支配されていると言っていいだろう。
 人間の能力には限界がある。何もかも出来る生徒たちではない。それで、「学習」が手っ取り早い「ドリル学習」「重要事項をとにかく覚えろ学習」になって当然である。理解も何も、あったものじゃない。


出来損ないのコンピューター作り

2007年06月23日 | 教育
 今の教育は、表題↑のごときものだと思う。

 学力低下が問題になり、学力増強を目指そうとしている。しかし、「ごまかし勉強」にあるような勉強方法が「手っ取り早く学力を伸ばす最善の方法」であるかのような風潮がますます蔓延ってきている。
 だから、高校生に小テスト、提出課題と、「親切で」「手厚い」教育が施されているように見える。(なぜなら、先生たちは、一生懸命に小テストの印刷、採点、転記、評価に多大な労力を割いているからである。)しかし、実態は、結果的に、日本全国どこでも同じ、↑がおこなわれているのである。何も「親切」でないし、「手厚く」でもない。単に、先生の労力が掛かっているだけの話である。
 「私はこんなに一生懸命に生徒のためを思って手を掛けて教育をしているのに、少しでも生徒がわかるように努力しているのに、なんてことを言うの、この「ほり」ってや奴は!」と言う声が聞こえてきそうである。

 今の生徒の勉強方法は、脳の中に、小さな引き出しをたくさん作り、そこに知識をバラバラに詰め込む、問題の解き方を詰め込むことである。それで、優秀な、つまり、学力の高い生徒とは、瞬時にして必要とする引き出しを開け、中に入っているモノを取り出すことができる生徒だと見なされているごときである。
 ある先生が言っていた。ある纏め教材を出版社から出すと言う。(実際にどうなったかは知らない。)「全ての項目を3行で纏めた」そうである。生徒が、なにもかもを同列に「3行」で覚えるための学習書のようである。「小さな引き出し」そのものである。

 私は専門家ではない。しかし、人間の脳の特徴は、一見関係ないものの中に「関係性」を認めることが出来るという抽象思考であろう。(だから、言語を理解する。)ところが、今の教育は、とにかく、「これとあれ」、「あれとこれ」の関連を見出す教育を「ほとんど行っていない」と言って過言でない。
 真に優秀な生徒は、それでも、「自分で」そのような抽象思考を身に付ける。しかし、指導が必要な大多数の生徒にこの指導はほぼ全く行われていないと見なした方が良い。
 なぜなら、「テストの出来」に関して、ごまかしでない学習、正統な学習、つまり、「あれとこれは関係ないのかな?ひょっとしたら、ここには何かあるんじゃないのかな?」と思うことは、ほとんど点に繋がらない「実に効率が悪い」学習方法だからである。(「総合的な学習」で目指したはずのモノは、全く逆の効果しか生まなかったのである。)

 学校は、「禁断の実」を手にした。それは、授業を「作業をさせる場」に変えたということである。

 昔、父が現役教員の頃に言っていた。「授業中にドリル演習をさせたクラスが一番成績が良かったそうだ。」ただ、その頃は、そういった学習は目新しく、多くの先生が取る方法でなく、「ごく一部」だったから問題がなかった。かえって、そのようにしてでも「相対的に良い成績」を取った生徒は自信を付け、より学習に励むようになったという「効果」があったと考えられる。

 しかし、今は、何の授業でもどの先生も、そのような方法を取っている。小学校から高校まで、日本全国津々浦々、全ての学校で、だれもが「作業」が「勉強」であると考えるようになってきている。なぜなら「点に直結」するからである。

 生徒のものの見方は、まるで出来損ないのコンピューターである。多くの事項がバラバラになってアタマに入っている。「ものとものとの関係」を見ようとする姿勢がない。(授業時間の削減のあおりで、小学校の時から結果を詰め込む訓練しかされてないのだろうから仕方あるまい。)「あるものと別のものとの関係」も、別の引き出しに「別項目」として入れこむ。その引き出しを閉じれば、他の引き出しとその引き出しは関係がないのである。(要は、電子辞書みたいなのものである。)
 知識が潤沢にあるわけでなく、まばらな羅列として少々の知識だけが詰め込まれている。その上、自分が持つ知識の利用法を知らない。「これはこれ、あれはあれ」の別物だから、引き出しを閉じればないも同然なのである。

 可哀想に、今の生徒は、どんどん人間らしい思考を失うごとく、出来損ないのコンピューターに作り替えられようとしている。

「先生は次に何を言うか」

2007年06月21日 | 教育
を、考えながら授業を受けろと言っている。

 今の子は、ぽかんと口を開けて授業を受けている。先生が、口の中に何か「役に立つもの」を入れていくれるだろうと、良く言えば「信頼し」、悪く言えば「入れられるものなら入れてみろ。気に入れば喰ってやってもいいぞ」とふんぞり返って授業を受けている。どちらにしろ実に「受け身」なのである。

 「講義形式の授業なんて受け身だろ」「先生が話したことを聞くだけだ。そんなものさ。つまらない。」とお考えの方も多いであろう。「討論形式とかなら別だろうけれどね」そう思われる方もいらっしゃるだろう。

 しかし、同じ「講義」であろうと、次に先生が何を言おうとしているのか、先回りして考えることができれば私は決してその授業が受動的なものであると思わない。

 だから、ときどき、「さあ、私が次に何を言おうとしているか、考えてごらん」と言うことにしている。「この文のポイントがどこか、自分で考えてごらん。それができたら、自分でちゃんと勉強が出来るようになる」と時々言うことにしている。

 テキストを使った授業は、「謎探し」と「謎解き」と「発見」の連続である。
 その文章が、何を言いたいのか。違う表現をするとしたらどうなるのか。重要表現はどれか。なぜここではこのような言葉遣いをしているのだろうか、よく似た違う箇所では別の表現をしているのに。

 全てに答えが出るとは限らないだろう。しかし、読み手が自分でこういったことを考え続けて文章に接することが勉強なのである。その「方法を身に付けること」、それが「正しい授業の受け方」ではないかと私は思う。決して、先生の言うことだけを「答え」として理解し、頭に入れることだけでないのである。この点、大きな誤解がある。

 今の子どもの多くは、「先生の言うこと」「重要語句集」を頭に入れることが大事だと思っているのである。それが、「効率の良い学習」であると疑わない。(先生の方もそうだったりするけどね。)が、この方法は、決して「役に立たない」。長い将来において、決して役に立たない勉強方法である。なぜなら、これは「単なる作業」にすぎないから。(これは「たとえ」の1つでしかないが、)作業だけに特化した勉強方法では、「重要語句集」を作る立場になることは決してできないだろう。

 「重要語句集」を作ることができるのは、「重要でない語句」と「重要な語句」の区別の付く人、「判断の出来る人」だけである。「イマドキは、パソコンで頻度が出てくるから大丈夫さ」と思うのは間違いである。英語なら、(よく知らないのだけれど)「is」「are」「a」「the」の頻度は凄いものだろう。しかし、そういったものの大部分は取り除かねばならないだろう。しかし、大事な「is」「are」「a」「the」もある。では一体、その区別は、どうしたらできるようになるのだろうか。おそらく機械任せでは無理なことであろう。(それで、これができる機械を作ることができる人は、更に機械以上のことが出来る人なのだ。)

 これを可能にするのが、前に書いた「次に先生は何を言うか」を始めとする「考える力」である。自分がテキストを真に読みこなそうとする意欲と努力がなければできないことである。それで、その努力を続けることで、人の能力は開発されるのである。じわじわと、出来るようになってくるものなのだ。その意味で、どんな講義形式の授業であっても、真剣勝負となりうる。

 自分の経験で恐縮だが、実は、「先生が次に何を言うか」は、「当たるとけっこう嬉しい」ものである。
 同様に、先生が自分の知らない話をしてくれても面白いが、自分の知っていることでも、たぶん人は知らないであろうから先生が語るのを聞くのもなかなか乙なものである。

 今の生徒の多くは、この楽しみを知らない。ああ、可哀想になぁ。。
 だから、ちゃんと自分のアタマで考えるんだよ。そうすれば、少しずつ、本当の力となって「わかってくる」。これができれば、その教科は得意になる。

 

学校の勉強が与える(与えない?)感覚とのバランス

2007年06月20日 | 教育
 養老・内田対談本の「逆立ち」の冒頭あたりで、内田先生が自分の母親などおばさんとの会話をすることができるということが書いてある。「おばさん」の話は、平面的に展開するというものである。内田先生のお兄さんは、母親と世間話をする内田先生を見て、よくおふくろの話につきあえるなぁと言ったらしい。で、たぶん養老先生はこれを苦手とするだろう。(で、私は「おばさん」だけど苦手である。笑)

 で、ふと、ふと思っただけなんだけれど、ひょっとして、ひょっとしてだよ、これって、内田先生が「高校中退」の学歴を持っていることと関係しないかしら? 

 10代後半の言ってみればホンモノの抽象思考を育て上げる時期に、学校という集団の中で、否応なしにでも何でも身体を特定の場で拘束され、「勉強」させられるという経験を「してない」ことが影響を及ぼしていると言うことはないかしら?

 元々アタマの良い方で、受験勉強としてもそれなりにされただろうが、学校でする受験勉強ではないのだから、結構好き勝手な勉強方法を取ったことだろう。それが感覚世界の発達に繋がってきたと言うことはないかしら?

 「学校で勉強をする」という経験そのものが、その人の思考にかなりの影響を及ぼさないはずがない。内田先生の「自由さ」の起点は、「その経験のなさ」にあるのではないかしらと思った。

 勉強の方法自体、ごまかし勉強にしても、ホンモノの勉強にしても、子どもの思考法に多大な影響を与えることだろう。しかし、「学校で勉強をする」のと、「(学校に行かずに)家庭教師について勉強をする」のと「独学する」のとでは、思考の根幹に随分な違いが生じるだろうと思うのだ。

 「勉強」が(私の考える)「同じ」「違う」の視点の獲得方法であるとすると、「学校でする勉強」が、もっともこういった抽象性をもつのではないかなぁ。時間割でも何でも、生活そのものが「同じ」を強いられることでもあるから、物事の捉え方そのものが異なってきて当然だろう。

 と書くと、「おばさん」は、勉強をしてないのか、と反論されそうである。しかし、一般に「家事」「育児」などは女性に任されていることが多かっただろう。これらは全く持って「感覚」の世界で、「違いをどのように捉えるか」がポイントになる。(でないと、料理の材料も吟味できないし、子どもなんて育てられるわけがない)その点、平面的な「自由度」が増すのではあるまいか。

 と、なんとなく、自分で思って納得している。


演習禁止令が出たら

2007年06月19日 | 教育
いいのに。

 「授業で問題演習をすると点が上がるから、自分だけしないわけには行かなくなるんだよね。」
 「そう、それで、どんどん生徒がバカになっていく。演習禁止令、小テスト禁止令、授業はノートと教科書、黒板とチョークだけに決まれば随分生徒は賢くなるよ。」
 「そうだねぇ。家でできることは家ですれば良いんだ」

 検印欄に印を押していた先生との今日の会話。

部活動と勉強の両立

2007年06月09日 | 教育
 勝つための部活動は、たぶん、顧問による。一般の公立高校生の力はそう大して変わりはない。練習が長ければ勝てるものでもなさそうだから、指導力の違いと言うことに帰結する。
 「両立、両立」と言うが、実際に両立できている生徒は少ない。大抵は勉強が疎かになっている。でも、生徒は、勉強よりも部活が好きだから、問題にしない。この頃は、「部活を頑張っているから勉強は大目に見てもらえて当たり前だろ」という考え方が増えてきている。なぜなら、「その子の良いところを見る」と言う奇妙な「絶対評価」の影響があるからだ。
 親の中にも、高校生活の活力は部活であると思っている人もいる。勉強は、或いは卒業証書は、入学すれば自動的に3年後に与えられるものであると思っていることもある。
 何が言いたいかって?

 二番手の場合、勉強は、きちんとやっていかないと落ちこぼれる。ところが、部活に精を出しすぎると、それも、本人の希望でそうであるとしても、下手をすると卒業できなくなるよ、と言うことである。勉強が、単位を取るためだけの者になって、高校生活で得たものは「部活動」のみとなり、「勉強は必要悪、あるいは方便」「最低限だけを暗記で済ます」というごまかし勉強の概念を社会全体に蔓延させることになるわけである。

 「欠点を取ったら、練習禁止」は、当たり前である。部活動ができるのは、その学校の所属していることができるからである。「欠点は、高校に所属できなくなるかもしれない」というとこである。部活どころではないはずだ。
 とは言いつつも、部活があるから、勉強で落ちこぼれてもなんとか学校生活を全うできた、という場合がないとは言わない。
 しかし、勉強から明らかに逃げようとするのがいけないのである。

 部活の顧問は、勝つのが得意な人は勝ちたがる。(←ヘンな表現。笑)だから、そのための練習をしたがる。勉強は二の次になる。だって、自分も授業より部活が好きなのだから。

面白いよ、養老先生

2007年06月08日 | 養老孟司
 「逆立ち日本論」読みかけ中。「小説を読みながら考えた」多分読了。
面白いよ。前者は、内田先生のブログによると、過激すぎてカットされたらしい養老先生のコトバが知りたいよなぁ。。
 「逆立ち」の最初の方を読むと、やっぱり内田先生は感覚と抽象のバランスがとても良く取れた人だと分かる。私は自分自身、(たぶん)バランスが取れている方だと思わないから、言ってみれば、よりバランスの取れていない養老先生の方が好きなのかな。(笑)


珍しく英語

2007年06月02日 | 教育
 先日久しぶりに会った教え子(と言っても、実際には一度もその子に授業をしたことがないような気がするなぁ?笑)の大学院生に「私は文法の授業では、自分の文法を作れ、と言っている。」と言ったら、「高校の先生でそういう人は珍しいんじゃないのか」と言われた。以下、そのときに話した内容ではないけど。

 I found a ball under the table.と言う文は、普通は第3文型とされる。いわゆる五文型では、そうせざるを得ないからだ。でも、私は、実は、高校生の時から、ずっと疑問に思っていた。(で、今もそうなんだけれどね。笑)だって、I found the book interesting. と一体どこが違うというのだろう? The book is interesting. であるなら、The ball is under the table. だもの。しかし、もちろん、前者は第2文型だし、後者は、第1文型とするだろうと思う。それは分かるけど、あえて、両者を区別する必要がどこにあるというのだろう。be動詞が状態と存在の意味の違いということか。でも、そんなのどうだっていい気がする。(「ある」「いる」など存在を表すbeの訳の下手な生徒は多いが。)

 随分昔だが、前の学校で、ちょっとそんなことを言ったら、とんでもないという顔をされた。でも、今のところ私の知っている英語の先生の中で、最も英語がよくできると私が思っている人に言ったら、「findという動詞は、I found the ball. のように文が終わることはない」と言う。必ず、「第3文型なら、目的語の後ろに場所を表す前置詞句」が来るというのだ。ならば、第五文型とそんなに変わらないではないか。というか、C補語になるかどうかはともかく、そんな感覚で読んだ方が余程意味を掴みやすいのではないか。

 高三になってちょっと難しめの文章を読むと、findは、これが実に第五文型での出現率が高いのである。find+it+形容詞+to~なんて、しょっちゅう出てきた気がする。(大好きだった♪)だから、私はそう思うようになったのだと思う。そう、ある時、突然そう気が付いたのだ。で、そう解釈した方が、findは、実に容易に理解できることを発見?したのである。
 しかし、だからといって、第3文型とされるfindを、なぜこれが第3文型なのか、おかしいな、ヘンだなと常に感じながら読み続けて損したことは一度もない。だって、読むたびに、疑問が起こるから印象に残るのだもの。(笑)だから、今でも気になるのだろう。

 試験問題で、I found a ball under the table.の文型を問う問題は出したくないと思っている。(で、最近、その手の問題がだんだん影を潜めているような気がするのは結構なことだと思う。)

 文法というのは、要は、数々の具体から「規則性」と言う抽象を抜き出したモノだ。S+Vは外せないにしろ、細かい部分は人によって異なって良いと思うんだよね。ホントのところは。